「信仰の弱い人・強い人」 コリントT 八章一ー一三節

 今日の説教題に、「信仰の弱い人・強い人」とつけましたが、考えみましたら、パウロは、信仰の弱い人という表現はしていますが、信仰の強い人という表現は一度も使っていないのです。ただ信仰の弱い人がいるならば、当然、その反対として信仰の強い人という人もいるだろうとわたしは考えて、そういう題をつけたのですが、しかしパウロはずっと慎重でした。パウロは一度も「信仰の強い人」とは述べていないのだということに気づきました。

 これは同じテーマ、偶像に供えられた肉を食べていいかという問題を扱っている箇所、同じコリント第一の手紙、一○章でも、またローマの信徒への手紙の一四章でも「信仰の弱い人を受け入れなさい」という言葉はでてきますが、「信仰の強い人は」という表現は出てこないのです。ただ一カ所、そのあとの一五章の一節で、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」という表現が出てくるだけであります。
 そこでもパウロは大変慎重に、「信仰の強い人」という表現は使わないで、ただ「わたしたち強い人は」といっているだけであります。
 つまり、信仰の弱い人と呼べるような人はいるかもしれないけれど、信仰の強い人と呼べるような人は実は一人もいないのだ、考えてみれば、みな信仰の弱い人ばかりなのだということであるかもれません。

 今日の説教題にわたしは「信仰の弱い人・強い人」とつけましたが、それは少し軽率だったと思いました。ここで信仰の強い人という表現を使いましたが、それはどういう人のことをさしているかといえば、知識を持っている人、自由な態度をとれる人のことをさしているのであります。

 この信仰の弱い人というパウロの表現は、偶像に供えられた肉を食べることのできない人、それを食べると自分の良心が汚されて、信仰そのものを失っていきそうな人のことをさしております。
 先週もふれましたが、偶像に供えられた肉を食べていいかどうかという問題は、当時の異教社会にとっては、信仰の上で、深刻な問題だったようです。

 それはどういうことかといえば、先週の説教でもとりあげましたが、当時の社会では、いろんな宗教があって、それぞれ神々を礼拝していたわけです。それはキリスト教の立場からすれば、偶像であります。その偶像にお供え物として肉を捧げたのです。その肉の一部が、というよりは、その肉の大部分は、供えられたあと、市場に出回るわけです。それを肉屋さんで売られるわけです。ですからそこで売られている肉が偶像に供えられた肉のお下がりの肉かどうかはわからない場合のほうが多いようであります。それで人によっては、偶像に供えられた肉は食べたくないというので、もういっさい肉を食べないで、野菜だけを食べるという人も出てきたわけです。

 なぜ、偶像に供えられた肉を食べまいとするのか。それはそれを食べると何か自分の魂が汚されると思ったからであります。
 それは今日のわれわれ日本人の問題でいえば、先週にもふれましたが、卑近な例でいえば、仏壇にお供え物をしていいかどうか、そしてその仏壇におじぎをしていいかどうかというような問題であります。

 なぜ、自分が信じてもいない偶像に供えられた肉を食べると、自分の魂が汚されると思うのか。
 このことは、コリントの第一の手紙一○章の一八節以下のところをみるとよくわかります。「供え物を食べる人は、それが供えであった祭壇とかかわる者になるのではないか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つのか。偶像そのものが何か意味を持つのか。偶像に捧げる供え物は、神ではなく悪霊に捧げている。わたしはあなたがたが悪霊の仲間になって欲しくないのだ。主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできない。それとも主に妬みを起こさせるつもりなのか」といっているのです。

 八章とこの一○章のところでは、偶像に供えられた肉をめぐってのことで、パウロ自身が微妙に違っていることが分かります。八章のほうでは、実に明解なのです。その論法は、四節ではっきりしているのです。
「そこで偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っている。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父なる神のみが存在するだけだ」といっていて、だからそもそも偶像は存在しないのだから、そのそもそも存在しない偶像に供えた肉を食べたからといって、その良心が汚されることなどないではないかという論法で、それを食べたからと言って何かを得るわけではないし、食べないからといって何かを失うわけではない、私達を神のもとに導くのは、食物ではないというのです。

 しかし、一○章では、パウロはこういうのです。「偶像に捧げる供え物は、神ではなく、悪霊に捧げているという点だ。わたしはあなたがたが悪霊の仲間になって欲しくないのだ。主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできない」といっているのです。これでは、パウロがまるで偶像の背後にいる悪霊の存在を認めているような発言をしているということなのです。

 つまりこういうことではないかと思うのです。パウロは偶像そのものの存在は認めない、そんなものは何の意味はない、しかしその偶像の背後にある悪霊、その偶像を作らせている悪霊そのものの存在は、パウロも否定していないのではないかということなのです。
 だから、ここでは、その悪霊の杯は飲むな、主の食卓と悪霊の食卓と両方の座に着くことなどできないではないかと言っているのです。
 
 ここでは、偶像に供えられた肉を食べまいとしている人、その肉を食べると自分が何か汚されるのではないかと戦々恐々としている信仰の弱い人の心理に一歩踏み込んでいるのです。そしてそれはパウロ自身の思いでもあったかもしれません。

 ここで言われている信仰の弱い人というのは、唯一の神のみが存在しているという知識に確信を持てない人、いわば知的という点で劣っている人のことであります。偶像に供えられた肉を食べるとその背後に存在している悪霊に何か悪さをされるのではないかと恐れていて、偶像に供えられた肉を食べようとしない人、いや食べられない人、それが信仰の弱い人のことであります。
 そして、それはただ悪霊に何か悪さをされるのではないかと恐れているだけでなく、実はそれ以上にこの人が恐れているのは、自分の信じている神を裏切っているのではないかということなのです。

 一○章の二一節にこう記されているのです。「主の杯と悪霊どもの杯とを同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。それとも、わたしたちは主の妬みを起こそうとするのか」とあって、これは信仰の弱い人たちがそう考えているのか、あるいは、パウロ自身がそう考えているのか判断がつきかねるところなのですが、要するに、偶像に供えられた肉を食べると、主なる神を裏切り、主の妬みを起こしかねない、主なる神から裁かれるのではないか、なにか罰を受けるのではないか。なにかたたりのようなものが下るのではないかという恐れをもっているということであります。

 それは、旧約聖書には、主なる神は妬む神であって、他の神々、偶像を拝む者に対しては、父祖の罪を子孫に三、四代までにも及ばして罰する、と言われているからであります。われわれの神は妬む神だといわれているからであります。

 この信仰の弱い人といわれている人は、悪霊のたたりがあるのではないか、そしてそれだけでなく、主なる神からのたたりのようなものがあるのではないかと恐れている人のことであります。だから偶像に供えられた肉は、それがそうだと分かってい時には、食べないという人なのです。

 それに対して、いわば信仰の強い人はどうかといえば、世にはそもそも偶像など存在しない、存在しているのは自分たちが信じている神だけだ、われわれの信じている神は唯一の神なのだから、偶像は存在しない、だから存在してもいない偶像に供えられた肉をたべたからといって、たたりが起こるとか、自分の魂が汚されるなどということはない、だからそれが偶像に供えられた肉だからといって食べてもかまわない、食物のことでわれわれの信仰がどうなるものではないというのです。それを食べるも食べないということも自由だということであります。
 
 しかしその自由にふるまう人の態度が、信仰の弱い人の信仰をつまずかせかねないというのです。その自由な人の態度に影響されて、偶像に供えられた肉を食べてしまうのではないかということなのです。

 それが九節の言葉です。「あなたがたの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように気をつけなさい」というのです。弱い人々を罪に誘うというのは、偶像に供えられた肉を食べることによって、つまり、その肉を食べる事自体は罪でもなんでもないのですが、それを食べることによって、なにか悪いことをしてしまったのではないかという思いを抱かせてしまうということです。そしてその割り切れない思いが、やがて信仰をつまずかせてしまうということなのてず。

 その後の一○節は、まことに変な翻訳で、いったいこれを訳した人はどういうつもりで訳したのかと思うくらい、変な訳だと思うのです。「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」と訳されているのです。「その人は弱いのに、その良心が強められて」というこの日本語の訳はなんとしても意味が通じない訳であります。口語訳ではこうなっています。

 「なぜなら、ある人が、知識のあるあなたがたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに『教育されて』、偶像への供え物を食べることにならないだろうか」となっております。「教育されて」という所は、二重括弧に入っています。ここはリビングバイブルがうまく訳しています。

「あなたが偶像への供え物を食べても別に害にはならないことを知っていて、神殿の食堂で食事をしたとしましょう。それを食べてはいけないと思っている人が見たら、どうでしょうか。その人は、いつもそれは悪いことだと思っているのに、つい気持がゆるんで、自分もそれを食べてしまうでしょう。するとあなたはそれを食べても差し支えないことを知っていたために、傷つきやすい良心をもった兄弟に、信仰上の大きな損害を与えた責任を負うことになります」と、訳しています。
 「つい気持がゆるんで」という訳が苦心して訳しているところであります。
つまり、今われわれが読んでいる新共同訳の「その人は弱いのに、その良心が強められて」というのは、その弱い人の良心が、本当はちっとも強くないのに、本当は傷つきやすい良心なのに、つい自分の良心は強いなのだ、なにをしても平気なのだと錯覚して、というような意味であります。

 パウロ自身の立場は、偶像に供えられた肉を食べていいかどうかということに関しては、はっきりしているのです。それを食べてもいいということです。何を食べても自由だ、これはしてはいけない、あれはしてはいけない、という戒めに縛られる必要はない、信仰は自由だという立場であります。

 これは今日の日本のクリスチャンの問題でいえば、たばこをのんでいいかどうか、酒を飲んでいいかどうかという問題であるかもしれません。ひところの教会では、クリスチャンでありながら、たばこをのむ人はもうそれだけで、何か重大な罪を犯したように思われていたものであります。今でこそ、たばこは健康に害悪だということで、健康環境の上から、禁止される方向にいっていますが、教会では、特に日本はピューリタン的なキリスト教がアメリカから入って来ましたから、たばこをのむことは健康上の問題ではなく、信仰上の罪悪だと教育されたものであります。ですから、わたしなどはいまだに、たばこをのめないでいるわけです。しかしヨーロッパのキリスト教ではそんなことはないわけで、有名な神学者のカール・バルトなどは大変な喫煙家であります。

 本当は、たばこの問題、酒の問題は、少なくとも信仰上の問題では、全く自由な筈であります。ただ、このたばことか酒の問題は、単なる飲食の問題を越えて、ひとたび飲み始めますと、それ麻薬的な慣習になって、それからはなれられなくなって、生活を駄目にしてしまう、そういう悪魔的な要素というものを含んでいるので、教会では、そういうものをたしなむと、その麻薬的な飲食の奴隷になってしまいかねないから、止めましょうというところから、禁酒禁煙ということが奨励されたわけであります。
 それが奨励された背景には、われわれ人間は弱い、われわれの信仰は弱いのだという深い自覚があったのです。

 そして、この自分の信仰は弱いという自覚はとても大切にしなくてはならないというのが、この偶像に供えられた肉を食べていいかどうかの問題に関するキーポイントなのです。

 偶像に供えられた肉を食べると悪霊に何か悪さをされて、自分の魂が汚されるのではないか、あるいは自分の信じている主なる神の妬みを引き起こして、その神から罰せられのではないかということでおびえる信仰というのは、確かに弱い信仰なのです。そんなに戦々恐々とたたりをおびえる信仰では困るのです。

 しかしパウロはそのようにたたりや迷信を恐れて戦々恐々としている信仰者を弱い信仰の人だとはいってはいますが、しかしその人を絶対につまずかせてはならない、その人の信仰が弱いからといって、その人を軽蔑してはいけないというのです。その人をつまずかせないために、自分も肉は食べないとまでパウロはいうのです。

 その弱い兄弟のためにキリストは死んでくださったのだ、というのです。悪霊の存在におびえ、あるいは律法のことで、なにをしてはいけない、かにはしてはいけない、こういうことをすると神の罰がくだるぞ、こういうことをしたらたたりがおこるぞ、と脅されている弱い人のために、キリストは死んでくださったのだというのです。

 その弱い人の信仰は弱いのです。あるいはもう辛うじて神を信じているのです。その人の意識では、自分の信仰は弱いことはよく知っている、自分の神に対するつながりかたは実に弱いことを知っているのです。何かが起これば、その握っていると思っている信仰という綱をつい放してしまうかもしれない信仰でしかないことを知っているのです。

 しかし、パウロはいいます。信仰というのは、自分が神を知っているということではない、神を知っているということは、神に知られているということなのだ、こちらの信仰がどんなに弱くても、こちらの綱の握りかたがどんなに弱くて、頼りないものであっても、神様のほうでわれわれの手をしっかり握ってくださっているのだ、だからたとえ何かがあって、こちらが信仰という綱を放したとしても、その時にこそ、神様のほうでしっかりと神様のほうからわれわれの信仰という綱をにぎってくださるのだから安心なのだというのです。

 ちょうど母親が小さい子どもと歩いているときに、子どものほうはしっかりと母親の手を握っているつもりでも、車でもきたら、すぐ手を放してしまうものです。しかし母親はふだんは軽く子どもの手をに触れているだけかもしれませんが、いざというときにはしっかりとその子どもの手を握りかえしてくれるようなものであります。
 
 われわれが神を知っているのではない、神がわれわれを知ってくださっているのだ、神を知るということは、神に知られているということなのだとパウロはいうのであります。その信仰が、たたりとか悪霊とかという恐れから解放してくれるのであります。

 強いと思われている人はどうでしょうか。信仰の強いと思われている人はどうでしょうか。彼は知識の上では確かに迷信を卒業し、自由な態度でいるかもしれない。しかし彼はいつのまにか、本当に頼っているのは、神ではなく、自分の知識になっていかないか、自分が自由だと思っているその自由がなにもかも自分を導いていくのだと錯覚していかないか。その知的な信仰はやがて自分の知識にふりまわされ、やがて信仰までも失っていかないだうろか。

 それに比べれば、たたりを恐れ、悪霊の悪さを恐れ、いわば迷信的なものからまだ脱却できないでいる人のほうが、彼は少なくても自分の弱さを知っている、そして人間を超えた超越的なものの存在を信じているということからいえば、知的な信仰者よりはずっと信仰的だと言えないだろうか。

 自分は強いと思っている人は、うっかりすれば、自分の知性に頼ってしまって、自分の自由さによってしまって、信仰をうしないかねないのであります。信仰の強いと思っている人ほど信仰は弱いかもしれないのであります。