「挨拶と感謝」 コリント第一 一章一ー九節

 今日からコリントの信徒への手紙を読んでいきたいと思います。
コリントという都市は、エーゲ海とイオニア海の挟まれた地域だそうであります。古くから商業都市として栄えた都市であります。そこに住んでいる人はローマ人、ギリシャ人、そしてユダヤ人など多様な民族が住んでいたようであります。そこには二○万人の自由人と、四十万人とも五十万人ともいわれる奴隷がいたということであります。ある人の説明では、奴隷が自由市民の倍以上というのは、健全な町とは言えないだろうということであります。その自由人の中には、アテネには及ばないまでも、哲学者や知識人が多く住んでいたということであります。

 また巨大なアポロの神殿があったり、様々な異教の神殿があって、女祭司が一千人以上もいた。女祭司というと聞こえがいいですが、これはいわゆる神殿娼婦で、この人たちと交わると救われるということで、この町は性的に大変乱れた町だったようであります。ですから、コリントするという言葉があって、それは売春の仲介をするとか売春するという意味に使われたそうであります。

 そういう中にある教会がコリントの教会であります。この手紙を読んでいくとわかりますが、教会もまたそういう世俗の影響を当然受けまして、教会の中でも性的な乱れとか、異教の習慣の問題、あるいは教会内の派閥争いとかが生じているわけであります。この手紙はそういう状況の中にいる信徒に対して、パウロがその教会から寄せられるいろいろな質問に対して答えるということで書かれた手紙のようであります。
 
 この教会はパウロが第二伝道旅行の際に、紀元四九年頃、アテネからコリントに来て、すでに来ていたパウロと同業の天幕作りのユダヤ人夫妻アキラとプリスキラと協力してパウロが造った教会であります。パウロはそこに一年六ヶ月滞在して教会を造ったようであります。ですから、パウロとしたら大変大事な教会であります。最初の教会員はユダヤ人もいましたが、その大部分は異邦人で、しかもユダヤ教に改宗していない異邦人が大半を占めていたということであります。そして権力のある者は少なく、あるいは身分の高い者も少なく、むしろ、知識のない人、むしろ、社会的には弱い立場にある人々、さげすまれている人々のほうが多かったようであります。そして奴隷も多くいたようであります。しかし、その中には貧しい中から商売をして、金持ちになった人々もいたようであります。そうした人々が教会のなかでおごり高ぶりだしていたようでもあります。

 そういう教会にあてた手紙であります。パウロはこの教会に対して、四通の手紙を書いているようであります。この第一の手紙の前に、パウロはすでにコリントの教会に手紙を出しているようであります。五章の九節に「わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが」とありますので、この第一の手紙の前にすでに手紙を出しているようであります。それらの手紙が紛失してしまったのか、あるいはこの二つの手紙の中にその断片が入り込んでいるのかはわかりません。

 ともかくこのコリントの信徒への手紙は、パウロが自分が形成した教会がもしかしたら堕落していくかも知れないと思い、それを憂えた涙の手紙ともいわれているものであります。
 今日からこの手紙を学んでいきたいと思います。
 
 パウロはまず自分のことをコリントの教会に紹介しております。原文の出だしは、まずパウロという言葉であります。パウロ、召された者、使徒、キリスト・イエスの、神の御心によって、となります。

 この教会はパウロが建てた教会であります。しかしもうパウロのことを直接知っている人も少なくなっているようでりあます。パウロの後に来た伝道者の力のほうが強くなっていて、教会のなかで、わたしはパウロにつくとか、いやわたしはアポロにつくとか分裂が生じていたようなのであります。それでパウロはまず自分のことを自分は神の御心によって、キリスト・イエスの使徒と召された者なのだと強調したかったのだろうと思います。自分が使徒であることを、その権威を明らかにしたかったのだろうと思います。

 パウロは学問もあったし、ユダヤ人でありながら、ローマの市民権をもっている自由人でありましたが、そういうことに自分の人間としての権威を示そうとしたのではなく、何よりも自分は神に召された者、神に召されてキリスト・イエスの使徒となった者なのだということによって、自分の権威を示そうとしたのであります。

 牧師とか伝道者にとって、召命感があるかないかが大切だとよくいわれます。召命感とは、召命感という字は、召という字は、召すという字です、命というのは、いのちという字てす、感というのは、感じるであります、その意味は、自分は神に呼び出されて、神に召されて、神から牧師になれとら言われて牧師になろうとしているという確信があるかどうかということであります。自分が牧師になりたいからなるのではない、神からなりなさいといわれてなろうとしているかどうかということであります。使命感という言葉がありますが、牧師になるには、この使命感だけではだめなので、召命感があるかどうかだということであります。神学校の入試の時におそらく、このことを第一に聞かれるかもしれません。

 しかしこのことは、なにも牧師とか伝道者だけの問題ではなく、すべての信徒にとっても同じであります。二節に「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」といわれているからであります。クリスチャンになるということは、神によって呼び出され、キリスト・イエスによって召されて神を信じるようになったかということ、その自覚があるかどうかということであります。

 ただこれは召命感というと間違いやすいかもしれません。つまり自分はいつも神に召されているという感覚をもつことが大事だと誤解されるからであります。大体召命感などというのは、たいへん主観的なもので、自分勝手な思いこみという場合もたくさんあるからであります。もしわれわれの信仰の確かさがそうした自分の主観的な思い、召命感というような「感」、感覚というものにあるとするならば、われわれの信仰は大変不安定なものになります。思いこみの強いひとは、容易にそのような感じをもてるかもしれませんが、いつも自分を疑う人はなかなかそんなにたやすく召命感などいわないものだからであります。

 召命感をもって牧師になるといって、神学校に入学した人がいつのまにかその熱が冷めてしまって、学校を去っていく人はいくらでもいるからであります。

 大事なことは、そのような感じをもつということではなく、ふだんは忘れていても、四六時中そのことを神経質に自覚しているということではなく、いざというとき、つまり自分の信仰があやしくなったときに、自分が信仰をもったのは、自分の発意とか決断とか、意志ですらなく、神の呼びかけがあったのだ、神の召しがあって、自分はクリスチャンになったのだと思いつくということ、いつもその原点に返る用意があるということであります。それは洗礼を受ける時に、そのような神の導きを強く感じたかどうかではなく、そういうこともあるかもしれませんが、それよりは、多くの場合、自分の信仰生活を振り返ってみた時に、自分はその時にあまり意識していなくても、自覚していなくても、自分の背後にそのような神の導きがあったのだということに気づく、あとから気づくということであります。よくよく考えてみればそうだった、そうでなければ到底、自分は教会生活などつづけられなかったということに気づくということであります。

 何度も信仰的につまずいたペテロはその原点に立ち返ることができたのです。しかしユダはその原点に立ち返ることができないで、自分の問題は自分で決着つけようとして、首をくくってしまったということであります。イエスに従ったのはただ自分の発意で、自分の意志なので、だらかイエスに失望して、その結果イエスを十字架で殺すことになってしまったからには、自分で責任をとらなくてはならいと思い、自分で自分を始末したのであります。

 イエスは自分を裏切ろうとするイスカリオテのユダに対してこういうのであります。「あなたがた十二人を選んだのはわたしではなかったか。あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。それだのにあなたがたのひとりはわたしを裏切ろうとしている、それは悪魔である」というのであります。

 このとき、イエスは自分を裏切ろうとしているユダに対して、お前を選んだのはわたしではないか、お前を召したのはわたしではなかったかと、その原点によびもどそうとしたのであります。しかしユダはその原点に返ることができなかったのであります。
 パウロは二節で、「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人々」いっています。
教会に集められた者、すなわちクリスチャンは、まず第一に神によって召された者であります。そして次に、主イエス・キリストの名を呼び求める人」だということであります。

 世間の人々はクリスチャンというと、なにか真面目で、品行方正で、愛の人で、いつもクリスチャンというと、敬虔なクリスチャンと、「敬虔な」という形容詞がつけられますが、これはわれわれにとっては、ありがたい誤解ですが、ありがたすぎる誤解ですが、しかしわれわれ自身はそんなものでないことはよく知っております。それよりはわれわれにとっては、クリスチャンとは、どんな時にもいつも主イエス・キリストの名を呼び求める者である、その定義づけのほうがわれわれの姿をよく現しております。

 ドイツのナチズムが崩壊し、そのナチズムに抵抗して牢獄に入れられて戦後解放されたニーメラーという牧師がおりますが、彼がある講演でこういっております。「人はナチズムに抵抗してきた者を、そしてそのために殉教の死をとげた者を、何か英雄として見ているかもしれないが、われわれ自身は、自分たちが英雄なんかでないことはよく知っている。われわれは一日たりともイエスの名を呼び求めない日はなかった。羊飼いであるイエス・キリストを呼び求めなくては一日たりとも生きて生けなかった者であることは、われわれ自身が一番よく知っている」といっているそうであります。

 クリスチャンというのは、愛の人でもなく、品行方正な人でもなく、意志の強い人でもなく、一日たりとも、主イエス・キリストの名を呼び求めないと生きて生けない人、それがクリスチャンであります。

 そして「聖なる者とされた人々」といわれています。「聖なる者」というのは、聖人になった、清くなったという意味ではなく、聖というのは、神のものになったという意味であります。自分が神に召された者ということを自覚する者、そしていつもたえず主イエス・キリストの名を呼び求める者、そうすることによって神のものとされた者なのであります。
 
 パウロはこの手紙の発信人として、自分の名前と共に、兄弟ソステネからと、ソステネという名前を添えております。この人がどういう人なのかは使徒言行録一八章一七節に群衆から迫害にあって、法廷の前で殴られた人物として、その名前がでてきますすが、その人物と同じかどうかはわからないということであります。パウロはこの手紙がただ個人的な手紙ではなく、教会から教会へ宛てる手紙だということで、ソステネという名前をここに持ちだしたのかもしれません。四節からは、パウロはもう「わたしは」というように、自分ひとりの名前で書いているので、この手紙はパウロひとりが書いたようであります。そして二節にある「すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に」とありますが、これが、この手紙の発信人なのか、あるいは、「コリントにある教会、すなわち」と、続いておりますから、これは、この手紙の受取人なのかよくわからないのです。「共に」というところをみますと、発信人にもとれるわけです。ともかく、この手紙は個人的な手紙ではなく、教会から教会あての手紙だということのようであります。

 四節からは、感謝の言葉が記されております。これは当時の、あるいはこうした教会あての手紙の一つの型であったかもしれません。自己紹介としての挨拶に続いて、感謝の言葉を書くというのが慣わしであったのかもしれません。

 それにしてもこの「感謝」は少し変わっている、というか、考えさせられる「感謝」の言葉であります。といいますのは、ここだけを読んでいてはなんということもないのですが、一○節からのところを読んでいきますと、コリント教会のなかは問題だらけ、彼らは自分達の知識をひけらかして、教会の分裂わ引き起こそうとしている状態のなのです。そのことをパウロも十分知っている。それなのに、「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊にされています。こうしてキリストについての証があなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく」と、パウロは書いているのであります。

 これは手紙の書き出しの、いわば常套手段で、いわば一種の外交辞令のようなものなでしょうか。そういってしまえば、それまでですが、しかし、これが教会から教会あての手紙であるならば、そんな見え透いたお世辞を書くのだろうか。
 
 また少し、ここを読んで違和感を感じるのは、七節であります。「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」というパウロの表現であります。これはもしわれわれが書くとするならば、「あなたがたは待ち望んでいると思います」と書くところではないかと思います。そこを、パウロは、もう確信をもって、「待ち望んでいます」と書いている、少しおしつけがましい、人の心のなかの思いをパウロが勝手にこうでしょうと断定しているような印象を与えるのであります。

 ですから、リビングバイブルはその点を考慮してか、こう訳しております。「今や、あなたがたはあらゆる恵みと祝福とを手にしたのです。主イエス・キリストのおいでを待ち望んでいるこの時、主のお心にかなったことをするのに必要な、あらゆる霊の賜物と力とが、あなたがたに備わっています」と、苦心して訳しているのであります。

 パウロがここで感謝を捧げているのは、あくまで、神に対してなのであります。四節で、「わたしはあなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」と初めに、神に感謝しています。 

 つまり、パウロはあくまで、神の視点からコリント教会を見つめて、感謝しているということなのであります。今のコリント教会は人間的にみるならば、あるいは教会的にみるならば、とても感謝できるような現状ではないのです、いろんな問題をかかえているのです。深い知識、謙遜な信仰の知識にも大いに欠けている、人間的な目からみれば、「あらゆる賜物に何一つ欠けるところがなく」などという現状ではないのです。

 しかし、神がこのコリント教会を造り、コリント教会のひとりひとりを神を召してクリスチャンにしている、それならば、神はかならず、そうしてくださるという確信をパウロはもっている、だからパウロは平気で神に感謝しているのではないかと思うのです。

 それが九節の言葉になるのではないかと思います。「神は真実なかたです。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招きいれられたのです」という言葉であります。神は真実なかたである、そのことを信じてるときに、たとえ、現状のコリント教会がどうあろうと、パウロは確信をもって神に感謝できるのではないかと思うのであります。

 われわれは人を見る時に、その人の現状だけをみてしまって、うれえたり、失望したりしがちですが、それではいけないのではないか。神の視点から、神の視点からというと語弊がありますが、その人を神がかならず成長させてくださる、変えてくださる時がくる、そのことを信じて、その人を見るということが大事ではないかと思うのであります。
 それはただその人の現状を見るだけでなく、その人の将来も見てあげるというのではなく、その人の将来には神が関わってくださる、そういう信仰をもってその人を見るということであります。

 だからその人の現状には目をつぶりましょうというのではないのです。パウロは一○節からすぐコリント教会のさまざまな悪しき現状を痛烈に批判していくのであります。これからコリントの信徒への手紙を読んでいきたいと思います。