「耐えられない試練はない」 コリントT一○章一ー一三節

 パウロは九章の終わりで、自分自身が福音にあずかるために、細心の配慮と節制と、また全力で走り続けるのだ、そうしないと、「他の人々に宣教しておきながら、自分のほうが失格者になってしまわないためだ」というのです。そして一○章の一二節では、「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」と警告いたします。
 「立っている者」というのは、自分はもう救われた、もう自分は自立して自分の足で立っていると自負している人のことであります。そういう人は、倒れないように気をつけなくてはならないというのであります。

 信仰生活には、さまざまの試練がある、立っていると思い上がっていると倒されてしまうぞ、というのであります。だからその試練に耐えなくてはならないというのであります。試練というのは、誘惑という字と同じで、それは試練と同時に誘惑でもあるのであります。

 一○章の一節からこう警告します。「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は、皆雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲んだ。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からであるが、その岩こそキリストだったのだ」というのです。しかし彼らの大部分は神の御心に適わなかったために、荒れ野で滅ぼされてしまったというのです。
 
 それは指導者のモーセも例外ではなかったと聖書は告げるのであります。モーセもまた約束の地、カナンに入る手前で、神の裁きを受けて、死に、約束の地に入ることはできずに、荒れ野で滅ぼされてしまうのであります。

 ここで「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについてきた霊的な岩」ということがいわれておりますが、これは何か岩のほうが歩いてイスラエルの民についてきたという少しおかしな表現がされておりますが、ここでいわれている岩というのは、結局は神の事のようで、神がイスラエルから離れずについて来てくださったのに、イスラエルの民はその神を信じ切ることをしなかったのだということであります。

 イスラエルがエジプトから脱出して荒れ野をさまよっていたときに、彼らは大変な試練に遭うのであります。まず砂漠地帯ですから、飲む水に困った。民がモーセに訴えたとき、モーセに民を代表して神に祈った。神はそのモーセの祈りに応えて、岩を杖で叩いてみよ、そうしたら水がでる、といわれるのであります。モーセがそうすると水がでて、民ののどの渇きはいやされたのであります。

 ここでいう「霊的な岩」というのは、そのことをいっているのであります。それは単なる肉体の渇きをいやす水ではなく、彼らの魂をいやす霊的な水であって、その岩が彼らの荒れ野をさまよっている間、すこし奇妙な表現ですが、岩のほうからついてきてくれたというのであります。

 ところが、さらに砂漠をさまよっていたときに、再び民が、水がない、水がないと騒ぎだしたときに、モーセは怒り、再び神に願ったところ、神はモーセに今度は、「岩に命じて水をだせ」といわれるのです。ところが、モーセはかつての経験がありましたから、その神さまの言葉をいいかげんに聞いて、前と同じように、岩を杖でたたいて水を出そうとしたのであります。神は今度は杖でたたけとはいわなかった。ただ岩に命じてといっだけなのにです。水はでましたが、そのときモーセは神から叱られて、お前はわたしを信じることをせず、イスラエルの人の前に、わたしが聖なることを示さなかったといわれてしまうのです。そのために、お前は約束の地カナンの地に入ることができないといわれてしまうのであります。
 
 その岩は恵みの岩なのであります。しかしその恵みの岩が、一転して裁きの岩になってしまったのであります。それは恵みになれっこになってしまって、神の恵みにいつも初々しく、新鮮な気持ちで聞こうとしないで、神の恵みを既成の事実とし自分のポケットの中にしまいことんでしまい、自分の経験というポケットのなかに神をしまい込んでしまったからであります。

 自分はもう神の恵みの手のうちはすべてわかっている、そのようにあぐらをかいていると、われわれは神の前にひざまづくことをしなくなり、神を恐れおののいて礼拝しなくなるのであります。われわれの信仰は、あの茨木のり子さんの詩にありますように、すれからっしの信仰になってしまう、「生牡蠣のような、初々しさが大切なの」といわれる初々しい信仰を失ってしまうのであります。

 われわれが最初に礼拝に出たときには、遅刻することはなかったでしょうし、いや遅刻するにせよ、最初の頃は、もっとおそるおそる遅刻しただろうと思うのです。しかし今はどうか。

 聖書はしばしば、お前は初めの愛から離れてしまった、落ちてしまった、だからどこから落ちたかを考えてみよというのであります。

 そしてパウロは、その岩こそわれわれにとってはキリストなのだというのです。キリストの恵みもわれわれはうっかりすると、自分のポケット中にしまいこんで自分の好みに応じてとりだせると思ってしまうのであります。

 パウロはそのようにして一度キリストの岩から霊の水を飲んだものであってもなれなれしい信仰、すれからっしの信仰になってしまうと、立っていると思っても、倒れてしまうことになるぞと警告するのであります。

 そのあと、パウロは次々とイスラエルが荒れ野で遭った試練をとりあげて警告をいたします。
 七節からは、「彼らの中のある者がしたように偶像礼拝をしてはならない」といいます。それは、モーセが十戒をいただくためにシナイの山に登って、不在の時に、指導者モーセを失って不安になった民衆が自分たちのために目に見える神を造ってくれとアロンに頼んで、金の子牛を造ってもらって、それを自分たちの神だといって、喜び、座して飲み、立って踊ったという聖書の記事を引用いたします。

 偶像とは、結局は自分のために神を造ることなのです。自分の手で持ち運びできる大きさの神、自分の欲望の象徴である金でできた神、ただただ自分の安心のための神、自分が自分のために造った神であります。

 そのあと、八節からは、「みだらなことをしないように」と警告します。偶像が自分のための神を自分の外に造るのに対して、みだらな行為にふけるということは、自分の欲望、特に性的な欲望のままに生きてしまうということ、自分の欲望を、自分自身を神にしてしまうことであります。そのように自由奔放に生きようとして、結局は自分の欲望の奴隷になって生きてしまう誘惑でりあります。

 そのあと、九節からは、「キリストを試みてはならない」といいいます。これは口語訳では、主を試みてはならないとなっていて、そこでの「主」というのは、「主なる神」という意味にとって、神を試みるなということになります。ここは旧約聖書の民数記の記事の引用ですから、そのほうがいいと思いますが、なぜか新共同訳では、言語的には、キリストという字が使われているので、「キリストを試みてはならない」と訳しております。内容的には、われわれにとっては、キリストを試みてはならないということですから、これでもいいと思います。
 
 試みのなかでも、われわれにとっての信仰上の一番の試みは、イエスが荒野でサタンから会った試みではないかと思います。そこでは、サタンはイエスを宮の一番高いところにつれていって、あなたが神の子ならば、ここから飛び降りてみよ、きっとあなたは神の子なのだから、神が助けてくれるだろうというのです。それに対してイエスが「主を試みてはならない」という言葉をもって、そのサタンの誘いを退けたということであります。

 つまり、ここでは敵に追われてせっぱ詰まって高いところが飛び降りるということではないのです。敵に追われているのではなく、ここでは何の必要もないのに、ただ神が自分のいうことを聞いてくれるかどうか、つまりは神が自分の奴隷になって働いてくれるかどうかを試すために、高いところから飛び降りてみよというサタンの試みなのであります。

 それは神を信頼するのではなく、神を自分の手下にして神を用いようとすることであります。
敵に追われてということであるならず、もうせっぱ詰まって、ただ神に必死に助けてくださいと祈りながら、高いところから飛び降りる。それはもう神を試みるということではなく、神にしがりつく信仰であります。

 よく言われることでありますが、われわれの信仰というのは、瀬踏みの信仰だといわれます。瀬踏みの信仰ではいけないというのです。瀬踏みとはなにかといいますと、われわれは浅い川を渡るとき、その川の深さを測るために、試しに足をそっと入れてみるということであります。あるいはこういうことであります。川を渡るときに、川の中の頭を出している石を踏んでわたろうとします。その時にまずその石が安定しているかどうかを試して、軽く足をその石にのせて見る、そうしてその石が安定していることがわかってから、その石に全身を委ねて、川をわたっていく、それが瀬踏みということであります。

 ある人がわれわれの信仰はみなそういう瀬踏みの信仰ではないか、しかしそれでは神を全面的に信頼していることにはならないので、そんな信仰ではだめだというのです。

 確かにわれわれの信仰は瀬踏みの信仰なのです。しかしその瀬踏みの信仰にはおそるおそる瀬踏みするという思いがあると思うのです。こわごわとする。そこには神に対する完全な信頼はないかもしれませんが、しかしこわごわというところには、神に対する初々しい信仰いうものが感じられるのではないか。だからそれほど悪い信仰とは思えないのです。その程度の試みはわれわれにはゆるされると思うのです。

 サタンの試みは、何の必要もないのに、ただ神を試すために、高いところから飛び降りてみよ、という傲慢な、あぐらをいてしまっている試みではないかと思います。

 そしてパウロは、不平をいってはならないといいます。これは口語訳では「つぶやいてはならない」となっていて、そのほうがいいように思います。つぶやきといのうのは、直接神に訴えるという不平ではありません、自分に対してつぶやく、それを神に気付いてもらって、神に聞いて貰おうとする、卑怯な不平のあらわしかたであります。
 それはあのヨブの訴えとは全く違うのです。ヨブの不信仰に見える神に対する訴えは、もっとも信仰的な不平であります。

 ひとりごとのようなつぶやきはするなということであります。

 そのあと、パウロはこういいます。一二節から「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実なかたです。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道も備えていてくださいます」。

 「人間として耐えられないようなものはなかった」というところは、口語訳では、「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない」となっています。新共同訳のほうが原文に忠実の訳であります。しかし口語訳のほうは意訳でしょうが、「世の常でないものはない」という訳も意味深長な訳だと思います。われわれは大変な試練に遭うと、この自分の試練は特別な試練だ、世の常ではないと思いたくなるものであります。しかしそんな特別な試練はないというのです。
 
 しかし、何か大変な試練にあっている時に、あなたの今会っている試練は世の常のものではない、特別のものではない、みんなが会っている試練だといわれて救われるだろうか。むしろ、そんなことをいわれたら、かえって、変な話ですが、がっかりしてしまうのではないか。自分の今会っている試練は自分だけに遭わされている特別な試練だと思いたくなるのではないか。

 しかしここで言われていることは、「世の常のものではない」ということではなく、「人間的なものでないものはない」という意味なのです。つまりどんな試練でもみな人間的な試練だということなのです。「人間として耐えることのできる試練だ」というのです。
 それはみなわれわれは人間なのだからだ、われわれは神によって造られた存在だからだというのです。試練においても、苦難にのおいても、自分を特別扱いするなというのです。

 試練に耐える道は、人間として耐えられないような試練はない、ということに気付くことです。それはさらに積極的に言えば、「神は真実なかたである」と言う信仰に立つということです。自分はその真実な神の支配のもとにあるということに気付くことであります。そのときに、「神はあなたがたを耐えられないような試練にあわせないばかりか、試練と同時にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださる」ということに気付くのであります。

 ここで大事なのは、試練と同時にそれに耐えられるように、われわれの心を強くしてくれるということではないのです。そうではなくて、逃れる道も備えてくださるということであります。

 ここを読んでいて、あのテレジアという修道女が言った言葉を思いだします。「わたしは困難に出会った時は、決してそれを飛び越えようとは思いません。今よりももっと小さくなって、わたしはその下をくぐり抜けようと思います」と言っているのであります。「もっと小さくなって」というのです。「もっと小さくなってその下をくぐり抜けようと思う」というのです。

 パウロはローマの信徒の手紙のなかで、「艱難は忍耐を生みだし、忍耐は練達を生みだし、練達は希望を生み出す」といっております。われわれにとっての試練とか艱難は、それに打ち勝って、いわゆる練達の士といわれるような厚顔無恥のような強い人間になることではなく、ますます自分の弱さを知り、ますます神に頼り、そこから、つまり神から望みを与えられるようになることなのです。
 それは試練に打ち勝つというよりは、もっと小さくなって、その試練の下をくぐり抜け、その試練からそっと逃れるということであります。

 それは弱い時にこそ、強いという信仰の道を歩むことであります。そのためには、そのためにこそ、神は真実なかたであることを信じていくのであります。