「不義を甘んじて受ける」コリントT 六章一ー一三節

 主イエス・キリストは「わたしが来たのは、義人、正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのだ」といわれました。そのようにして招かれて、今教会にいるのがわれわれであります。そういうことから言えば、教会というところは、罪人の集まりであります。
 ところが世間の人は、教会というところは、聖なる人が集まっているところである、あるいは、すくなくとも、善人が集まっているところであると思っているようなのであります。それはある意味では、うれしい誤解というか、面はゆい誤解であると思います。

 そしてうっかりすると、教会にきている、われわれ自身が教会というところは、善人が集まっているところであると思ってしまっていないだろうか。われわれ自身も、本当の意味で、あるいは、具体的な意味で、罪人の集まりであるという自覚がないのではないか。少なくとも自分のことは別にして、教会にきている人は、自分を除けば、みな善人の人である、世の中の基準からいえば、善人に属する人が教会にきているのだと思っているのではないかと思います。

 しかし、今パウロが手紙を送っているコリント教会というところは、そうでないようであります。六章の八節からみますと、「あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも兄弟に対してそういうことをしています。正しくない者が神の国を受け継げないことを知らないのですか。みだらな者、偶像を礼拝をする者、姦通をする者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者もいました」と、書いているのです。

 「あなたがたの中にそのような人がいた」とパウロは書いているのです。それだけではなく、現在も「不義を行い、奪い取る者」がいるというのです。五章では、「異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものにしている人」がいるということをパウロは書いているのであります。

 こういうところをみますと、教会というところは、あらためて罪人の集まりであるということが、わかります。
 われわれの教会、松原教会もまた罪人の集まりであります。しかし、われわれはこの「罪人」という言葉を使う時、ともすれば、大変高尚な意味で使っていないだろうか。それは何か心の問題、精神的な意味での罪人という意味で使っていないだろうか。

 だから、ある時には、特に教会の中では、「自分は罪人だ」という時には、それを言うときには誇らしげにいう時すらあるのではないか。それは「自分は自分の罪を知っている、自分の罪について苦しみ、悩んでいる、深刻に思っている」、それだけ、自分の罪を知らないでいる脳天気な人よりは、自分は精神的には高尚な人間なのだという自負すらあるのではないか。

 しかし、今パウロがここで問題にしている罪人というのは、そんな高尚な罪人のことではなく、文字どおりの罪人のことで、泥棒、酒におぼれる者、人の物を奪う者、あるいは、みだらな者、男娼、姦通する者と、とりあげて、以前にはそういう人もいたというのであります。

 もし、われわれの教会の中にそういうことをした人が礼拝に出席するようになったとしたら、われわれはその人を受け入れることができるだろうか。たとえ、その人が今は真面目になったとしても、われわれは現実問題としては、なかなかそういう人を受け入れることはできないのではないか。その人はなにか場違いなところに来ているのではないかとわれわれは思うのではないか。

 特にプロテスタント教会、特に日本のプロテスタント教会には、いわゆる真面目な人が多く集まっていて、そういう人がくると、なにかどうあつかっていいかわからなくなるというところがあるのではないか。

 カトリック教会というのは、もう少し、ふところが深いところがあって、つまり悪くいえば、いいかげんなところがあって、特に告解という制度があって、一年に一度神父のところにいって、告解すれば、つまり罪の告白をすれば、罪は赦されると具体的に神父から宣言されるという制度がありますから、どんなに罪を犯しても、告解さえすれば、教会につらなることができるようであります。よくイタリアの映画なんかみますと、教会には、マフィアが教会に多額の寄付して教会に集まっているようなのであります。

 しかしわれわれプロテスタント教会、特に日本のプロテスタント教会には、そういう雰囲気というのはないと思います。わたしも牧師として、そういう人が松原教会に来たら、とうてい対応できないと思います。だいたい、そういう人と生まれ育ってからつきあったという経験がないから、それはある意味では仕方のないことだと思います。わたしなどは、酒というものが体質的に飲めませんから、酔っぱらいの人にすら、対応できないのです。この教会にはおりませんが、前にいた教会には、ふだんは真面目な青年ですが、酒に酔うと別に乱暴をはたらくわけではないのですが、決して犯罪を働くわけではないのですが、酒に酔っているというだけで、わたしはもうその人とはまともな話ができないというところがあって、自分の牧師としての限界を痛切に感じたものでした。

 われわれは、現にいる松原教会の中にいるわれわれが自分が罪人であると思う時には、やはり精神的な意味でそう思うのは、仕方のないことだと思います。仕方がないといういいかたはおかしいですが、そういう環境の中で育って来ておりますから、無理にわれわれが何か具体的に犯罪を犯すわけにはいかないわけですから、われわれが罪というものを精神的な意味で理解せざるを得ないと思います。
 
 しかしそうであったとしても、われわれがそのように精神的に理解し、自覚している罪、自分は罪人だという思いは、ここでいわれている、みだらな者、泥棒といわれる人と全く同じことなのだと自覚しておく必要があるのではないか。
 少なくとも観念的にせよ、つまり頭だけのことにせよ、自分はその人と全く同じレベルの罪人だと自覚しておく必要はあるのではないかと思います。
 
教会は善人の集まりであるわけではなく、罪人の集まりのなのです。そのことはわれわれがよく知っていることであります。しかし、パウロはこういうのです。九節です。「正しくない者が神の国を受け継げないことを知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」というのです。
 「正しくない者が神の国を受け継ぐことができない」というのは、常識的にはよくわかる言葉です。しかしそう言われてしまえば、教会は罪人の集まりであり、 主イエスが義人を招くために来たのではなく、罪人を招くために来たといわれ、そのようにして集められた者が教会となったのであれば、教会はまさに、本当の意味で、罪人の集まり、泥棒、人の物を奪う者と同じ意味で罪人の集まりの筈であります。それでは教会は神の国を受け継ぐことがてぎないのでしょうか。

 神の国を受け継ぐのは正しい人なのでしょうか。いわゆる正しい人は神の国を受け継ぐことができるでしょうか。
 ある人がここの説教でこういっております。「神の国とは神の支配しているところである。神が支配しておられることを現すのは、正しい人、正しいと自ら思っている人だろうか。自分が正しいと思っている人は、神の支配を現さないで、かえって、人間の支配、人間の正しさを現すものではないか。正しい人は、神が正しいというとは限らない。神のなさることが気に入らなければ、いつも神を呪い、神に悪態をつくだろう。正しい者は自分であって、自分が正しい時に、神はこの世を支配されるということになるのではないか」というのです。

 そしてこういうのです。「神の国をつぐのは教会である。それは罪人の集まりである教会である。それは罪人こそ、神の正しさを現すことができるからだ。罪人は自分の中に何の正しさを認めることができない。ただ、神が自分を正しいと扱ってくださることによって、自分を通して、神の支配を現すことができる。罪人は自分の正しさを知らない。自分がこうして生きていることができるのは、神の正しさのおかげであると言うことが分かっている。それゆえに、罪人は神の国をつぐことができるのである」と言っているのであります。

神の正しさをあらわすことができるのは、正しい人間ではない、自分は正しいことをしていると思っている者ではない、罪人が神の正しさをあらわすことができるのだというのです。

 パウロは、「人を悪く言う者、人の物を奪う者は決して神の国を受け継ぐことはできない」と言ったあと、「あなたがたの中にはそのような者もいました。しし今は、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」というのです。本当は、ここには、「今は」という言葉はないのですが、ここでは「今は」という言葉を入れたほうがはっきりすると思います。「今は、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」。
 
 つまり、教会は罪人の集まりではあるが、しかしそれは神によって罪赦され、清められ、救われた者の集まりなのです。そういう自分の罪を自覚し、しかも神によってその罪が赦された者の集まり、そのわれわれの教会が神の国をつぐことができるのであります。

 そういう集まりである教会の中で争いが起こった時にどうしたらよいかというのが、今パウロがコリント教会に告げようとしていることなのであります。

 六章の一節をみますと、「あなたがたの間で、一人が仲間と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴えでるようなことを、なぜするのか」ということであります。

 ここで言われている「正しくない人々」とはこの世の裁判官のことであります。四節で、「教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのか」といわれております。当時のコリントの町では、裁判官というのがどのように位置づけをされているのかわかりませんが、ここでいわれているのが、今日のようにしっかりとした裁判制度というのができていないで、争いごとが起こった時に、そのつど町の有力者なる者を裁判官の席につかせていたのかもしれません。

 三節をみますと、「わたしたちが天使たちさえ裁く力がないのか」といっているところをみますと、その当時でもやはりこの世の裁判官は天使に匹敵するくらいに立派な人だったのかもしれません。

 しかしその天使に匹敵するくらいの優秀な尊敬される裁判官ですら、教会の中の争いごとは教会の外の人に持ち出すべきではないとパウロはいうのです。何故なら、「聖なる者たちが世を裁くのに、世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたはささいな事件すら裁く力がないのか」というのです。

 もちろんこれは、今日そのまま教会の一切の争いごとに適用できるわけはないと思います。教会はこの世の裁判制度を否定するものではないと思います。

 わたしの前任地の教会でも、隣の家との間に塀を建てようと言うときに、境界線の問題で争いが起こり、話しあいでは解決がつかなくて、調停にもちだされたことがありました。その時わたしは、それこそ調停にもちだすくらいなら、わすがな土地の問題なのだから、いっそのことゆずってしまってもいいのではないかとも思いましたが、しかし長い間教会の先輩たちが守ってきた土地をよそからきた若造の牧師の判断でそんなことはしてはいけないという思いがありましたから、調停にでましたが、しかしそれはやはり神経をすりへらすいやな思い出ではあったわけです。

 ここでのパウロが問題にとしているのは、そういう教会とこの世の外との問題ではなくて、教会の内部の仲間どうしの争いのようであります。六節に「兄弟が兄弟を訴えるのですか」といっているのです。どのようなことでそういう争いが起こっているかわかりません。「そのように裁判沙汰になること自体が、すでにあなたがたの負けです」とパウロはいいます。

 そしてパウロはこういうのです。「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのか。なぜ、むしろ奪われるままでいないのか」というのです。口語訳では、「なぜ不義を受けないのか。なぜむしろ、騙されていないのか」となっております。

 教会の中の争いが起こった時に、その解決の仕方、その正義のあらわしかたはただ正しさを主張することではなく、むしろ不義を甘んじて受けること、むしろ騙されているということではないかというのです。

 なぜそうなのかといえば、教会に今招かれたわれわれはみなそのようにしてイエス・キリストから招かれてここに来ているからだということであります。われわれ罪人に対して、イエス・キリストはご自分がわれわれの不義を受けて、黙々とそのわれわれの罪を背負って十字架についてくださったことによって、われわれの罪を赦し、神の正義をわれわれに示してくださったからであります。

 神の正しさは、ただ正義を主張することによって示されたのではなく、人間の不義を甘んじて受けて、神がいわばだまされて、奪われて、辱めを受けて、人間の罪を赦すことによって、その正しさを示されたのであります。

 そのようにして今集められている教会は、またそのようにして正しさというものを示すべきではないか。そのようにして、正しさというのをこの世にしめすべきではないか、そのようにしてこの世の正しさというものの限界を示し、この世の正しさを裁くべきではないかというのであります。
 
 なぜなら、ただ正義を主張する、自分は絶対に正しいと主張するだけでは、自分を絶対化するという一番大きな罪を犯していることになるからであります。そこには相手の弱さを顧みるという、相手に対するいたわり、相手を愛するという正しさ、正しさの中でも一番正しい正しさをないがしろにしているからであります。教会が示す正しさは、愛の正しさであります。それを世間に示さなくてはならないということであります。
 
 わたしが敬愛している牧師の教会でこういうことがあったそうです。これはその教会に出席している人からの話で、どれだけ正確かはわかりませんが、婦人部のなかで、会費をめぐる問題が起こった。ある老人が月々の会費を納めているのに、それが納めていないと要求されていると部長さんのところに文句をいいにきたというのです。どうもその老人は少しボケが始まっている老人だったというのです。それで部長さんは帳簿を示してあなたの会費は納まっていないと丁寧に説明しても、納得してもらえず、あげくのはてには、部長さんがちょろまかしているのではないかと疑われたというのです。そのことを部長さんが牧師に訴えた。そうしたら、牧師はその部長さんに、「なぜ騙されてあげないのか」といって叱ったというのです。その牧師のいいかたにも問題はあったのでしょうが、それで部長さんは腹を立てて、婦人部の部長をもう辞めるといいだしたら、牧師はそれでは辞めてくださいとあっさりといったので、その教会ではもう婦人部の部長のなり手がなくなって、いっとき婦人部が解散状態になったというのです。

 まあ、その牧師も少し変わっているところがありますから、どう変わっているかというと、決して人に媚びないというところのある牧師でしたから、その点でわたしは大変その牧師を尊敬しているのですが、信徒に決して媚びることのない牧師ですから、信徒からも誤解されるところがあるのですが、しかし、わたしはその話を聞いていて、いいかたはどうあれ、やはりその牧師のいいぶんは正しいと思うのです。その表現の仕方、その対処かたには、いろいろと配慮しなくてはならないと思いますが、しかし基本的にはその牧師のいいぶんは正しいと思うのです。

 それはまさに「なぜ不義を甘んじて受けないのか、なぜだまされていてあけないのか」ということであります。

 それはわれわれ自身がそのようにして、今教会の中に集められているからであります。キリストの十字架において示された神の正しさは、そのようにしてわれわれに示されたからであります。