「福音のための努力」  コリントT九章二四ー二七節

 パウロは「あなたがたは知らないのか。競技場で走る者はみな走るけれど、賞を受ける者は一人だけだ。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべて節制する。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのだが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうする。だからわたしとしては、やみくもに走ったりしない、空を打つような拳闘もしない。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させる」というのです。

 ここにはわれわれの信仰生活には、節制とか自分の体をうちたたくとか、そうした努力が必要だというのであります。その前のところで、パウロは、「福音のためならば、わたしはどんなことでもする。それはわたしが福音にあずかるためだ」といっております。そしてそのあと、「競技場を走る者は」とつづいておりますので、福音にあずかるためには、競技者がするような節制とか努力が必要だというのです。

 ひところ日本人が一番好む言葉は「努力」という言葉だったのではないかと思います。今はどうかはしりませんが、われわれ日本人は努力という言葉が大変すきなのです。しかしわたしは、この「努力」という言葉を聞くと、すぐあの戦時中の教育を思い出して、おぞましい気持を抱きます。戦争中の標語に「欲しがりません、勝つまでは」という言葉がありました。勝つまではすべてを禁欲して、節制して、努力する、そういう努力主義というもので戦争にかりたてられていったのです。だから二度とそういう教育は、受けたくないと思ったものであります。

 わたしが「努力」という言葉が嫌いなのは、そいう個人的な事情だけではなく、努力というのは、あの「信仰によって義とされる」という信仰義認の福音、われわれは善い行いをすることによって救われるのではなく、ただ神の恵みをひたすら信じて義とされる、救われるのだ」という福音、つまり「行為義認」ではなく、「信仰義認」の福音を、再び行為義認の救いの理解にぎゃくもどりさせてしまうのではないかと憂えるのであります。

 信仰義認という救いは、救われるためにはもういっさいのこちら側の行いは必要ない、ただ一方的な神の恵みを信じる信仰だけが必要なのだという救いであります。われわれ人間側に必要なのはただ自分の空の手を差し出すことだけが必要なのであります。たとえは悪いかもしれませんが、もう裸になって大の字なってねころがっていても、われわれは救われるのだということを徹底的に信じないと、この信仰義認という救いを本当にわかったとはいえないと思うのです。そこにいささかでも、人間的な姿勢を忍びこませようとすると、信仰義認という救いは曖昧なものになってしまうのではないかと恐れるのです。

 われわれ日本人は行為義認を信じられるほど、自信過剰な人はいないと思うのです。特に日本のクリスチャンは真面目な人が多い、また一見謙遜な人が多いので、主イエスが戦ったファリサイ派の人とは違って、行為義認つまり、自分の行いによって救いを勝ち取れるなどと思う人は少ないと思います。むしろ、みな自分の行いの惨めさをよくよく知っていると思います。
 そういう意味では、われわれ日本人のクリスチャンは行為義認主義には陥らないと思います。しかし努力ということが好きなわれわれ日本人は、努力義認主義というものから本当に解放されているか。
 
 確かにわれわれは自分の行いによって救われることはできないことは、身にしみてよくわかるのです。ただ神の恵みによって救われるということは本当によくわかるのです。しかし、よく聞かされることは、確かにわれわれは何も善い行いはできないかもしれない、しかしせめて努力だけは、努力くらいはしないと神様に申し訳ないのではないかという言葉なのです。

 救われるためには確かに、ただ神の恵みを信じる以外にはないことはよくわかる、しかし救われたあとは、なんらかの努力は必要なのではないかということなのです。確かに完全な善い行いはできないかもしれない、しかしせめて自分のできる努力はしなくてはいけないのではないかと言い出すのです。

 しかしそれでは、異邦人で救われた者も、ユダヤ人と同じように割礼を受けなくてはならないというユダヤ人キリスト者の主張と同じになってしまって、それに対して、パウロは猛烈に反対したように、「霊によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのか」ということになるのではないかと思うのです。

 われわれ日本人クリスチャンにとって、行為義認主義からは解放されても、努力義認主義から本当に解放されるのは難しいと思います。

 それではわれわれの信仰生活にとって、努力というものはいっさいいらないと言い切れるかと言うことなのです。現にここでパウロは、節制とか自分の体をうちたたいてとか、信仰生活には努力が必要だといっているのであります。ここでパウロが例にあげている競技場で走るスポーツマンは、努力しないで競技に参加できる人はひとりもいないのです。

 信仰生活におけるこの努力というものを、きちんと位置づけでおかないと、われわれはすぐ努力義認主義に走ってしまい、そしてそれはいつのまにか、行為義認主義のわなにはまってしまうのではないかと思うのです。

 それはこういったらいいかも知れないと思います。ことわざに「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。自分ができることはすべてして、あとは天命を待つ、神様の救いを待つという言葉です。しかし、これでは行為義認主義に陥ります。「人事を尽くして天命を待つ」ということではなく、われわれにとっては、いわば、「天命を信じて、人事を尽くす」ということはではないか。神の恵みによって救われたからこそ、われわれはその神の恵みに応答して生きようとする努力であります。

 信仰生活には努力は必要なのです。この日曜日ごとに行われる聖日礼拝に遅刻しないように出席するということは、やはり努力しないてばできないことであります。聖書を読んだり、祈ったりすることも、やはり努力しなくてはできないことであります。それこそ、自分を打ち叩いて、むち打って、聖書全巻を通読する、ある人は一字一句それを写経した人もおります。

 その人はなぜそうしたのか。それはパウロがいっているように、福音にあずかるためであります。今日の説教の題は「福音のための努力」とつけましたが、あとで気がさきましたが、本当は「福音にあずかるための努力」という題にすべきでした。信仰者にとっての努力は、あくまで、救われるための努力ではなく、この神の恵みを信じるという努力、いってみれば、自分の手を空にして、ただ神の恵みだけを信じようとする努力であります。そうしないと、自分は福音から落ちてしまうと言う危機感のなかでの努力であります。

 ただ、ただ、神の恵みによってのみ救われるという信仰に立つということは一番やさしいようでいて、実は一番難しいのです。なぜなら、われわれには自我があるからです。他人の恵みを信じるよりは、自分の力を少しでも信じていたい、全面的に他人のお情けにすがりつくのではなく、すこしは自分の功績という保険をかけておきたいという卑怯な、意地汚い計算があるからであります。

 われわれの信仰生活はというのは、信仰義認の教えに立ちながら、しかしどうもそれだけでは不安で、すこしでも、手元に自分の功績という保険を手にしていたいという行為義認主義に陥っては、それがいかに空しいものであるかを思い知らされて、それが裁かれて、また再びただ神様の恵みによって救われることを信じる信仰に立とうと、つれもどされる、そういうことの繰り返しがわれわれの信仰生活ではないかと思います。

 信仰義認から行為義認へ、いや信仰義認から努力義認へ、そしてまた信仰義認につれもどされる、それがわれわれの信仰生活ではないかと思います。

 そしてわれわれは最後に死を迎えることになる、その時に、われわれは自分のもっているものをいっさいはぎ取られて、場合によつては、われわれの自覚的な信仰、意識的な信仰までも取り去れてしまって、痴呆のような状態になって、そのときにはじめて、もう全面的に神のあわれみにすがって救われて、死んでいくのかもしれないと思います。

 その信仰の努力、福音にあかずかるための努力を、パウロは競技場の競技者にたとえております。賞を得るのはひとりであるというのは、なにも救いに預かるのはひとりだ、多くはいない、少数者だ、エリートだけだ、ということをいいたいために出した例でないことはあきらかです。それは賞を得るためには大変な努力がいるということをいいたいための比喩であります。

 そしてここでパウロは、救われるということを賞を得ることにたとえているのです。賞を得るというのは、言葉をかえていえば、ほめて貰うということであります。神の恵みによって救われたわれわれは、その神に褒めていただこうとして生きるのだというのです。それが福音にあずかるということなのだというのです。

 われわれは救われるということが、神様から賞をいただくことだとはあまり思わないのではないか。神様から褒めてもらうことが救われることだとはあまり思わないのではないか。
 われわれは救われるということは、自分の人格をみがくとか、高潔な人格になるとか、少なくとも、自分が幸福になることだと考えていないか。しかしここでは、そういうことではない、ただ神様から褒めて貰う、それがわれわれの信仰生活の目標だというのです。

 主イエス・キリストがわれわれが偽善的になってはいけないということをいわれた時に、こう言われるのであります。自分の義を見られるために人の前で行わないように注意しなさいというのです。人に施しをするときに、みんなのいる前でラッパを吹き鳴らして、これから施しをすると人に見せびらかして、するなというのです。それは神様から褒めてもらう前に、世間様から褒めてもらおうとすることだからだというのです。それが偽善的というものだという。なぜならば、偽善的になるということは、神様から褒めてもらうことよりは、世間からほめて貰おうとする、もっと正確にいえば、自分で自分を褒めてしまうということだ、そうすると、神様から褒めてもらう前に、自分で自分を褒めたり、世間様から褒めてもらってしまって、神様からの報いを逸してしまうことになる。だから、人から褒めてもらうとして善い行いをするのではなく、隠れたことを見ておられる神さまから褒めてもらうことを考えなさいというのであります。

 ここでも、われわれの救いの目標は神様から褒めてもらうことにあるのだといわれているのであります。

 森有正という哲学者がこういうことをいっているのです。「仕事というものは、いったい誰のためにするのだろうか。仕事自体のためにと答える人もいる。自分自身のためにという人もいる。どちらも本当ではない。仕事は、心をもって愛し、尊敬する人に見せ、喜んで貰うためだ。それ以外の理由は、全部嘘だ。中世の人々は、神を愛し、敬うが故に、あのすばらしい大芸術をつくるのに全生涯を費やすことができたのだ」といっているのであります。

 ミケランジェロでもダビンチでも、みな神様に褒めて頂こうとして仕事をした、あの西洋の大聖堂はみなそのような思いでしているから、自分の一生をかけて完成しなくても、世間の評価を気にしないで、ただ隠れたことを見ておられる神様に褒めてもらおうとして、こつこつと壮大な教会堂建築に励んだのだというのであります。

 コンサートにいっても、いい音楽を演奏できた指揮者が、最後に聴衆から盛んな拍手をあびて、本当にうれしそうな様子を見ると、この人はこのために一生懸命努力してきたのだなあと分かるのであります。

 人から褒めてもらう、それがどんなにわれわれにとって喜びであるか。そして本当に人からほめてもらうためには、偽善的なことでは、決して真に人からほめてもらうなんてことはできる筈はないと思うのです。大広間に出て、ラッパをふきならしてこれから施しをするぞと大声をあげても、人は誰も本当の意味でほめる筈はないと思うのです。世間はそれほど馬鹿ではないからであります。そういうことをやる人は、きっと世間は自分のことをほめてくれているだろう勘違いしているのだけで、結局のところ、ただ自分で自分をほめているだけであります。

 人に本当にほめてもらうためには、一切の偽善は通用しないのです。まして神様からほめてもらうためには、どんな偽善も通用する筈はないのです。神様はわれわれの心のすべてを見抜き、われわれの隠れたことまでも見抜いているかただからであります。
 ですから、ただほめて貰おう、褒めてもらおうとして、歯を食いしばって努力してみても、その努力には、自我がむき出しになっていて、彼が努力すればすれば、彼の自我の主張がむき出してになって、目を背きたくなるのではないか。

 カンニングして百点とっても、そういう偽善的なことをしても、何にもならないし、歯を食いしばって、努力に努力に重ねて、どうだ、俺はこんなに努力しているんだ、俺を褒めろといわれても、人は少しも褒めたいという気にはならないと思います。そこでは自我がむき出しになっているからであります。

 ではどういうときに、褒めてもらえるか。たとえば、赤ちゃんがお母さんにほめてもらおうとして、一生懸命自分の足でよちよち歩こうとする、努力する、そういう努力に人は感動するのではないか。そこには、ただお母さんにほめてもらおうとして、自分のできるかぎりのことをしているからであります。

 子どもは親にほめもらうことによって、健全に育っていくのであります。だから親は子どもを褒めるということがどんなに大切かということであります。ほめてもらうことに喜びを感じるということは、愛の関係に喜びを感じるということだからであります。それはただ自分だけのことを考えているのではなく、なによりもその人との関係を大事にしているということであります。

 それは新婚の妻が夫に喜んでもらおうとして、下手な料理をともかく努力してつくって差し出すということでもあるかもしれません。それはベタランの家政婦がつくる料理よりも、夫は喜ぶに違いないと思います。そこには愛の関係があるからであります。

 褒めて貰おうとして何かをするということは、何か卑しい心の動機をわれわれは感じてしまうかもしれません、なにかそこに偽善的なものをわれわれは感じ取ってしまうかもしれません。だからもう褒めてもらおうと卑しい心はもつまいという人がいるかもしれません。
 しかし人から褒めて貰うという心を失ってしまった人間というのは、人の関係に全く関心を失ってしまった人間ということになって、それは病気になっているということになるのではないか。それはつまり愛の関係に関心を失ってしまうということだからであります。

 褒めて貰う、正しく褒めて貰うということは、本当に難しいと思います。あまりむき出しにしてそれだけを考えると、それだけを目標にすれば、何か自我がむき出しになってしまうし、そうかといって、もういっさい人にほめてもらうことなんかを目標にしない、そういうことに無関心になろうとすれば、何か変人になるし、つまり、愛の関係から離れてしまうことになるからであります。
 
 芸術家は、なにも人に褒めて貰おうとして、自分の作品をつくるわけではないと思います。そんな動機だけでは真の作品は作れる筈はないと思います。真の芸術家は、ただ自分の心の内面から促されて作品を創作するのだろうと思います。しかし、その動機には、人から褒めて貰おうとは思わないでしょうが、神様から褒めてもらおうとするのではないか。すべてを見抜き、隠れたことを見ておられる神様にはほめて貰おうとして、作品を創造しようとしているのではないか。

 そして神様がなによりも、喜ばれるのはなにかといえば、犠牲の供え物ではなく、砕けた魂だ、砕けた悔いた心だと、詩編の作者はいっているのであります。自我をむき出しにした努力主義ではなく、砕けた魂なのです、そして何よりも神にほめて頂こうとして、赤ちゃんがお母さんに褒めてもらおうとして懸命によちよち歩きをする姿勢、そういう努力であります。

 それは言葉をかえていえば、福音にあずかるための努力であります。それは神の恵みから離れないための努力です。つまりは、それは神の恵みにできる限りのことをして応答していこうとする努力であります。

 それは決して行為義認主義につながったり、努力義認主義につながったりしないのです。それは一方的な神の恵みに感謝をもって応えようとする愛に促される努力であります。愛の応答としての努力であります。