「新しいぶどう酒は新しい革袋に」マルコ福音書二章一八ー二七節

 
 イエス・キリストが来た事は新しい時代が来たのだと今日の聖書の箇所はわれわれに教えております。新しい時代が来たのだから、新しい時代にふさわしい価値観をもって、新しい生き方をしなくてはならないというのです。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなくてはならないというのです。古い着物を保持しようとして、新しい布切れでつくろうとしたら、その古い着物を裂いてしまうというのです。イエス・キリストによる救いとは、古い生き方の仕立て直しではないのだと、ある人が言っております。

 イエスがその事を言われたきっかけは、イエスの弟子が断食をしないという事からでした。当時のユダヤ人は、そして特に真面目なパリサイ人は週に二度断食していた。またあのバプテスマのヨハネの弟子達も断食していたのです。断食は人が信仰生活を維持し、また神に特別にお願いするためには必要な事だったのです。恐らく断食をしない信仰生活などは、不真面目な信仰生活に映ったに違いないと思います。

 それに対して主イエスは「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに、断食ができるだろうか。花婿と一緒にいる間は、断食はできない」というのです。「断食はできない」と言うのです。「断食する必要がないではないか」というのではなくて、「できない」というのです。

 確かに婚礼の喜ばしい席で、料理が一杯でている席で、そして花婿と花嫁がうれしそうな顔をしている中で、断食をしたらおかしいのです。自分を招待してくれた花婿に対して失礼にあたるのです。

 断食とはなんなのでしょうか。われわれにすぐ思い浮かばせるのは、ダビデが神の裁きを受けて子供が病気になった時、その子供の命を助けて貰おうとして、断食をしたという記事であります。それはダビデの必死の悔い改めの姿勢だろうと思います。神様に対してこちらの誠意を示すという態度であります。それは祈りの具体的な姿勢であります。それは真剣な祈りの姿勢ですから、悪いわけはないのです。
しかしこの断食には、一つの危険な要素も含まれるわけであります。イエスがパリサイ人の断食を厳しく批判して、あなたがたの断食は偽善者の断食だというのです。断食をする時に、わさざわざ苦しそうな顔つきをして、断食をする。自分はこんなに苦しんでいるんだ、こんなに悲しんでいるんだという事を神に訴えようとする、そうしますとその場合は、神の慈悲にすがるとか、神の愛に訴えるというよりは、自分の熱心さ、自分の誠意を押し出して、それを根拠にして神を動かそうとすることになるわけであります。

 神に頼るのではなく、自分はこんなに熱心に祈っているのに、あなたが聞いてくれないのはけしからんと、自分の義を主張する事に必死になるわけです。それはもう祈りとはいえないわけであります。それはもう神に従うというよりは、自分を主張して神を動かそうとする姿勢になってしまっているのであります。
 
 それに対して、イエスは「花婿が一緒にいるのにどうして断食できるだろうか」というのであります。大切な事は、決定的な事は、そこに花婿がいるという事なのだ、その事実なのだと言う事なのであります。この花婿とは言うまでもなく、イエス・キリストの事であります。神の独り子であるイエス・キリストがこの世に来た、われわれを救う為に自らこの世に来たのだ、それならばわれわれはその事を信じ、受け入れ、もう自分に目を向けるのではなく、このかたに、このかただけに目を向けようではないかという事であります。

 婚礼の席に呼ばれて、花婿、花嫁を祝おうとしないで、その婚礼に出かけていく自分の衣装は何にしようかと考えたり、その婚礼の席についていても、花婿、花嫁など一つも見ようとしないで、自分の今日の衣装はどうだろうか、花嫁の衣装よりもずっとセンスがあるではないかと、ひそかにほくそえむようなことをしていたら、どうでしょうか。それは花婿、花嫁に対して失礼な事になるばかりではなく、そのように自分の事しか考えようとしていないという事はあまりにも情けない事になるのではないでしょうか。

 「婚礼の客は、花婿が一緒にいるのに断食できるだろうか」というのです。ここの所をマタイによる福音書は「婚礼の客は、花婿がいるのに悲しんでおられようか」となっております。

 断食は、悲しいことなのであります。悲しみや苦しみから何か生産的なものが生まれたためしはないのです。その悲しみや苦しみから解放された時、その悲しみや苦しみが、喜びに変わった時に何かが生まれるのであります。

  悲しみや苦しみからは、ただ憎しみとゆがみと復讐が生まれるだけなのではないでしょうか。確かに、多くの苦しみや深い悲しみは、その人を深いものにするかも知れません。苦しんだ人、悲しみの深い人の芸術は、厚みのある深い芸術作品を生みだします。何の苦労もない、人生の悲しみも痛みも味わった事のない人の作品は、音楽にしろ絵画にせよ、小説にせよ、うすっぺらなものになります。しかしその苦しみや悲しみが意味をもってくるのは、その苦しみや悲しみが何らかの形で解決されてからだと思うのです。喜びに変わってからであります。救われてからであります。
 
 イエスは、花婿がいる時には、もう断食はできないというのであります。花婿がいない時、つまり神の存在とその神のみこころがはっきりしない時は、われわれは断食したりして、なんとかしようとするのです。そうしてはうっかりすると、偽善的になってしまったり、ただ自分を主張してみたりという事になるわけですが、花婿であるイエス・キリストがもういらしたのだから、断食は、そしてわれわれの律法的な行為は、必要がないばかりか、もうそんな生き方はできないのだというのであります。

 断食という行為は、律法主義を生み出す行為になりかねないのであります。そしてそれはやはり人間のわざが中心になるという事で、人間が中心になる生き方であります。人間が中心になる生き方という事は、自分が中心になる生き方という事にどうしてもなっていくのではないでしょうか。

 イエスは、しかし花婿が奪い去られる日が来る、その時には断食するだろう、と言われました。婚礼の席で花婿が奪われるなどと言う事は本当はありえない事であります。これはイエスの十字架の事を指していると思われます。その時は断食する事になるというのであります。そして事実初代教会においては、断食をしたようであります。
 しかしその断食はユダヤ教の断食と違って、このイエスの十字架を決して忘れてはならないという事のための記念のための断食で、自己修養とか、何かを祈るための断食ではないのであります。

 われわれにとって大切な事は、イエス・キリストという花婿がいましたまうという事なのであります。そのかたが十字架についてくださって、決定的に、愛の神の存在をあらわしてくださったという事なのであります。

 「新しいぶどう酒は新しい革袋にいれなくてはならない」ということは、もうわれわれはイエス・キリストに来ていただいて、われわれの罪は赦されたということを知らされている、それを信じている、そういう新しい時代がきたのだから、もう自分を顧みるばかりの生き方をやめて、ただイエス・キリストだけを見つめて生きようということであります。

 もう自分自身を自分で裁かないことであります。自分を先走りして裁かないことです。神様に裁いてもらうことです。それが新しいぶどう酒を新しい革袋に入れる生き方であります。

 マルコ福音書は、そのあと、安息日の日になにをしたらよいかということをとりあげて、新しい生き方を示してくれています。

 ある安息日にイエスと弟子達は畑の中を通っていました。その時弟子達は歩きながら、麦の穂を摘み始めて、それを口にしたのであります。弟子達はイエスの宣教活動について歩いていて、疲れ果て、お腹もすいていたのだろうと思われます。それで畑の中を通りながら、麦の穂を摘んで、口にして、お腹をみたそうとしていたのであります。それをパリサイ人たちが見ていて、イエスを非難した。「あなたの弟子達は安息日にしてはならない事をしています。」するとイエスはこう言ったのです。「あなたがたはダビデとその供の者たちが食物がなくて飢えていた時、ダビデがなにをしたか知らないのか。大祭司アビヤタルの時、神の家にはいって祭司たちのほか食べてはならにない供えのパンを自分も食べ、供の者たちにも与えたではないか」というのであります。

 この記事は旧約聖書のサムエル記にありますが、そこでは祭司アビヤタルではなく、祭司アヒメレクになつております。これはマルコの記憶違いだろうと思われます。この時ダビデはまだイスラエルの王になっていなくて、サウル王に命を狙われて、供の者数人と逃亡生活をしている時のことであります。その時食べる物がなくなってダビデは困って、祭司の所にかけ込んで助けを求めたのであります。
 ダビデは自分の飢えという事もあったかも知れませんが、サムエル記を見ますと、自分のためといういうよりは、自分の供の飢えをなんとかして満たしてやりたいと思って、祭司しか食べてはならないパンを供のために手にいれてあげたのであります。

 イエスはその例を引いて、だから安息日と言えども、お腹がすいているいる時には、麦の穂を摘んで腹を満たす事はさしつかえないではないか、というのであります。
 そしてこういうのであります。「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。」
 
 「安息日は人のためにあるのだ」という時の「人のため」とは、どういう人のために、という事なのでしょうか。それはここの文脈で言えば、おなかをすかして飢えている弟子達のためにという事であります。さらにひろげて言えば、この世で疲れはて、飢え苦しみ、うちひしがれている人々、囚われている人々、貧しい人々、そういうこの世で苦しんでいる人、虐げられている人、そういう人々のためにということであります。

 ダビデはお腹をすかして飢えている供の者たちになんとかしてパンを与えたいと思って、祭司しか食べてはいけないとされているパンを手にいれようとしたのです。そしてそれと同じように、イエスは伝道旅行で疲れ、飢えている弟子達のために安息日といえども、麦の穂を摘むという事を許しているのであります。この安息日こそ、そのように飢え、疲れ果てている人に真の安息を与える日だとイエスは考えているのであります。

 それでは、二八節にある「それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」という「それだから」という意味は、どういう意味でしょうか。それは、安息日は、弱っている人、疲れはてている人に、安息を与えるためにある、人の子としてこの世に来たわたしイエスもまた、あのダビデと同じように、疲れはてている人、重荷を負うて苦労している人のためにこの世に来たのだ、それだから人の子であるイエスは、安息日の主なのだ、安息日をもっとも正しく用いることができるという意味で、イエスは安息日の主なのだということなのではないかと思います。

「安息日は人のためにある」というときの「人」というのは、重荷を負うて苦労している人のために、疲れ果てて弱っている人のために、ということでありますが、しかし、この世に生きている人のなかで、重荷を負うて苦労していない人、疲れ果てて弱っていない人などがいるはずはないので、これはただ見た目に弱っている人というだけでなく、「安息日は人のためにある」ということは、すべての人についていわれている言葉でもあると思います。

 あの十戒にある「安息日の律法」には何がいわれているのか。出エジプト記の二十章にこう言われております。
 「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」

「安息日を覚えて、これを聖とせよ」とあります。「聖とせよ」ということはどういうことでしょうか。ここをリビングバイブルでは、こう訳しております。「安息日を特別な日として守りなさい」と訳しております。「聖」というところを「特別な」という意味に訳しております。そしてこれは正しい訳だと思います。
ヘブル語の「聖」というのは、いわゆる清いという意味ではなくて、「神様のために特別にとっておく」という意味であります。

 われわれは「安息日を聖とせよ」といわれると、安息日は、なにがなんでもその日を神を礼拝する聖なる日として守れ、といわれているように思うかもしれません。ちょうど今日、聖日礼拝厳守といわれているような意味で、安息日はなにがなんでも礼拝に出なくてはならないという意味にとるかもしれません。しかしここの十戒でいわれていることは、そうではないのです。

 七日がきたら、「主の安息であるから、なんのわざをしてはいけない」ということがいわれているのです。それが安息日を聖とせよ、安息日を特別な日として守れというこであります。
 つまり、仕事を休め、労働を休めということがまず第一にいわれていることなのです。神様が六日にわたって、この天地を造られて、そうしてわざわざ七日目という日を造られて、一切の仕事をやめて、休まれた、それにならって、仕事を休めと命令されたのです。

 それはわれわれが六日の間してきたわざを止める、中断するということです。休むということです。それがどんなに大事かということなのです。

 それがどんなに真剣な真面目なわざであったとしても、あるいは社会奉仕というわざであったとしても、人間のわざには、どこかひとりよがのところがあって、知らず知らずのうちに、人を傷つけたり、裁いたり、過重な重荷を与えているのであります。真面目であれば真面目であるほど、その人の行為と発言がどんなに周囲の人々に重荷を与え、裁いてしまっている事か。「安息日にはなんのわざもしてはならない」という事のうちには、われわれが考える「善いわざ、正しいわざ」も含まれているのではないか。

 われわれ人間が考える善の中にはどこかひとりよがりのところがあって、そんなに手放しで、これはよい事だから、日曜日にでもばんばんやりましょうと言えるかどうかであります。それがどんなに立派な仕事であったとしても、七日目ごとに、自分の仕事を中断する勇気を持たなくてはならないと思います。

 竹森満佐一の説教の中で、こういう言葉があったのを思い出します。「人が誰からも教えられないで、生まれた時から習得している技術がある。それは人をさばく技術だ」というのであります。実に辛辣な言葉であります。

 人間が生まれてから身につけている技術、誰からも教わらなくてももっている技術というのですから、これはもっとも人間らしいわざであります。そして考えてみれば、人をさばくと言う事は、人間だけがやることなのかも知れません。動物はしないのです。そうしますと、安息日の日に、一番やめなくてはならないわざとは、人をさばくことなのかも知れません。

 安息日には「なんのわざもしてはいけない」といわれているのであります。そのもっとも人間らしいわざを、律法学者たちは、この安息日にしているのです。

当時は、安息日は、律法学者たちによって、実に細かい規定がされていたのであります。その日は何歩以上歩いてはいけないとか、その日は一切の労働をしてはいけないとか、規定されていたのであります。
 その安息日は、民衆にとっては、安息の日どころか、自分はいつ安息日律法に違反していないかと心休むどころの話ではなくなっていたのであります。律法学者たちは、まるで秘密警察のように人々を監視していたのであります。イエスを監視していたのであります。


 ひとは本当に人を裁きたがるのであります。それはただ、人の悪を指摘して、その悪を正そうとするのではなく、人の悪を指摘して、自分の正しさを主張し、自分の正しさを自分であらためて認めて安心したいのであります。自分の行動の正しさを知るためには、人の過ちを見つけ、それを非難するのが一番わかりやすいのであります。ちょうど、自分の成績を知るために、他人の成績を知って、あいつは六十点だけど、おれは六十二点だと知って自分を安心させるようなものであります。わずか二点の差でも、自分の方が上だと思いたがるのであります。

 人は結局は自分の立場を守るために人を裁くのであります。人の悪とか人の過ちを指摘するとか、正すとかという事に、関心があるのではなく、本当はただただ自分の立場を守りたいためだけなのであります。自分の生活を必死になってまもりたいのであります。それは自分の生活は自分で守る以外にないと考えているからであります。

 安息日には人間のわざをすべて休まなければならないのであります。しかしそれだけで、自分のわざをやめられるか、人間の傲慢なわざ、ひとりよがりのわざをやめられるか。

 人間のわざをやめるためには、神がわれわれにどのようなわざを望んでおられるかを静かに聞かなくてはならないのではないか。そのためにわれわれは日曜日ごとにこうして礼拝をまもって、聖書の言葉を聞こうとしているのであります。そうしてこの世を造りたもうたかたがいましたまうという事、人間がこの世を造ったのではない、人間がこの世界の、この宇宙の主人公ではない、造り主なる神がいまし給うことを肌で感じるためにこうして礼拝をしているのであります。
ですから、聖日礼拝厳守などという律法主義的な意味ではなくて、やはり、われわれにとっては、日曜日ごとに礼拝を守るということがどんなにか大切かということであります。

 安息日を本当の安息の日にするためには、家のなかにいて、ごろごろするだけでなく、「人の子が安息日の主である」ことを知るために、こうして礼拝をすることが大事だと思うのです。

 そして教会は、この安息日をいつのまにか、週の終わりの日の土曜日から、週の初めの日曜日に変えてしまったのであります。それはその週の初めの日、日曜日に、主イエスが復活したからであります。そしてその日にあの弟子達に聖霊が降った日だからであります。

 主イエス・キリストが十字架で死に、三日後によみがえらされた復活によって、新しい時代が来たのであります。そのために、われわれは安息日をいつのまにか土曜日から日曜日に変えたのであります。それはどこかの国会の決議によってそうなったのではないのです。いつのまにかであります。それほどに主イエスの十字架と復活の事実がそのように人々を動かしたのであります。

 そのようにして、新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れなくてはならないし、入れられるようになったのであります。