「わたしをあがなうかたは生きておられる」 ヨブ記一九章23−27節
                   ヨハネ黙示録に十一章一ー四節


 大江健三郎がノーベル文学賞を受けるためにスエーデンのストックホルムに行くときに、義理の兄である伊丹十三からこういうアドバイスを受けたというのです。「ストックホルムについたら記者団に囲まれて、きっとこういうことを質問されるだろう。あなたはなぜ原爆の被害にこだわるのか。戦争の被害なら、なにも原爆だけではないのではないかと。その質問に対する答えを用意したほうがいい」といわれたというのです。それで大江健三郎はその答えを用意した。「原爆の悲惨というものは、死んで行く者とその死んで行く人を悲しむ人も同時に一瞬のうちに死んでしまうことだ」という答えを用意したというのであります。

 この度の東日本の大地震による津波被害を知って、わたしはこの大江健三郎のこの言葉を思いだしたのであります。大津波によって、何万人の人が一瞬のうちに海にながされてしまった。それはまさに死んで行く者とそれを悲しむ人も同時に流されてしまったという災害でした。それは本当に悲しい衝撃的な出来事だったと思います。

 高村薫という小説家が、ある仏教の禅僧と対談しているなかで、こういうことを話しているのです。自分は幼い頃からキリスト教に親しんでいたこともあり、自分はものすごい罪深い人間だという思いが常にあった。それが阪神大震災で、罪深い人間だと思っている人も、そうでない人たちも、みんな一瞬にして亡くなってしまった。早朝、地震がきて、揺れている最中に、なんというか「死の門」というのを見たような気がしたといっていたのであります。

 大震災による死は、罪深い人間にも、そうでない人間にも、一瞬のうちに同時にやってくる、それはものすごいショックだったというのです。

 わたしはこれを読んでいたときに、すぐ思いだした聖書の言葉があります。それはマタイ福音書の二四章の主イエスが終末についての預言している箇所なのですが、こういう記事です。「その日、その時は、誰も知らない。天使達も子も知らない。ただ、父だけがご存じである」という言葉で始まって、こういうのです。「洪水が襲ってきて一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼を引いていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから目を覚ましていなさい」というところなのです。

 ここでは終末の裁きについて語るのですが、それは洪水が突然襲ってくるように突然くるというのです。畑にふたりいたら、ひとりは洪水で連れ去られ、ひとりは残されるというのです。ここにはそのひとたちが今まで何をして、生きてきたかはいっさい問われていないのです。それこそ、罪深い人間も、そうでない者も一瞬のうちに連れ去られる、ここではひとりは連れ去られ、ひとりは生き延びるといわれていますが、ここではなぜひとりは連れ去られ、ひとりは生き残るかの理由はいっさい書かれていない、いっさいそんなことは問われていないのです。わたしはここを読んだときになにかとてもすがすがしい思いがしたのです。

わたしは中学がキリスト教主義の学校だったものですから、そのときから聖書にふれてきたのですが、わたしはそれ以来キリスト教に根強く残っている律法主義的教育というものに、ずいぶん苦しめられてきたのです。それはキリスト教主義の学校にも、そして教会にも残っていました。それはひとことでいえば、悪いことをした者は神様に裁かれて地獄に突き落とされるという教えでした。つまり、プロテスタントでありながら、行為義認主義、行いによって救われるという教えでした。

 しかし、このイエスの終末の預言には、人間のそれまでの行いなどというのものは全く無視されている。自分は今まで良いことをしてきた、だから天国にゆけるなどと思っていたこざかしい、浅ましい人間の思いなどというものが木っ端みじんに吹き飛ばされる、わたしはここを読んだときに、われわれが行いによって救われるなどという行為義認などという教理、それが律法主義というものですが、そういう考えがいかいにつまらないものかということを思い知らされて、神の裁きの前にひれ伏す以外にないという思いをいだかされて、懼れおののき、またすがすがしい気持ちにもなったのです。

 旧約聖書にヨブ記という書物があります。神の前にいつも正しい人生を送っていたヨブに、あるとき突然不幸が襲ってきた。自分の全財産と家族を失ってしまうのであります。それどころか、自分自身がひどい皮膚病に冒されてしまって、全身かゆくてかゆくて、一日中、灰のなかで自分の体をかきむしっていた。

 ヨブはいうのです。「神は無垢な者も、逆らう者も、同じように滅ぼされる」。
ヨブはこのことにすがすがしさを覚えたのではなく、大変な不満をいだくのであります。ヨブはそれまで自分は正しい人生を送ってきたという自負があったからであります。ヨブは、神は正しいことをしてきた自分、無垢な自分を、なぜ逆らう者とともに滅ぼされるのか、と必死に神に訴えるのであります。

大津波によって一瞬のうちに海に流されてしまったひとびと、無垢な人も、逆らう人も、同じように滅ぼされてしまったかたがたの家族のひとたち、遺族のひとたちもヨブと同じように神に対して大きな不満と理不尽さを抱いたことだろうと思います。

 この問いに、神はなんと答えたでしょうか。

 神は、それについてはなにひとつ答えていないのであります。
 ヨブの必死の問いかけに、とうとう神は姿をあらわしました。主なる神は嵐の中からヨブに現れました。その神の第一声は「お前は何者だ。知識もないのに、言葉を重ねて神のはかりごとを暗くするものは」とヨブをまず叱りつけるのであります。
 そして次の言葉は「わたしが大地を据えたときにお前はどこにいたのか」といい、「この大地の広大さをお前は計ったことがあるか」と、次々に天地創造の神のわざの不思議さについて述べていくのです。

 そしてこの天地には人間が決して自由に手名付けることのできない野生の巨大な動物がいる、それをお前は知っているか、と、つぎから次に、巨大な野生の動物をとりあけでいくのであります。この天地は人間の自由になるような天地ではないと、神はヨブを叱りつけるのであります。

 神は苦難のなかにいるヨブ、災害に苦しみ、悲しんでいるヨブに対して、ひとつも優しい言葉も、慰めの言葉もかけようとはしないのです。人間の自由にならない、天地の広大さ、その深さ、高さ、豊かさについて述べるのであります。
 神の天地創造の不思議さ、人間には測り知ることのできない神の高さ、深さ、豊かさを語るのであります。 

 それを聞いてヨブはどうしたか。ヨブはこういいます。「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。『無知もって神のはかりごとを隠そうとするお前はなにものか』といわれれば、そのとおりですといわざるをえません。わたしは、自分では理解できず、自分の知識を超えた驚くべきみわざをあげつらっておりました。
 今までわたしはあなたのことを耳で聞いておりましたが、しかし今、この目であなたを仰ぎみます。それゆえ、わたしは塵灰の中で、自分を退け、悔い改めます」とヨブは答えたのです。

 正しい人間はなぜ苦しまなくてはならないのか、正しいことをしてきたのに、なぜ苦しまなくてはならないのか、なぜ災害に遭わなくてはならないのか。それに対する答えはないのです。それに対して人間のこざかしい意味づけはするなということであります。

 われわれは神様というかたを、神はこういうかただと自分のちっぽけな頭と耳で造ってきていないか。しかし、そのように人間が自分の都合でつくりあげた神は本当に神なのか。
ヨブはそのことに気づかされたのです。自分は今まで自分の耳であなたを聞いてきただけだった。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」と告白するのであります。そうして、ヨブは塵灰のなかで自分を退け、悔い改めたのであります。
塵灰の中で、つまり、それはあの大津波によってすべてのものが流されて、ただ残骸だけが残っている海岸に立って、ということであかるかもしれません。

正しいことをしてきた人間に、それに対して報いをしてくださる神さまは、確かにわれわれにとって慰めになるし、ありがたいことであります。われわれがよいことをすることに励みになると思います。
しかし、神様というかたが、ただそれだけの神であるならば、その神の正しさは結局は人間の考えている正しさと同じレベルの正しさでしかないことになるのではないか。人間の正しさ、それは結局は自分の正しさであります、その自分の正しさのなかに神を小さく小さく閉じこめてしまうことにならないか。

 そんな神は本当にわれわれにとって頼りになる神様だろうか。

 もしわれわれが自分の頭で自分の知識で理解できる範囲内でしか神を求めようとしないのならば、そして自分が納得できないときは、その神から遠ざかってしまうならば、信仰とはなんなのでしょうか。
正しい人間になぜ苦しみを与えるのかという執拗な訴えは、やがて、正しい人間には苦しみを与えるべきではないという不遜な神に対する要求へと変わっていくのであります。

 あの偉大なモーセが死んで、次の指導者ヨシュアがイスラエルの民を引き連れて、これからいよいよ約束の地カナンに入るときであります。カナンにはすでに人が住んでいるところなのです。とうぜんそこには、激しい戦争が予想されます。敵がいるわけです。ヨシュアはそのことで頭が一杯だったのです。

 そのとき彼の目の前に突然抜き身の剣を手にした男が立っていた。ヨシュアはすかさず「あなたはわれわれの味方か、それとも敵か」と問うたのであります。するとその抜き身の剣を持った男は「いや、わたしは主の軍の将軍である」と答えた。自分は今、神様から遣わされていまここに立っているというのであります。

 それでヨシュアは地にひれ伏し、「わが主は、このしもべに何を告げようとされるのですか」と問うのです。すると主の軍の将軍は「お前の足から履き物を脱げ。お前の立っているところは聖なる所だ」というのです。それでヨシュアはその通りにしたのであります。

 その前の記事には、ヨシュアがモーセを引き継いで指導者として就任したときには、主なる神はその若いヨシュアを励まして、「わたしはなにがあってもお前と共にいる。お前を見放すことも、見捨てることもしない」と約束しているのであります。つまり、神はヨシュアに対して、わたしはお前の絶対的な味方として立つといわれた神なのであります。

 そうであるならば、ヨシュアが神から遣われた主の軍の将軍に対して「あなたはわたしの味方ですか、敵ですか」と問うたときに、主の軍の将軍は「わたしはお前の味方である」と答えてもよさそうであります。
 しかし、主の軍の将軍はその問いにいっさい答えないで、「お前の足から履き物を脱げ。お前の立っているところは聖なるところだ」といわれたのであります。

 われわれが自分を中心にして、誰が味方で誰が敵かと判断することが、どんなに危険であるかということであります。自分を中心にして、なにが正しくて、なにが間違っているかを判断しようとするときに、どんなに人を裁いてしまい、誤った判断をしてしまうかということであります。

 われわれにとっていちばん大事なことは、常に、どんな場所にいても、自分の足から履き物を脱ぐということ、自分を支えてきたと思っている思想、考え、主観、そして信仰すら、いちど脱いでみる、脱ぎ捨ててみる、そうして聖なるかたの前にひれ伏すということであります。それが本当に神がわれわれの味方になってくださるということなのであります。

 大地震、大津波による本当に理不尽な災害の前にして、われわれがまず第一にしなくてはならないことは、自分の足から履き物を脱いで、聖なる神の前にひれ伏すということなのではないか。

われわれは災害に遭った人々に、慰めや励ましの言葉をかけたいと切実に思います。しかしそうした人々にどんな慰めや励ましを語ることができるのでしょうか。「泣く人と共に泣き、苦しむ人と共に苦しむ」ということがどんなにむずかしいことか。災害に遭った人を慰めることがどんなに難しいことか。

 わたしの友人の牧師に三歳のお子さんを隣の小さな池でおほれ死なせてしまったという悲しみを味わった人がおります。そのときに、近くの牧師が自分もあなたと同じように子供を亡くした経験があるからあなたの気持ちがよくわかる、一緒に祈りましょう、一緒に賛美歌を歌いましょうと慰めようとしたというのです。それは彼にとって、どんなにわずらわしかったかわからないというのです。そして彼がしみじみ私にこう述懐しておりました。「自分は子供を亡くすという悲しみを味わってつくづくわかったことは、同じ悲しみを味わったからといって、人の悲しみがわかるというものではない、人は他人の悲しみを本当の意味で分かり合えるものではないということを、自分が悲しみを経験することによってはじめてわかった」と、わたしに語っていたのであります。

 トルストイのある小説の冒頭の言葉に、「幸福な家庭はみなそれぞれ似通っているものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である」という言葉があります。不幸というものは、みなそれぞれに違うのであって、不幸を経験したからといって、他人の不幸がわかるものではないということであるかもしれません。

 主イエスが十字架で死ぬまえに、ゲッセマネの園で父なる神に「みこころならば、この杯をわたしから取り去ってください。わたしを十字架で死なないようにしてください」と、血を流すほどに祈っているときに、ルカによる福音書には、天使が天から降りてきて、イエスを力づけたと記されております。

 そのとき、天使はなんといってイエスを力づけたのでしょうか。そのことについては、福音書は何一つ書いてはおりません。しかし天使がイエスを力づけたあと、イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血のしたたるように地面に落ちたと記しているのであります。

 天使に力づけられて、イエスはその苦しみから楽になったのかといえば、そうではなく、ますます苦しみ、いよいよ切に祈られたというというのです。天使は軽々しくイエスを慰めたり、励ましたりしたのではないようであります。むしろ、天使は、イエスが自分の目の前の苦しみにしっかりと立ちなさいと励ましたのかもしれません。それは決してイエスの苦しみが軽減されたわけではないのです。イエスは、むしろ、自分が直面している苦難にしっかりと向かい、いよいよ切に祈られたというのです。

 われわれは苦しんでい人の苦しみを軽くしてあげることはできないと思います。苦しんでいる人がいよいよ切に神に祈るように力づけることであります。

 苦しんでいる人に対して、あなたのために祈っているとか、あなたは神様に祈りなさいなどいうことは、軽々しく、口さきだけで、いうべきことではないかもしれまん。そんなことはわれわれにとっては、おこがましいことで、それは天使だらかこそできたことかも知れません。天使はしっかりと父なる神を信頼しているからであります。もし苦しんでいる人、災害にあっている人を慰め、励まそうとするならば、まずわれわれ自身がしっかりと神を信頼する信仰に立っていなくてはできないことであります。

 そのわれわれが信頼しなくてはならない神とはどういう神なのでしょうか。それは必ずしもわれわれが期待する神、われわれがこういうのが神様なのだろうなと想像する神ではないのです。神さまというかたは、ヨブが躓いたように、神は無垢な者も、逆らう者も同じように滅ぼしてしまう神さまなのかもしれません。しかしそういう神に信頼しなくてならないのです。そういう神に信頼できるようになったときに、われわれは救われるのではないでしょうか。

主イエスが天使の励ましを受けて、ますます苦しみ、ますます祈った神とは、自分を十字架につけようとする神、自分を殺してしまう神であります。それが本当にあなたの御こころなのですかと、イエスは必死に訴え、あなたのみこころを信じられるようにしてくださいと祈っているのであります。

われわれが信頼しなくてはならない神とは、われわれ人間の愚かさと人間の罪を救うために、ご自分のひとり子を十字架で殺すことによって、われわれを救おうとする神なのであります。それはわれわれが期待するような神の愛とか神の正しさではないのです。われわれの想像をはるかに超えた神の愛であり、神の正しさなのであります。

 もし神様というかたがわれわれ人間が期待するような神だけだとしたら、それはわれわれ人間が作り上げた神でしかないのであります。神はモーセに対して、自分のために、自分のために、神を作ってはならないといわれたのであります。
自分のために作り出す神、それが偶像というものだというのです。

 ある人があの偉大なカール・バルトという神学者にたいして、「先生、イエスが再臨なさったときに死者は復活するといわれていますが、復活したとき、わたしの愛する夫と会えるのでしょうか」と質問をしたというのです。天国で愛する死んだ夫とあえるのでしょうかと質問した。するとバルトはこう答えた。「もちろん会えます。ただし、あなたの嫌いな人とも会います」といったというのです。

 天国というところは、そういうところだというのです。われわれが自分勝手に自分の都合のよい、願いどうりのところが天国だとすれば、天国はこの世とひとつも違わないところになってしまうのであります。そうしたらこの地上と同じように愛と憎しみが横行するところになってしまうのであります。

 主イエスが再臨する終末の救いとは、「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神はみずから人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐいとってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きもない。最初のものは過ぎ去ったからである」という救いなのです。 

 それはもうわれわれが自分勝手に期待したり、想像したりする天国とは全く違う天国なのであります。

 カール・バルトは天国というところでは、われわれが愛していた人だけでなく、われわれが嫌いだった人とも会う場所だといいました。そんなところなら行きたくないと思うかもしれません。しかし安心してください、「復活の時には、もうめっとたり、嫁いだりすることはなく、みな天使のようになるのだ」と主イエスはいわれているのであります。もうわれわれの心のなかに根強くある憎しみの心はなくなっているのであります。もはや死も悲しみもない、憎しみも恨みもない、神がわれわれと共に住み、人は神の民となり、神みずから人と共にいてくださるという世界なのであります。

 ヨブはあの苦しみのなかで、こういっているのであります。これは残念ながら新共同訳にはなくて、口語訳にしかない訳なのですが、「わたしは知っている、わたしを贖う者は生きておられ、ついには塵の上に立たれる。この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見る。しかもわたしの味方として見る。わたしの見る者はこれ以外のものではない」と言ってるのであります。

 ヨブはいろいろ神様に文句をいいましたけれど、しかしヨブはその苦しみのなかで、神を仰ぎ見たときに、自分の思いを捨てて、ただ神を神として仰ぎ見たとき、神を絶対的な味方として見た、それ以外の者としては見ようとしなかったのです。

 これはヨブの願望であり、ヨブが自分勝手に自分に都合よく作り出した神であ
るかも知れません。しかし、そうではないと思います。

この時には、ヨブはもう自分の正しさ主張してはいないのです。この前の句は、「憐れんでくれ、憐れんでくれ。神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友人ではないか」と、もう自分の弱さをむき出しにして、友人たちに訴えているのです。

 この時、もうヨブは自分の正しさ盾にして、自分の正しさを根拠にして、自分を救ってくれる神を期待したのではなく、わたしの信じている神様は、どんなときにも、最後には、自分の絶対的な味方として立ってくださる神なのだ、自分にはそれ以外の神はいないのだという信仰に立っているのであります。

 ヨブはここで神を絶対的な味方として信じているのです。それは神は正しい人間だけを贖ってくださる神、正しい人間だけを救ってくださる神ではなく、神はどんな人間をも、正しい人間だけでなく、悪人をも救ってくださる神、こんなふうに神様に文句をいっている自分をも必ず贖ってくださる、救ってくださる神、神はわたしの絶対的な味方であるという信仰が込められているのではないかと思います。


 それは単なるヨブの願望を超えたもっと深い神に対する信仰がここにはこめられていると思います。

 イエス・キリストを十字架の死からよみがえらせた神さまのことを考えみたら、これは、ヨブの期待よりもはるかに深く、われわれを憐れみ、われわれの絶対的な味方として立ってくださる神なのであります。
 そうであるならば、このヨブの信仰は決して間違ってはいないのであります。

 「わたしは神を仰ぎ見る、わたしの味方としてみる。わたしの見る者はこれ以外のものではない」という口語訳聖書の訳は、新共同訳では「このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る」となっていて、このほうが原文に忠実であるかもしれません。しかし口語訳の「わたしの味方としてみる。これ以外のものとしは見ない」という訳は、あるいは訳しすぎたという誤訳かもしれません。しかしこれは大変力強い、美しい神学的な誤訳であります。

 われわれもこの信仰に立ちたいと思います。