「聖なるかたを仰ぎ見る−牧会四十一年をふりかえって」

            ヨシュア記五章一三−一五節
             ローマ書三章二一−二六節

 わたしが牧師になって、説教するようになって、数年くらい経った頃だったと思いますけれど、連合婦人会というところで出しております「教会婦人」という新聞から、「わたしの説教とは」という題でなにか書いてくださいという依頼があって、原稿を書いたことがあります。そのときに、改めて自分が説教でなにを語ろうとしているかを考えて、三つのことを書きました。

 自分が牧師になって、説教で語ろうとしたことは、三つのことを自分の説教課題にしてきた。
 わたしが説教において、絶えず語ろうとしたことは、もちろんイエス・キリストの十字架と復活において示された神の恵み、つまり罪の赦しの福音ということなのですが、そのことをぼかしたり、それを妨げるものと戦わなくてならないとわたしは思ったのです。それは、三つのことでした。

 ひとつは御利益信仰との戦い、つまりキリスト教は御利益信仰とは違うのだということ、もう一つは、神秘主義との戦い、そして三つ目は、律法主義との戦いということでした。

 わたしが神学校に入るときには、卒業して牧師になろうという自覚よりは、神学校に入ってともかく自分の好きな聖書を学びたいと思いのほうが強かったのです。あまり召命感のようなものはなかったのです。むしろ、牧師という職業はいやだったのです。つまり宗教家にはなりたくなかったのです。

 いってみれば、わたしは宗教が嫌いでした。宗教というものなかにあるまやかし、偽善性というものを嫌悪しておりました。とくにいわゆる新興宗教の教祖とかその伝道者を嫌悪しておりましたので、そういう者にだけはなりたくないと思っていたのですが、いざ実際に牧師という職業についたときに、世間の人からみれば、同じ宗教家になるわけですから、自分はそういう人たちとは違うのだという自負がありました。

 新興宗教のなかにある御利益信仰、そしてなにか神秘的なもののインチキ性とキリスト教とは違うのだ、キリスト教はもっと崇高なもので、きわめて理性的なもので、人間の知性とか理性に十分に耐えうるもので、そうした新興宗教とは違うものなのだ、それと同じものにみられてはならないということを伝えなくてはならないと思ったのです。御利益信仰と戦わなくてならない、インチキな神秘主義と戦わなくてはならいとしきりに思ったのです。

 しかしいざ説教をし始めたときに、聖書に即して説教をするわけですけれど、聖書には、それでは御利益的信仰はないのか、あるいは、聖書には神秘的なところはないのかといえば、そんなことはないわけです。聖書から御利益信仰とか神秘主義を取り除いていったら、その神様はまるで哲学者の考える神様になってしまう。パスカルが「わたしは哲学者の神ではなく、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、イエス・キリストの神を信じるのだ」と言っておりますが、その哲学者のパスカルの言葉をあらためて、考えさせられたのであります。

 それでわたしはいつのまにか、この御利益的信仰の問題、神秘主義の問題は、わたしが全力をあげて戦うべき問題でないなということに気がついていったのであります。わたしが全力をあげて取り組むべき課題は、律法主義の問題だということに気づかさせれていったのであります。

 しかしわたしは牧師になっても、やはりいわゆる宗教家になりたくはないという思いはずっと持ち続けたわけで、この新興宗教にみられる、わたしが嫌悪してやまない御利益信仰の問題、神秘主義の問題をどのように克服していったかをまずお話をしたいと思います。
 
 まず御利益信仰の問題ですが、われわれクリスチャンの信仰、それは聖書に基づいている信仰ですが、そのわれわれの信仰の中から御利益的要素というものを取り除いたら、何が残るのかということに気づかされたわけです。

 聖書をみれば、エジプトを出て荒野をさまよっているイスラエルの民がお腹がすいた、お腹かがすいた、パンが欲しい欲しいと神様につぶやいた民に対して神様はマナという不思議なパンを与えているわけです。
 あるいは、イエス様は病気の人がこの自分の病をいやしてくださいと訴えたときに、その訴えを決してしりぞけずに、その祈りに応えてくださっているのです。

 そうした信仰は、新興宗教の人々がもつ御利益的な信仰とどこが違うのか。それは全く違わないないのです。イエス様は、さすがに、お金が欲しいという御利益的信仰には応えてはいないかもしれませんが、しかしイエスは、「求めなさい、そうすれば与えられる」といわれて、なによりもわれわれが神様に対して率直に求めることを教えておられるのです。第一、主イエスが教えてくださった「主の祈り」では、「日用の糧を今日も与えてください」と祈ることを教えておられるのです。

 そうしますと、われわれクリスチャンと新興宗教を求める人々の信仰と本質的に変わっているところは一つもないということです。クリスチャンは物質的なものを求めるのではなく、精神的なものを求めるのだといわれるかもしれませんが、しかしその中身はやはり自分の幸福、自分が幸せになりたいということであって、本質的には、御利益を求める信仰となんらかわらないということであります。

 わたしは神様を信じるというこは、たとえば、自分の愛する者が病気になったときに、その病気をいやしてくださいと祈ることができないような信仰は、信仰とはいえないと思うのです。あるいは、明日遠足があるときに、明日天気にしてくださいと祈ることがだきないような信仰は、本当に神様を信じているのではないと思うのです。

 病気をいやしてくださいと、祈るときには、わたしは、神様が本当にここにおりきて、神様の手足を使って、その病気をしやしてくださるというイメージをもって祈っているのだと思うのです。もちろんそんなことは人にはいえませんが、そんな非科学的な信仰なのかと、笑われますから、口にはだせませんが、しかしそういうイメージをもって祈っていると思うのです。それはわたしだけでなく、みんな本当はそういうことをどこかで信じている、どこかで信じているから祈ることができるのでなはいかと思うのです。 そういう祈りができない人の信仰というのは、やはりそれは哲学者の信仰であって、それは大変観念的な信仰であって、神様を本当に信じているとはいえないのではないかと思うのです。

 そういう意味では、わたしはお地蔵さんに頭を下げる人の信仰を決して軽蔑する気にはならないのです。新興宗教を求める人の信仰と、われわれクリスチャンの信仰とひとつもかわらない、そこに高級とか低級とか差別をつけるわけにはいかないと思うようになったのです。

 しかし、そういう人々の素朴な願いを利用して、お金をもうけようとする宗教家、あるいは人々の尊敬を集めて権力をふるおうとする宗教家だけにはなるまいとわたしは思ってきたのです。

 それでは聖書の信仰は、そうした御利益的な信仰と全く変わりはないのか。そうではないと思うのです。われわれの信仰は確かにわれわれの様々なこの世的な期待から始まっているのです。期待から始まらない祈りなんかないのです。

よく神学校では、祈りというのは、まず神に対する賛美で、神に対する感謝でなければならないなどと教わったものですが、祈りというのはそんなきれいごとではないと思うのです。詩編を読んでいけばわかりますが、それはほんとうに切実なわれわれの求めであり、期待から始まっているのです。

 しかし、われわれは期待をもって祈っているうちに、いつのまにかそれが神に対する信頼に変えられていく、その点でわれわれの信仰はいわゆる新興宗教の信仰と違いがあるのではないかということに気がついたのです。
 期待というのは、あくまで自分が中心であります。しかし信頼というのは、相手を信頼すると言うことですから、相手が中心になることです。われわれの信仰はそのように自分を中心にした期待から始まりますが、それはやがて神様を中心にした神に対する信頼に変えられていくのだということであります。

 御利益信仰の場合は、自分の願いを叶えてくれない神様はあっさりと捨てていきます。神様を変えていきます。自分の期待をかなえてくれる神様ちを探し求めていくわけです。しかしわれわれの信仰は違う。あくまで、同じ神様に求め続け、そしてその求めが、いつのまにか信頼に変えられていくということなのです。

 主イエスはこういわれました。「求めなさい。そうすれば与えられる」といわれたあと、「あなたがたのうち、自分の子がパンを求めるのに、石を与えるだろうか。このようにあなたがたは悪い者であっても、自分の子供には良い贈り物をするではないか。そうであるならば、天にいますあなたがたの神は、求めてくるものにさらに良いものをくださらないことがあろうか」と、いうのです。神様はわれわれが求めるものよりも、「さらに良いもの」を与えてくれるというのです。何が「さらによいもの」かは、神様がお決めになるのです。われわれ人間ではないのです。

 そのことをルカによる福音書では、その「さらによいもの」というところを、「天の父はなおさら、求めてるくる者に聖霊をくださらないことがあろうか」となっているのです。聖霊というのは、神の恵みと言い換えてもいいと思います。われわれは自分の求めているものがかなえられなければ、いやだといって、神様のもとを去っていってしまうのかということです。自分が求めているのはパンなのであって、聖霊などではない、聖霊なんかもらったってちっともうれしくないといって、神様のもとを去っていってしまうかということです。

 自分が願いどうりになることだけを求めて、自分の願いどうりにならなければそこを去っていくというのでは、その人を信頼していることにはならない、神様を信頼していることにはならいないと思います。
 
 われわれは自分の聞かれない祈りのなかに、神のみこころ、神さまの深い良い贈り物を受け取れるかということであります。受け取ろうとしているかということであります。われわれの信仰は期待から始まります。しかしそれは祈っているうちに、信じているうちにそれは、やがて信頼にかえられていく、それがわれわれの信仰、われわれの御利益的な信仰なのであります。

あるポーランドのカトリックの司祭の詩にこういう詩があるそうです。「祈るなら、ちょっと待たねばならない。すべてのものには時がある。絶えずおねだりばかりしているような人は望みに生きることをやめている。待つこともできないならば、祈らないでください」という詩です。
 待つことができないくらいならは、祈るのをやめるべきだというのです。大変厳しい言葉であります。「待つことができないならば、もう祈るな」というのです。
 
 次は神秘主義の問題であります。私自身は神秘的なものを好む傾向にあります。それだけに、わたしは神秘主義のなかにあるインチキ性、偽善性というものがいやだったのです。なにかやたら神秘的な衣服をきこんで自分を神秘的にさせるという宗教家にたげはなりたくはないと思っていたのです。

 しかし一方では、カトリックの教会堂のように、ステンドグラスのある教会堂にはいって、神秘的な心を与えられることが好きでした。日本の仏教のお寺、そのなかの仏像、あるいは日本の古来からある神社に行って、神秘的な気分に浸ることはとても好きです。

 神を信じるということは、人間を超えたかたを信じるということですから、当然人間の合理主義を超えたかたを信じるということですから、それは超越的なものにふれるということですから、そこに当然神秘的なものを信じ、受け入れるということがなければ、神を信じたことにはならないということに気がついたのであります。

 聖書のなかにある、ある意味での神秘的な奇跡を、全部、人間の合理主義で取り除いたり、それを非神話化して解釈して、それを精神的な寓話としてしてしまったら、聖書は全く力を失ってしまうだろうということに気がついたのです。

 わたしが神秘主義のことで一番大事にしている聖書の箇所は、ヨシュア記の五章にある箇所であります。「あなたの足から履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なるところである」という言葉であります。

 それはモーセの後継者であるまだ若い、経験の浅いヨシュアに対していわれた言葉であります。
 ヨシュアがモーセのあとを引き継いで、イスラエルの民をエジプトからいよいよ自分たちの故郷であるカナンの地に導きいれようとしている時であります。そこには土地を離れてもう四百年経っているわけですから、当然先住民がいるわけです。そこに入っていくわけですから、とうぜん戦いがおこる。その戦いに対してどうしようかということでヨシュアは、頭が一杯だった時です。

 ヨシュアがその時、眠れないままひとりでいた時です。まだ朝寒い、おそらく霧が立ちこめているところに、突然抜き身の剣を手にした男がヨシュアの前に立った。驚いたヨシュアは「お前はわたしの味方か敵か」と問うたのです。
 するとその者は、「いや、わたしは主の軍の将軍として今ここに来たのだ、神から遣わされたものだ」と答えたのであります。
 それでヨシュアは「わが主は何をわたしに告げようとするのですか」と問いますと、彼は「お前の足から履き物を脱げ。お前の立っているところは聖なる所である」といわれたのです。それでヨシュアはその通りにしたのです。

 そのすぐ前の聖書の箇所では、ヨシュアがモーセのあとをついでイスラエルの指導者に神から選ばれて立たされた時には、神から「わたしはモーセと共にいたように、お前と共にいる。お前を見放すことも見捨てることも決してしない。強く、雄々しくあれ」と言われたばかりなのです。
 つまり、神はヨシュアに対して、「わたしはお前に対してどんなことがあってもお前の絶対的な味方である」と宣言したばかりなのです。そうであるならば、神から遣わされた主の軍の将軍は、ヨシュアから「あなたはわたしの味方ですか、敵ですか」といわれたら、とうぜん「わたしはお前の味方だ」と答えてもよさうであります。

 しかし主の軍の将軍は、そうは答えないのです。「わたしはお前の味方でも敵でもない。わたしは神の使いとして来た。お前の今なすべきことは、自分の足から履き物を脱いで、聖なるかたの前にひれ伏すことだ」といわれたのです。

 今ヨシュアはこれから入る地で起こる、戦争のことで頭が一杯だったのです。そのときに、いったい誰が自分の味方で誰が敵かを判別しなくてはならないのです。そのとき、われわれはどうするか、自分を中心にして、自分の判断を絶対化して、誰が味方で誰が敵を判断し、判別する。それがどんなに危険なことかということであります。

 そういうヨシュアに対して、今主なる神は、絶対者である神の前にひれ伏せ、
そのようにして、自分を相対化しなさい、自分の考えを自分の判断が誤り得るものとして、自分を相対化しなさいと命じられたのであります。
相対化するなどというと、あまり聞き慣れない言葉で難しく聞こえて申し訳ないと思いますけれど、相対化するということは、自分の考えとか価値観は絶対に正しいと思わないということなのです。もしかしたら、自分の考えは間違っているかもしれない、一方的かも知れないと思うことです。
 このごろ、離婚の問題で一番の問題は、夫の妻に対する暴力ということであるよりは、夫が妻に対して、自分の価値観を押しつけることだといわれております。それはモラルハラスメントといわれております。

 すべてを自分中心にしてものかを判断し、価値づけていくという恐ろしさ、そういうわれわれを神はもう一度絶対者なる神の前に立たせる、超越者である神の前に立たさせる、われわれには、そういうことが必要なのではないか。
 お寺にいっても、神社にいっても、われわれはある種の超越的なものを感じる、神秘的なものを感じる、それは大切なのではないかと思います。

 われわれを聖なるかたの前に立たせ、そうして、われわれを相対化させる、それが神がわれわれにとって本当の味方になってくださるということなのだと神はヨシュアに告げたのであります。

もちろん、こちらからは、人間の側から、どんなに聖なるかたを見ようとしたり、聖なるかたの声を聞こうとして、いろんな工夫をこらしたり、演出したりしても、それはできることではないと思います。そんな人間の演出はかえって、聖なるかたをみたり、聖なるかたの声をきくことの妨げになるだけであります。

 それはやはり向こうから、上から、天から示されることであります。しかしわれわれのほうでは、いつでも、聖なるかたの声を聞く用意をしておく、それはもちろん具体的には、聖書の言葉を神の言葉として聞くということですが、その用意をしておくということは大切だと思います。そのために、われわれはいつもできるだけ、人間的な演出をむしろ排除して、できるだけシンプルな形で、礼拝をするということが大事だと思います。

 人間を超えた、神秘に満ちたかたの前にひれ伏す、それがどんなに大事なことか。信仰から神秘主義を除いてしまったら、ただの哲学になってしまう、ただの人生訓話におわってしまうと思います。
聖なるかたが聖なるかたとして、われわれの前に立ってくださる、そうしてわれわれの浅はかな、ひとりよがりな、自分中心の思いをうちくだいてくださる、それが神がわれわれの本当の味方になってくださるということであります。

 わたしがこの四十一年間、説教で戦ったことの最大のことは、律法主義との戦いでした。本当はこれを一番語りたかったのですが、もう時間をずいぶん使ってしまいましたので、この問題は午後の会で話し会いのときに具体的に考えていきたいと思っております。
そんなわけで、今は少しそのことにふれておく程度にとどめたいと思います。

 御利益主義の問題、神秘主義の問題で、わたしが克服しようとしたこと、それは、自分中心、人間中心ではなく、神を中心にして生きるということでした。そして、このことが律法主義の問題でもあったのであります。

 律法主義とは、自分の行いによって義を獲得しようとする救いの方法であります。律法を守っている、良い行いをしているということで救いを獲得する生き方であります。週のうち二度断食し、全収入の十分の一を捧げていますといって、自分の救いを獲得しようとする生き方、救いの求め方であります。

 それはパウロがいっているように、それは神に対して熱心ではあるが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、それは神の義を知らないで、自分の義を立てよう努め、神の義に従わないということなのです。それは神の義に従わないで、ただ自分の義、自分の正しさを主張しようとしているだけだというのです。

 大事なことは、何か良い行いをして、自分の正しさを主張することではないのです。神の義、神の正しさに服することであります。その神の正しさはキリストの十字架の血によるあがないという、一方的な神の恵みによって、われわれを救ってくださったという神の愛において示されたのです。その神の義にわれわれが信頼し、その神の義に服することであります。

 ヨシュアがそうしたように、自分の履いている履き物、自分を支えているかに見えたものをすべて脱ぎ捨てて、聖なる神の義に服し、神を仰ぎ見るということであります。

わたし自身の経験でも、わたしが真面目に真面目に神様を求めて熱心に求道生活をしていたときには、どうしても神の恵みとか神の愛がわからなかったのです。そうしてもうそうした努力をすべて放棄して、キリスト教をあきらめて、キリスト教捨てて、神様のことをいっさい考えよとしなくなったときに、ある夜突然、神様のほうから手をさしのべてくださって、わたしを救ってくださったのです。具体的には今まで聞いてきた、慣れ親しんできた聖書の言葉の一節がわたしの心に響いてきたのです。それによってわたしは救われたのです。

 わたしが牧会にたって、この律法主義の問題を感じたことは、救われる前の問題ではなく、救われたあとの生活の問題なのです。救われたあとの信仰生活、教会生活のなかで、この律法主義がもう一度根強く顔を出してきてしまうということなのです。

 われわれは自分の行いによっては救われなかった、ただ神の恵みを信じる信仰によって救われたのだというこは、みなよく知っていることだと思います。みなそのように救われた筈であります。少なくともわれわれプロテスタントの信仰に立つ限りそうであります。

 しかし問題は救われたあと、われわれは本当に「信仰義認」の信仰に立っているかということなのです。

 教会の中でしばしば見られるのは、イエスのたとえ話に出てまいります「律法学者・ファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈り」のなかの徴税人の姿勢をとる信徒が多いということなのです。

 目を天にあげようともしないで、うなだれている、自分の罪に嘆いてる、それが信仰者としてもっともふさわしい敬虔な姿勢なのだとわれわれは誤解していないかということなのです。目を天にむけないのでは、信仰とはいえないのです。このような自分を神様はそのまま赦してくださった、そのことを信じて、目を天にあげて、神様に感謝し、神様をほめたたえつつ、家に帰るのが信仰ということであります。それがイエスの言葉を信じるということです。

 教会というところが、罪の告白ごっこの場所になっていないかということなのです。教会は単なる罪人の集まりではなく、罪赦されたことを信じて救われた人の集まりなのであります。

 もう一つの問題は、これは特に日本人のクリスチャンのなかに顕著に現れる傾向ですが、われわれ日本人のクリスチャンはみな謙遜なかたが多いと思います。ですから、ファリサイ派の人たちのように、自分の行いによって自分は救われるのだと、自分の正しさを主張するひとはいないと思うのです。行為義認を主張する人はいないと思うのです。

 しかし、たしかに自分は良い行いはできない、しかしせめて良い行いをしようと努力はしないと救われないのではないか、と思っている人が多いのではないかと思うのです。わたしはこれを努力義認主義と名付けているのですが、それは結局は行為義認主義と同じになってしまうと思います。

 われわれは行為義認主義を捨てるとともに、この努力義認主義もまた本当に捨てなくてはならないと思うのです。

 誤解をまねかれないために、いいますが、わたしはなにも良い行いをする必要がないとか、そのために努力する必要がないといっているのではないのです。救われるために、というただその一点に関してであります。

 それでは信仰生活には努力とか闘いというのはいらないのか、そういうことではないのです。信仰生活に努力は必要なのです、闘いは必要なのです。それは自分に対するこだわりを捨てるという努力です、ただただ神の憐れみにすがっていこうとする努力です、神の赦しを信じていこうとする努力、パウロが「福音のためにわたしはどんなことでもする。わたしも共に福音にあずかるためである」といっておりますように、福音にあずかるための努力であり、闘いなのであります。

 それは自分に対するこだわりを捨てる努力であります。自分を絶対化しない努力であります。いつでも自分を相対化するための努力であります。自己中心的な生き方をやめる努力です。

そのためには、われわれはたえず、本当に日曜日ごとに礼拝に出て、神の前にひざまずき、自分を支えている履き物を脱ぎ捨てて、神を仰ぎ見る礼拝を捧げる、その努力はしなくてはいけないのではないかと思います。





 この説教は仙台の愛泉教会で行われたものです。

 その日の午後、説教のテーマに沿って、懇談会がおこなわれました。その時にさら説教では時間的に話すことができなかったことを追補といことでいくつか話ました。

御利益信仰の問題の追補

 神はわれわれの御利益的な求めに対して、さに良いものを与える、聖霊を与える、そのわれわれの期待とは違うものを神は与えてくださるといいましたけれど、それでは結局は神様はわれわれの御利益信仰を退けるだけという印象を与えてしまうけれど、そうではない。神様はあるときには、病気を治して欲しいというわれわれの祈りに具体的に応えて、病気を治してくだる。日ごとの糧を与えて欲しいという祈りに、具体的に日ごとの糧を与えてくださる。そのことを通して、さらに神が与えてくださるものはなにかを知ることが大切である。

 神はお腹がすいて、パンを欲しいと要求するイスラエルの民に対して、神はマナという不思議なパンを与えてくださった。申命記では、そのことに言及した上で、「人はパンのみにて生きるにあらず」と言う言葉が続くのです。イエスが悪魔の「石をパンにせよ」という誘惑を退けたときに、この言葉を引用したのもそのことを考えなくてはならない。われわれはパンなどいらないというのではなく、神様からパンをいただきながら、そのいただいたパンを神の御手から受け取って感謝することを学ぶのである。

 神はわれわれの祈りに全く応えられないわけではない。あたえられた御利益を通して、それを単なる御利益に終わらせないことが大事だ。それを繰り返すことによって、聞かれない祈りの中にも神のさらに深い恵みを受け取れるようになる。

 パウロの祈りである病気のいやしはなかった。しかし、その病のなかに神の恵みはあふれていた。


 神秘主義の問題の補足

 イエスの奇跡をどのように理解したらいいのか。福音書に書かれている奇跡を文字通り信じなくてはならないというものではない。その奇跡を通しての意味を読み取ることが大事なのだ。福音書記者は、事実をただ写し取る写真のようにして、イエスの奇跡を書いているわけではない。画家が対象を自分の受け止めた感動と感性てに即して、デフォルメしたり、捨象したりして、描くように、福音書を書いている。福音書記者は、いわば写真家ではなく、画家として福音書を書いている。

だから、四つの福音書が必要だったのであり、同じ奇跡物語でも微妙に違う書きかたがされている。といって、イエスは奇跡を全くしなかったのかといえばそうではないだろう。神の子なのだから、われわれ人間の理性と知性とかでは理解できないことをなさっただろう。そうでなければ、あんなに民衆から慕われることはなかった。奇跡はあった。その奇跡の中核をもとにして、福音書記者はその奇跡を通して神が何をわれわれに語ろうしているかという意味を受けとることが大事なのである。

そういう意味で、奇跡を非神話化してうけることが大事だろう。処女降誕という奇跡も、その事実をそのまま信じなくてならないということよりも、神の子が具体的にこの世にきてくださった事実をあの形で示そうとした。つまり、罪人を代表する男性の協力を排除して、しかし天の羽衣のように天からおりて来たのではなく、具体的に人間の肉体をとってこの世にきた、受肉という事実を語ろうとしたのだ。処女降誕の奇跡はその事実よりもその意味が大事だ。

 しかし、復活に関しては、イエスが肉体をもってよみがえったという事実が大事なのだ。それは弟子達の幻として解釈したり、非神話化したりすべきではない。復活は、意味よりもイエスを神がよみがえらせたという事実が大事なのだ。処女降誕やほかの奇跡は、その奇跡の事実よりも、その意味の方が大事かもしれないが、復活に関しては、その意味よりも事実が大事なので、イエスがよみがえったという事実が意味を与えるのだ。


律法主義の問題の補足

わたしは中学のときにキリスト教主義に入って聖書を学んだ。そこでまず衝撃的だったのは、「情欲をいだいて女見るものは、すでに姦淫したのである」というイエスの言葉、そしてその情欲でみる目を切ってすてないと地獄にいくぞ、という聖書の言葉であった。それはわたしを律法主義にした。どんなに努力したって、律法をまもれない、立派な人間になれない、従って神の愛を受けられない、救われないと思いこんでいた。

どんなに口でわれわれが救われるのは行いのできないわれわれがただそういうわれわれをあるがままに救ってくださった神の恵みを信じる信仰によって救われるのだといわれてもわたしはそれを信じることができないで、とうとう洗礼を受けていながら、キリスト教から離れて、こちら側の努力をいっさい放棄したときに、神のほうからわたしに近づいてきてくれて、聖書の言葉を与えてくれて、わたしに神の恵みを信じさせてくれて、はじめて律法主義主義から解放されと、キリストの恵みを信じる信仰によって赦され、救われるのだということが身をもってわかった。律法主義との悪戦苦闘の求道生活だった。

 律法は神が与えたものである。それならばなぜ神は律法を与えたのか。
それはこれを守ったら救われるという合格試験のための律法ではない。あの十戒を与える前に神は、お前達をエジプトの地から救いだしたのは、わたしであると明言した上で、お前達はもう救われのだから、これからその救ってくださった神に従うにはどうしたら良いかと具体的に示したのが律法なのである。
それを救われるための条件としての律法にしてしまったのは、人間なのであって、イスラエルの民なのであって、それは神の意図ではない。それは旧約聖書にはゆがめられたかたちで残っている。だから旧約聖書をよむときには、新約聖書の視点から再解釈して読む必要がある。

 律法をどう読んだらいいか。その律法を通して、律法を守れたことを、子供がお母さんにほめてもらおうとして喜んで報告するように、律法をまもれましたとと喜んで神様に報告するのだ。そして律法を守れなかったときには、素直に神様に謝りにいくことが大事なので、あの徴税人のように神に顔をあげられなくてうなだれるのではなく、ますます神に近づいて、神に助けを求めればいいのである。
律法があるために、自分を誇りだし、自分の義を主張したり、律法があるために、律法を守れない自分にうなだれて、神様から遠ざってはならないのである。
 律法は入学試験のテストではなくて、自分の実力を知り、自分の弱点を知るためのテストなのである。

 聖化とは、聖人になるための努力目標としては、聖書には示されていない。聖書が、特にパウロが「聖くなれ」というのは、現実にだらしない生活をしている若者に対して、そのだらしない生活から脱却しなさいという勧めなのであって、、修道院にはいって、聖人になることを目指すような意味での聖化を考えるべきではない。

 律法主義でない牧会とは、具体的になにをしてきたか。

 律法主義は人を一律にしてしまう。そのための訓練をしてしまう。訓練とは人の個性を圧迫して、一つの鋳型にはめ込むための訓練になりがちである。個性を押しつぶさない牧会をしてきた。