「神の前での男と女」 コリントT 一一章二ー一六節

 今日の聖書の箇所は、三節の「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である」とあったり、七節には、「男は神の姿と栄光を映すものですから、頭に物をかぶらべきではない、しかし、女は男の栄光を映す者である。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出てきたのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからだ」というところがありますので、ここでは、明らかに女は男の下にある存在だといわれているところであります。聖書は、キリスト教は男尊女卑を教えするけしからんといわれそうなところであります。

 ここを読んですぐわかることは、ここは男性に対して言われているところではなく、もっぱら女性に対して語られているところであります。具体的にいえば、女性は礼拝の場で、頭にかぶりものをかぶるべきだということが勧められているところであります。一三節からみますと、「自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神の祈るのが、ふさわしいかどうか。男は長い髪が恥じであるのに対し、女は長い髪が誉れになることを、自然そのものがあなたがたに教えている。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられている」というのです。
 
 ここでのパウロの勧告は、もっぱら女性に対して言われているようであります。この状況がよくわからないとろがありますが、このコリントの教会で、礼拝にだている女性が自分たちは、男性と対等の位置にいるのだから、男性が頭にものをがぶらないのなら、女性もかぶる必要はないではないかと、いわば女性の権利を主張する女性が出てきて、それをパウロが諫めるための勧告のようであります。  

 ここのところは、もう今日のわれわれにはよくわからないところがあります。パウロの議論そのものも何か混乱しているようであります。というのは、一四節以下のところで、女性の長い髪はかぶり物の代わりに与えられている、といっているところなども、もしかぶり物の代わりに長い髪が与えられているのならば、礼拝の場において女性はかぶりものをかぶらなくてもいいということになるのではないかと思うのですが、いや、だからかぶりものをかぶるべきだというのですから、そしてかぶりものをかぶりたくないというのなら、いっそのこと髪を切ってしまえというのですから、わけがわからなくなります。

 当時の社会で、女は外出するときとか、礼拝の場では髪を隠すためにかぶりものをかぶらなくてはならないというのは、女性の長い髪というものが男性の情欲を刺激するものであったからのようなのです。

 一○節に「女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきだ」とありますが、これは創世記の六章の神話から出ている記事が背景にあります。そこでは、「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻とした」ということが記されているのです。それは、人間の罪はとうとう神の子ら、つまり天使までも誘惑するほどになったという人間の罪の進展を語っている記事なのですが、それは天から天使たちがこの地上を見下ろすと、女の髪の毛の美しさが見えたわけです。それでそれに誘惑されて地上まで降り来てしまったということを現しているわけです。ですから、女性の髪は天使までも魅惑するものだというわけです。だから、女性は外に出るときには、男性を誘惑させないために、またみずから男性から守るために、かぶりものをかぶるという習慣がでたようであります。それが今日でもアフガニスタンなどでは残っているわけであります。

 もし女性がそうしたかかぶりものをかぶらないで、髪を男性の前でさらしたたまま、礼拝にでたら、男性は神に対して集中できなくなってしまう、それによって、女性もまた礼拝に集中できなくなるだろう、だから特に礼拝の場においては、女性はかぶりものをかぶるべきだというのであります。

 そうした感覚は今日のわれわれ日本人の感覚からはもうわからないところがあると思います。しかし何が問題にされているかということは明白であります。礼拝において一番大事なことは何かということであります。それは神の前に頭を垂れることである、それは女性だけでなく、男性も同じだということであります。それが三節の言葉です。「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である」と言う言葉であります。

 礼拝という場においては、男も女も、自分たちの権利を主張する場であってはならない、神の前に、そしてキリストの前に、頭を垂れなくてならないということであります。そしてそのことが、ここでは特に女性に対して言われているのでりあます。

 それはなぜかといいますと、このコリント教会のなかで、ある女性たちが、自分たちは男性と同じ権利をもつ、男性と同じ地位をもつと言い出す女性がでてきたようなのです。そしてそれは最初は、男女同権を主張するだけかもしれないけれど、それが礼拝の場でなされるならば、それはやがて自分たち女性は男性と同等の権利をもつという主張は、やがては、いや自分たち女性は、ただ男性と同等だというだけでは満足できなくなって、男性よりも優位の位置に立つべきだという主張になり、そしてそれは結局は自分たち女性は、キリストよりも神よりも上に立たなくてはならないという主張につながるからであります。

 おおよそ、自分を主張するということは、最後のところは、かならず、神の義に従うのではなく、自分の義を主張することに終わるからであります。パウロはそのことを一番危険だと感じ、一番憂えたのであります。

 それはこのコリント第一の手紙の一四章をみますと、もっとはっきりと書かれております。一四章の三三節からをみますと、「聖なる者たちはすべての教会でそうであるように、婦人達は教会では黙っていなさい。婦人達には語ることが許されてはいない。律法もいっているように、婦人達は従う者でありなさい。なにか知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会のなかで発言するのは恥ずべきことである」といわれているのであります。

 ここには明らかに、女性は男性に従うべきだといわれているのであります。これは当時の時代的制約というものがあると思います。ですからそれをこのまま今日にあてはまれることは許されないと思います。たとえば、日本ではついさきごろまでは、女性には参政権はなかったのです。そういう意味では、政治的に社会的に、女性は男性と同じ権利をもつことは当然であります。

 政治的、社会的な面でそうした主張は当然ですが、それを信仰の場において、つまり礼拝の場にそのまま持ち込んでいいのかということであります。

 女性は男性と平等だという考えかたを言うときに、それは単に同じ権利をもつという考えかたでいいのか、ということであります。

 パウロは女性も男性と同じように平等だというとき、こういうのであります。一一節で「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はない。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからだ」というのです。

 ここでは、パウロは主にあっては、つまり神の前では、男も女も平等だというとき、それは女も男と同じ権利をもつというのではなく、「男なしに女はなく、女なしに男はない」というのです。つまり、女は男の助けなくして存在しえないと同様に、男も女の助けなしには存在しえない存在だ、だから、お互いに助け合わなくては生きていけないという存在であると言う点では、男も女も平等だといっているのであります。

 ここで、パウロが「男は女から生まれたのではなく」とか、「男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである」といっておりますが、それは創世記の記事を背景にしていっているのであります。

 創世記の人間創造の神話の記事では、はじめ神は男だけをお造りになったのです。しかし神は「人はひとりでいるのはよくない、彼に合う助け手を造ろう」とお考えになった。それで神ははじめは、動物を造ったというのです。そして人がその動物に名前をつけると、そのままの名前になった。それでは動物は人の、つまり男の真の助け手にはならなかったというのです。当時は名前を相手につけるということは、相手を支配するということを意味していたのです。それで人間にとって、動物というものは、人間の思いのままに従う存在でしかない、動物は人間の支配下におかれる存在でしかない、それではそれは真の助け手とはいえないと神はお考えになったのです。

 それで神は男を深く眠らせて、男の一番大事なあぶら骨を取って女を造った。そうしたら、男はとても喜んで、「ついにこれこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」といって喜んだというのです。つまり男にとって、女は動物とは違って、今日でいうペットとは違って、自分と同等の存在である、女は単に自分のいいなりになるペットのような存在ではなく、対等の存在だ、それでこそ、男にとって女は真の助け手になるといって、喜んだというのです。

 それが男と女の関係だというのです。それが「男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである」ということであり、「主においては、男なしに女はなく、女なしに男はない。それは女が男から出たように、男も女から出たのだ、そしてすべてものが神から出ている」ということであります。
 ここでは、「男も女から出ている」というのです、これは単に生物上のことではなく、神学的な意味を語っていると思います。

 つまり、「主においては、男なしに女もないし、女なしに男もない」、お互いに助け手として、男も女も存在している、女が男を助け手として必要なように、男も女の助けなくては生きて行けない存在なのである、そこに真の平等があるというのです。

 そして聖書が書かれた時代の時代的制約というものがあるとは思いますが、パウロはやはり女性の本質的な役割として、女性は男性よりは、より深く助け手としての本質的なものをもって存在している考えているのではないかと思います。そのせっかく神から与えられた賜物、それは恵みとして与えられた女性の優しさ、柔和さ、母親としての愛情の深さをどうして、男性と同じ権利をもつべきだ主張して、その神から与えられている賜物を放棄していいのかと考えている思います。

 もちろん、これは一律に男性と女性という区別にはならないことは確かであります。女性にもさまざまな人がいるし、女性にも男性的な性格をもった女性もいるし、男性もまた女性的な面をもった男性がいると思います。それはそれでいいのです。大事なことは、女性は男性と同じ権利をもつべきだ、すべての点で同じでなければならないという浅はかな主張でいいのかということであります。

 神が男と女を造られたということは、やはりそこに違った性格の存在をもつ存在をお造りなったのではないかということなのです。その違い、言葉をかえていえば、男と女の個性の違いというものを放棄していいのかということなのです。

 女性の生来もって与えられた賜物、慎み深さ、愛情の深さ、せっかく与えられたその賜物をあっさりと放棄してしまっていいのかということなのです。

 いつも引き合いにだしております、あの永瀬清子さんの詩を思いだします。「女性は男性よりもさきに死んではいけない。一日でもあとに残って、挫折する彼を見送り、又それを被わなければならない」という詩であります。その詩の結びの言葉は、「あとに残って悲しむ女性は、女性の本当の仕事をしているのだ。だから女性は男より弱い者であるとか、理性的でないとか、世間をしらないとか、さまざまに考えられているが、女性自身はそれにつり込まれる事はない。これらのことは、どこの田舎の老婆も知っていることであり、女子大学で教えないたげなのだ」というのであります。

 パウロは「女の頭は男だ」といいますが、同時にパウロは「男の頭はキリストだ」というのです。そして「そのキリストの頭は神である」というのです。そのキリストは、弟子達に、「偉くなりたいと思うものは、みんなに仕えるものになり、いちばん上になりたい者はみんなの僕になりなさい。わたしも仕えられるためにきたのではなく、仕えるために来たのだ」といわれたキリストなのです。そういうキリストに男は仕えなくてはならないのです。

 男と女の問題を考えるときにも、われわれはいつもこの礼拝の場において、神の前に頭を垂れるところから考えなくてならないと思います。