「人を裁く」 コリント第一 五章一ー八節

 今日から再び、コリント第一の手紙にもどりたいと思います。年末の礼拝と年の初めの礼拝では、あえて連続の講解説教のテキストとして、ここを避けたのは五章で扱っている問題が少し、年末年始にあまりふさわしくないテーマだったからであります。それは教会の中で異邦人の間でもあまり見られない不道徳な問題が起こっているのに、それを教会が放任しているという問題であります。
 
 どういう不道徳の問題かといえば、「ある人が父の妻をわがものとしている」ということのようであります。これは旧約聖書のレビ記一八章などで禁じられていることであります。「肉親の女性に近づいてこれを犯してはならない。わたしは主である。母を犯し、父を辱めてはならない。彼女はあなたの実母である。彼女を犯してはならない。父の妻を犯してはならない。父を辱めることだからである」とあります。いわゆる近親相姦を禁じている律法であります。

 このコリント教会の中で起こっている問題、「ある人が父の妻をわがものにしている」ということが、実際はどういう状況なのかはわかりません。この父の妻が実母なのか、あるいは後妻なのか、父がもう亡くなっているのか、その状況はよくはわかりません。しかし、問題はそのことではなく、そういう異邦人の社会、つまりコリントという町は繁栄している大都会で、そういうところでは、こうした性道徳というものが乱れていたと思われますが、そのコリントの町の中ですらあまり見られないみだらなことが教会の中で起こっているのに、それを黙認しているということ、つまりそういう不道徳なことをする人間が教会の中にいるということよりも、そういう人がいるのを黙認している教会の姿勢を、パウロは問題にしているのであります。

 いやそのことだけを問題にしているのではなく、そういうことが行われているのに、それを黙認して、二節にありますように、「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか」ということなのです。

 つまり、これはパウロがこの手紙の中で一章から問題にしていた、誇りの問題の続きなのであります。
 そういうみだらな不道徳なことが教会の中で起こっているのに、自分たちの教会は聖なる教会だなどと誇っている、自分たちは特別に神に選ばれた人間の集まりだなどといって誇っている、高ぶっている、それをパウロは問題にしているのであります。

 そのみだらな行いのことは、遠く離れているパウロのところにも聞こえてきていることですから、当然コリント教会の人たちは知っていることである筈です。それなのに厳しくその人を処分しないで、裁かないで、自分たちの中から除名しないで放置しているのはどうしてなのかということであります。

 人の罪を裁くということは確かに難しいことであります。人の罪を裁くということは、自分もまたその裁きを受けなくてはならないことだからであります。人を裁く時には、それならばお前はどうなのかと問われることだからであります。お前には人を裁く資格がるあのかと問われることだからであります。そう問われるくらいならば、むしろその人を裁かないで、そっとしておいたほうがいいかもしれません。
 
 そのみだらな人を見て見ないふりをして、ひそかに軽蔑し、自分はあれほど悪くない人間だ、あの人に比べればまだ自分は道徳的だなどと自己満足したり、誇ったりしていたほうが楽であります。
 
 パウロは後にローマの信徒への手紙で書いておりますが、異邦人の罪として指摘しているところですが、「彼らはこのようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけでなく、他人の同じ行為を是認している」といっております。
 ここでは、そのみだらな行為をしている人を裁かないのは、自分もそのようなことをしているからということではないでしょうが、その罪を是認する、大目にみてやることによって、自分たちも同じことをするかもしれないということ、自分たちの罪をも容認しようという気持が働いているからかもしれません。赤信号、みんなでわたればこわくない、ということであります。

 あるいは、自分たちの仲間にそういう悪いことをする人間がいるということは、逆に自分たちの清さを際だたせることに役立つかもしれない、ひそかに自分で自分を誇ることができるからかもしれないのであります。あいつよりも自分のほうがまだましだと誇れるからであります。

 人を裁くということは、本当に難しいことであります。主イエスは、「人を裁くな」と言われたのです。そしてこう言われました。「あなたは兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取りのけることができる」といわれたのであります。

 自分が罪があるのに、どうして人の罪を裁くことができるかといわれたのです。まず自分自身の罪をはっきりと認めなさい、そうした上で、人の罪を裁きなさいといわれたのであります。

 自分には罪なんかひとつもないと思って、人の罪を裁くのと、自分も同じような罪人だとしっかりと認めて、人の罪を裁くのとどう違ってくるのでしょうか。
 
 われわれは人の罪を見つけて、それを裁く時というのは、気持いいものなのです。何かもうそれだけで自分はその人よりも上の立場に立っていると思えるからであります。人を裁くというのは、楽しいのです。気持いいのです。正義の怒りだなどといいながら、裁くときには、われわれは楽しくて仕方ないのです。

 しかし自分自身が本当に罪人だと思いながら、人の罪を裁く時には、本当に自分の罪を知っていたならば、到底自分がその人よりも上の立場に立っているなどとは思えないと思います。悲しみながら、罪そのものを憎んで、悲しみながら、痛みをもちながら、裁くのではないでしょうか。

 あの姦淫の現場をとらえて女をイエスのところに引き連れてきて、こうした女は石で撃ち殺しましょうかと言いにきた人々は、みな楽しんで、誇りに満ちて、この女をイエスのところに連れてきたのであります。その時、イエスは、恥ずかしさのためにうずくまっている女と一緒に身をかがめたのであります。この女を裁く人々は、立ったまま、上から見下ろして、「こんな女は」と言っていたのです。しかしイエスはその女と同じ立場に自分を低くしたのであります。
 そしてイエスは、最後に「お前達の中で今までに一度も罪を犯したことのない者がこの女に石を投げるがよい」と言われたのであります。

 パウロはこういいます。「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっている。むしろ、悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではいないか」というのです。
 「悲しんで」というのです。楽しんで、誇らしげに裁けというのではないのです。裁かなくてならないときには、「悲しんで」裁けといわれたのです。
 
 人を裁いてはいけないと言われたイエスは、人を裁きました。特に選民イスラエルの人々を厳しく裁いたのであります。その時イエスがどんなに悲しんで裁いたかということであります。イエスが十字架につく前に、エルサレムの人々にいわれた言葉であります。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者よ。めんどりが雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度も集めようとしたことか。だが、お前達は応じようとしなかった。見よ、お前達の家は見捨てられてしまう」と言って、悲しみながら、嘆きながら十字架につこうとするのであります。

 「悲しんで」ということがどんなに大事か。われわれは人を裁く時には、いつも密かに喜びながら、楽しみながら、自分を誇りながら人を裁いてしまうからであります。しかしイエスは人を裁く時には、いつも裁かれる人の低さにまで下り、その人の罪を担う覚悟をして、その人の罪を裁こうとしたのであります。

 パウロはコリント教会の不道徳な事をしている人を、自分は離れていても、もうすでに心の中で、裁いてしまっているというのです。悲しみながらです。しかし、それは裁きそのものが目的ではなく、五節をみますと、「このような者をその肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのである。それは主の日に彼の霊が救われるためである」というのです。
 最終的な目的は、最終的な願いは、彼が最後には救われるためだというのです。それはそうすることによって、彼に悔い改めを迫ろうとしていることであります。

 しかし、ここでパウロの言っていることを考えますと、ただ彼に悔い改めを迫るために彼を裁くためだけではないようであります。ここではパウロは「こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではないか」と言っているからであります。
 六節からのところを見ましても、「わずかなパン種が練り粉全体をふくらませることを知らないのか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種を取り除きなさい」といいます。

 パン種とはイースト菌のことです。イースト菌は少しの菌でパン全体をふくらませるのです。そしてイースト菌は菌ですから、腐りやすい性質をもっています。だからもうそのイースト菌を取り除いて、パン種の入っていないパンとなりなさいというのです。
 要するに、そのようなみだらなことをしている者を教会から除名しなさいということであります。教会の中にひとりでも、そうした人がいると、教会全体を腐らせてしまうからだということであります。

 ここを読んで、われわれが感じてしまうのは、これは単なる自分たちの組織防衛のためだけの裁きではないかということなのです。ここでは自分たちの教会という組織を守るために、罪を犯した人間を除名し、取り除いて、自分たちだけは清く正しい組織でいようとしているかのように感じられるのであります。それでいいのだろうか。自分の所属している組織を守るために、人を除名していいのだろうか。それが教会であっていいのだろうかという問題であります。

 教会というところは、決して清く正しく、そういう聖人の集まりでないことはさいさい言ってきていることだし、それはパウロ自身もよく知っている筈であります。教会というのは、本当に無に等しい者が選ばれ、卑しめられている者が神に召されたところであります。それは言葉を換えていえば、教会は罪人の集まりだということであります。それならば、どうしてそのような罪を犯した人を、取り除かなくてはならないのか。

 自分たちは聖らかな人間なので、自分たちのグループにいてもらっては困るといわんばかりに、その人を取り除かなくてはならないのかということなのです。教会こそ、罪人の集まりである筈であります。しかし教会は罪人の集まりではありますが、その罪がイエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦されたことを信じている者の集まりであります。それは七節にありますように、「あなたがたはパン種の入っていない者、キリストがわたしたちの過越の子羊として屠られたからである」とありますように、キリストが十字架によって自分たちの身代わりになって死んでくださって、その血潮によって罪赦された者の集まりであります。

 それならば、どうして罪を犯した人間を赦そうとしないで、追放しようとする、除名しようとするのでしょうか。取り除こうとするのでしょうか。

 それはこの人が教会に居続けることによって、罪の赦しということがないがしろにされかねないからであります。
 この人は「異邦人の間にもないほどのみだらな行いがあり、父の妻をわがものにしている」という人なのです。つまり、ただいっときの誘惑に負けて罪を犯してしまったという人ではないのです。父の妻をわがものにしている、そのようにし続ける人であります。彼には自分の罪の自覚がないし、まして、自分が罪赦された人間であるという事実も無視している人間であります。彼は悔い改めもしないで、罪を平気で犯し続けている人間なのです。それが問題なのです。

 イエスのたとえにありますように、一万タラントの借金を赦された者が、自分が貸しているたったの百デナリを赦すことができないで、百デナリを返済できない人間を獄に引き渡してしまったという人間、つまり、自分が一万タラントの借金を赦されたということを、少しもありがたいと感じない人、自分が罪赦されたことに少しも感動もしない人間であります。

 そういう人間をそのまま教会のなかにいさせるということは、神の罪の赦しという恵みをないがしろにしてしまうことだからであります。罪の赦しなんかなくても人間は生きていけるというパン種が教会に残っていたら、教会全体を腐らせていくからであります。

だから当然、そのような人は教会から除外しなくてはならないのであります。教会という組織の一番の中心をないがしろにするような人を教会のなかに残しておくわけにはいかないのです。

 なぜ取り除かなくてはならないのか。 パウロはそれだけコリント教会を愛していたからであります。コリント教会が罪の赦しを真剣に生きる教会であって欲しい願っていたということであります。教会はなにも聖い者たちの集まりである必要はないのです。そんなことはできないのです。しかし教会は罪赦された者の集まりであります。自分の罪に気づいたら、神の前に赦しをこう者の集まりであります。悔い改める者の集まりであります。もちろんその悔い改めは完全な悔い改めとはいえないでしょう。主イエスは、一日のうち、七度罪を犯し、七度悔い改めたら赦してあげなさいといわれたのです。

 われわれのする悔い改めはその程度の悔い改めしかできないのです。一日のうちです、七度罪を犯し、七度悔い改める、という悔い改め、悔い改めてはまたその悔い改めの口をぬぐってしまうように、その悔い改めを忘れてしまうように、また罪を犯してしまうわれわれであります。われわれの悔い改めはその程度の悔い改めしかできないのです。しかしそれでも悔い改めは大事だということです。主イエスは、そのように悔い改めたら赦してあげなさいといわれるのです。

 しかし彼はそのような悔い改めをしていないのです。父の妻をわがものにし続けているのです。そのような人は教会を腐らせてしまうのです。

 それは確かに組織防衛ではないかといわれるかも知れません。確かにそうかもしれません。しかし自分の子どもが、たとえば悪友がいて、その悪友がドラッグ、つまり麻薬にまで手をだすような友達だったならば、親は必死になって自分の息子をその友達から引き離そうとするだろうと思います。その悪友を救おうなどとはしないで、まず何よりも自分の子どもをその悪友から引き離そうとするのではないか。それが親というものであり、それが本当の、そして現実的な愛というものではないか。観念的な愛ならば、それは親のエゴイズムだというかもしれませんが、現実的な愛、つまり本当の愛ならば、そうすると思います。

 パウロは今コリント教会を親が子を愛するように、深く愛し、深く憂えていたということであります。