「自分に正直に生きる」 創世記一二章一ー四節


 森有正という哲学者がこういっています。「人は出発点に立つというけれど、出発点に立つということは大変ことである。出発点なんかどこにもない。自分で作りださなければ、出発点はどこにもない」といっているのです。

 今日は中等部の卒業礼拝ということですが、中等部を卒業して、高等部に進むということは、校舎も違い、先生方も違い、また高等部にゆきますと、他の学校から入ってくる人たちも沢山入ってくるわけで、新しい環境にゆくわけですから、新しい出発点に立つということでもあると思います。しかし環境がいくら新しくなっても、もし自分が新しく出発点に立とうと決心しなければ、出発点なんかには立てないということであります。

 出発点なんか本当はどこにもないのです。自分で作らなければならないということなのです。

 わたしにとって、出発点は、ちょうど中等部を卒業して、高等部に進もうとした時でした。わたしは高等部には礼拝の説教などになんどか呼ばれたり、二年間ほど高等部で聖書を教えたりして、高等部とは何回もいっているのですけれど、中等部は、今度が初めてなのです。中等部の同窓会とかクラス会にも卒業して以来出たことがないのです。中等部の校舎に卒業していらい入ったことがないのです。今日が始めたなのです。

 こんなことを言うと怒られるかもしれませんが、わたしは中等部が嫌いだったのです。それは中等部の先生がたが嫌いだったというのではないのです。わたしは公立の小学校から中等部に入学したのですが、中等部の先生方はとても家庭的で本当にやさしい先生ばかりでした。ですから、中等部の先生がたが嫌いだったというのではなくて、中等部時代の自分がいやだった、その頃を思い出すのがとても嫌だったということなのです。

 中等部時代は、私は友達から仲間はずれにならないようにということばかり考えて行動したような気がします。友達の顔色ばかりうかがって生活したような気がします。修学旅行などにいくときに、自分たちの好きどうしてグループわけされたりするときに、そういうときにどうしたら仲間はずれないかということばかり考えて、そのことが心配で苦労したのです。わたしの中等部時代はそういうことに神経をすり減らした学校生活を送ったのです。

 そうした中で、わたしは高等部に進学するときに、一つの決心をしました。高等部に入ったら、もう中等部時代の生き方は捨てよう、もう今までの友達関係も捨ててしまおう、友達におべっかを使って生きるようなことはやめよう、それによって友達がいなくなって、ひとりになってもいいじゃないか、孤独になってもいいじゃないか、ともかくもう人におべっかをつかったり、人に媚びたりするような生き方はやめようと決めたのです。

 そうしたときに、新聞にアルベール・カミュウというフランスの作家が文章を書いていて、その中でこういうことが書かれていました。
「大事なことは自己に正直に生きることだ。自己に正直に生きるとということは大変難しいことで、これは自分の人生を自分で責任をもって生きるということなのだ。それは自分のわがままで生きるということではない。それは他人から非難されることも覚悟をして生きることで、大変難しいことなのだ。それは十字架を担って生きるほどに難しいことなのだ」ということが書かれていて、わたしはそれを読んで、これだと思ったのです。これでいこうと思ったのです。
 
 ともかく自分に正直に生きよう、もう人の視線とか思惑などを気にしないで、生きようと決心したのです。そして今までの友達関係は清算しました。高等部に入りますと、外部から新しい生徒がたくさん入りました。先生がたも中等部の家庭的な暖かさというものがなくて、ある意味では冷たいというか、生徒を大人として扱う雰囲気があって、まるで違っていたのです。それがわたしには大変ありがたかったのです。

 そして不思議なことに、もう友達なんか一人もいない、孤独でもいいんだ、一人で生きていこう、自分に正直に、自分が本当にやりたいことをしていこうと決してして生き始めたときに、本当にいい友達ができてきたのです。こびたり、へつらったりして友達をつくり、友達を維持していこうと思っているときには、本当にいい友だちはぎませんでしたが、もうそしたことをやめて、孤独でもいいと開きなおったときに、良い友達ができたのです。

 自分に正直に生きようということは、自分のしたい放題に生きようというようなことではないのです。自分の欲望のままに生きようなどとというケチな生き方ではないのです。そんなのはただわがままな生き方だけなのであって、自分の人生に責任を持って生きるということとは違います。それは十字架を担って生きるほどに難しい生き方ではなく、大変安易な生き方でしかないのです。

 自分に正直に生きるということは、自分のなかにあるいろいろな欲望の底のほうにある本当に自分がこれがしたい、これをしようとする自分の要求に正直に、忠実に従って生きようということなのです。場合によっては、人から、あるいは親から非難を受けることになるかもしれないのです。孤独になるかも知れないのです。しかし孤独になることを恐れないのです。

 さきほど読んでいただきました聖書に、アブラムが自分の生まれ故郷ハランを出発したとき七十五歳であったと記されております。ちょうどわたしは今年が七十五歳になるのですが、このアブラムが七十五歳というのは、もちろん今日の年の数え方ではないようです、なにしろアブラム、これは後にアブラハムと名前が変わりますが、アブラハムが最初に子供を産んだの百歳の時、そして百七十五歳でなくなったと記されておりますから、もちろんこれは今日の年の数え方とは違って、いわば神話的な年の数えたかです。

 しかしそれでも、この七十五歳というのは、若い時ということではないでしょう、いわは壮年の時だったと思います。つまり若い時の出発ではなくて、ある程度年を取ってから、いわば人生の途上での新しい出発なのです。しかもこの出発は旅の途中の出発なのです。その前の記事をよみますと、アブラムはお父さんにつれられて、カルデアのウルというところを出ているのです。そしてお父さんを旅の途中で亡くすのです。
 その旅の途中で、神様からの呼びかけの声を聞くのです。「お前は生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」といわれるのです。それでアブラハムは神様の言葉に従って旅だったというのです。もう旅をしているのです。その途中でアブラハムはあらためて出発したということなのです。
 
 つまり、出発点というのは、自分で作り出す以外にないのです。人生の途中で、よし、ここから出発しようと、自分で出発点を作りだす以外にないのです。

 あなたがたは中等部を卒業して、高等部に入るわけですけれど、そういうことからいえば、みな自動的に高等部に入るという新しい地点にたつわけです。立たされるわけです。しかし、そのときに、もし、ここであらためて、自分でよし、出発点に立とうと決心しなければ、自分で自分の出発点をつくりださなければ、どんなにあたらしい高等部に入ったからといっても、新しい出発点なんかないのです。出発点は自分で作り出さなければならないのです。

 神さまはアブラムにこういうのです。「お前は生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地にゆきなさい」。
 生まれ故郷、父の家、お父さんの家、それは自分にとってとても居心地のよいぬくもりのある場所です。そこをもう離れなさい、それを捨てなさいというのです。それはひとりになりなさい、孤独になりなさいということです。

 友達のご機嫌をとったり、友達におべっかをしたり、媚びたりしてなんとか友達を作ろうとする生き方をやめて、孤独になってもいいから、自分の道を、自分自身の道を、自分が本当に行きたい、自分がほんとうにしたいことを選んで、新たらしい出発点にたちなさいということです。

 ここでアブラハムはこういわれるのです。「父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」。神様が示す地にゆきなさい、神様が示す地に向かって出発しなさいということです。これからは、もう故郷を離れ、父の家を離れて、ただ自分の好き放題の道を歩めばいいというのではないのです。
 「わたしが示す地に行きなさい」と、神様が示す地に行きなさいといわれるのです。

 自分に正直に生きるということは、ただ自分のわがままに生きればいいということではないのです。我が儘な人というのは、自分のわがままさがみたされないとヒステリックになりす。我が儘な人というのは、ヒステリックな人が多いです。そしてヒステリックなわがままな人というのは、はたから見ると、周りから見ると、その人は自分のわがままさをもてあましているようにみえます、自分のわがままさを自分で制御できないで、自分の我が儘さに振り回されているように感じられます。

 自分に正直に生きるということは、そんなつまらない生き方をすることではないのです。

 わたしにとっての出発点は自分に正直にいきていこうということでした。それはある意味では、自分だけを頼りにする生き方でした。自分が正しいと思うことがすべて正しいと思おうという生き方、すべてが自分を中心にして考えようとした生き方なのです。すべてを自分を中心にしてものごとを疑ったみようとしたのです。

 しかしそのように、すべてを自分を中心にして疑っていこうとしていますけれど、その肝心の自分というのは、それほど確かなものかということに突き当たったのです。ある人がいっておりますが、わたしたちはすべて自分を中心にして、自分の理性とか自分の知性で自分の周りのものを疑うわけですけれど、しかし肝心の自分自身のことについては疑わなくてもいいのかということなのです。本当に疑うということは、すべてのことを疑っている自分自身についてまで、疑わなくては、本当に疑ったことにならないではないかということなのです。

 自分というのは、それほど頼りになるものなのか。わたしは自分ひとりでいきていくんだと決心したときに、あらためて、わたしは自分の弱さの前に立たされたのです。自分に正直に生きていこうと思ったときに、あらためて自分の弱さの前にたたされたのです。

 この弱い自分を支えてくれるものはなにか、自分で自分を支えることはできない、もう親を頼りにするわけにはいかない、友達を頼りにするのもやめる、そうしたらどのようにして自分を確立したらいいか。

 わたしはこの青山学院の中等部に入って、初めて聖書に出会ったのです、毎日の礼拝をとおして神様というかたがあるではないかということに気づき始めたのです。わたしは中等部、高等部を通して一番好きな時間は、毎日の礼拝でした。そこで先生方の聖書の話を聞くのがすきでした。少しセンチメンタルな賛美歌を歌うのが好きでした。そうして神様を求めていったのです。

 自分に正直に生きるということは、ただ自分の好き放題に生きるということではないのです。この自分を造ったくださったかた、この自分をその底で支えてくださっている神様の存在とその導きに気づいて、アブラハムがそうしたように、その神さまから「わたしが示す地にゆきなさい」という呼びかけに耳を傾けて歩みだとすということなのです。

 その神様がそれぞれのその人に示してくださる道に従って生きていくということなのです。
 それはみな違う道なのです。決してベルトコンベアのようにただ乗っていれば、自動的にみんなと同じ方向に導かれてしまう、みんなと同じような生き方をする生きたかではないのです。それぞれ違う道です。自分に示され道はなにか、自分にしかできない道はなにか、自分が歩まなくてはならない道はなにかをさぐっていく生き方であります。

 今あなたがたはそういう出発点に立っているのです。自分でその出発点を作りだして、この中等部を卒業していってほしいと思います。