「偶像礼拝を避けなさい」コリントT 一○章一四ー二二節

 パウロは「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい」と勧めます。「こういうわけですから」というのは、試練に遭うからということでしょう、そして試練のなかでも一番の試練は、偶像礼拝に陥るという試練が一番怖い試練だからということであります。

 「偶像礼拝を避けなさい」というのは、ある訳では「偶像礼拝から逃れなさい」と訳されております。それはいずれにせよ、ずいぶん弱い勧めではないか、偶像礼拝と戦いなさいとか、偶像礼拝している者を攻撃しなさいとか、なぜもっと積極的に戦おうとしないのか。

 聖書には、特に旧約聖書には、そうした偶像を壊し、偶像礼拝と戦えといった表現がむしろ多いと思います。また実際に戦った記事がたくさんあると思います。しかしここではパウロは「避けなさい」とか「逃れなさい」と勧めています。

 先週学んだところでも、「神は試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださる」というように、試練に真っ正面から堂々と戦いなさいというよりは、試練はその下をくぐり抜けるようにそっと逃れなさい、と勧められてもいたのであります。

 偶像礼拝と戦うということは、言葉を換えていえば、他の宗教と戦いとなさいということであります。他の宗教を信じている人に向かって、あなたが信じている神々は偽物で、それは偶像にすぎないといって、戦うということになると思います。しかしそうした宗教戦争というものがどんなにこの世界に悲惨な戦いをもたらしたかは、われわれ人間の歴史が示していることであります。

 自分たちが信じている神のみが正しい神で、他の宗教の神々は偽物だということ自体はもちろん言わなければならないことでしょうが、しかしそれを戦うという形でそのことを主張すると、どうでしょうか。戦うと言うときには、どんな戦いであっても、それがどんなに正義の戦いであったとしても、戦いのなかには、いつのまにか自我をむき出しにするところがでてくるのではないか、自己主張があらわに出てくるのではないか。

 だから偶像礼拝を攻撃し、それと戦っているうちにいつのまにか、戦っている自分自身を絶対化して、自分の信仰を絶対化して、自分を偶像にし、あげくのはてには、自分の信じている神を自分の偶像にしてしまうという危険を冒してしまうのではないか。

 だからここでは、偶像礼拝を避けなさいと勧められているのではないか。それでは偶像礼拝を避ける、それから逃れるには、どうしたらいいか。
 
 パウロは続けてこういうのです。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」というのです。つまり、これは今日われわれかが行っている聖餐式にあずかる、そういう礼拝を捧げること、それがわれわれが偶像礼拝を避ける道だというのです。

 ここでも一三節にある「神は真実なかたです」という言葉が生きてくるのであります。偶像礼拝を避ける、そこから逃れるには、われわれが真実の神を真実に礼拝していくことなのだ、つまり、敵を攻撃したり、お前たちの信仰は偽物だといって戦うことよりも、なによりも自分たちが真実の神により頼み、真実の神を礼拝していくことなのであります。そういう真実の神のふところに逃げ込むとことによって、偶像礼拝から逃れることができるのだということであります。

 ここは偶像に供えられた肉を食べていいかどうかということから始まった問題であります。それは再び、二二節からもとりあげられているのですが、今まで学んだところでも、また二二節からのところでも、偶像に供えられた肉を食べることそれ自体はどうでもいいことだとパウロは考えていたようであります。だからそれを食べてもいいし、食べなくてもいいというのです。

 しかし、偶像に供えられた肉を、自分の家で食べるということだけでしたら、なんら問題はないでしょうが、ここでは偶像に供えられた肉を中心とした宴会の席に同席するということが考えられているのではないかと思います。それはもう異教の礼拝に参加するということになることであります。それはキリスト教の立場からいったら、ただ偶像に供えられた肉を食べるという単なる食事の問題をこえて、それは悪霊の食卓に参加するということであり、悪霊の仲間になるということだから、それは避けなさいということのようであります。

それは今日の日本の中でいえば、たとえば、お寺に行って、仏教の宗教的に行事に参加するということ、それをただ知的な興味から、あるいは、観光的な関心から参加することは、どうということはないかもしれませんが、それが宗教的な意味を込められて行われるようになったら、やはりおかしいことになると思います。われわれはやはりそうしたことには、どこかでけじめをつけておかなくてはならないと思います。そうした他の宗教の儀式に対して敬意を覚えることはいいかもしれませんが、たとえば礼拝と同じような行為には参加しないというけじめはつけておくべきだと思います。

 二一節では、「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方につくことはできない」といいます。

 これは単なる食卓の問題ではなく、宗教的儀式、礼拝に参加するかどうかの問題です。イスラエルでもエルサレム神殿では、動物の捧げものをしたのです。そしてその捧げた動物の肉の一部を払い下げられて共に食するということが行われたわけです。
 形のうえでは、異教の偶像礼拝と、動物をささげる礼拝とはあまり違わないのではないかと思われます。しかし旧約聖書をみますと、預言者たちはしばしばそうした祭儀的な礼拝を批判して、主なる神が喜ばれるのは、動物のささげものではない、主なる神が喜ばれるのは、われわれの砕けた魂だ、悔いた心だといったのです。

 イスラエルの人々も初めは、動物を捧げるときに、動物をささげると同時に、砕けた魂を悔いた心を捧げて礼拝をしていた筈なのです。しかしそれがいつのまにか、形骸化して、ただ動物をささげていれば、真の礼拝になると考えるようになってしまったのであります。それはあまり偶像礼拝と変わらないものになってしまったのであります。

 そしてここでは、そうした動物を捧げるという礼拝の形ではなく、われわれのしていることは、十字架で流されたキリストの血にあずかる杯を飲むこと、十字架で裂かれたキリストの肉にあずかる、そういう礼拝、そういう食卓にあすがることなのだというのです。それは砕けた魂を捧げる、悔いた心を捧げるということよりも、もって徹底して自我を否定する礼拝を捧げるということであります。
なぜなら、それはいつもキリストの十字架を覚える礼拝をささげるということだからであります。
 そういう礼拝を捧げるということと、偶像にそなえられた食卓にあずかるという礼拝とは、両立できないというのです。

 キリストの杯にあずかり、キリストの体にあずかる礼拝を捧げているならば、そういう真実の礼拝を捧げているならば、本当は、キリスト教の歴史のなかにしばしばあらわれた、そしてこれからも現れるに違いない十字軍などという宗教戦争など起こりようがない筈なのであります。

 偶像礼拝を避けるためには、ただそれを避けているだけではだめなのであって、今日でいう聖餐式を中心とした礼拝を真実に行っていなければならないということなのであります。
 今日、プロテスタント教会の礼拝は毎日曜日の礼拝において、カトリックのように聖餐式を行っておりませんし、また聖餐式を中心にした礼拝ではなく、むしろ、言葉を中心とした説教を中心とした礼拝を捧げたおります。それは聖餐式を軽んずるということではなく
、聖餐式を真実に生かすために、われわれプロテスタント教会では、説教を中心とした礼拝を行っているわけです。

 聖餐式というのは、ひとつの儀式ですから、儀式というのは、いつのまにかそれは形骸化してしまうという危険があるし、またともすれば、聖餐式がなにか魔術的な要素が入り込んでしまう、ある意味では、迷信的な要素が入り込んでしまうものであります。

 たとえば、カトリック教会のミサでは、パンは信徒に配りますが、ぶどう酒は信徒には配りません。司祭だけがそれに預かります。なぜそうするのかといいますと、ぶどう酒というのは、こぼれた時にどうしようもないからだということなのです。カトリックの信仰では、祈りと共にに、ぶどう酒はキリストの血に変化してしまっているという信仰なのです。だからそのキリストの血をこぼすなんてことは、絶対にあってはいけないことなので、それをこぼしたら、その教会堂を燃やしてしまったということもあったということであります。それは本当かどうかわかりませんが。もしそうなったら、これは戦時中の天皇の写真と同じで、それはもう偶像化されてしまっている、迷信化されてしまっているということであります。聖餐式はやはりうっかりすると、魔術的に要素、迷信的な要素を含んでしまう儀式という危険をはらんでいるのです。

 われわれプロテスタントの教会では、聖餐はあくまで、御言葉、つまり説教と共におこなわれてこそ意味があると考えられていて、説教を中心とした礼拝を守っているわけであります。説教が見えない言葉であるというのに対して、聖餐式はパンとぶどう酒をもって、キリストの肉と血を見えるかたちで語る言葉、つまり聖餐式は見える言葉として考えられているのであります。

 聖餐式を中心にしたカトリック的な礼拝が誤りであるというのではないのです。このコリントの信徒の手紙のなかを読んでいたら、もうこのころはいかに聖餐式を中心にした礼拝が行われていたかがわかります、そしてそれが大事なことなのだということもわれわれプロテスタント教会の側は考えなくてはならないと思います。

 つまり、われわれプロテスタント教会の礼拝が説教中心になっていきますと、われわれの信仰というものがともすれば、はなはだ観念的な信仰に陥る危険があるということなのです。たとえば、年をとってもう説教を聞くことが苦痛になってくる、実際問題として聞けなくなるということはいくらでもあるわけです。そういうときに、聖餐式のパンとぶどう酒の杯にあずかるだけで、ぱっとキリストの十字架にあずかるということもできると思います。それはどんな高尚な説教よりもよほどはっきりした言葉として受け止められると思います。説教よりも聖餐式のほうがありがたいと言うときがくると思います。

 二一節に「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません」と、ありますが、これは説教だけを中心とした礼拝からなかなかこういう感覚というのはつきにくいのではないかと思います。なにかを具体的に食べるということは、単なる頭だけのものではなく、信仰が肉体化するということになるのではないかと思います。

 そして二二節をみますと、パウロはこういいます。「それとも、主にねたみをおこさせるつもりですか」というのです。これは申命記の三二章にこういう言葉があるからであります。
 「彼らは神ならぬものをもって、わたしのねたみを引き起こし、むなしいものをもって、わたしの怒りを燃え立たせた」とあります。主なる神は、偶像礼拝をして他の神々を拝んでいるわれわれに対して妬みを起こし、怒りをおこすぞというのです。神と妬みとはなにかそぐわないような感じを受けるかもしれません。

 しかし、 口語訳聖書には、「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない、それにひれ伏してはならない」といったあと、「主であるわたしは、妬む神であるから、わたしを憎むものには父の罪を子に報い」という言葉があります。
 ところが、新共同訳では、大変残念なことに「ねたむ神」というイメージはよくないと思ったのでしょう、「わたしは熱情の神である」となってしまっております。他の箇所では、「あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』といって、妬む神だからである」とまでいわれているのです。ここも新共同訳では「熱情」と訳してしまっております。

 妬むということは、確かにあまりいい意味には使われないと思います。それを神にあてはめるわけにはいかないと思って、熱情の神などと訳したのでしょうが、しかし妬みのない愛というものがあるだろうか。たとえば、夫が他の女を愛するようになったならば、それを平然として妬むことをしないならば、それは愛といえるか。もうそうなってしまっていたら、それは夫を愛していないということになるし、夫にもうぜんぜん関心がなくなってしまったということにならないか。

 つまり、妬みというのは、愛情の強さと深さと激しさをあらわすものであります。愛というのは、いつでもこの人だけを愛するという集中性をともなうものであります。それが生きた本当の愛というものであります。

 しかし妬みというものは、それがこうじるとそれはしばしば殺人にまで発展するほどに醜い情でもあります。そういう妬みとここでいわれている「神は妬む」という妬みと、どう違うのか。

 われわれがすぐおもいつくのは、人類最初の殺人は、カインがアベルを妬んで殺してしまったということから始まっていて、それは妬みが引き起こしたものであります。それはある時、カインとアベルが神に捧げものをしたところ、神はなぜかアベルのささげものは顧みられたが、カインのささげものはかえりみられなかったのです。それでカインは怒り、アベルを妬んで、彼を野に連れ出して殺してしまうのであります。

 この妬みと神の妬みとどう違うか。カインが神の不当性を訴え、あなたはなぜ自分のそなえものを顧みないのか、なぜ神はわたしを愛してくれないのか、とそれを怒り、それを妬むと言うことであるならば、カインはこの時、なぜ神にくってかからなかったのか。なぜ神にわたしをどうして愛してくれないのか、どうしてわたしよりもアベルを愛するのか、神に訴えてもよさそうなのに、カインの妬みは神に向かうのではなく、アベルに向かい、アベルを殺してしまったのであります。

 つまりカインの妬みは、神の愛を問題にしたのではなく、自分が無視されたこと、自分が重んじられないことを問題にしただけなのです。これははなはだ自己中心的な思いのあらわれであります。

 それに対して、他の神々を拝むときに、神がわれわれを妬むのは、なぜわたしを愛さないのか、という愛の関係性を問題にしているのです。神とわれわれ人間の関係が破れようとしている、それを悲しみ、それを怒り、それを妬んでいるのであります。
 カインはそれに対して、ただ自分が重んじられない、自分が無視されたということを怒っているだけで、神との関係などはどうでもよかったということなのであります。そういう妬みはまことに醜い、きわめて自己中心的なものでしかないのであります。
 
 神の妬みはそういうものではなく、神のわれわれに対する愛の深さ、激しさ、を現すのであります。だからわれわれが他の神々を拝み、偶像礼拝し、悪霊と食卓を共にすれば、神は妬まれるというのです。それは神がわれわれを愛しているからであります。神がわれわれをどんなに愛しているかという愛の深さと激しさを現すのであります。こんなにわたしはお前を愛し、いわばお前ひとりを愛しているのに、お前はどうしてそのわたしの愛に応えようとしないで、他の神々を拝もうとするのかというのであります。

 「わたしたちは主よりも強いのだろうか」とありますが、それは主なる神の愛を裏切るほどにわれわれは強いのか、あるいは、他の神々を拝み、それによって妬みの神から受ける罰をはねのけるだけの強さをもつているのかという意味であります。 

 妬むほどにわれわれを愛してくださる神、ひとり子を賜ったほどに、十字架につけて死なしめるほどに深く激しく愛してくださっている神に、われわれもまた真実の愛をもって、心をつくし思いをつくし、唯一の神を真実に愛していきたいと思います。