「先走りして裁かない」 コリントT 四章一ー五節

 四章の一節をみますと、「こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです」と、パウロはいいます。この「こういうわけですから」というのは、何を受けていうのでしょうか。こういう接続詞は、普通は前の句を受けているわけですから、三章の終わりの言葉、「すべては、キリストのもの、キリストは神のものなのです」という句を受けていうことになります。つまりすべては神のものだ、という句を受けているわけです。すべては神が支配するのだ、だからわれわれ伝道者もその神の支配に属し、その神の支配に仕えるものだといいたいのではないかと思います。それで「こういうわけで、自分たちも、神の計画に仕える管理者であり、管理者に要求されているのは、神に忠実になることだ、自分を誇らないで、神に忠実になって、謙遜になることだといいたいのであります。

 そのあと、パウロは「わたしにとって、あなたがたから裁かれようがと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」といいだします。なにかおだやかでないことをいいだすのであります。これはコリントの第二の手紙をみるとわかりますが、パウロはコリント教会の一部の人から、その伝道者としての資格の問題でとやかく言われたらしいのです。なにしろパウロというひとは、熱心なキリスト教徒の迫害者だったわけですから、それが百八十度転回してキリスト教の伝道者になったのですから、パウロを非難したり、パウロの伝道者としての資質に疑いをもつ人は多かったわけです。
 パウロはそれに対して、いたるところで、自分は神から召命を受けた伝道者であることを弁明しております。それがここにも出ているわけです。

 あなたがたに裁かれようが、自分は少しも問題ではないというのです。ひとからなんと言われようと意に介しないということなら、伝道者ならある意味では当たり前のことだと思います。人にほめられようとして、人の意にかなうことばかり考えていたら伝道などできる筈はないからであります。

 パウロはガラテヤの信徒への手紙では、「今わたしは人に取り入ろうとしているのか、それとも神に取り入ろうとしているのか。あるいは、なんとかして人の気に入ろうとあくせくしているのか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではない」といっているところがあります。

 伝道者とか牧師といものは、何よりも人の歓心を得ようとして、信徒の気に入れようとして、そればかり考えて、牧会というものをしていたら、それはもう牧会などできるものではないのです。パウロは「今なお人の気に入ろうとしているのか」といっておりますが、「今なお」というのですから、それまではパウロもやはり人の気にいろうとばかりしていたということなのかもしれません。しかし、キリストの忠実な僕として生きようとしたときに、もうそうした生き方はやめたということであります。

 われわれは子供の時代ならばいざしらず、大人になって、特に人から給料をもらって生きなくてはならなくなったならば、多少は人に気に入られようとして迎合的に生きざるを得ないものであります。そうしては、そのように迎合的になっている自分というものに嫌気がさしている人も多いと思います。情けないと思っている人も多いと思います。
 またそうかといって、迎合的でない人はどこか突っ張っている人が多くて、そういう人とはつきあいづらいと思います。

 迎合的であるというのは、ある意味では人を傷つけたくない、人の気持ちを逆なでするようなことはできるだけ避けたいと言う気持の現れであって、それは必ずしも悪いわけではないと思います。人の気持ちを思いやることのできるということの現れでもあるわけです。

 ただ牧師としてわたしがいつもうらやましく思う牧師は、そのように突っ張って迎合的でない生き方をするのではなく、根っから迎合的でない人というのがいて、そういう牧師をみると、ああこの人は本物の牧師だなとうらやましく思う時があります。この人は根っから、人に気に入られようとしているのではなく、ただ神に入られようとしている、ただ神に忠実に仕えようとしているということが感じられて、尊敬してしまうのであります。しかしそういう牧師は時々、世間離れしていてうまく信徒とつきあえないこともあるかもしれません。

 パウロという伝道者はどうだったか。彼は根っからの迎合的でない人だったというよりは、ある意味では、自分の中にあるそういう迎合的な傾向と激しく闘った人ではないか。自分は人に気に入られようとして生きているのか、それとも、ただ神に気に入られようとして生きているのかと言っているところなどは、ある意味では、パウロ自身が自分の中にある迎合的な面を必死に否定しようとしていることの表れではないかと思えるのです。

 パウロという人は、常に闘いの連続の人生だったのではないか。何よりも自分との戦いの連続だった、それだけにある意味はでは突っ張った生き方をした人ではないかと思います。それだけに、彼は人を傷つけたり、またそれによって何よりも自分自身が傷ついて、生きた人だったのではないか。だから彼はこれだけの激しい手紙を書くことができた、それだけ人の心を動かす手紙を書くことができた。彼はいつも自分のすることに自覚的であったために、今日の言葉でいえば、神学というものを形成することができたのではないかと思います。彼はいつも自覚的に信仰というものを考えていた、だからこれだけの神学を立てることができたのではないかと思います。  

 パウロは「わたしにとっては、あなたがたに裁かれようと、人間の法廷に裁かれようと、少しも問題ではない」といいます。これだけのことなら、伝道者として当たり前の言葉であると思います。実際にそうできるかどうかはともかく、言葉としては当たり前の言葉であります。しかしパウロはそのあとこういいます。「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません」。

 信仰者として大事なことは、自分で自分を裁かないということであります。そしてもっと大事なことは、そうしたうえで、その後の言葉、「それでわたしが義とされているわけではない」という自覚であります。

 クリスチャンは真面目な人が多いのです。それはある意味では良心的な人が多いのです。それは言葉をかえていうと、クリスチャンは反省ばかりしていないか。つまり、良心的な人が多いというのは、自分の良心に自分を裁かせている人が多いということなのです。それが反省的ということです。

 パウロはこういいます。「わたしを裁くのは主なる神なのです。ですから、主なる神が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」。それはこういうことです。「わたしを裁くのは神なのに、その主なる神に裁いてもらう前に、先走りして、自分で自分を裁いてしまっていないか」ということなのであります。

 つまり、自分で自分を裁くというのは、神に自分の裁きを委ねることをしないで、神に裁いていただく前に、あらかじめ先走りして、自分で自分を裁いておく、そういうクリスチャンが多いのではないか。

 その場合、自分で自分を裁かせているのは、自分の良心なのです。神様にではなく、自分の良心に自分を裁かせているのであります。しかし良心というものは、なんといっても「自分の」良心なのです。「自分の」良心ですから、その良心はいつも最後的には、自分の弁護にまわるのは目に見えているのであります。どんなに自分のことを糾弾し、裁いても、最後のところでは、どうだこんなに自分で自分の罪のことを自覚して、自分をいじめているぞといって、最後のところでは、自分のことを弁護しようとするものでしかないのではないか。

 良心などというものはそれほど確かなものなのでしょうか。ある人がいっているそうです。「良き良心というものは、悪魔がつくったものである。悪魔と組んで自分をごまかそうとする、それがわれわれ人間の良心だ」というのです。ずいぶん皮肉な見方をする人であります。ずいぶん意地の悪い見方をする人であります。

 しかし、それほど意地悪くみなくても、神に裁かれる前に、先走りして自分で自分を裁いておく、自分の良心に自分を裁かせておくというのは、ちょうど柔道でいう寝技のようなものではないか。わたしは柔道のことはひとつもわかりませんが、ただはたから見ていて、もし自分が柔道をやったとしたら、きっと寝技が得意になるだろうなと思うのです。つまり、相手から投げ飛ばされて、痛い目に会うよりは、あらかじめ自分の方から倒れておいて相手と闘おうとするのてばいなか。柔道の寝技というのは、そんなものではないかもしれませんが、素人がみて、はたから見ていると、相手に倒される前に、自分から先に倒れておくというのは、いい戦法だなあと思ってしまうのであります。

 先走りして自分で自分を裁くというのは、そういうことではないか。神の裁きはあまりにも厳しく、あまりにも正しいので、それをもろに受けないようにするために、自分で自分を裁いておこうとするのではないか。それが先走りして裁くということではないか。

 主イエスがファリサイ派の人や律法学者の偽善性を批判してこういうことをいっております。施しをする時には、彼らは人にほめられようとして、わざと人通りの多い、会堂や街角でする、そして自分の前でラッパを吹き鳴らしてから施しをするというのです。これから自分は施しをするぞといって施しをするというのです。イエスは「そういう人はすでに報いを受けてしまっている、だからそんなことをしていたら、隠れたことを見ておられる父なる神から報いをうけられなくなってしまう」というのです。

 つまり偽善者というのは、神からほめられようとするのではなく、人からほめられようとする人だというのです。しかしよく考えてみれば、人前でラッパを吹き鳴らして施しをする人をみて、いったいだれがあの人は立派な人だとほめるでしょうか。そんなことは偽善的だと誰しも見破ることはできるのではないでしょうか。それを見破ろうとしないのは、本人だけではないか。そういうことをしている本人は、みんなは自分のことを愛の人だと思ってくれているに違いないと自分勝手に自分に思いこませているだけではないか。
 つまり彼は、人にほめてもらおうとするのではなく、人にほめられているぞと自分で自分をごまかして、ただ自分で自分をほめているだけに過ぎないのではないか。それでは神様からの報いを得られなくなってしまうのだとイエスはいわれるのであります。

 われわれは神様からほめられてもらう前に、自分で自分のことをほめようとしている、それとちょうど同じように、われわれは神に裁かれる前に、自分で自分を先走りして裁いておこうとするのではないか。

 パウロは自分はそんなことはしないというです。自分を裁いてくださるのは、主なる神なのだから、その神様にわたしは裁いていただこうとしているのだ、だから主がこられるまでは、先走って自分を裁くことはしないというのです。これが本当に神を信じることだというのです。

 われわれは神を信じているといいながら、その神さまを本当に信頼しないで、いつも先走って、自分で自分をほめようとしたり、自分で自分を裁こうとしているのではないか。そのためにわれわれの人生はいつも思い煩いの多い人生になっていないか。思い煩いというのは、明日がこないうちに、明日はどうなるのかと先走って心配することであります。思い煩いというのは、神様よりも先走っていろいろと考えようとするところから起こるのではないでしょうか。

 パウロは自分は人から裁かれようが意に介しないというのです。自分で自分を裁こうともしないというのです。自分には何もやましいところはないというのです。しかし、それでわたしが義とされているわけではないというのです。
 わたしを義としてくださるのは、神だからであります。

 われわれはいつも自分で自分を義としようとしていないか。われわれの信仰上の不安、信仰者としての不安は、いつも自分で自分を義としようとしているところからきていないか。神に義とされている、神に善しとされている、それなのにどうしてお前はそれを信じようとしないのかということであります。「わたしはお前の弱さにおいて、わたしの恵みを十二分に注いでいるのに、どうしてお前はそれを全面的に受け入れようとしないのか、信じようとしないのか」と、パウロは自分の罪と弱さに苦しんでいたときに主イエスから語られているのであります。

 パウロはこういいます。「主は闇の中に隠されいてる秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」。
これは驚くべき言葉ではないでしょうか。主なる神はわれわれの隠されている秘密をすべて明らかにして、われわれを裁くのです。それなのに、パウロは最後におのおのは神からおほめにあずかるのだというのです。

 神の裁きはそういう裁きだというのです。それは閻魔大王がわれわれの罪を重箱の隅をつつくようにして、探り出して、それを見つけたなら、地獄に落とすという裁きかたではないということです。神の裁きは、われわれのすべてを数えつくし、われわれの髪の毛一本一本までも知り尽くしておられるた上で裁きをし、そしてわれわれを救ってくださる裁きだというのです。

 神は終末の裁きにおいて、われわれひとりひとりの言い開きを聞いてくださるというのです。もう言い開きをするなとはねつけるのではなく、われわれの愚かな、しかし必死な愚かしいまでの弁明を聞いてくださるというのです。そうした上で裁いてくださるというのです。

 われわれがこの世に生きていく上で、あの時妥協ししてしまった、あの時、迎合的になってしまった、そういう弱さもすべて知り尽くしておられる神がわれわれの弁解を聞いてくださる、そしてお前はお前なりによく生きてきた、お前はお前に預けた一タラントをよく使って生きてきたとおほめになってくださるということであります。だからわれわれはわれわれに与えられた一タラントを地面に埋めるような生き方をしてはならないのです。
 
 ある人がいっております。「キリスト者というのは、良心的であるといわれる。真面目な生活をする人であると思われる。しかし、その反面、非常に良心的かもしれないが、神経質で、ゆとりがとぼしいとも思われるかもしれない。自分の良心のことだけを考えて、神にまかせるところがいなとすれば、それはあまり、信仰的とはいないかもしれません」。