「神のもとにある結婚活」   コリントT 七章一ー一六節

 今日の説教題は、変な題になりました。本当は「主にある結婚生活」にしたかったのですが、それでは外部向けの看板では、何がなんだがわからないし、「主イエスのもとにある結婚生活」とすればよいのでしょうが、それもなにかおかしいしというわけで、苦肉の策で「神のもとにある結婚生活」と名付けました。

 今日の説教は、題だけでなく、実は内容も大変説教しにくい箇所であります。さきほど今日の箇所を読んだだけでわかると思いますが、ここでは、結婚というものが大変消極的に、二節をみますと「みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫をもちなさい」とありますように、結婚というのは、自分たちの中にある情欲を抑制するために仕方なくあるというようなことが勧められているのであります。

 われわれはここからキリスト教では、結婚とは何かなどということを正面きってとりあげるべきではないし、そうしてはならないところであります。あの創世記にありますように、「人はひとりでいるのはよくない」というところから、男と女が神によって創造されたという結婚についての本質的な教えは、ここにはみられないのであります。

 ここはただ今までの話の続きで、コリントの教会の中で起こっている「みだらな生活」をしないためにはどうしたらよいかということがテーマなのであります。一節に、「そちらから書いてよこしたことについて言えば」とありますように、コリントの教会のなかでみだらな生活をする人たちがいて、それが教会のなかで問題を引き起こしている、それに対する答えとして、ほんとうならば、「男は女に触れない方がよい」と言い、しかし人間の情欲という欲望を抑えることはできないのだから、それを避けるために結婚しなさいと勧められているのであります。本当からいえば、パウロ自身がそうであるように、独身でいたほうがいいというのであります。八節に、「未婚者にいいますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう」というのです。

 それならば、パウロは結婚生活の経験はないのかとということになりますと、ある学者がいうには、いや、パウロは結婚生活をしていた筈だというのです。それは、パウロはクリスチャンになる前はユダヤ教のラビ、つまり律法の教師だった。そしてパウロ自身が自分はユダヤの律法や言い伝えの規定を忠実に守ってきたといっている。正統派のユダヤ人としては結婚は義務だった。結婚しないで、子どもを持たない者は、「子孫を殺した」とか、「この世にある神の似像を減少させた」とかいわれたというのです。そして天国から破門される者としては「妻を持たぬユダヤ人、もしくは妻があっても子どものないユダヤ人」ということになっていたというのです。

 またパウロはかつてはサンヘドリン、ユダヤの最高法院の一員であった、つまり今の日本で言えば、国会の議員であった。そしてサンヘドリンのメンバーは結婚していることが条件であった筈だというのです。だから、パウロは当然結婚していた筈だとその学者はいうのです。
 今、パウロが独りでいるというのは、妻と死別したのか、あるいは、彼がクリスチャンに転向したときに、パウロの妻は彼を捨てて離婚したのかもしれない。パウロはキリストのためにすべてを自分は失ったといっているところがありますが、そのすべての中には、この妻のことも含まれているのかもしれないというのです。

 ペテロも結婚はしていたのであります。コリントの手紙の九章には、「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファ、つまりペテロのことですが、ケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がいなのか」といっているところがあります。

 パウロはかつては結婚していたのかもしれませんが、しかし今はすくなくも独りでいるのは確かなのです。そしてパウロはどうもそのほうが自分にとってはよいことだと考えているようであります。結婚生活の煩わしさから逃れられていることを喜んでいるようであります。うがったみかたをすれば、パウロにとっては結婚生活はあまり楽しくはなかったのかもしれません。
 ですから、ここからキリスト教の、あるいは聖書の結婚の本質的な意味を考えることはできないと思います。

 しかし、もしその学者のいうことが正しいとすれば、パウロの自分の苦い結婚生活の体験から、かえって、結婚のひとつの面をわれわれはみることになるのかもしれません。
 幸福な結婚生活から結婚の本質を見ることももちろんできますが、不幸な結婚生活からもまた結婚の本質をみることもできるものであります。

 われわれ信仰者にとっては、結婚というものが、結婚生活がすべてではない、男と女、夫と妻という交わりが究極のものではない、家族という関係がすべてではないということであります。われわれ信仰者にとって、一番大事なことは神との交わりであるということであります。それは七章の三五節にありますように「このようにいうのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです」ということなのです。

 これは幸福な結婚生活をしている者には、かえって見えなくさせてしまうことになるかもしれないのであります。
 それはたとえば、死ということを経験する、愛する者の死ということを経験することによって、われわれにとって本当の生はなにかということがみえてくるようなことであります。

 そして、ここの箇所では、結婚生活のことをとりあげることによって、そして幸福な、そして積極的な結婚生活の意義について語るのではなく、不幸な結婚生活になりかねない結婚について語ることによって、あるいは結婚というものの消極的な意味を語ることによって、単に結婚生活の問題を超えて、もつとわれわれ信仰者にとって何が一番大事な生き方かを教えているところではないかと思います。

 それはパウロがここで人間の弱さとうことを醒めた目でしっかりとみつめて、信仰生活をしなければならないということを、このことを通してわれわれに教えているということであります。

 ここでとりあげているのは、人間の情欲というものの弱さであります。そしてその人間の情欲の弱さをしっかりと見据えた上で、パウロはそれに対してわれわれ信仰者はどうしたらよいかということを語っているのであります。

 パウロはその人間のどうしようもない情欲を見すえたうえで、それを抑制しなさいとか禁欲しなさいとは決して勧めてはいないのです。五節をみますと、「あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです」といっているのです。

 つまりわれわれ人間には、信仰者といえども、情欲というものを抑制することなどできない、少なくも、自分の力で、自分の精神力で、修養をすることによって、鍛えることによって人間の、自分の情欲を抑制することなどできるものではない、われわれがそれができるなどと思い上がっていると、それに乗じてサタンにつけ込まれてしまうというのです。

 われわれ人間の情欲を見据えて、われわれとしてはどうしたらよいか。仏教だったらどういうか。それは切って捨てよというかもしれません。少なくも精神力で、何かを鍛えることによって、それを無くしてしまえというかもしれない。抑制するしなさいというかもしれない。仏教にもいろいろあると思いますが、そのように教えるかもしれないと思います。それはわれわれにはそうする力があるのだと考えているからであります。

 いや、仏教のの問題ではなく、われわれのキリスト教のなかでもカトリック教会では、聖職者は独身でなければならないということのようであります。それはこの事は信仰の力で抑制できることだと考えているからだと思います。

 しかしパウロはそうは考えていないのです。そんなことはできないというのがここでのパウロの考えであります。 

 パウロの考えは、人間の欲情を抑制しようなどということに勢力を傾けるなということであります。そんなことに勢力を傾けるという空しい努力をするなということであります。そんなことに勢力を傾けることによって、人間はかえってゆがんだものになっていくということであります。それは今日の深層心理学が明らかにしていることであります。現にカトリックの聖職者の間では、同性愛の問題とか、少年愛の問題、性にまつわるさまざまな問題が深刻になっているようであります。

 われわれ信仰者にとっての最大の問題は、自分の情欲と戦ってそれに成功して、高潔な人格者になることではないということなのです。そんな品位のある人格者になることが聖化ではないということなのです。そうではなくて、どんなことをしてもいいから、ただひたすら主に仕える生活で、それが品位のある生活なのだということであります。ただひたすら、主に仕える生活というのは、生涯結婚しないで、修道院にでも入って、そうしてようやくできるこというのではなく、結婚していてもできることなのだということなのです。いや、かえって結婚していたほうができるかもしれないということなのであります。
 
 パウロは結婚というものをここではずいぶん消極的にしか評価していないようであります。それはひとつにはこの時代の特殊事情があったようであります。それはもうすぐ終末の時は来るという緊迫感があったということなのです。少し先取りして学べば、七章の二九節からのところで、パウロはこういっているのです。「定められた時は迫っている。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」といって、この世の終末は近いのだから、そして終末がきたらこの世の問題はすべてなくなるのだから、この世の事はは過ぎ去るのだから、いってみれば、この世の問題に対してはほどほどにしなさいといっているのです。

結婚だって所詮この世の問題なのだというのです。ほどほどにしなさいというと、なにか大変無責任のようにきこえますが、ともかく絶対的なもの、神との関わりということが一番大切なのだから、あとの相対的なことは相対的に関わりなさいということであります。
 
 もちろん今日のわれわれにとっても終末に対する緊迫感というものをもっていなくてはならないのです。終末というとなにか難しく聞こえますが、もっと身近なことでいえば、自分の死ということです。死というのは、いつ来るからわからない、今日交通事故にあうかも知れない。突然死ということもある。それは年をとってずっと先のことであるとはかぎらない。だから今日のわれわれにとっても、パウロの時代と同じように、「定まった時は迫っている」ということはいつもいえることだし、その覚悟をしておかなくてはならないのです。しかし同時にそれは神様が定める時なので、われわれ人間が勝手に終末感をあおりたてて、いたずらに緊迫感をもてとあおり立てることもいかにも作為的で、人間的な傲慢な演出であります。終末がいつくるかということは、神が決定することで、それは主イエスがいわれるように、父なる神だけが知っていることで、イエスすらしらないということなのです。

 だから一方では、われわれの人生は明日も続くという期待と予想を持って生活を立てていくことが大事なのです。神様は明日も用意してくださるという信頼をもって生きることも大切なことであります。そのためには、保険も入っておかなくてはならないだろうし、ある程度の貯金も必要なのです。

 そしてその一つに結婚生活という一夫一婦制という結婚生活も必要なのです。食欲という欲望ならば、腹が満たされれば、その欲望は消滅して問題はなくなりますが、性欲という欲望はそれが満たされればそれで終わりというわけにはいかない面を持っている。それはすでに学んだ六章の一八節にありますように、「人の犯す罪はすべて体の外にある。しかしみだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯す」とありますように、情欲という人間の欲望は、人間の魂にまで深く関わってくる問題、人間全体にかかわってくる深いものをもっているのです。

 だからこの人間の情欲をうまくコントロールするためには、一夫一婦制としての今日の結婚という生活様式が一番人間の知恵にあった形なのです。人間の知恵というよりは、神さまがわれわれに備えてくださった知恵なのです。

 繰り返しますが、聖書では結婚というものをもっと積極的にみています。人がひとりでいるのはよくない、だらか男と女という交わりが必要だということ言っています。人間そのものの本質から結婚ということを考えていると思います。交わりを必要としている人間の本質的な在り方として、結婚という形態、男と女という一夫一婦制という形が、その性の交わりということも含めて、一番人間の在り方として基本的なものとしてみているのであります。

 しかし同時に結婚ということは、やはりこの世に関わることで、それはやがて消え去るべきものである、それは場合によっては、単に人間の情欲の生活をみだらなものにしないための形態でしかないのだという、醒めた見方も大事だということなのです。結婚ということを絶対視したり、聖家族などと、やたらに結婚とか、処女とか人間の性にまつわる事柄を神聖なものとしないことも必要であります。だいたい、処女性とかを神聖視するのは、男性社会の男性が身勝手に作り出した神話ではないかと思います。

 大事なことは、ひたすら「主に仕える生活、どうすれば主に喜んでいただけるか」ということを求める生活、そのために、情欲という欲望にふりまされるくらいなばら、結婚しなさいとすすめ、たとえ、結婚していてもあるときには、祈りに時を過ごすために、しばらく別れるのも必要だというのです。

 そしてできるならば、ひとりのほうがいいといいとパウロは勧めるのです。信仰の違う夫と妻という場合には、信仰上の問題でうまくいかなくなれば、別れたほうがいいかもしれないとパウロは勧めるのであります。ここには、絶対結婚しなくてはならないとか、あるいは絶対に独身でなければならないとか、絶対に離婚してはならないとか、要するに、結婚にまつわることは所詮この世の問題なのだから、いっさい絶対という言葉は使うなということであります。

 パウロは六節では「もっともわたしは、そうしても差し支えないというのであって、そうしなさい、と命じるつもりはない」というのです。命令する場合には、自分は絶対に正しいという確信がある時にできることです。しかしパウロはここでは、そのように命令はしないというのです。それは自分のいうことに確信がないからではなく、人はみなそれぞれ違うし、それぞれおかれている環境が違うから、その立場を無視して自分の考えを絶対化して命令などできないということであります。

 結婚生活というのは、四六時中生活をひとりの人と共にするわけですから、そこでは、人間の弱さが一番露わにされるところであります。それはごまかしようがなく、その人間の弱さが露わにされるところであります。だから大事なことは、それぞれが自分の弱さ、相手の弱さというものを深く暖かく見守ってあげることが必要だということであります。相手の弱さを受け入れてあげることが必要だということであります。自分の信仰で、自分の正しさで相手を導こうなどとするなということであります。

 パウロは一八節で「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうかどうして分かるのか」といっているのであります。 

 もしパウロが結婚していて、彼がユダヤ教からキリスト教に転向したときに、妻とも別れたという推測が正しいとすれば、ここにはパウロの苦い経験から出た言葉であるかもしれないと思います。自分は自分の妻をユダヤ教からクリスチャンに導くことはできなかったという慚愧な思いがあったのかもしれません。

 パウロは一四節で、「信者でない夫は信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされいる。そうでなければ、あなたがたの子どもたちは汚れていることになるが、実際には聖なるものです」といっております。ここでは、パウロは「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なるものとされ」といっていますが、どうしてここで「救われている」という言葉をつかわないで、「聖なる者とされ」といっているのか不思議です。そうして最後には「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか」といっているところをみると、聖なる者とされるということと、救われるということどう違うのでしょうか。

 こう考えることはできないか。ここでは救われるということは、単純に洗礼を受けるという意味にとり、聖なる者とされる、ということは、洗礼はうけるまでにはいたらないけれど、妻の信仰に理解をしめすようになり、神を敬うようになるということ、つまり神の祝福のもとに入れられると言う意味にとってもいいのではないかと思います。それは何よりも「そうでなければ、子どもたちは汚れていることになる」という言葉が示すように、妻がクリスチャンで夫がそうでなくても、その間に生まれた子供は神の祝福からはずれたものではなく、十二分に神の祝福に預かっているといっているからであります。
 
 信者の妻が自分の信仰を振りかざして、夫に信仰をもてと迫ることがいいとは限らないとパウロはここでいっているわけです。そうならなくても、妻の謙虚な愛に満ちた言動で、それは夫に十分に影響を与え、神の祝福のもとに導いているではないかとここでパウロはいっているのではないかと思います。

 結婚生活においても、大事なことは信仰者の側の謙虚さということ、信仰を持っている側がそうでない人よりも自分の弱さということをよく知っていて神様に祈る生活をしているということではないかと思います。