「御言葉はあなたの近くにある」ロマ書一○章五ー一三節


 イスラエル人は、神の義を求めているようで、実際には、執拗に熱心に自分の義をもとめていたのであります。それによって神の義からどんどんとおざかっていったのであります。

 自分の義を求める、自分の義を立てるということは、自分の立派さを示すということであります。それを自分達が律法を立派に完全に守っているということによって示そうとしたのであります。そのためには、律法を守るということがいかに難しいものであるかを人々に示さなければならなかったのであります。

 その難しい律法を自分たちは守り、守ろうとしているから、守ったから、自分たちはとても偉い人間なのだと誇ったのであります。

 しかし神様が与えられた律法というものは、そんなに難しいものではなかった筈なのです。

 パウロは、「モーセは、律法による義について、『掟を守る人は掟によって生きる』」という言葉を引用して、それに続けて、「しかし、信仰による義については、こう述べられている」といって、申命記に書かれている箇所、「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない」という言葉を引用して、信仰による義というのは、律法の義にくらべたら決して難しいものではないのだと述べようとするのです。

 この申命記は三○章一一節(旧約聖書三二九頁)からの言葉の引用なのですが、そこにはこういう言葉から始められているのです。「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」という言葉から始められているのであります。
「それは天にあるものではないから、『だれが天に昇り、わたしたちのためにそれをとってきて聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』というには及ばない」というのであります。

 パウロはその申命記の言葉を引用するにあたって、律法による義と対照させて、信仰による義について述べるのですが、そこだけをみれば、なにか律法の義を守ることは、大変厳しくて、それを守るのはとても難しくて、しかし信仰の義を守るのは、それに比べれば、難しいことではない、なぜなら「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、心にある」からであるといっているようなのであります。

 ここだけをみれば、律法を守って生きることは大変難しく、信仰による義を求めることはやさしいことなので、それはだれにでもできることなのだ、したがって「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」、ただ「主の名を呼び求めさえすればいいのだ」、そうしたら救われるのだ、いうのであります。

 しかし申命記の言葉は、別に信仰の義について語っているとろではなく、もちろん、これは、律法の義について語っているところなのであります。つまり、「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」という申命記でいう「御言葉」というのは、別に、信仰の言葉ではなく、律法の言葉なのであります。つまり、律法を守るということは決して難しいことではなく、容易いことなのだといっているのであります。

 パウロが初めに引用しました「掟を守る人は掟によって生きる」というところは、レビ記の一八章の五節(旧約聖書一九○頁)からの引用であります。「わたしの掟と法をとを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である」といったあと、具体的に律法の言葉を述べて行くのであります。そこで述べられている律法は、「肉親の女性に近づいてはならない」とという掟から始まって、近親相姦を戒めている掟なのであります。最後にはなんと「動物と交わってはいけない」という戒めまで列挙するのであります。

 つまり、これらの戒めはごくごく当たり前の戒め、だれでも守っている戒め、だれでも容易く守れる掟であります。それは申命記がいっているように、「この戒めは難しすぎるものではない」のであります。

 つまり、神がそもそもわれわれに与えられた律法は決して難しいものではないということなのであります。
 それを難しいものとしてしてしまったのが、イスラエル人なのであります。そのなかでも、イスラエル人の宗教的指導者、律法学者、ファリサイ派の人たちなのであります。

 主イエスは、この宗教的指導者、律法学者、ファリサイ派の人を批判してこういうのであります。
「彼らの言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いはみならってはならない。言うだけで、実行しないからだ。彼らは背負い切れない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうとしない。そのすることは、すべて人に見せるためである」というのです。

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分よりも倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」というのです。

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、ういきょうの十分の一は捧げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ」というのであります。

 彼らは律法のなかで最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろして、律法を細分化して、重箱のすみをつつくようにして、それを民衆に守らせて、自分達は何もしないというのです。

 そのさいたるものは、安息日律法であります。安息日には一切の労働をしてはいけないということで、その日には病人もいやしてはいけない、飢えをしのぐために、麦の穂を積んで、それをもみほぐしてはいけないというのです。

 主イエスは、それに真っ向から批判して、そのために指導者たちの怒りをかい、十字架で殺されることになっていくのであります。

 律法はもともとは決して難しいものではないというのです。それを難しいものにしてしまったのは、イスラエル人なのです。その指導者たちだったのであります。
 それでパウロは、旧約聖書の言葉を引用して、それを信仰の義という光のもとでもう一度明らかにして「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口に、あなたの心にある」といって、神の言葉、それは律法であっても、元々はわれわれを救うための言葉なのであって、われわれにいたずらに重荷を与えたり、われわれをおびやかしたり、おどしたりするものではないのだというのです。

 パウロは、律法の言葉、それを神の言葉としてとらえなおし、それを神を信頼させる言葉、信仰の言葉、信仰の義の言葉としてとらえなおすのであります。

 「心の中で『だれが天に上るか』といってはならない」、これはキリストを引き下ろすことになるというのであります。

 申命記の言葉は「だれが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」というのですが、それをパウロは解釈し直して、今や、天におられたキリストがその天から降りてきて、われわれのいる地上までおりてきて、われわれと同じ姿となって地上にきてくださり、十字架で死んでくださったではないか、キリストが天から降りてきて、われわれのために神の言葉をわれわれの身近なものとして、置いてくださったではないかというのです。

また「だれが底なしの淵にくだるのか」といってはならない。これはキリストを死者の中から引き上げることになる、というのです。

 これも申命記では、神の御言葉を、神の言葉というものは「海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て、聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』というな」という言葉なのですが、それパウロは解釈し直して、イエスは十字架で死んだあとに、陰府にまで降って、陰府の中にいる人々にも神の言葉を宣べ伝えたのだというのです。

 海というのは、旧約聖書時代のイスラエル人にとっては、とてつもなく遠いところで、困難なところのように思えて、それは陰府のように感じられたところなのです。それで、パウロはその海を陰府にいいかえて、陰府という、もう福音の光が到底とどいてもいそうもないところまで、イエスは死んでから、降っていって、福音をわれわれの身近なものにしてくださったのだというのです。

 つまり、もうわれわれが天にまで昇っていって、あるいは、海のかなた、陰府の底知れない深いところまでくだっていって、福音という神の御言葉を取りに行く必要はない、それはもうみんなイエス・キリストが取りに行って、われわれの身近に置いてくださった。

 だから「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口に、あなたの心にある」というのであります。

 だから、信仰による義は、それはとてもやそしいことなのだと、われわれが幼子のようにして、素直な心で、それを受け入れ、口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるならば、あなたは救われるというのです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのだというです。 

 ここには不思議なことに、洗礼のことは出てこないのです。普通ならば、人は心で信じて義とされ、口で告白して、洗礼を受けて救われるのだと、洗礼のことが言及されると思うのですが、なぜか、それは出てこないのです。それはここで、「御言葉はあたなの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」ということで、ここには、口と心があるので、わざわざ洗礼のことがでてこないのだということかもしれません。

 それともう一つは、どうもパウロは洗礼ということをあまり重視していないところがあったようなのです。パウロはコリントの手紙では、「クリスポとガイオ以外、に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを神に感謝しています」といっているのです。そしてさらに、「だからわたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えがない。なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を知らせるためであり、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです」とはっきりと言っているのです。

 これは当時の教会では、洗礼をどの教師から受けるかということが重要視されて、教会の分裂を生み出したということがあって、パウロは自分の名によって洗礼を授けることを極力さけたということのようであります。

 ともかく、当時はまだ洗礼というものが今日ほどに確立されていなかったのではないかと思います。

 人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる、新共同訳では、「口で公に言い表して」とありますが、原文には、ここで「公に」という言葉はないのです。口語訳も単純に「口で告白して救われる」とあるだけです。

 それはともかく、「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」ということは、今日、われわれの教会では、洗礼式のときに行われることであります。洗礼式では、洗礼を授ける前に洗礼を受ける人の誓約を求めるのです。

 司式者が「あなたは聖書に基づき、日本基督教団信仰告白に言い表された信仰を告白しますか」という問いに対して、洗礼を受けるものがみんなの前で、つまり、公に「告白します」と言葉で言い表すのであります。その次に、「あなたは主イエス・キリストの救いのしるしであるバプテスマを受けることを心から願いますか」という問いに対して、「願います」と言い表すわけです。

 わたしが牧会していた松原教会では、前の牧師は洗礼式のときには、洗礼を受ける人があらかじめ自分の信仰の告白を書いてそれをみんなの前で読むということをしていたようなのです。しかし、わたしはそういうやりかたをしませんでした。

 人によっては、自分の信仰を文章にするということが苦手な人もいるでしょうし、ましてそれをみんなの前で告白することに抵抗を感じる人もいると思うからです。
 
 しかしそうしたことよりも、そうしたことを洗礼を受けるときの資格とか条件にするということは、洗礼を受けるということにふさわしくないのではないかと思ったからです。
 洗礼を受けるということは、その本質は神があなたを義とされた、神があなたを救ったのだ、それをあなたは受け入れますかと、という問いがあって、それに「ハイ」と答えるということが一番大事なことだと思うからであります。

 洗礼式のときには、誓約の前に教会が代々告白してきた使徒信条、あるいは日本基督教団の信仰告白を朗読し、それを信じますか、と問うわけです。つまり、そこでは、「わたしの信仰」「自分の信仰」というのを言い表すのではないのです。代々教会が信じてきた信仰をあなたも受け継ぎますかという問いに対して、「はい、受け継いで信じていきます」という告白が大切なのです。

 そこでは、「自分が」「わたしが」ということは極力前面にだしてはいけないのではないかと思うのです。

 ですから、洗礼式のときには、式分にそって、「告白します」「願います」ということが大事だと思うのです。それすらいうのを忘れそうになったときには、もっと単純に、「はい」と答えてくださいとわたしは指導してきたのです。

 洗礼式は、それを受ける人にはあくまで受け身の姿勢を取らせることが大事だと思います。たとえば、洗礼式のあとのいわゆる愛餐会のときに、洗礼を受けた人が自分の信仰を言葉に出して感想を述べるとか、そういうことはあってもいいと思いますが、洗礼式そのものは、もっともっと単純で「はい」と答えるということでいいのではないか思います。

 いまわたしが出席しております調布教会では、洗礼式の後、受洗者にお祈りをさせておりますが、それも必要はないのではないかと思うのです。ひとによってはみんなの前でお祈りすることがとてもできない人もいると思うからです。

 「人は心で信じて義とされ、口で告白して救われる」ということは、本当に単純なことなのです。それはだれにでもできることなのです。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、心にある」ということ、その救いに預かるということは、難しいことではなく、本当に容易いことなのであります。

 その道筋をつけてくださったのが、主イエス・キリストなのであります。主イエス・キリストが天からくだってきて、われわれのところに宿り、そして十字架で死んでくださって、陰府にまでくだって、そして父なる神がそのイエスをよみがえらせてくださった。それはすべて、神がキリストがしてくださって、われわれに救いの道をととのえてくださったのであります。

 だから「主を信じる者は、だれも失望することがない」のであり、それはユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、ご自分を呼び求めるすべての人を豊にお恵みになるのであります。
 
 それは、自分の信仰を文章にできない人も、またみんなの前でそれを言い表すことのできない恥ずかしがり屋の人も、内気な人も、あるいは、知的障害者の人も、ただ単純にイエス・キリストの救いを「はい」といって受け入れることのできる人にその救いはくるのであります。

 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」ということなのであります。
 この言葉は旧約聖書のヨエル書の言葉なのですが、そこではこうなっているてのです。
「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻をみる。その日、わたしは奴隷となっている男女にも、わが霊を注ぐ」と言われて、そうしてそのあと、「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」と続くのであります。

 たびたび引用いたしますが、芥川龍之介の「くもの糸」の話であります。生きているときに悪いことばかりしたカンダタは、死んでから地獄に堕ちた。あるとき天上で、お釈迦様がその地獄にいるカンダタをみて、彼は生きているときにたった一度だけ、目の前にいる蜘蛛をふみつけようとして、哀れに思って踏むのを思いとどまったことをお釈迦様は思いだして、彼を極楽に救いだしてあげようと、その天上から一本のくもの糸を彼のところに下ろした。

カンダタはその自分のところに降りてきた細いくもの糸は自分のところにきたものだと知って、懸命に昇り始める。途中でふと、地獄にいる連中はどうしているだろうかと気になって、下をみたら、なんと地獄の連中もその細いくもの糸を頼って、極楽にいこうとよじ登ってくるではないか。それでカンダタは、自分ひとりだけでもいつ切れるかわからない細い糸なのだから、お前達までぶらさがったら、この糸は切れてしまうと、そのあとからよじ登ってくる仲間を振り落とそうとするのであります。するとその反動で糸は揺れ動き、切れてしまい、カンダタは再び地獄に落ちてしまった、それを天の上からお釈迦様が悲しそうに見ていたという仏教の逸話であります。

 われわれは自分の行いを頼りにして、救いを得ようとするときに、われわれの思いは自分の過去に目がいき、人と自分を区別し、差別し、裁き、自分が自分がと自分を主張し始めのであります。カンダタはただお釈迦様の憐れみだけを見て、くもの糸をのぼるべきだったのであります。

 われわれはただただ「主よ、憐れみ給え」と主の名を呼び求めるということがどんなに大事かということであります。

「主の名を呼び求めるはだれでも救われる」、「だれでも」であります。今はイエスを受け入れようとしていないイスラエルの民も救われるのだというのであります。