「知識は人を誇らせる」コリントT 八章一ー一三節

 コリントの第一の手紙の八章も、コリント教会から送られてきた質問状に対して、パウロが答えるという内容になっております。その質問とは、「偶像に供えられた肉を食べてよいかどうか」という問題でした。

 偶像に供えられた肉を食べてよいかどうかなどという問題は、今日われわれ日本人にとってなんの関わりのないことであるかもしれません。しかし、この問題は案外われわれ日本人にとっても大変関わりのある事柄であります。つまり、異教社会にあって、信仰者としてどう信仰を貫いたらいいかという問題であります。 

 たとえば、われわれ日本人の家庭にはよくあります、仏壇をどうするか、位牌をどうするか、毎日仏壇に供え物を捧げている家庭があるかもしれませんし、自分ではしたくなくても、家族がクリスチャンでない場合には、それをしなくてはならないかも知れません、その場合、クリスチャンとしてどうしたらよいかという問題と密接に関わる問題であります。

 当時コリントの町では、キリスト教からいえば、偶像と思われる神々が沢山存在していたわけです。そしてキリスト者になった者はみなそのような他の宗教から改宗してクリスチャンになったわけで、無宗教からキリストを信じるようになったわけではないと思います。ですから、今までの自分たちが信じてきた宗教とどう関わったらよいのかと言う問題が当然起こってくるわけであります。今までそのようにして偶像に供えられていた肉を食べていいかという問題が起こってきたわけです。

 それは具体的にはどういう問題なのかといいますと、偶像といわれている神々にいろんな供え物を捧げるわけです。これはどの宗教でもやっていることであります。その際に、動物をまるごと捧げるのではなく、その一部を捧げるのだそうです。たとえば、捧げる動物の額に生えている毛の数本だけを切り取って、それを焼くだけですましてしまうことだってあったそうです。あるいは、その動物の一部だけを焼いて供える、残りの部分は、おいしそうな部分は、祭司にもっていかれ、そして残りの部分は供える人の手に戻り、それを自分たちの祝宴などで食べるということだったそうです。

 あるいは、公的な祭りの場合には、祭司達はその肉を食べきれないために、それを市場に出して、売ったそうです。ですから、市場に出回っている肉は、偶像に捧げられた肉である場合が多いのだそうです。ですから、この肉が偶像に供えられた肉か、そうでないかは、区別がつかなかったそうです。だから人によっては、そうした肉を食べないために、野菜だけを食べるクリスチャンもいたわけであります。

 今まで、自分が信じてきた神々に捧げていた肉を食べれば、せっかく自分はキリストを信じる生活に入ったのに、そんなことをしたら、イエス・キリストの父なる神に対する裏切り行為にならないかという心配が起こったわけです。自分の信仰の純粋性を守るためには、偶像に供えられた肉であるということがはっきりしている場合には、それをいっさい口にしないという人たちが出てきてもおかしくないわけです。自分の信仰の潔癖性を、そのようにして守ろうしたわけです。

 しかし、それ以上に、偶像に供えられた肉を食べないと言う人には、こういう心理が働いていたのかもしれません。自分としては、今はキリストによって示された唯一の神を信じてはいるけれど、今まで信じてきた神々が、この世から消えてなくなったわけではないかもしれない。どこかに存在してるのかもしれない。悪霊となって、存在しているかもしれない。だからそのかつて捧げていた肉を、食べたら、今はその存在を否定し、信じてもいないのだけど、その神々の悪霊がその肉を食べることによって自分の魂にまで入り込んできて、なにか悪さをするのではないかという恐れがあったのではないかと思います。

 「たたり」の恐怖であります。信仰の純粋性とか、信仰の潔癖性を保ちたいというよりは、悪霊からのたたりが怖いということのほうが本当のところかもしれません。そのたたりは、自分たちがそれまで信じていた神々からのたたり、つまり悪霊からのたたりであるかもしれませんし、また、おかしなことかも知れませんが、今信じている唯一の神からのたたりを恐れたのかもしれません。

 なにしろ、われわれが信じている神はいっさい偶像を拝んではいけない、わたしは妬む神であるから、他の神々をいっさい拝むなと厳しく言われた唯一の神であります。他の神々、他の偶像を拝んだら、神は罰すると言われている神なのですから、偶像に供えられている肉をそれを知りながら食べるということは、その自分が今信じている唯一の神に対する裏切り行為になるわけですから、その神から罰をくらうのではないか、いわばその神からのたたりがあるのではないかという不安でもあると思います。
 
たたりの思想なんて、今日では無縁ではないかと言われるかもしれませんが、しかし今日でも、家を建てる時には、かならず地鎮祭ということが行われます。どんなに世界の最先端を誇る高層ビルを建てる時にも、われわれ日本人は神主さんを呼んで地鎮祭を行わないで工事を始めるなんてことはないのであります。地鎮祭という字の「ちん」という字はご承知のように、鎮めるという字です。これ悪霊の心を鎮めるという意味のまつりごとだろうと思います。

 そう考えますと、今われわれが学ぼうとしております、偶像に供えた肉を食べていいかどうかという問題は、古代の、まだ迷信と思われている考えがあった時代の問題だけではなく、今日のわれわれの問題でもあると思われるのです。

 さて、今日のテキストであります八章の一節に「偶像に供えられた肉についていえば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」とあります。

 ここで言われている知識とは、ただ一般的な知識ではなく、四節から言われている知識のことであります。
 「偶像に供えられている肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ、天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰っていくのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」という知識であります。

 ですから、ここで言われている知識というのは、単なる学問上の知識、知的なという意味の知識のことではないのです。

 知識は人を高ぶらせる、といったあと、「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は知らねばならぬことをまだ知らない」という言葉が続きますが、この言葉自体は、何も聖書が言わなくても、いわば常識であると思います。ソクラテスが「無知の知」といったことは有名であります。本当の知とは、自分は何も知らないということをまず知ることだ、哲学というものは、学問というものは、
そのように自分は無知であるという自覚から始まるのだ、そういう意味で学問をこれからやろうとする者は謙遜でなければならないということでしょう。

 しかし、ここでいっていることはそういうことではないのです。なぜならば、そののあとに、すぐ続いて、「しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」という言葉が続くので、これではどうも前の句とのつながりは悪いのです。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」口語訳では、「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」となっておりますが、これだって、続きぐあいが悪いと思います。いきなり、愛と言う言葉が登場してくるからであります。

 無知の知ということをいうのだったならば、自分は知らなければならないことすらまだ知らない、だからもっと謙遜になって、さらに知識を得るために精進しましょう、もっともっと勉強しましょうという言葉が続くはずですけれど、聖書はそうはいわないで、いきなり、「神を愛する人がいれば、その人は神に知られている」という言葉が続くのです。

 つまり、ここでいっている「知らなくてならないことすら、まだ知っていない」という無知とは、ただ知識がまだ足りないということではなく、神を知るということは、自分が神を知るということではなくて、自分が神に知られている、つまりは神に愛されているということを自分が知ることなのだということをいいたいのです。それが本当に知るということなのだということなのです。
 われわれが本当に知らなければならないこと、というのは、知識の量が少ないということではなく、知識の質の問題、神を知るという内容の問題だということであります。

 キリスト教についての知識がまだまだ足りないということではないのです。キリスト教にとって、神を知るということは、神に自分が愛されているということ、神に自分が知られているということを知ることなのだ、それをここで言おうとしているのであります。

 当時のこの社会には、知識を増やすことによって信仰を得るというグノーシスという宗教がはやっていたのです。それは知識を重んじる宗教です。それはいろいろな形でキリスト教にも影響を与えておりました。ここでパウロはそうしたグノーシスという宗教のことも頭に入れて、それに対抗しようとしていたのかもしれません。

 しかし、それ以上に、パウロがここで問題にしているのは、そういうグノーシスという宗教というよりは、もっと迷信的な信仰からなかなか脱却できないでいる素朴なキリスト教徒のことを念頭におきながら、本当の知識とは何かということを述べようとしているのであります。

 七節にこうあります。「しかし、この知識がだれにでもあるわけではない。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だという事が念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」とありますが、そういう信仰者、その信仰者のことをパウロは、「弱い人々」といっております。九節に「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように気をつけなさい」とあり、また十一節では「そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまう。その兄弟のためにもキリストは死んでくださったのである」とあります。

 つまり、ここで「弱い人」といわれている人は、確かに信仰の知識、キリスト教の知識という点では、弱いかもしれない、偶像などこの世にもう存在しないのに、まるで存在しているかのように、その偶像におびえて、偶像に捧げた肉を食べたら、たたりが起こるのではないか、偶像に供えられた肉を食べると、その肉を通してその偶像の悪霊が、自分の魂にまでにも侵入してきて、自分を汚すのではないと恐れるというのは、確かにこれは無知なのです。こんな無知のままでいては、困るのです。これではせっかくキリストによって与えられた信仰の自由というものを味をわっていないということになるのです。

 しかしパウロは、その無知から来る迷信的な信仰を、知識を積み重ねることによって、もっとキリスト教のことを勉強しなさいと勧めることによって、強めようとはしないのです。

 そうではなく、ただ一つ、われわれ信仰者にとって、知るということは、この自分が神に知られているということを知ることなのだ、神を知るということは、われわれが自分の知性を磨いて知識を積み重ねることではなく、神に知られている、そのことを知ることが、神を知ることなのだ、つまり、言葉をかえていえば、神に愛されている、そのことを知ることがわれわれにとっての本当の知識なのだということなのです。「神を愛する人がいれば、その人は神に知られている」というのです。

 このことは、同じパウロがガラテヤの信徒への手紙の四章の八節で、「あなたがたはかつて神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていた。しかし、今は神を知っている、いや、神に知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしいるのか。あなたがたはいろいろな日、月、時節、年などを守っている」といっているところがあります。

 そこでは、「神を知っている」といったあと、すぐ続けて、「いや、神に知られているのに」といいかえて、そうして、神に知られているのに、どうして日や月を守る、今日でいえば、占いに惑わされ、この世を支配しているかに見える諸霊、つまり悪霊にまどわされ、その恐怖から脱却できないのか、といっているところであります。

 偶像に供えられた肉を食べると何かたたりが起こるのではないか、という素朴な、ある意味では迷信的な信仰から自由になるためには、どんなに、知的に考えて、そんなものは迷信だと言ってみても、つまり科学的な知識を積み重ねても、そこからは解放されないのです。そういう知識ではなく、たとえそのような悪霊がこの世に存在したとしても、このわたしのために死んでくださったキリストがいてくださる、そのイエス・キリストの父なる神が愛をもって、このわたしを知ってくださっている、この知識、つまりこれはもう信仰といいかえたほうがいいのですが、この知識さえあれば、いいということであります。この知識が、われわれを迷信的な信仰から解き放ち、たたりの恐怖から解放してくれるのだということであります。

 最後に今日学んでおきたいことは、もとにもどりますけれど、「知識は人を高ぶらせ、愛は造り上げる」という言葉です。さきほどにもいいましたけれど、これも口語訳聖書のほうがわかりやすい言葉で訳されています。「知識は人を誇らせ、愛は人の徳をたてる」という訳です。もとの言葉には、「人の徳を立てる」という言葉はないのです、新共同訳のように「造り上げる」という言葉だけです、造り上げるというのでは、日本語では意味が不明です。これは人を立てるという意味です、さらにいえば、教会を建てるという意味に使われています。

 ここはこの次の説教でもう一度とりあげたいと思いますが、少し先取りしていえば、「知識は確かに迷信的な恐れから自分を自由にする、しかしその自由が、弱い人の信仰、まだ迷信的な信仰から完全に脱却できないでいる弱い人の信仰をつまずかせてしまいかねない、だからそれは愛に生きていることにはならないということであります。知識は自分を誇らせるだけで、人を救わないということであります。人を救うのは、知識ではなく、愛なのだということであります。

 「知識は人を高ぶらせるが、愛は造りあげる」というのです。この愛とは、神に知られているという愛、この自分は神に知られているという神の愛、自分が神に愛されているという神の愛の知識であります。その愛は人を造り、人をつまずかせないで、人を救うのであります。

 パウロはここでまだ迷信的な信仰から完全に脱却でないでいる人を、弱い人といっておりますが、しかしパウロはその人の信仰を、強い人の信仰、強い人がもっている自由な生き方、考え方で、つまずかせてはいけないとしきりにいうのです。それはなぜかといえば、本当はその弱い人の信仰のほうが、自分には知識がある、自分には自由があると自分を誇っている人の強い信仰の人よりも、よほど深い信仰をもっているかもれしないと、パウロは思っているからであります。

 この世には諸霊がうごめいていて、われわれはうつかりすれば、その悪霊にどんなわるさをされるかわからないという迷信的な思いをもっている、たたりの思想をもっている人のほうが、信仰深いかもしれない、なぜか。それはその人が自分がこの世を支配するのではない、人間がこの世を支配しきれるなどとはみじんにも思っていないからであります。人間を超えた超越的な存在を信じているからであります。