「聖霊の宿る体」 コリントT 六章一二ー二○節

 「わたしには、すべてのことが許されている」、この言葉はなんと慰めに満ちた言葉ではないでしょうか。これは律法というもので、何をしてはいけない、かにはしてはいけないと、がんじがらめに縛られたユダヤ人にとって、なんとありがたい言葉ではないでしょうか。いや、これはユダヤ人だけでなく、律法主義的なキリスト教というものに捕らわれているわれわれにとっても、この言葉は慰めに満ちた言葉だと思います。

 自分自身のことになりますが、キリスト教に触れてから、そして洗礼を受けてからも、キリスト教というものは、これはしてはならない、あれはしてはならないと聖書によって縛られること、それが信仰生活だと思っていたわたしにとっても、この言葉はどんなに慰めに満ちた言葉であったかわからないのであります。
 神に赦されるということ、罪赦されたということはこういうことだったのだと思ったものであります。

 ところが、今われわれが読んでいる新共同訳聖書では、この句は括弧に入って訳されております。口語訳では、この言葉は括弧に入っておりません。「すべてのことはわたしには許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしには何ものにも支配されることはない」となっております。つまり、すべてこの言葉はパウロの言葉として訳されているのであります。

 ところが、新共同訳では、「すべてのことはわたしに許されている」というところは、括弧に入って訳されております。つまり、この言葉は、パウロ自身の言葉ではなく、誰かの言った言葉として訳されていて、それに対して、「しかし、すべてのことが益になるわけではない」というところが、パウロの言葉だという理解になっているのであります。

 つまりこのコリントの信徒への手紙でいえば、この言葉は、コリント教会のなかで、みだらな生活、特に性的にみだらな生活をしている人の言葉として、とりあげられ、それに対して、パウロがそれを訂正するようにして、「しかし、すべてのことが益になるわけではない」と話をすすめているという理解になるわけであります。

 最近の聖書学の理解ではそのようになっているようなのであります。ほかの訳でもそうなっております。時々紹介しますリビングバイブルではこう訳しております。「キリスト様が禁じておられること以外は、私には、何でもする自由があります。しかしその中には、自分のためにならないこともあります。たとい、してよいことであっても、それに捕らえられたら最後、やめようとしても簡単にやめられないことには、手を出しません」と大変苦心して訳されてりおます。

 こういう訳をみてもわかりますが、「わたしにはすべてのことが許されている」という言葉がどんなに大胆な言葉、いや大変危険な言葉であるかがわかると思います。

 「すべてのことはゆるされている」という言葉は、パウロがいった言葉なのか、それともコリント教会のみだらなことにふけっている人の、自分の行動を弁明するための言葉なのか。しかし、どちらにせよ、パウロはこの言葉を否定はしていないのです。「その通りだ、しかし」と、話を進めているのであります。ですから、口語訳のようにこの言葉をパウロ自身の言葉として理解しても間違いはないのです。だいたい、原文には、括弧などないのです。
 
 おそらくこの言葉は、かつてパウロが述べて言葉だったろうと想像がつきます。つまり、パウロは、ガラテヤの信徒への手紙でも「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださった」という言葉がありますように、パウロは律法からの自由というのを説いて、われわれのユダヤ教的な律法主義からの解放、自由を説いて、救いというものをわれわれに示したわけです。

 ですから、「すべてのことはわたしには許されている」という言葉は、もともとはパウロ自身がかつてコリント教会の人々に語った言葉だったということは大いにあり得ることであります。しかしそれがコリント教会では、悪用されてしまった。それなら、何をしても許される、なにをしてもいいんだ、もう律法というものから解放されたのだと、暴飲暴食が始まり、性的にも自由になって、なにをしても許されるということになったようなのであります。

 パウロは自分の言った言葉を、ここであわてて訂正しようとしているのか。ある意味ではそうであるかもしれません。しかし、その場合、パウロはもちろん自分がかつて言った言葉を否定して、訂正しようとしているわけではないのです。「すべてのことはわたしには許されている」、確かにその通りだと、その言葉を肯定して、その後で、「しかしすべてのことが益になるわけではない」と述べるのであります。

 その後も「すべてのことは許されている、しかし、わたしには何事にも支配されはしない」と、やはり前の言葉を肯定した上で、話を進めているのであります。

 それはリビングバイブルが訳しているように、「キリスト様が禁じておられること以外、わたしに何でもする自由があります」というような話ではないのです。こんなことでは自由でもなんでもないことになります。これではひとつも律法主義からの自由ではなくなってしまう。再び、キリスト様の禁じている律法に縛られることになってしまうことになるからであります。

 問題はわれわれがどのようにして、あの律法主義から解放されるかということです。そのためには、「わたしにはすべてのことが許されている」というこの言葉をなんらかの意味で制限するようなことを二度としてはならないということであります。

 「わたしにはすべてのことが許されている」というこの言葉をどんなことがあっても否定したり、訂正したりしてはならない、この言葉をわれわれは大胆に信じなくてはならない、一度はこの言葉を大胆に、手放しで、なんの制限も付け加えないで、本当に信じなくてはならないと思います。救われる、キリストの十字架によって救われるということは、こんな大胆なことを言い切れることが許されることなのだと信じなくてはならないと思うのであります。

 パウロは、確かにこの言葉を語ったり、あるいは、彼はこの言葉を引用したのかもしれませんが、この言葉のあとに、「しかし」という言葉で、この言葉を訂正したり、制限したりしているようでありますが、パウロがその場合どのようにして訂正しているかということであります。

 それはひとつは、「しかし、すべてのことが益になるわけではない」という言葉であります。「すべてのことが許されている」ということを、訂正しようとするときに、パウロは、自分にとっての損得の問題から、この問題を考えているのであります。
 律法は、律法主義というものは、自分以外の他のものが圧力をかけてきて、お前はこれはしてはいけない、あれはしてはいけないと、外から規制し、縛ってくるものであります。

 それに対して、パウロはここでは、外のからの圧力ではなく、自分の問題として、損得の問題から、これは得だ、これは損だということで考えようとしているのであります。外からの圧力ではなく、自分の考えで、これは自分にとって得だ、自分にとって損だ、だから止めようという決断を自分がするということなのです。

 同じ制限でも外からの圧力で、これはしてはいけない、あれもしてはいけないということと、自分自身の判断でこれはやめておこう、あれはやめておこうと決断するのとは、違うのではないかと思います。

 それが、次のパウロの言葉です。「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」という言葉です。外からの圧力に支配されて、こうしなくてはならない、ああしなくてはならないというので、それを止めるのではない、自分の自由な判断と決断で、これを止めようとするのだということであります。ここには自由というものがあります。場合によっては、外からの力で、たとえば、アルコール中毒になってしまった時には、自分の意志だけではどうにもならなくなって、強制的に入院しなくてはならないかもしれません。しかし、それも自分の自由な意志からそうする筈であることには変わりないと思います。

 「すべてのことは許されている」のです。何をしてもいいのです。何でもできるのです。律法から解放されるということは、そういう自由を与えられたということなのです。それならば、われわれは何でも好きなことをしていって、それが本当に自分にとってすべてのことが益になるだろうか。得することになるだろうか。好きなだけお酒を飲んでもいいのです。しかし好きなだけ酒を飲んでいって、自分の得になるだろうか。暴飲暴食をしてもいいのです。しかしそういうことをしていって、本当に得するだろうか。それは結局は損するこになるのではないか。体をこわすことになるだろう。それでは何にもならないではないか。それならば、お酒を飲み過ぎるのを自主規制しよう、控えよう、自分の意志で、自分の主体的な意志と決断で、暴飲暴食をやめよう、それは自分にとって益にならないからであります。第一好きなことを言っていたら、人に嫌われると思います。それは自分にとって損になると思います。

 そのあと、パウロはこういいます。「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされる」。食欲という欲望は、ある程度腹が満たされれば、それで腹のほうは満足してくれる、それはあまりたいした問題ではない。われわれの命はいずれ滅びることになるのだから、年をとれば食欲もいずれなくなってくるだろうから、というのです。

 しかし、性的な欲望はそういうわけにはいかない、みだらな性的な生活は、そういうわけにはいかないだろうというのです。ここでは、主として、娼婦と交わるというみだらな性の生活のことが問題とされています。娼婦との性的な乱れは、からだそのものを滅ぼしてしまう、ここでいう体というのは、単なる肉体としてのからだではなく、われわれの心とか精神とか、あるいは、魂そのものを含んだ人間全体のことであります。

 食物は単なる肉体としてのからだの欲望にかかわる問題で、それは食欲が満たされればそれで終わりというところがある、それが魂の問題にまで深くかかわることはない。もちろん、場合によっては、魂の問題まで深くかかわることも今日ではあるようであります。拒食症とか、肥満とか、それは精神の病まで深くかかわることもありますが、それはここでは考えられていません。

 しかし性の乱れは、単なる肉体の問題だけにとどまることなく、われわれの魂まで、精神まで侵入してくる問題であります。つまり、それはわれわれの信仰そのまでに深くかかわっているものをもっているのであります。
 言葉をかえていえば、神様が主人でなくなって、性的欲望が主人づらをするようになって、自分がその性の欲望の奴隷になってしまうということであります。

 それが一八節でいおうとしていることであります。「みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にある。しかしみだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯すということになる」というのです。
 性的なみだらな行いをするということは、自分の体の外にではなく、自分の体そのものに対して罪を犯すというのは、自分の体の一番奥にある魂そのものまでも罪を犯すことになるということであります。

 つまり、それは主なる神を捨てて、娼婦と一体になるからだというのであります。それはわれわれの肉体としてのからだにとどまらずに、体の中にある魂までに侵入してきて、われわれを支配し、われわれがもっとも大事にしているあの自由、キリストによって与えられた自由というものを奪い取ってしまうことになるというのであります。

 それは今日では、なにも性的な乱れということだけでなく、アルコール中毒とか、もっと恐ろしいのは、麻薬、ドラッグという麻薬もそうであります。なにをしても自由なのだ、だから酒も自由に飲もう、麻薬も自分の意志でのむのだからいいではないかと思っているうちに、いつのまにか、その酒が、そのドラッグが自分を支配し、自分を奴隷にして、その虜になって、体も魂もぼろぼろになってしまうのであります。自由だ、自由だといって始めたことが、いつのまにか、自分の欲望という自由によって、侵略されて、その自由ということで、逆に自由がふりまわされてしまって、自由を失っていくのであります。

 わがままな人間というのは、自由に振る舞っているようでいて、一番もてあましているのは、自分のわがままさではないかと思います。わがままな人といのうは、はたでみていても、本当にお気の毒で、少しも楽しそうでないのです。いつも自分のわがままさに振り回されて、いらいらしているのではないでしょうか。そこには少しも自由は感じられないのです。

 パウロはガラテヤの信徒への手紙の中でこう言うのです。自由を得させるためにキリストはわたしたちを解放してくださった、自由にしてくださったのだ。だから堅く立って、しっかりして、二度と奴隷のくびきにつながってはならない」というのです。
 ガラテヤの信徒への手紙でいう「二度と奴隷というくびきにつながってはならない」と言うときの「奴隷」というのは、再び律法主義に陥るな、ということでありますが、このコリントの信徒への手紙では、その奴隷は、自分の中にある欲望の奴隷になるな、ということであり、それによって、せっかくキリストによって与えられた自由を失うなということであります。

 「すべては許されている」という自由を、自分の我が儘さとか、自分の欲望、特に、性的な欲望、ドラッグとかお酒とか、そういう麻薬的なものによって、引きずりまわされて、その自由を失うなということであります。

 今日学びたい最後のことは、そのことを諭すときに、パウロはどういう論調で諭そうとしているかということであります。それは律法がいうように、そういうみだらな生活をしていると、神の裁きが下って、やがては最後には地獄行きだといって、いわば外から脅かして、乱れた生活を止めさせようとしているのではないということなのです。
 そうではなくて、一九節をみますとこういうのです。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいていた聖霊の宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」といいます。

 つまり、あなたがどんなに神の愛を受けているものであるかを知らないのか、神から大事にされていることを知らないのか。キリストの命という代価を払ってもらって、われわれは救われた者ではないか。それほど神に愛されている者ではないか。その命をそんなもので滅ぼしてしまっていいのか、ということなのであります。

律法主義は、そんなみだらな生活をしていたら、地獄行きだといって脅かして、われわれの自由な生活を制限しようとするのに対して、ここでは、神がどんなにお前を愛しているか、その神を悲しませていいのか、その神の愛をないがしろにしていいいのか、もっともっと自分のからだというもの、自分というものを大事にしたらどうか、とあくまで、われわれの主体、われわれの自由意志というものを尊重して、みだらな生活を止めさせようとしているということなのであります。

 一三節にある言葉も同じであります。「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられる」ということは、体は主のためにある、というのは、体は主のために奉仕するためにあるということてばなく、われわれの体は主イエス・キリストによって愛されている、だからわれわれは主を愛するためにあるということであります。われわれは主と一体化するほどに深い愛の関係にあるのだ、その主を裏切っていいのかということであります。その主を悲しませていいのか、その主と離れて、娼婦と一体化していいのかということであります。

 パウロは「すべてのことは許されている」というキリスト者の自由、キリストの十字架の贖いよって与えられた自由を、再び、律法というもので、こうしてはならない、こんなことをしたら、神の裁きにあって、地獄行きだとおどかしてその自由を制限するのではないのです。そうではなくて、神の愛をもって、その許された自由を本当の自由に、もっと豊かな自由にしなさいと、われわれを促すのであります。

 パウロは最後に、「だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」といいます。われわれは傷ひとつない清純な体を神様に捧げたいとみな思っていると思います。しかしそんな体をわれわれは捧げることができるはずはないのです。
 われわれが捧げることのできる体は、われわれが罪と戦って、片手を切り落とした体であります。情欲と戦って片目を切り落とした体であるかもしれません。火の中をくぐってきた者のような全身やけどらけの体であります。それを神に捧げるのであります。そしてそれが神を喜ばせるのではないでしょうか。

なぜなら、神が喜ばれるの無傷な完全な子羊の供え物ではなく、われわれの悔いた砕けた魂だからであります。