「愛の完成」1章1−12節

今日の説教の題は「愛の完成」などと、少しかっこいい題をつけましたが、これは先日しました説教の題が「信仰の完成」という題で、これは口語訳聖書にそういう言葉があったので、つけましたが、今日の聖書の箇所には、べつに「愛の完成」などという言葉はありません。先日の説教との関連で「愛の完成」という題をつけただけですので、あまり「完成」ということとは関係がありません。愛について今日の聖書の箇所から学びたいと思います。

 パウロはピリピの教会の人々に、こう祈っています。「わたしはこう祈る。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊になり、本当に重要なことを見分けられるように」。
 「知る力と見抜く力とを身につけ」というところは、口語訳では「愛が深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり」となっていて、このほうが原文に忠実のような気がします。

 愛というのは、その人の全てがあらわれるもので、その人の知性も、その人の感性もすべてがあらわれるものであります。

 愛は、いわば全人格的なものですから、愛ぐらい、その人の個性があらわれるものはないと思います。

 大岡昇平という小説家が何かの小説で、「一人っ子として、一人で育った人間は深くしか人を愛せない。だから人を傷つける」と書いておりました。これはこういう意味だろうと思います。

 ひとりっ子というのは、自分がひとりっ子として、両親の愛を一身に受けて育てられてしまう。親から深く愛されてしまう。だから人を愛する時にも、人を深くしか愛せない。そして誰に対しても深く愛することしか知らないものですから、人を傷つけてしまう。深く愛するということは、ある意味では相手に重荷を与えることになるからです。場合によっては、そんなに深く愛さなくてもいい人、もっと気楽につき合えばいい人に対しても深くしか愛せないために、深く愛してしまう、そうしてはその人を傷つけてしまうということになるのではないかと思います。

 その人にとっては、いざ人を愛そうと思ったら、そういう愛しか現せないのだろうと思います。それくらい、愛というのは、その人のすべてが露わになって現れるものであります。その人のもっているすべての知性、感性があらわれるものであります。

 愛のあらわしかたというものは、本当に個性的なものであって、そのように深くしか人を愛せない人もいれば、愛を豊かに、誰に対しても豊かにあらわす人もいます。そういう人はおそらく小さい時に親から愛をいっぱい豊かに受けて育てられた人ではないかと思います。
 うらやましいほどに、人をごく自然に実に豊かに愛せる人がおります。あまり人に重荷を与えないで、ごく自然に人を愛せるものです。

 私が最初に赴任した教会には、そういうご婦人がいて、わたしは大変支えられました。根っからの善人とか愛の人という人が世の中にはいるものであります。そういう人は小さいときに愛を一杯豊に受けて育てられたのではないかと思うのです。それだから、人を愛するときにも、自然に人を素直に豊かに愛することができるようになったのではないかと思うのです。そういうことは、自分の努力などでできるものではないと思います。

 人を豊にごく自然に愛することが出来る人もいれば、ごく少数の人を深くしか愛せないという人もいる、それはもうどうしようもないもので、本人の責任を超えた事なのではないかと思います。これは努力の問題ではないような気がいたします。

 いろいろな形で、社会奉仕とかボランティア活動とかで、豊かに人を愛する人もあれば、生涯ただひとりの人しか愛さなかったという人もいるかも知れませんが、それでもいいと思います。場合によっては、とうとう人間は愛せなかったけれど、犬だけは愛することができたという人もいるかも知れません。動物をも愛せなかった人にくらべれば、犬を愛することができるならば、まだ救われる気がするのであります。

 愛というのは、知識で身につけることはできないものなのではないかと思います。どんなに愛についての本を読んだって愛を身につけることはできないと思います。愛は、愛だけは、頭の知識で知ることはできないもので、愛だけは、愛されてはじめて愛とはなにかを知ることができ、そして愛されてはじめて人を愛せるようになるものだと思うのです。

今パウロは、フィリピの信徒たちにどんなに自分はあなたがたのことを愛してるかを語ろうとしているのです。「わたしがあなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証してくださる」といっているのです。

そしてそのことを言うときに、パウロは「わたしがキリストの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは」といいます。ここで使われている「愛」という字は普通の愛という字ではなく、口語訳では「キリスト・イエスの熱愛をもって」と訳されております。ここはギリシャ語の原文をみますと、「キリストのはらわた」という字です。

英語の訳では、「はらわたの底から」つまり「心の底から」と訳されております。
 これは「キリストのはらわたが出るような熱い愛で」ということであります。それはパウロがなによりも、自分がキリストからそのような熱い愛を受けているから、キリストから受けたそのような強い愛をもって、あなたが一同のことを思っているというのです。

 ヨハネの第一の手紙というところでは、まず神が、キリストが私たちを愛してくださった。その愛によってわれわれもまた神を、そして人をも愛することができるようになるのだというのです。われわれがまず神様を愛するようになって、神の愛を受けたのではないというのです。神がまずわたしたちを愛してくださったというのです、そしてここに愛があるとその手紙ではいうのであります。

 愛されて、はじめてわれわれは愛を知るのです。ですからわれわれにとって、幼児体験というものがとても大切になると思うのです。

 しかし不幸にも小さいときに親からの愛、人からの愛を受けられないで育ってしまった人もいると思います。それはもう本人の責任ではないのです。

 その人があるときに、キリストに出会って、キリストの愛を一杯受けて、救われる。その人はその時にはじてめ愛というものを知ったわけです。そしてその人もまた人を愛そうとし始めるわけです。しかしおうおうにしてその人の愛は、大変ぎこちない愛として人を愛するようになるのではないかと思うです。自然ではない、ぎこちない愛のあらわしかたになるのではないかと思うのです。しかしわれわれはそういう人のそのぎこちない愛のあらわしかたを決して軽蔑してはならないと思うのです、批判してはならないと思うのです。
 
あの、今日の価格にしたら三百万円もしたというナルドの香油をイエスの頭に注いで、イエスの葬りの用意をした女も、そのようなひとりであったかもしれません。イエスから自分の罪を赦していただいた、そのうれしさのあまり、その感謝の愛をあらわそうとしたときに、それは弟子達からなんとばかなことをするのとか、非難されたのであります。それは本当に常識はずれのぎこちない愛のあらわしかただったと思います。

 この女はおそらく不幸な環境のなかで育ち、そのために罪を犯さざるをえなかったのかもしれません。そういう女がイエスから愛を受けた。イエスから罪の赦しを受けた。生まれてはじめて、人から本当の意味で愛されたという経験をしたのかもしれません。そういう人がその感謝をその愛をあらわそうとしたら、ぎこちないものになってしまうのは当然なのかもしれません。
 しかしイエスはそのようなぎこちない愛を決して軽蔑してしりぞけることはしなかったのであります。

 幼児体験というのは、もうその人の責任ではないのですから、 そのぎこちない愛をわれわれは、特に教会のなかでは、大切にしなくてはならないと思うのです。われわれは人を本当に愛そうと思ったら、かならずなんらかの意味でぎこちない愛しかしめせないかもしれないと思うです。

 さて、パウロは今、自分が受けたキリストの熱愛をもって、フィリピの信徒たちにどのような愛について訴えようとしているのでしょうか。

 「わたしはこう祈る。知る力と見抜く力とを身につけて、あなたがたの愛がますます豊かになるようになり、本当に重要なことを見分けられように」ということであります。

 パウロは、愛が「知る力と見抜く力とを身に着けて」、口語訳では「あなたがたの愛が、深い知識において、するとい感覚において、いよいよ増し加わるように」と祈っております。

 愛と知識とは対立すると考えられがちですが、ここでは、愛には深い知識が必要だと言っているのであります。さきほどにもいいましたが、知識が愛を生み出すことはないと思いますが、どんなにいわゆるハウツウものの愛についての本を読んでも愛を知ることはできないと思いますが、しかし愛は知識を生み出すのです。知識というよりは、知恵といってもいいかもしれません。

 イエスはペテロを深く愛しておりました。ですから、イエスはペテロのことを深く知っておりました。イエスが自分は十字架で殺されることになるだろうといいますと、ペテロは「わたしはあなたを絶対に裏切らない」というのです。そのペテロに対して、イエスは「お前は鶏が二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう、しかしわたしはお前のために祈っている」と言われたのです。イエスはペテロの弱さを知り尽くしていたのであります。

 そして復活の後、イエスはもう一度、このペテロに対して、「お前はわたしを愛するか」と三度にわたって言うのです。これはイエスがどんなにペテロの弱さを知っていたか、ペテロという人間のすべてを知り尽くしていたか、それはペテロに対するイエスの深い愛が、ペテロの弱さを知り、見抜いていたということだと思うのです。これが「深い知識」「知る力」という事ではないかと思います。

 愛するという事は、相手のことを本当に深く知る必要がある、相手の長所短所すべてを知って、しかもその相手の短所をおおってあげなくてはならない。これはただ盲目的な愛ではだめなので、深い知識が増し加わらなくてはならないところであります。

 本当に人を愛していれば、必ず知識が増してくる。知識というよりは、むしろ知恵といった方がいいかも知れません。大学などいったことのない田舎のおばあさんでも、愛があるときに、どんなに深い知恵を身につけているかということであります。

 相手が今何を欲しているか、何を必要としているか、その事を知ろうとするから、当然そこに知恵が生まれてくると思います。知恵を生みださないような愛は、どこかひとりよがりで、ただ自分のひとりよがりな愛の押しつけになるのではないか。

 宮本百合子という作家が、愛には想像力が必要だといっております。想像力のない人は、人を愛することができないといっております。 

それはあるエッセイのなかでいっていることなのですが、自分の甥っ子が難しい受験に成功してある大学に入ることができた。そしてそのご褒美に親から温室を作ってもらったということを、うれしそうに書いてきた。その返事を宮本百合子が書くのですが、「世間には貧しくて学校にいけない人が沢山いるのに、そんなに有頂天になっていいのかと書いて、そういう想像力のない人は愛を知らない。愛には想像力が必要だ。想像力のない人は愛を知らない」と書くのであります。

 大学に受かった喜んでいる子供になにもそんなことを言う必要はないのではないかとも思いますが、わたしはその宮本百合子の言葉「愛には想像力が必要だ、想像力のない人には人を愛することはできない」という言葉が大変印象深いのです。

 想像力とは、相手が今本当に必要なものはなにかということ、つまり相手の立場にたって、ものを想像してみるということであります。そういう想像力のない人は愛することはできないというのです。

 この相手のことを思いやるという想像力こそ、「知る力」と「見抜く力」ということではないかと思います。そしてそれは口語訳でいいますと「深い知識とするどい感覚」ということになると思います。

 何が重要であるかを判別するのは、愛があって始めてできることではないかと思います。ここにも、愛が深い知識を生みだすという事を言っているのではないかと思います。愛が「何が重要であるかを判別する」知性の働きを生み出すのであります。知性が愛を生みだすのではないのです。愛が知性を生み出すのです。何が重要かを見分けられるのは、単なる知性の働きではないのです、愛なのです。

 「知る力と見抜く力とを身につけて」と、訳されております「見抜く力」というところは、口語訳では「するとい感覚」と訳されております。
愛には、深い知性とともに、するどい感覚が必要だというのです。

 あのイエスの頭にナルドの香油を注いだ女は、それこそ「するどい感覚」「見抜く力」で、イエスの死を敏感に感じ取ったのかもしれません。

 ここのところを竹森満佐一が説教していて、「ひとは自分の愛する者のことについては、敏感に感じとるものだ。どんなに隠していても、その心を知ることができる。その運命について、何かを感しとることもある。弟子達がこの期に及んでも、なお悟れなかったことを、この女ははっきりと見ることができた」と言っているのであります。

 イエスの弟子達はあんなにイエスと行動を共にしていながら、イエスの死を少しも感じとることをしなかった。しかしこの女はそれを感じとることができたというのです。

 「するとい感覚」「見抜く力」というのは、こういう事をいうのではないか。知識と言う場合にはじっくりと考えて、という面があるのに対して、感覚というのは、一瞬のうちに悟るという面があると思います。そうして、愛にはそういう一瞬のうちに愛する相手の運命を感じとってしまうという「鋭い感覚」というものがあるのではないか。

 われわれは愛というと、すぐ他人を愛することだと思うかもしれませんが、自分を愛するということだって、愛のうちに入るのではないかと思います。自分を正しく愛せない人は、他人をも正しく愛せないと思います。自分を憎み、自分がいやでいやでたまらない、自分を軽蔑することばかりしている人は、恐らく他人を愛せないのではないか。自分を憎んでいる人は、他人を愛そうとする時にも、いらいらして人を愛そうとするのではないか、そして
そのような愛は結局は少しも人に安らぎを与えないのではないか。

 人を本当に愛そうと思ったならば、まず自分を正しく愛せないと、つまり自分で自分を肯定し、どんなにつまらないと思える自分自身を受け入れていないと、欠点の多い人を愛することはできないと思います。

イエスは「自分を捨てなさい」と言われたときに、ただ「自分を捨てなさい」といわれたのではなく、同時に、自分の命というものはどんな代価を払っても買い戻すことができない尊い命なのだといわれているです。そのお前自身の命を大事にするために、ただいたずらに目先の自分の欲望に囚われて、自分が自分がと自分にしがみつくような、つまらない人生を送らないで、ある時には、自分を捨てる、自分の命をも捨てるという事だってできるだろう、そのようにして、自分を捨てたら、また自分の命を救うことができるのだといっているのであります。

そしてパウロはそれに続けてこう祈ります。「そしてキリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」。

 「キリストの日」というのは、いわゆる終末の日、最後の裁きの日であります。その終末の裁きの日、キリストの日に備えて清い者、とがめられないところの者になるのは、自分の愛の業ではないのです。「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて」とありますから、救いは、上から与えられるものなのです。

 われわれが人を愛することに、本当に苦労するようになる時に、また神の深い愛がますますよくわかるようになって、ますますイエス・キリストの義の実に満たされたいと願うようになるということであります。
 地上での愛、人と人との愛に苦労しない人は、神の愛もわからないのであります。それは人を愛せないと神の愛がわからないというのではなく、人を愛することに苦労する、そして自分の愛の足りなさに気づくようにならないと、神の愛がわからないということである。