「召された時のままで」 コリントT 七章一七ー二四節

 パウロは「おのおの主から与えられた分に応じて、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」と勧めます。そして、「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることがてぎるとしても、むしろそのままでいなさい」と勧めます。

 これはある意味では、ずいぶんひどい勧めではないかでしょうか。まるで体制側の人を喜ばすような保守的な言葉ではないでしょうか。特に新共同訳では、「自由の身になることができるとしても、むしろ、そのままでいなさい」と訳されています。ここは口語訳では「もし自由の身になりうるならば、むしろ自由になりなさい」となっていて、新共同訳とはまるで反対の意味に訳されているのであります。ここは原文では、どちらにも訳すことができる文のようであります。

 社会を改革することにエネルギーを使うことはない、自分の現状を改革しようなどとすることに全力を傾けることもないといっているようであります。まるで現状維持を勧めているようなのであります。ここからは、奴隷解放運動も、女性解放運動も起こりようがないのであります。しかし奴隷解放運動も、そして恐らく女性解放運動も、キリスト教から発せられたものであります。ひとりひとりの人間の人格を重んじようというキリスト教の思想から始まった解放だとおもわれます。しかしここにはそうしたことは勧められていないのです。

 それはこのときの特殊事情というものがあったのかもしれません。先週の説教でもふれましたが、ここではパウロは、この世の終わりの時、終末の時は近い、終末がきたら、この世の問題、結婚でも身分ということですら、もう問題はなくなってしまうのだから、そんなことにエネルギーを注ぐことはないということのようであります。奴隷という身分だって、それは所詮相対的なことなので、相対的なことを絶対的なこととして、つまりこれをなにがなんでも解放しなくてはならない、これを解決しないと、われわれには人生はないというような絶対にこれは必要だというようなことではないということであります。

 ですから、今日のようにそれほど終末、終末と、終末というものを切迫感をもって受け止めることができなくなっている今日の現状、明日もあさっても、そして来年も十年後もこの社会は続きそうだということをふまえて生きなくてはならないという今日の状況では、また違った倫理とか、社会問題というのは当然考えなくてはならいと思います。

 それではここでパウロが勧めていることは、今日のわれわれにとっては意味のない勧めなのか、これはただ現状維持を勧める保守的な、体制側を喜ばす勧めなのかということであります。そうではないと思います。ここからもわれわれは信仰に生きるとはどういうことなのかということを学ばなくてならないし、かえってこのところから何がわれわれ信仰者にとって本質的なことかということを学ぶことができると思います。それはわれわれにとっての自由ということであります。

 ここでパウロは「それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」といっておりますが、「身分」という言葉を使っておりますが、今日のわれわれ日本においては、「身分」というのは、もうないわけです。実質的な意味での身分というのはあるのかもしれませんが、少なくも法的な意味では身分というのはないわけですから、このパウロの勧めの言葉は意味がないのかといえば、そうではないと思います。

 といいますのは、パウロはここで「身分のままで」といっておりながら、すぐ次の言葉は「身分」ということを離れて、割礼を受けている者はどうしたらいいか、という問題を取り上げているからであります。ユダヤ教徒として割礼を受けている者はキリスト者になったときには、それを消さなくてはならないのかと問い、また割礼を受けていないで、クリスチャンになったものは、割礼を受けなくてはならないのかと言う問題をとりあげているからであります。もうここでは身分とは違う問題を扱っているのです。

 そして、次に「おのおの召されたときの身分のままでいなさい」というこにもどって、召されたときに奴隷であったならば、奴隷のままでいい、それを気にする必要はない」という言葉になっていくのであります。

 ですから、ここでいわれている「身分」という言葉は、ただ身分という意味ではなく、現在置かれている自分の状況、割礼を受けているかいないかという現在の状況、奴隷であるかないかという現在の状況、われわれのそれぞれのおかれている自分の環境とか、あるいは自分の今いる職場、今までわれわれが生きてきた自分の歩み、そして一七節で、「おのおの主から分け与えられている分に応じて、それぞれ神に召された時の身分のままで」といっていますから、ここで言われている身分という言葉を、それぞれわれわれに与えられている自分の個性という言葉に置き換えてもいいかと思います。

 われわれの今生きている現場は、それぞれ違うのです。環境も違うし、だいいち個性が違う、そしてその個性はそれぞれ神がおのおのに分け与えられたもので、それはひとりひとり違いがあるということであります。クリスチャンになったからといって、みな同じ顔をする必要はないし、また同じになってはいけないのだということであります。「おのおの主から分け与えられた分に応じて歩みなさい」というのであります。

 われわれの個性というものは、長い間自分が歩んできて過去の歴史というもので形成されてきたものであります。それはもって生まれた宿命的な遺伝というものをもって形成されてきたものであります。もちろん、DNAというもの、遺伝子がすべてが支配するとは思いませんが、それをもとにわれわれの人生が形成されていっていることは逃れられない事実であります。ですから、それはクリスチャンになったらからといって、簡単に自分の過去を捨てることなどできることではないし、長い間にかかって形成してきたものを一晩で変えることなどできるはずはないので、もし変えるとしてもこれから長い時間をかけて、その人がおのおの主から分け与えられた分に応じて、ゆっくりと、その人の個性に即してある人はあわてて変えようとするかもしれないし、いやある人はゆっくりと自分のペースで変えていこうとするかもしれません。

大事なことは、その人の分に応じて歩むということです。その人の歩幅に則し、歩くスピードに応じて歩むということであります。

わたしはキリスト教で大事なことの一つは、この個性を重んじるということであると思います。キリスト教倫理ということを考えるときに、この個性を尊重するということを無視して、キリスト教の倫理をうちだしたならば、その倫理は個性を無視しした律法主義の倫理になるのではないかと思います。その人の人格を重んじるということは、その人の個性を重んじるということであります。

 個性などというとかっこういいかもしれませんが、個性といってもその大部分はその人の我が儘さであるかもしれません。好き嫌いであります。しかしそれだって、だてにできた好き嫌いではなく、その人の体質から来たものであるかもしれないし、ある時に食べたものがあたって不快な思いをしたと言う経験からできたものかもしれない、それはその人の過去の積み重ねがつくりあげた個性なのですから、その個性を簡単に変えるなどということはできることではないのですから、その人を尊重するということは、その人の今まで歩んできたその人の歴史を重んじるということ、その人の過去を重んじるということであります。つまり、その人の個性を尊重するということが、その人の人格を尊重するということであり、そしてその人の個性を尊重するということが、その人の自由を重んじてあげるということではないかと思います。

 われわれは自分の自由というものがそういう意味で保証される時に、われわれは一番ほつとするのではないかと思うのです。教会のなかでも、この個性ということを重んじる、その人の自由というものを重んじる、それが信仰者の交わりのなかでどんなに大事かということでありす。

 二○節二一節で、「おのおの召された時の身分にとどまっていなさい。召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることがてきるとしても、むしろ、そのままでいなさい」といいます。さきほど「そのままでいなさい」という訳は問題だといいましたが、口語訳では「むしろ自由になりなさい」と訳していると紹介しましたが、最近でているもう一つの訳では、「各自はそれぞれが召された召し、まさにその召しのなかに留まっていなさい。あなたが奴隷として召されたのなら、そのことで悩まぬようにしなさい。しかし、たとえ、あなたが自由人になることができるとしても、あなたはむしろ、神の召しそのものは大切に用いなさい」と訳しております。

 ここでは、「身分」と訳されているところを「召し」と訳して、そして「神の召しそのものを大切にしなさい」と言う意味を込めて訳しているのであります。

 つまりここで大事なことは、神の召しだというのです。そして神の召しというのは、抽象的なことではなく、その人の置かれている身分とか職業とか、環境、その人の個性のなかで、起こっていることなのだから、その人の召された時の状況というものが大事だ、神の召しというのは、その人の置かれている時と場所、環境と切り離して起こったことではないということなのです。
 
 「召し」というのは聞き慣れない言葉かもしれません。それは神の救いということです。神の救いがわかったということです。神がこの自分を愛している、神がこの自分に神のもとに帰りなさい、神を信じなさいと神が呼びかけてくださる、それにわれわれが応えたということであります。神に呼びかけられ、その神の呼びかけが分かり、それに応えるということ、それが神の召しに応じるということであります。

 神がわれわれを召す時は、人によってそれぞれ違うのです。たとえば、重い病気のなかで苦しんでいる時に、神の召しを知ったかもしれない。その時の神の召しは本当に深い慰めの召しであったかもしれない。また何か罪を犯して苦しんでいる時に、神の激しい裁きを感じ、そして同時に神の赦しを聞いて、救われたのかもしれない。その時に聞いた神の召しは、その神の召しを、その自分の置かれた状況と切り離してはならないということなのであります。

 それは奴隷の身分にある人は、その奴隷の身分のままでキリストの救いを知り、神の召しを受けた人は、そこで本当の自由を味わったのです。それは「主にあって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だ」ということです。その奴隷の人は、身分的に自由人であった人が神に召された時よりも、もっと自由というものを味わったと思うのです。奴隷の時に召された人のほうが、自由人が神に召された時に味わった自由というものよりも、もっと現実的に、いやもっと本質的に自由というものを理解し、自由を味わったと思います。だから、その召された時の状況というもの中で、神の召しそのものを大切に受け止めることが大事だということであります。

 だから大事なことは、神の召し、神の救いの呼びかけを聞くことができたということなのである。それによって奴隷の身分のままで、本当の自由を味会うことができたということなのです。「主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者です」というのです。だから身分という環境を気にすることはないというのです。これはもちろん体制側の立場にいる人が、自分たちの利益のために使う言葉では決してないのです。

 その自由はどのようにして与えられたか。二三節をみますと、「あなたがたは身代金を払って買い取られたのだ」というのです、キリストの十字架の贖いによって、キリストが身代わりになってくださって救われたのだということであります。言葉をかえていえば、神がひとり子をわれわれの身代わりに十字架で死なせてくださったほどにわれわれを愛してくださった、それによってわれわれは救われのだということであります。

 ヨハネの第一の手紙では、こういわれています。「神は愛です。愛にとどまる人は、神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちのうちに全うされているので、裁きの日に確信をもつことできます」と言ったあと、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰をともない、恐れる者には愛が全うされていないからです」と続きます。
「愛には恐れはない、完全な愛は恐れを締め出す」のです。奴隷が一番恐れるのは罰という恐れであります。われわれが神の愛という完全な愛をうけることができるとき、いっさいの恐れから解放されるのです。神の罰という恐れ、恐れそのもの、根本的な恐れから解放される、だからもう人間の罰を恐れる必要はなくなるということであります。

 そして、われわれは恐れがなくなるとき、われわれは本当に自由になれるのであります。自由であるということは、いっさいの恐れから解放される、もうもう戦々恐々として生きなくてすむようになるという時、われわれは本当に自由になれるのであります。

 そして「主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです」といいます。主によって召された自由人は、わがまま放題のことをして、ただ自分の欲望のままに、いつもいつも自分中心にして生きればいいというのではなく、キリストに仕える、キリストの奴隷になる、キリストの僕になるという道を与えられるのであります。そうでないと、われわれの中にしぶとく潜んでいる自己、エゴイズムからは解放されないのです。われわれはキリストの奴隷になることによってはじめて、自分から解放される、自分の自我から解放され、自分中心という狭い世界から解放されるのであります。
 そしてそこから、奴隷解放運動が始まったのであります。奴隷を自分たち支配者側の欲望のままに使っていいのかという運動が始まったのです。

 奴隷解放運動が、ただ虐げられている側の下克上的な復讐心から、それだけで終始していたら、決して真の人間の解放運動にはならないと思います。その出だしはそこから始まるのでしょうが、それを受け止める側も、単に復讐されているのだと思うだけでなく、神の愛を受けている者として、その虐げられたいる者の叫びを聞かない限り、真の解放運動にはなり得ないと思います。

 今日の女性解放運動も、ただ女性と男性が平等になる、公平になるという運動ではなく、いつのまにか女性が男性になって、今度は男性を支配するという運動になりかねないのであります。それは愛の論理ではなく、復讐の論理であり、それでは真の解放運動にはならないのはないかと思います。

 「あなたがたは身代金を払って買い取られたのだ。人の奴隷になってはいけない」というのです。人の奴隷になってはいけないというのは、ここは自由な身分の人に言われている言葉ですから、ここでいう「人」とは、自分の中に根強く潜んでいる自我、自己主張、自分の権力志向、自分の欲望の奴隷になってはいけないということであります。

 そしてこれは、奴隷という身分のなかにいる人に対しても言われている言葉であります。奴隷という身分は、当時は具体的に主人の言いなりならざるをえないことかもしれない。雇い主である主人の奴隷になっているということであります。しかし、その奴隷に対しても、「人の奴隷になるな」といわれているのです。神の大いなる愛を受けているものとして、人の奴隷になるな、主人を恐れるな、ということであります。主人を恐れなくなった時に、そこには自由があるはずであります。

 「おのおの主から分け与えられた分に応じて、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」といいます。これは言葉をかえていえば、「そのままでいい」ということであります。「あるがままでいい」ということであります。少なくも、そこから歩み出せということであります。そこから、それぞれが自分の歩みで、自分の歩くスピードで歩んでいけばいい、他人の真似をする必要はない、クリスチャンはこうあるべきだとなどというつまらない言葉にとらわれる必要はないということであります。
 
 ある人が、すべてのことは、「そうだ、それでよろしい」という神の憐れみ深い言葉によるのだといっております。その言葉は、今死んでいこうとしている人に対して、言った言葉であります。

 それが今まさに死んでいこうとしている人に対していわれた言葉であるとするならば、「そうだ、それでよろしい」という神の大いなる肯定の言葉は、われわれが召された時の出発点の言葉でもあるし、われわれが最後に死ぬときに神から聞くことができる言葉だということであります。