「ない人のように」 コリントT 七章二五ー四○節

 コリントの第一の手紙の七章は、なんどもいいますように、とても説教しにくいところであります。なぜかといいますと、ここでは、結婚というものを大変消極的に、いや否定的にしかとらえていないからであります。

 今日のところでも、たとえば、二八節をみますと、「あなたが結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯すわけではない」とあります。ここは確かに、結婚は罪を犯すことではないとはいっていますが、わざわざそんなことを持ち出すのは、「罪を犯すわけではないが、あまりいいことではない」といわんばかりのようにとられても仕方ないところであります。そしてパウロは事実、できるなら結婚しないでいるほうがいいといいだすのです。

 われわれの教会では、昨日結婚式を久しぶりにしたばかりであります。ちょうどそういう時に、まるでそれに冷や水をあびせるような聖書の箇所を学ぶことになるのは、大変皮肉であります。

 しかし、パウロはこの問題をとりあげるときに、二五節をみますと、「未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者とし意見を述べます」と慎重な言葉を使いながら述べている、前のところの六節でも「もっともわたしはそうしても差し支えないというのであって、そうしなさいと命じるつもりはない」、一二節では、「他の人たちに対しては、主ではなくわたしがいうのですが、」とわざわざことわって、のべているのです。結婚の問題に関しては、パウロは主の憐れみを受けている者として述べるのだがとはいいながら、これは命令ではないと、自分の意見だと述べているのです。

 一七節には、「これは、すべての教会でわたしが命じている事です」と言っておりますが、それは割礼の問題に関して、割礼を受けている者がクリスチャンになった場合は、それを消さなくてはならないのか、クリスチャンになった者は割礼を受けなくてはならないのかという問題に関しては、これは命令だといっているのです。「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」と言ったあと、これはすべての教会に対する私の命令だと強い口調でのべているのです。

 結婚問題とは区別して、割礼の問題については、これははっきりとキリスト教の立場からすればこうしなくてはならないといっているのです。

 つまり、結婚の問題に関しては、独身がいいのか、どうかという問題になると、これは自分の意見だというのです。ということは、この問題に関しては、パウロは一人のキリスト者として、上から何か命令を下すと言う指導者としての立場から離れて、われわれ信徒と同じ立場で、ものを言っているのです。

 ということは、この結婚に関しては、われわれもパウロと同じ地平に立って、あなたはそういうけれど、われわれもまた主の信任を受けている信徒として、違う意見も述べてもいいだろうということであります。そういう余地を残しているところは面白いと思います。

 たとえば、三二節には、「思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男はどうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣う」といっていますが、そんなことは絶対に言えないと、われわれは反論することが許されるということであります。独身の男や女が、結婚している人よりも、主のことを喜ばそうと心にかける、そんなことは絶対にいえませんよ、とパウロに食ってかかることもできると思います。

 ですから、結婚の問題に対しては、独身のほうがいいかどうかを含めて、われわれは自由に、パウロと同レベルで意見を出し合うことが許されるということなのです。独身でいる人のほうが、かえっていろいろとこの世のことで思い煩いが多いかもしれないということは大いにありうることであります。独身だから、信仰的環境がいいなどとは絶対にいえませんよと、パウロに進言することができると思います。

 二八節で、「あなたが結婚しても、罪を犯すわけではない、未婚の女が結婚しても、罪を犯すわけではない。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになる。わたしは、あなたがそのような苦労をさせたくないのだ」と言っているところがありますが、確かに結婚生活をするということは、独身でいるよりは、ずっといろんな苦労を背負い込むことになると思います。夫婦の問題、子どもができたら、子どもの教育の問題とか苦労は、独身でいるよりは、よほど背負い込むと思います。しかし、われわれはそのような苦労を背負い込むことによって、われわれの信仰はかえって深まる、ますます神の助けを必要とするようになる、その苦労を背負い込むことによって、信仰が現実的になるということがあると思うのです。
 
 具体的な名前を挙げるのは問題かもしれませんが、しばしば名前をあげております、吉祥寺教会の竹森満佐一牧師は、ご自分の教会では、礼拝が終わったら、教会員同志の交わりをやめさせて、さっと帰ることを奨励したそうであります。教会に来ている神学生が、教会の信徒に呼ばれて、食事を共にしたということを聞いて、激怒してその神学生を叱ったということであります。信徒の交わりというものは、そういうことをすることが交わりではない、信徒の交わりとは、聖日の礼拝で共に礼拝を捧げる、聖餐式を共にする、それが信徒の交わりなのだ、信徒どうし食事をして親しくなることが信徒の交わりではないということであります。極力人間どうしの交わりを避けたとというこであります。礼拝だけが信徒の交わりをする場だというのです。

 それは確かに教えられるところであります。われわれともすれば、人間同士に食事をしたりすることが信徒の交わり、愛の交わりだと思いがちですけれど、そうでないというわけです。

 しかしわたしはその話を聞いて、確かにそれはそうかもしれないけれど、しかしそれではお互いに罪の赦しということをどこでわれわれは体験するのだろうかと思わざるを得ないのです。それでは、教会の交わりということが、大変観念的で、あまりにも抽象的すぎないかと思うのです。

 確かに礼拝のあと、残って食事を共にして、くだらない世間話をして楽しむ、そのようにして人間的な交わりを深めることによって、いろいろなトラブルが起こることは確かだと思うのです。人間には好き嫌いがありますから、そういう交わりが起これば、必ずそこでは争いが起こることは避けられないのです。そういう交わりをすれば、結婚問題ではありませんが、「その身に苦労を負うことになる」のです。しかし、わたしはそういう人間的な交わりを通して、いろいろなトラブルが起こり、教会の交わりそのものが危機を迎えかねない、しかしそのときに教会ならば、教会の交わりならば、そこで罪の赦しということがお互いのなかで起こる、そういうことが起こらないで、ただ分裂してしまうのならば、それはもはや教会の交わりとは言えないと思いますが、しかしそういう争いが起こっても、それが教会の交わりであるならば、必ずお互いに赦し会うことができて、教会は再生する、むしろそういう争いを通して、具体的に罪の赦しを行うことの難しさを体験することによって、真摯に神にあらためて、私の罪をお赦しくださいと祈れるようなるのでないかと思うのです。

 竹森式の教会の交わりでは、いったいどこで教会の交わりが起こるのか、考えてしまうのであります。

 結婚生活をするということは、独身の人よりも、その身に沢山の苦労を背負い込むことになるのです。しかしその苦労こそ、われわれの信仰を深めるものでもあると思うのです。
 
 しかし、パウロがこの箇所で繰り返しいっていること、パウロが言おうとしていることは明確であります。それは三五節の言葉、「このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためだ」ということであります。

 どんな生活の仕方においても大事なことは、その生活のなかで「ひたすら主に仕える」生活をするということなのであります。

 パウロがここで結婚というものに消極的なのは、二九節にありますように「わたしはこういいたい。定められた時は迫っている。だから、この世の有様は過ぎ去る」ということがあるからであります。だからこの世のことにはできるかぎり、関わるなということであります。
 そしてこういいます。「今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事に関わったいる人は、関わりのない人のにようにすべきだ。この世の有様は過ぎ去るからだ。思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣うが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまう」というのです。

 ここでは、「もっている人はもっていないように」というのであります。それは少し、抽象的にいえば、相対的なものに対しては、これを絶対的なものとして関わらないで、相対的に関われ、ということであります。しかし、これは理屈としては、よくわかることですが、具体的なこととなると少し考えてみなくてはならないところだと思います。
 「物を買う人は持たない人のように」ということは、そのままよくわかると思います。物に執着するなということでしょう。物を買って、それを所有してもいいでしょう。しかしそれに執着してはいけない、いつでも手放す用意をしながら生活しなさいということでしょう。
 しかし、「妻のある人はない人のように」というのは、具体的にどうしたらよいのでしょうか。

 これではまるで、妻は物のように扱われているようで、困るのです。泣く人は泣かない人のように、ということはどういうことでしょうか。ほどほどに泣きなさいということでしょうか。なんでもほどほどにしなさいというのでは、われわれはこの世に真剣に生きていることにはならないので、それではこの世に生きたということにはならないと思います。
 それでは妻に対して失礼な話だし、隣人に対して、失礼だし、他人と交わるのに、その人の人格を尊重しない生き方になりかねないと思います。

 ヘブル人への手紙では、「われわれの大祭司であるイエス・キリストは、わたしたちの弱さに同情できないかたではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に会われた。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではないか」という言葉があります。 

 ここは口語訳では、大祭司であるイエス・キリストは、私達の弱さを思いやることのできないようなかたではない、と訳されていて、この「思いやる」という言葉は、共に立つという意味をもった言葉だそうであります。つまりイエス・キリストはわれわれが泣いたり、笑ったりしているこの世の生活、われわれが結婚していろいろと煩ったり、苦労している生活の中に共にいてくれて、そうしてわれわれのためにとりなしの祈りをしてくださる、そのためにイエスはこの地上に来てくださったかただということであります。

 それなのに、そのイエス・キリストを信じてこの世に生きるわれわれが、まるでこの世を忌み嫌う世捨て人のような生き方をすることはおかしいことであります。キリスト者が、教会が、この世に対して超絶的な生き方をすることはおかしなことであるし、人に対して誠実でないということになると思います。

 パウロは「あなたがたが品位のある生活をして、ひたすら主に仕える生活をさせたいのだ」と言っておりますが、ひたすら主に仕える生活をするということは、誠意をもって隣人を自分のように愛する生活をするということでもあります。

 主イエスが、「お前はわたしが飢えているときに食べさせ、のどが渇いているときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」といった時に、そう言われた人は、「いつそんなことをしましたか」と驚いたというのです。そうしたら、主イエスは「わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのだ」と答えたというのです。

 そのようにキリストから言われた人は、それが主のためにするのだなどということは全然意識しないで、ただひたすら、その人の弱さを思い、ひたすらその人に仕えたのです、それが結果的には、ひたすら主に仕えたことになるのだということなのです。

 また「泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように」とここでいっているパウロ自身が、ローマの信徒への手紙では、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい、思いを一つにして、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」と勧めているのであります。ほどほどに泣けとか、中途半端に喜べなどとはいっていないのです。

 すべては「定められた時は迫っている、だから、この世の有様は過ぎ去る」ということから、この勧めの言葉はきているのです。しかしパウロが書いているフィリピの信徒への手紙で、同じように、終末の近いことを意識して書いているところで、「主はすぐ近くにおられる。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」といったあと、こう続けていうのであります。「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべき、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」と勧められているのであります。ここでいわれている「すべてて真実なこととか、徳や称賛に値すること」というのは、キリスト教的な意味での真実とか徳ではなく、キリスト教以外のこの世で認められている真実とか徳ということも含めていることであります。それをないがしろにするなというのです。

 この世の有様は過ぎ去る、終末の時は来る、そのように自覚をいつももちながら、われわれはこの世の問題に誠実に真剣に取り組まなくてならないのだというのことであります。だから、泣くときにはもう思い切り泣けばいいのです。その時に、泣いたあとに、思い切り泣いた人が、その悲しみをふっきることができるのではないか。中途半端に泣く人は、真に泣いたことにはならないし、その悲しみをふっきりこともできないと思うのです。つまり、泣きながら、その悲しみのなかで、この悲しみのなかに主がおられるということをひしひしと感じるときに、その悲しみのなかで、上を見上げられるときに、神に祈ることができるときに、そこに絶対的なものがあることを知って、その悲しみをふっきることができるのではないかと思います。

 われわれはこの世にあって、真剣に、誠実に生きなくてはならないのです。独身であろうが、結婚生活をしていようがです。ただそのなかで、われわれのこの世の人生には終わりがあること、終末の時がくるということを自覚しながら生きて行かなくてはならないということであります。

 ヨブ記の言葉にありますように、「主は与え、主は取り去り給う、主の御名はほむべきかな」という言葉を常に心に覚えながら生きていきたいと思うのであります。