「万事を益としてくださる神」 ローマ書八章二六−三○節

 ヨハネによる福音書では、「初めに言があった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった」とあります。そしてこの言は「肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」と、記されていて、これがクリスマスの出来事だといっているのであります。

 言は神でした。しかし言は言のままでは人を救えない、われわれ人間には、言だけの神様では救われない、とわれわれはおもってしまっている。そう誤解してるわれわれのために、神は、その言を肉の形をとり、われわれ人間の間に宿らせた、それが御子イエス・キリストの誕生であったというのであります。

 この神であった言には、もともとそのうちに命があったのであります。つまりこの言は普通の哲学的真理とか、教理とか、単なる文字としての律法とか、と言う文字に閉じこめることはできなくて、この言のなかには躍動する霊の命そのものが潜んでいたから、どうしてもこの言は肉となってほとばしり出て、私達の間に宿ったのであります。

 中村雄二郎という哲学者がおりますが、そのかたが「臨床の知」という本を出して、哲学に一つの新しい道を開きました。臨床という字は、臨床医の臨床、知というのは知識の知です。

 「臨床の知」といのうは、もともと医学上の言葉なのでしょうが、臨床医という呼び名があります。つまり実際に患者と会って治療に当たるお医者さんのことを臨床医というわけです。それに対して、直接患者に会わないで、医学上の原理を研究する医者、研究室にこもって顕微鏡を見たり、生物の実験をしたりして、病気のことを研究する医者もいるわけです。

 それに対して、実際に患者に会って、その現場で病気のことをいろいろと研究するのを臨床医というわけですが、哲学の原理にもこの臨床の知識ということ、臨床の知ということが必要ではないかと、中村雄二郎という哲学者は提唱したのであります。

 それはどういうことかといいますと、それまでは哲学とか学問というのは、客観的なものだけが真理だと考えられていた。実験をくりかえし、客観的に同じ結果がでるということが証明されたものだけが真理だと考えていた。そこでは、自分というもの、そういう主観的なものを入れてはいけない、真理というものはあくまで客観的なもので、誰がみても真理だと言えるものだけが真理だと考えて来たのであります。

 それに対して、必ずしも、そういう客観的なものだけが果たして真理だろうかと疑問を投げたわけです。自分というものをどこかにおいて、世界を見ても、本当に世界を見たことになるだろうかという考えなのです。

 このことをわたしは心理療法家の河合隼雄さんの本を読んで知らされたのですが、河合隼雄はユング派の心理学を学んで、日本に帰ってきたのですが、はじめはそれは学問としてなかなか認められなかったというのです。ユング派の心理学は夢分析というのが主流で、そんなものは科学的でないというので、学問として認められなかった。だから河合隼雄も初めはなかなかそれを学問として主張できなかったというのです。

 しかし彼が夢分析をしたり、箱庭療法などをして、カウンセラーを受けにきた患者を治療していくということをして、実際にその病が治っていくという実績を積み重ねて、ようやく学問とて認められるようになった。

 そういうときに中村雄二郎が「臨床の知」ということを言い出して、河合隼雄は、わが意を得たりと思って、彼はこの中村雄二郎という哲学者と交流をもつようになったというのです。

 河合隼雄は実際の患者に接して、ひとりひとりの患者とじかに接触して、一緒に思い悩んだりして治療に当たっているわけです。人間はひとりひとり違う、精神の病をもつている人はみなそれぞれ違う、それを一律に取り扱うことなんかできない、いわば現場が大事なわけです。そしてその現場は、カウンセラーである河合隼雄自身も、その中に入り込んで一緒に苦しみ悩まないと、答えは見えてこないというのです。なにかの実験を重ねて、一律に原因と結果を求められるようなものとは違うというのです。

 河合隼雄はその中村雄二郎の「臨床の知」ということを説明して、こういうことをいうのです。
 世界ということを考える場合に、近代科学の考えかたをすると、観察する人は、世界の外にいる。わたしが世界の外からみているという状況である。たとえば、人間というのは、他人に親切に、他人の事を考えて生きれば、皆な仲良くなるではないか、だからお互いに仲良くしなくてはいけません、といったら、カッコいいように思うけれど、自分のことを考えたらそんことは簡単に言えない。自分のことを考えたらそんな偉そうなことはいえない。「みんなで他人の事を考えてください。私は考えずにいますから」ということになる。そのようにカッコいいことを言う人が多い。教師とか宗教家とか、自分のことを忘れる才能をもっている人がそうだ。「皆さん」とかはいうけれど、そこには自分が入っていない。そして「こうしなさい」「ああしなさい」というから、「あなたはどうなのか」というと、答えに窮してしまうというのです。

 そのときに自分も入れたら、「なかなか人に親切ができないし、やめようと思っても酒をのんでいるし、いつも真実を語るつもりでも嘘はついているし、これはどうなんだろう」と、そういう自分も世界のなかに入れ込んで、世界をどうみるかというのが「臨床の知」ということだというのです。

 本当は神さまはもともと、われわれの世界の外に立っていて、外からわれわれの世界を眺めて、ああしろ、こうしろ、と指示したりするというようなかたではないのです。

 もともとはこの神の言には、「言の内に命があった」というのですから、この言には、普通の哲学的真理とかとは違って、その内に命そのものが入り込んでいたのであります。神の言は決して単に客観的な真理なのではなく、この言には命があったのです。そしてこの命が人間を照らす光だったのです。

 神様は、天のうえからでも、われわれのすべてをご存じなのです。詩編の一三九編には「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るをも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる」と、歌われていいるのであります。神様は遠い遠い天からでもわれわれのすべてを知っておられるのです。

 しかしわれわれ人間のほうが神いうかたがそういう神であることに気がつかないのです。どうせ神様は天の遠いところにいて、われわれの嘆きもうめきもご存じないのだとわれわれは嘆いてしまっているのであります。

 そうではないのだ、神はどんなにわれわれの嘆きとうめきを知り、われわれと共に嘆きうめいておられるのだということをわれわれにわからせるために、独り子イエスをこの世に送ったのであります。

 今日の聖書の箇所もそのことをわれわれに伝えているのであります。

 「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださる。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが言葉にあらわせないうめきをもってとりなしてくださる」というのです。

 この霊とはキリストの霊であります。イエス・キリストの霊みずからがうめきながら、われわれの弱さのなかに入り込んでくださって、われわれと一緒になってうめきながら、神にとりなしてくださるというのであります。

 霊は弱いわたしたちを助けてくださるというのです。

 前にも紹介したことがあるかもしれませんが、わたしはわれわれの弱さについて思うときに、いつも竹森満佐一がここのところの説教で、人間の弱さについて語っている言葉を思い起こすのです。こう言っているのです。

「世の中でもっとも扱いにくいものは、弱さではないかと思う。弱い人というのは、大事にしすぎるとつけあがるし、厳しすぎるとひねくれるし、甘やかすとまつわりついてくるいうように、手に負えないものだ」というのです。まこに鋭いというか、辛辣な言葉であります。

 われわれの弱さとは何か。それはわれわれが自立できていないということではないかと思います。「大事にしすぎるとつけあがり、厳しすぎるとひねくれる、甘やかすとまとわりついてくる」ということは、要するに、自立ができていないということです。

 そして自立するということは、孤立するということではなくて、つまり、ただひとりぽっちで生きるということではなくて、他者との関係において、正しい関係に立てるということであります。

 正しい関係に立つということは、その人を本当に正しい意味で信頼する、つけあがることもなく、ひねくれることもなく、甘えることもなく、その人と正しい関係をもてる、本当にその人に信頼してつきあえるということであります。

 人に対して正しく、正常に信頼できないから、過剰につけあがって自分の立派さを示そうとしたり、ひねくれて相手の関心をひいてみたり、あるいは相手にまとわりついて離れようとしないということなのではないか。

 もし本当に心から相手を信頼できているならば、もし本当に相手に信頼することができているならば、そんなに過剰につけあがったり、ひねくれたり、甘えたりしてまとわりつくことはないと思います。

 幼い子供が心から母親を信頼できているときには、そんなに母親にまとわりついて離れないということはないだろうと思います。母親の愛をしっかり信頼できていれば、子供は母親から離れてのびのびと遊びにいけるものであります。
子供は親を心から信頼できているときに、自立できるのであります。

 われわれはひとりでも信頼できる人がいたら、それが家族でも、友人でも恋人でも、あるいは、先生といわれる人でも、そういう人がひとりでもいたら、われわれはどんなに心強いがわからないと思うのです。

 ましてそれ以上に、神にわれわれが信頼できていれば、どんなに心強いかわからないと思うのです。われわれはそういう意味で本当に神様を信頼しているだろうか。信頼できているだろうか。

 「霊も弱いわたしたちを助けてくれる」というのです。何を助けてくれるのか。それは、われわれが神様に対して正しい関係をもてるように、われわれが正しく神様を信頼できるように助けてくださるということであります。

 わたしたちはどう祈るべきかがわからなくなったときに、霊みずからが言葉にあらわせないうめきをもってとりなしてくださるというのです。

われわれがどう祈っていいかわからなくなるとき、というのは、神様を心から信頼できなくなるときであります。自分の願っていることがかなえられないとき、われわれは神様をもう信頼できなくなってしまう、そのときには、祈ることもできなくなってしまうのであります。どう祈っていいかわからなくなるのであります。

 そういうときに、霊はうめきを持ってわれわれが神様を信頼できて祈れるように助けてくれる、とりなしてくださるというのです。

 われわれがどう祈っていいかわからなくなる、祈れなくなるというときとはどういうときでしょうか。それは神様に信頼できなくなるときであります。

 たとえば、愛する者が病気になって、もう駄目だという状態になったときに、それまでは熱心に神様に祈ってきましたけれど、そのときにはもうどう祈ったらいいかわからなくなって、ただお題目みたいにして主の祈りを唱えたという人の話を聞くのであります。そのときにはもう神様を信用できなくなるのです。信頼できなくなるのです。そういうときに、われわれは一番弱り果ててしまうのであります。

 自分には神様にかなえて頂きたい願いがある、しかしその願いはなかなかかなえてもらえない、そのために神に信頼できなくなっているのです。神との関係がついえようとしているのです。

 そのときに、霊も弱い私達を助けてくださる、霊みずからが言葉にあらわせないうめきをもってとりなしてくださるというのです。それはイエス・キリストの霊であります。われわれの弱さをつぶさに知るためにこの地上におりて、われわれと同じ弱い肉の姿をとって生まれてくださったイエス・キリストの霊がであります。

 人の心を見抜くかた、つまり、神は、霊の思いがなんであるかを知っておられる。霊は神のみこころに従って、われわれのために執り成しの祈りをしておられることを、父なる神は知っておられるというのです。

 「神のみこころに従って、霊はわれわれのためにとりなしてくださる」ということはどういうことでしょうか。それはつまり、われわれの身勝手であるかもしれない願い、われわれの身勝手な祈りを承知しながら、なんとかしてその祈りを神のみこころに適う祈りになるように、助けようとしてくださる、そして父なる神にとりなしてくださるということであります。

われわれが願っているとおりのことが起こらなくても、神様に対する信頼をうしなってはならない、そのかなえられない祈りのなかに、神の深いみこころがあり、神の深いご計画があり、神の愛があるのだとわれわれに教えようとしておられるということであります。そのために霊みずからが言葉にならないうめきをもっととりなしてくださるのであります。

 もっとも困難な立場は、とりなすことである、とある人がいっております。なぜ困難なのかといえば、とりなすということは、関係を回復すること、しかも信頼関係がこわれてしまった関係を回復することだからであります。信頼関係を回復させるためには、強制力を発揮してもだめなのです、力づくで関係を回復させることはできないのです。本当に納得して、心から相手に信頼できるようにならければ、回復とはいえないのです。

強制的にではなく、われわれが納得できるようになるまで、われわれの弱さのなかに入り込んで、ともにうめき、一緒に神様に祈りましょうと助けてくださるのです。

 そしてパウロはいうのです。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っている」というのです。

 ここは文語訳では、「神を愛する者、すなわち御旨によりて召されたる者は、すべてのこと相働き益となるを我らは知る」となっていて、こちらのほうがなにかありがたいような気がいたします。つまり、信仰者にとっては、最後にはすべてのことが相働いて、何事もうまくいくのだという風に受けとめられるからであります。

しかし口語訳では「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、わたしたちは知っている」という訳になっていて、ここでは明確に「神が」と、神を主語にしているのであります。つまり自動的なるのではなく、神がそうしてくださると言う意図がはっきりしているのです。

しかし、新共同訳では、文語訳のほうにもどって、「万事が益となるように共に働く」という訳になっているのであります。

 これは原文では、文法的には、どちらにも訳せるそうなのです。しかし、文章の前後関係からいうと、やはりここは口語訳のように「神が」と主語をはっきりとさせたほうが良いと思います。それはその前の句に「霊は神の御心に従って」とはっきりと明言されているからであります。

 そうでないと、われわれの信仰はただ御利益的信仰に終わってしまうからであります。神様を信じていれば、多生紆余曲折はあっても、最後には万事が益となるのだという御利益信仰になってしまうのであります。

 われわれの信仰は確かにみな御利益信仰から始まるのです。そうでない信仰などひとつもないのです。しかし御利益的信仰でおわってしまう信仰は、われわれには救いにはならないのです。なぜなら、われわれの人生には、自分の願っていることがいつも実現するとは限らないからでであります。

 「万事が益となる」ということは、最後にはわたしの願った通りになって、万事が益となるということではなく、たとえわたしの願いどおりにならなかったとしても、それはすべてのことが益となっているのだと信じることなのであります。

 それはたとえば、愛する者が重い病気になった。必死にこの病をいやしてくださいと神に祈った。しかし、その願いがかなえられないで、とうとう死んでしまった。それでもその死という現実に対して、「万事が益となった」と信じられるかどうかということなのです、信じなくてはならないということなのです。

 それが死ぬということではなくて、たとえば、パウロのように自分の病気のために、その病気をいやしてくださるように必死に神に祈ったけれど、その願いはかなえられないで、弱さをかかえたまま、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。力は弱さのなかでこそ十分に発揮されるからだ」という信仰を与えられた。

 そうして「ああ、万事が益となったのだ。自分は弱い自分のままで十二分に伝道者としてやっていけるのだ。むしろこの弱さをかかえたまま伝道者としして生きるほうが益となるのだ、なぜならば、傲慢という罪から逃れて、謙遜になれるからだ」と、考えて万事が益となるというのならば、われわれにも納得のいきやすいことであります。

 しかし死んでしまったという現実を前にしたら、もうどうしようもないことであります。とうてい、人間の目からみたら、どう考えたって、益となったとは言えないことであります。それでも、それをもって、万事が益となったと、受けとめられるかどうかであります。

イスラエルの王ダビデは、大罪を犯したあと、預言者をとおして自分の罪を悟り、悔い改めたときに、神に赦されました。しかし罰は免除されませんでした。彼の最愛の子が病気になった。彼は必死に我が子を助けてくれるように、断食してまで神に祈った。しかしそのかいもなく、子はは死んでしまった。

 彼は子が死んだことをしらされると、断食をやめ、食事をとった。それは家来たちを不思議がらせ、また不快にさせた。家来は「あなたのなさったことはなにごとか。あなたは子が生きている間は、その子のために断食して泣かれた。しかし、子が死ぬと、あなたは起きて、食事をした。これはどうしてか」と王につめよった。それに対してダビデはこう答えた
「子の生きている間に、わたしが断食して泣いたのは『主がわたしをあわれんで、この子を生かしてくださるかもしれない』と思ったからだ。しかし、今は死んでしまった。わたしはどうして断食しなければならないのか。わたしは再び彼をかえらせることができるか。わたしは彼のところに行くでしょうが、彼はわたしのところには帰ってこない」と、答えたのです。(サムエル記下一二章)

 ここのところの説教で、竹森満佐一はこう言っている。
「子供がよくなるかどうかは神様のなさることだ。われわれは手をつくすにしても、どうなるものではない。神のなさることだと思うからこそ、神に祈ったのだ。しかし、もしそうなら、その神を信頼する以外には、なんの方法もない。神に祈りながら、神を信用しないとしたら、これくらい妙な話はない。自分の気に入るような結果が出たときだけは、神を信用し、思うようにならなければ、うらみごとをいうのでは、神を信じている、信用している、信頼しているとは、絶対に言えない。
 ダビデはそうでなかった。彼は神を信頼していた。だから、子供が死んだらもう全部終わったと思った。自分は、また、神を信じて、元の生活に帰りさえすればいいと思ったのだろう。一切を神に任せるというのは、こういうことだ。ここには悲しみはある。しかし不平はない。悔いもない。神のなさることに、すべてを任せるだけだ」。

 ここには悲しみはある、しかし不平はない。

 しかし、愛する子を亡くして、ここには「悲しみはある、しかし不平がない」と言い切れるだろうか。

 わたしは三十三の息子を亡くしたときに、そんなことは到底いえなかった。

 ダビデは子が死んだと聞いたときに、ただちに、断食をやめて、食事をとったのではないのです。彼は子が死んだと聞いたときに、起きあがり、身を洗い、油を塗り、その着物を替えて、主の家に入って礼拝した。
 それから食事をとったのであります。

 万事を益としてくださる神に礼拝をささげた。そのときに、我が子をなくしたという悲しみはあるが、不平はないという信仰にたつことができたのであります。

 わたしもそうです。普段の生活においては、悲しみはもちろん、不平もあったのです。しかし週に一度、聖日礼拝の場に立つときに、「悲しみはある、しかし不平はない」といえたのであります。だからわれわれの信仰生活において、聖日の礼拝というものがどんなに大事かわからないと思います。
週に一度かろうじてかもしれないが、「悲しみはある、しかし不平はない」といえる時と場が与えられていることは幸いなことであります。

 そこまでして神を信頼できるようになるためには、どうしても御霊のとりなしの祈りをわれわれは必要とするのであります。

 ヨブが財産も家族もいっさいを失ったとき、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよう」といったというのです。
万事が益となるというのは、そういう信仰に立つということであります。

 われわれもその信仰に立てたらどんなに力強いかわからないと思います。