「心を一つにして」 コリントT一章一○ー二五節゜

 パウロは挨拶をそこそこにして、いきなり本題に入っていきます。一○節「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。「皆、勝手なとをいわず、仲違いせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と、書き始めます。まるで小学生の子供に書くようにして書くのであります。
 それはコリント教会に争いがあるということをクロエ家の人たちから知らされたからだというのです。どういう争いかといいますと、教会員の間で、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと云い合っているというのです。

 パウロはこの教会の創立者です。アポロというのは、パウロの後に来た伝道者です。当時は教会の開拓時代ですから、伝道者は一つの教会にずっといるなんてことはできないで、有力な伝道者はひとつのところで教会を立ち上げたら、次の伝道地にいって開拓伝道をしなくてはならないわけです。パウロはこのコリントには一年六ヶ月滞在して、牧会に当たり、そのあとをアポロという人が牧会にあたったのです。

 このアポロという人は使徒言行録の一八章二四節からの記事をみますと、「アレクサンドリアの生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家で」と書いてあります。しかし「彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか知らなかった」と書かれていいます。それでパウロの協力者、プリスキラとアクラは、彼を招いて、「もっと正確に神の道を説明した」とあります。

 アポロという人は雄弁家だといわれておりますから、かなり人をひきつけたのではないかと思います。それに比べると、パウロはあまり雄弁家ではないようです。コリントの第二の手紙の一○章をみますと、パウロ自身がコリント教会の中には、自分のことを「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」という人がいるということを書いて、「そのようなことを云う人は心得ておくがよい、離れて手紙を書くわたしと、会ってふるまう自分は同じだ」とタンカを切っております。

パウロは雄弁家ではなかったようです。ですから、その後に来たアポロはなおのこと人をひきつけたのではないかと思います。使徒言行録の書きかかたからすると、アポロは確かに雄弁家であったかもしれない、確かに聖書にも詳しく、正確に説教はしていたかもしれない、しかしヨハネの洗礼しか受けていなかったので、プリスキラとアクラが、(彼らは信徒です)、その彼らがもっと正確に神の道を教えなさいと諭したというのですから、パウロに比べれば、まだまだ伝道者として未熟だったようであります。
 
パウロとしたら、そんなアポロに、なんでコリント教会の人々は引きつけられるのかという憤懣があったのかもしれません。
 
 それから「ケファにつく」という人がいた。ケファというのは、ペテロのことであります。ペテロは、教会全体、キリスト教そのものの創始者ですから、そういう人々が出てきても不思議はないかもしれません。これはあるいは、パウロとかアポロとか、そういう人々につくという人々に対抗して、いや自分はそんな人につくよりは、もっと根本的な人につくとわざとペテロの名前をもちだしたのかもしれません。

 そしてさらに、もっと闘争的な人は、いや自分はそんな人間的な人につくのではなく、キリストご自身につくといいだす人々がいたということだろうと思います。そのようにして人々は教会のなかで争いだしたというのです。

 のこ教会の紛争は、おそらく、わたしはアポロにつくという人々がまず最初に出てきて、それに対抗して、いや自分たちはこの教会を造ってくれたパウロの恩を忘れてはならない、自分たちはパウロにつくという人々が出てきたのだろうと思います。アポロにつくという人々が出てこなれければ、パウロ派もペテロ派も、キリスト派もでてこなかっと思います。

 そして「わたしはアポロにつく」という人々、つまり自分はアポロという伝道者を尊敬するという人々は、いかにもアポロを尊敬しているようで、実は、自分のことを自慢したいのではないかと思います。つまり、自分はパウロよりもアポロという伝道者のほうが優れていると思うといいだすことによって、自分の選択眼を誇ろうとしているのだということであります。ですから、アポロにつく、アポロという人は偉いといっているようで、そのアポロを偉いと評価している自分の目は確かだ、そういう自分は偉いと、結局はアポロを尊敬しているのではなく、ただ自分を尊敬している、自分の自我を主張しようとしているだけだということなのです。アポロは、ただ出しに利用されているだけであります。

 だから、紛争が生じるのです。分裂が生じるのです。自分は心からアポロという人を尊敬している、慕っているということだけならば、なにも紛争など生じる筈はないのであります。ここには、アポロを出してにして、自分の自我を主張しようとしている、だから紛争が生じているのであります。そういう自我を主張すると、それに対抗して、別の人が自分の自我を主張しようとする人々が出てきてしまうのです。悲しいことに、ここでは、キリストまでも、人間の自己主張のために利用されてしまっているのであります。
 自分はクリスチャンだといって、自分の品性とか教養を誇る人もいるかもれしませんせが、それと同じであります。

 そういうコリント教会の紛争を知ってパウロは大変心を痛めて、「皆、身勝手なことをいわず、仲違いせず、心を一つにし、思いを一つにして、固く結び合いなさい」と勧めるのであります。

 「心を一つにする」「思いを一つにする」にはどうしたらよいかであります。それはお互いの心を調整して、調和をはかろうとする、つまりお互いの自我のバランスをとって、分裂をさけようとしても駄目だと思います。大体、バランスをとるということは、ちょうど天秤と同じで、それは安定しない、バランスというのは、すぐこわれてしまうのであります。

 分裂を防ぐには、お互いに一つのことに思いを一つにするということであります。つまり、自分の心をなんとかとしようと努力するのではなく、自分を超えたかた、自分を超えた存在に目をつける、思いを寄せる、そうすることによって、いつのまにか自分の思いから離れて、お互いに一つのことに結びつくことによって、心を一つにすることができるのではないかと思います。そして紛争がやみ、分裂が防ぐことができるのであります。

 しかし、一つのことに結びつくことは、確かにそこで紛争や分裂を防ぐことができるかもしれませんが、それはある意味でおぞましい統一体というのができるのではないか。今さかんに、テレビでいやっというほど報道されているある国の体制がまさにそうであります。ひとりの人を崇めて、国民は一致団結している、それは見た目には確かに争いがない、紛争がないようにみえるのであります。今のテレビは平気でその国を批判し、ある意味ではからかったりしておりますが、しかしわれわれの世代、つまり戦争を体験したわれわれの世代の人はその報道を自分たちとは無関係な国のこととして見ることは到底できないのではないかと思います。それは五十数年の前のわれわれ自身の日本の国の姿を見る思いがして、自分たちのしてきたことを忘れれてよくあんな報道ができるかと思うのであります。

 ひとりの人を崇める、あるいは一つの神を崇める、それによって確かに、心は一致するかもしれない、しかしそこでは、ひとりひとりの個性とか自我というものが抑圧され、殺されてしまう。それは大変不自由な生活をわれわれに強いることになるのではないか。 そしてその抑圧はある時、一気に吹き出て、混乱が起こるのではないか。

 創世記の神話の物語に、バベルの塔の話があります。その神話では、人間の罪の頂点として、人間の罪のゆきつくところとして、人間が高い塔を建てて、天にまで達しようとしたこととして描くのであります。そしてその時、人間は、世界中が同じ言葉を使って、同じように話していたというのです。それで人間は一致団結して高い塔を建てようとしたというのです。それを天から主なる神が下ってきて見て、「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めた。これでは何を企てても、妨げることはできない。ただちに、彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしよう」といって、彼らを全地に散らされたというのであります。

ここでは大変不思議なことに、言葉が一つであることは、思いが一つ、心は一つであることで、それは決していいことではなく、人間の罪の頂点のこととして理解されているということなのであります。われわれにとっては、世界の言葉が一つだったらどんなによいことかと思うし、言葉が違うから国と国とは争うのだと思っておりますが、ここではまるで反対のことが述べられているのであります。

 考えてみれば、言葉が一つ、考えることはみな同じ、服装も同じ、そういう宗教団体というものがどんなにおぞましいかを考えてみれば、そしてかつての日本の姿を思いだしてみれば、それが決してすばらしい社会とはいえないことはよくわかると思います。
 いろんな違った人々がいたほうがいい、言葉は一つでなくていい、考えは違ってもいい、もちろん服装も違っていい、そういう社会が健全な社会であります。それでは確かに混乱が起こるかもしれない、分裂が起こるでしょう。その時に、「みな勝手なことをいわずに、仲違いせず、心をひとつにし、思いを一つにして、固く結び合いなさい」と、パウロは勧めるのです。

 問題は何において、一つになるかであります。なにを思って一つになるかであります。
 パウロはそれは十字架の言葉において一つになれというのです。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かであるが、わたしたち救われる者には、神の力である」とすぐ続けて述べるのであります。そしてこの十字架の言葉は「知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」言葉だというのです。十字架につけられたキリストは、ユダヤ人には、つまずかせるもの、異邦人には愚かにみえるものだ、というのです。しかしこの十字架の言葉こそ、われわれを本当に謙遜にし、自分の知恵が自分の知識が、といって自我を主張する、そのわれわれの自我を打ち砕くものなのだというのです。

 一つのことに結びつくことは、ある意味では大変危険な社会を造りだすこともあるのです。統制のとれた統一体というのは、見た目にはいい社会に見えるのです。しかしそれは多くの場合、あるひとりの独裁者にとって良い社会なのであって、われわれ民衆にとっては決して良い社会とは云えないのであります。われわれの自我が、われわれの個性というものが、ただ抑圧され、殺されるからであります。

 しかし十字架の言葉において一つになるときに、決してそのような統制も統一もない、みんなの個性がいかされたまま、しかし一つになれるのだというのであります。そのことをパウロはコリントの第一の手紙一二章でくわしく述べるのであります。
 「体は一つでも、多く部分から成り、体のすべの部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。一つの霊によって、わたしたちたは、ユダヤ人であろうと、ギリシャ人であろうと、奴隷あろうと自由人であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです」といいます。

 パウロはキリストという一つのからだに属している教会の交わりを、人間のからだと肢体とになぞらえて、人間の肢体には、耳もあれば目もある、手もあれば足もある、みな同じではない、しかし、違うからといって、目が手に向かって、お前は目ではないから、お前は要らないとは言えない、頭が足に向かってお前は要らないとは云わないというのです。つまり皆それぞれの自我がその存在を認められ、生かされているというのです。同じ一つのからだに属しているからだといのうです。

 しかし人間の体に関しては、当然、重要な肢体とあまりそうでない肢体があります。たとえば、心臓とか脳は一番役にたつ肢体で、それに比べれば、指の爪はなくても生きていけるもので、そこでは、確かに価値の重い軽いはあるのてす。しかしパウロは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って見栄えよくしようとしている、見劣りのする部分をいっそう引き立たせているというのです。これはもうからだのことではないのです。なぜなら、人間のからだそのものでいえば、決してそんなことはないからです。つまり、ここはもう教会の交わり、キリストというからだとしての教会の交わりに移っているからこういえるわです。そうすることによって、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合い、一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しむということが起こるというのであります。

 それが十字架の言葉というひとつのことに、結びつくことによって起こる社会だというのです。そこではわれわれの自我がたた抑圧されたり、殺されたりはしない。われわれの個性はいかされる、どんなに見栄えのしない、あるいは役に立たないひとも生かされる、その存在が認められる、一つのキリストというからだに属しているというただ一つの理由で、その存在の意義が認められるというので、分裂が起こらないのであります。

 それは十字架の言葉は、人間を謙遜にさせる言葉だからであります。それは人間の目からみれば、本当に愚かな知恵なのです。神の子が人間の手によって殺されてしまう、神はそれを甘んじて受け入れる、その愚かさに神は徹しておられ、それが十字架の愚かさであり、十字架の言葉だからであります。そして「神の愚かさは人の賢さよりも賢く、神の弱さは人の強さよりも強い」のです。
だから、この十字架の言葉にわれわれが思いを一つにし、心を一つにしたときに、紛争から、分裂の危機を乗り越えることができるのであります。

 十字架の言葉は、われわれの自我を打ち砕きます。しかしわれわれの自我を抑圧したり、無にするのではなく、打ち砕くことによって、われわれの自我を生かしてくださるのです。十字架の言葉はわれわれのわがままという個性を打ち砕きます。しかしまたわれわれのわがままという個性をも認め、それをそれなりに生かしてくださるのです。あの人は自分の個性とは違うからといって、お前は要らないとは決していわないで、自分とは違う個性の人もまた受け入れる、そしてその人が苦しめば共に苦しみ、共に泣く、それぞれの個性が認められ、受け入れられ、そのようにしてそれぞれの個性が生かされていくのです。
 われわれの松原教会もそのような教会であって欲しいと思います。
 
 創世記の、バベルの塔を神は壊したという記事は、聖霊降臨の出来事において回復したのであります。あの時、弟子達が聖霊を受けて神の働きを述べた時には、そこには、いろんな言葉を話す人々が大勢いたのです。それなのに、聖霊を受けた弟子達の語る言葉は、みな自分たちの言葉で、自分たちの生まれ故郷の言葉で語られたように聞くことができたというのです。そこでは、一つの言葉に統一されたのではないのです。どんなに違った言葉であろうと、違った言葉のままよく理解できたというのです。それは弟子達が聖霊を受けて、いきなり多国語を話せるようになったということではないでしょう。弟子達は自分たちの言葉で話したに違いにないと思います。しかしそれを聞く人々がまるで自分たちの生まれ故郷の言葉で聞くことができたということです。それが聖霊の働きだったということであります。

 われわれも聖霊の働きがこの教会に注がれていることを信じて、十字架の言葉に固着することによって、それぞれの個性が生かされる教会になっていきたいと思うのであります。