「私達が持っているもの」 コリントT 四章六ー一三節

 パウロはコリント教会の中で起こっている分裂、わたしはアポロにつく、わたしはパウロにつくとかといって、教会の中で党派を作って分裂していく現状を憂えて、その分裂を乗り越えさせようとして、この手紙を書き始めているのであります。その分裂の根底には、自分を誇ろうとする人間の誇りがあるのだというのであります。そして、自分の知恵を誇るな、人間の知恵を誇るな、それはキリストが十字架につくことによって、神が人間の誇りを徹底的に打ち砕いたのだ、というのです。神は人間の知恵を愚かにされたのだと述べて、誇りというものを打ち砕こうとしているのであります。この手紙の一章から四章にかけて、パウロが繰り返し述べていることは、いってみれば、人間の誇りの問題であります。

 それを今日学びます四章の六節から述べるのであります。「兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べて来ました」とあるのは、自分の知恵を誇るな、自分を誇るなということについて、アポロと自分のことで述べてきたということであります。

 そしてそれに続く言葉、「それは、あなたがたがわたしたちの例から、『書かれているもの以上に出ない』ことを学ぶためであり」とありますが、この言葉ですが、これが具体的に何を指しているのかわからないのです。注解書をみても、これはよくわからないと書いてあります。「書かれているもの」というのが何なのか、これは聖書のことを言っているのか、あるいは、教会の中にそういう規約みたいのがあって、そのことを言っているのかよくわからないということであります。

 ただそのあとに、「だれも、一人を持ち上げて、ほかの一人をないがしろにし、高ぶる事がないようにするためです」と、続きますので、これさえわかれば、それが何を指すかはまあり問題にしなくてもよさそうであります。

 ところでパウロはどうしてこうまでして、自分のことを誇るなとというのでしょうか。

 たまたま、ある新聞に、大江健三郎に対するインタビューの記事がのっていて、その中で彼が「誇り」について、こういっているのを読んで考えさせられました。それは質問者が「あなたの書いた本のなかで、『うそをつかない力の一つとして、自分に持っている誇りを大切にすること』が語られているけれど、どういうことですか」という問いに対して、彼が答えているところであります。彼はこういうのです。
 「自分がフランス語を習い始めたときに、まず好きになった単語は『威厳』、『誇り』というのと、『想像力』という言葉でした」と語りだして、こういうのです。「誇りをもつということは、個人として自立しているということです。ひとり自立している人間の、内側からの支えは何かというと、誇りがあるということです。

 自分の経験では、子どもは基本的に誇りもっていものだとわかる。自分の家庭には障害をもっている子どもがひとり、健常な子どもが二人いる。子どものころからずっと彼らを観察してきての結論が、本質的に彼らは誇りを持っているということだ。ぼくが意識しないで、まあ、時には少し意地悪な気持になって、子どもたちの誇りを無視するとき、彼らが一番反発するということを知った。そして自分も子どもの時いやだと思った事は、自分の誇りを無視されることだった、と気がついた。

 自分は誇りがある人間だと、ひとりで確かめることは難しいけれども、その誇りが踏みにじられていると感じることは、どんな子どもにだってある。それが耐えられないと腹を立てる。特に子どもにそれは耐えられない。自分の持っている誇りが踏みにじられる、無視される時、子どもがいかに、怒り、嘆き、あるいは苦しむかということをみれば、人間が基本的に持っている要素としての誇りを大切にしないではいられない。それを重要に考えていくことが教育の基本でなければならない」と答えているのであります。

差別的な表現になるかもしれませんが、彼の息子さんの光さんという少し知恵遅れという障害をもったお子さんがおりますが、このかたは音楽についてはぬきんでた才能を発揮しておりますが、この知恵遅れの彼もまた自分の誇りを無視されるときに一番怒り、苦しむというのであります。だから誇りというもの、自分に対する誇りを持つということは、人間の基本的なものではないか、それを大事にするということが教育の基本でなければならないというのであります。

 そしてそれはその通りだと私も思うのです。自分が傷つけられるのは、やはりなんといっても自分の誇りが傷つけられる時だということだと思います、自分自身が怒り傷つけられるという経験をする時、また他の人が怒っている様子をみてもそのことは明かです。だからわれわれは人とつきあうとき、お互いに相手の誇りをいかに傷つけないように交わるかということを一番気にかけながら交わるのではないかと思うのです。

 そのために、その誇り、自尊心といってもいいかもしれませんが、その自分に対する誇りを過度に持ちすぎている人というのがおりますが、そういう人はいつも自分の誇りがいつ傷つけられかということに神経を張り巡らせていて、そういう人とは本当につきあいづらいと思います。

 しかしまた自尊心という誇りをまったく失ってしまっている人とはさらにつきあいづらい経験をしているのではないかと思います。つまり、そういう人は自己というものを失っている人で、何をいっても、何をしても反応がないからであります。

 その誇り、その自尊心という誇りの問題をわれわれはどのように考えるか、言葉をかえていえば、それをどのように位置づけるかということが大事な問題になってくると思います。

 パウロはここで繰り返し、繰り返し、自分を誇るな、人間の知恵を誇るなといっておりますが、それならば、われわれ人間は、われわれ信仰者はいっさい誇りを持つなというのか。聖書を読んでいれば、特にパウロの手紙を読んでいれば、決してそうでないことがわかります。それは同じこの手紙のなかで、パウロはこういっているからであります。

 それは、この手紙の六章のなかでいわれているところなのですが、教会のなかでの性的な乱れの一つとして、娼婦と交わってはいけいないと戒めているところであります。コリントという町は、ちょうど今の東京みたいなところで、性風俗が乱れていた都会であります、その影響は教会の中でも当然入り込んでいるわけです、その問題をとらえて、パウロは娼婦と交わって自分の体を汚すなというのです。そして最後にこういいます。「あなたがたは代価を払って買い取られたのだ。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」と命じるのです。ここでは、直接、誇りという言葉は使われてはいませんが、信仰者としてもっと自分のことを大事にしなさい、自尊心を持ちなさいということでもあると思います。もっと毅然としていなさいということであります。自分に対する誇りともてということでもあると思います。

 他の箇所では、伝道者としてのパウロの悪口をいう人がいて、彼は信徒の献金で自分の生活を支えられている、信徒を食い物にしているのだという非難があったのに対して、彼はこういいます。伝道者が「福音を宣べ伝える人たちが福音によって生活の資を得るのは当然だし、それを主は許されている。しかし自分はその権利を一度も利用しなかった。自分はそういう非難を受けたくないために、テントづくりをして生活の資をかせいでいるというのです。そしてこのことで人から非難を受けるくらいなら、死んだほうがましだ」というのです。そういう非難を受けたくないために、自分はテント作りをして働いているのだというのです。そして、パウロはこういいます。「だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない」と、はっりと「わたしの誇り」という言葉を使って、この自分の誇りを大事にしているというのです。この誇りが傷つけられくらいなら、死んだほうがましだとまでタンカを切っているのです。彼が自分の誇りというものをいかに大事にしていたかということであります。

 ですから、問題は自尊心をもってはいけないとか、いっさい誇りをもつなということではないようです。

 それではここでパウロが問題にしている「誇り」とは何かということです。それを明らかにする言葉が六節にある言葉であります。
「だれも、一人を持ち上げて、ほかの人をないがしろにし、高ぶることのないようにするためです」という言葉です。
 つまり、ただ自分を誇るな、ということではなく、自分を高めるために、他の人をないがしろにする、人を軽蔑することによって、自分を高めようとする、そういう誇りを今パウロは問題にしているのだということなのです。そしてわれわれのもつ誇りというのは、いつもそのような危険を持っているということであります。

 われわれが自分を誇るとき、われわれはいつも他の人を軽蔑し、他の人を自分よりも低い位置におとしめて、辛うじて自分を誇ろうとする、そのように自分を位置づけをしようとしていないか。その誇りが問題なのであります。

 自分の誇りの根拠はなにか、自尊心というものをどこに根拠づけるか。あの人よりも自分のほうが知恵がある、優れている、それが自分を誇る根拠になってしまっていないかということなのです。 

 そういうわれわれに対して、パウロはこういうのです。七節からです。
「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは誰です。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」。
 ここは口語訳のほうがわかりやすいです。「いったいあなたを偉くしているのは誰なのか。あなたの持っているものでもらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか」。

 パウロはコリントの信徒に対して、あなたは自分のことを優れた者、偉いと思っているかもしれないけれど、そう思わせているのは何かというのです。「あなたを偉くしているのは誰か」といっていますけれど、その「誰か」は、結局は自分自身ではないか、お前は自分で自分のことを偉いと言い聞かせているだけではないかということなのです。

 考えてみなさい、今あなたの持っているもので、もらわなかったものがあるか、つまり、神様からいただかなかったものがあるか、ということなのです。みな神様からいただいたものではないかということなのです。イエスのたとえ話に、タラントの話がありますが、あの話でいえば、主人からある者は五タラント与えられた、預けられた。彼は主人が旅に出ている間、その五タラントで商売して、もう五タラントを増やして十タラントにして、主人からよくやったとほめられるという話であります。五タラントを倍にして十タラントにしたものは、もともとは五タラントを与えられ、預けられたから、そのようにできたのではないか、ということであります。

 われわれの今もっているものは、すべて神から与えられたものだということであります。そして大事なことは、今われわれがもっているもの中には、自分の努力でかちとったものもある筈なのです。しかしパウロは、それをも含めて、そのように自分の努力と精進で得ているものもみな、これは神に与えられたものだと受け止めることができるかということなのです。

 確かに五タラントを預けられた者は、それで商売して五タラントふやし、十タラントにした。あとの五タラントは彼の努力と才覚かもしれない。しかしその時に、そのもうけた五タラントも神がそうさせてくださったものだ、神からいただいたものなのだ、自分の努力もその背後に神の励ましがあったからできたのだと思えるかということなのであります。

 リビングバイブルは、ここはこう訳しております。「いったい何についてそんなに得意になるのですか。あなたの持っているもので、神様からいただかなったものがありますか。その全部が神様からいただいたものなら、どうして、さも偉そうにふるまうのですか。また、自力で何かを成し遂げたような態度をとるのですか」。

 われわれの努力でかちとって今現在われわれが手にしているものも、よくよく考えてみれば、神様から与えられたものではないかと信じることができるかということなのです。

そしてパウロはここで、神という言葉は出していないで、「あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるか」といっているところが大事だと思います。新共同訳では「いただかなかったもの」という言葉を使っているので、ここでは「神様から」と想定させていますが、口語訳は「もらっていないものがあるか」と訳していますから、あるいは、パウロはここで、神様からと直接言葉にだしていないということで、その一番根本は神様からいただいたものでしょうが、しかし具体的には、親からもらったものもあるし、近隣の人からもらったものもあるということを考えて、パウロはわざとここで神様という言葉を出さなかったのかもしれないと思います。

 そしてそのことも大事なことだと思います。われわれは神には頭を下げるが、人間にはいっさい頭を下げないというのでは、本当に神に頭を下げているかどうかわからないところがあります。つまり、神には頭を下げても、人間には頭を下げないというのでは、本当にその人が謙遜になっているかわからないと思うのです。神に頭を下げる人は、具体的に人にも頭を下げられる筈だし、下げることができると思います。
 
 われわれの今もっているもの、それは具体的には他の人からいただいたものであります。そしてそれは根本的には、何よりも神様からいただいたものであります。それがわれわれの今日をあらしめているものであります。そうであるならば、われわれはまるでそうでないようにして、すべては自力で何かを達成したかのように自分を誇ることはできないということであります。そうであるから、われわれが誇るとするならば、「誇る者は主を誇れ」ということであります。

 そしてもし、われわれが自分を誇るとするならば、この自分のことをいと惜しんで十字架で死んでくださったキリストを誇り、そのキリストに愛され、そのキリストに大事にされている自分を誇るということであります。

 そのことをパウロは自分のからだを娼婦と交わらせて、自分を粗末にしていいのかといい、こういうのです。「知らないのか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたは自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」。

 われわれがもっている自尊心、われわれが持たなくてならない自分に対する誇りは、この自分がキリストの十字架という代価を払って買い取られた自分なのだ、だから自分に対する誇りをもとう、もたなくてはならないということでありす。そこに自分の誇りを位置づけるかということであります。

 それは他の人をけ落として、他の人をないがしろにし、他の人を見下げて、辛うじて自分を誇る自尊心、誇り、そんなあやふやなケチな醜い誇りであってはならないということであります。

 パウロは他の箇所で、弱い人をつまずかせてはならないというところで、「この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである」というのであります。そうであるならば、われわれは他の人をないがしろにして自分を誇ることはできなくなるのであります。

 われわれのもっているもので、いただかなかったものがあるか、このパウロの怒りの言葉、嘆きの言葉を深く止めておきたいのであります。「主は与え、主は取り去り給う。主の御名は賛美すべきかな」というヨブの言葉を思い出し、主の御名を賛美し、感謝したいと思います。