「十字架の言葉は愚かであるが」 コリント第一 一章一八ー


 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には、神の力です」と、パウロはいいます。ここでまず考えたいことは、なぜパウロは十字架の「言葉」は、というのかということです。なぜ、十字架の出来事は、とか、十字架の愛は、といわないのかということなのです。

 「十字架の言葉は」というのは、もちろん、イエスが十字架の上で語られた七つの言葉のことではないのです。たとえば、イエスが語られた「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とか、「渇く」とか、そういうイエスが十字架の上で語られた言葉ではないのです。そうではなくて、十字架という出来事を言葉にするとどうなるのかという意味の「言葉」です。十字架の論理、少しきどっていえば、十字架のロゴス、パトスに対してロゴスという意味です。パトスといのうは、普通、日本語では、情という意味につかわれます。愛情とかという情と訳されますが、その情に対して、論理、知性という意味での言葉であります。
 
 なぜパウロは「十字架の言葉は」というのか。われわれを救うのは、そんな論理とか知性とか、いわば、十字架の理屈ではなくて、十字架の出来事ではないか、といいたくなると思います。理屈なんかでは救われないといいたくなると思います。確かにその通りだと思います。われわれはどんなに理屈で十字架のことを説明されても救われることはないと思います。ときどき、受難週の説教をする時に、こんな説教をするよりは、バッハのマタイ受難曲を聴きにいったほうがよほど救われるのではないかと思います。

 確かにわれわれが救われるのは、あるいは、救われたのは、理屈ぽい説教なんかではない、論理ではない、言葉ではない。十字架の出来事、それが情として自分に語りかけられた時だ、言葉を換えれば、聖霊の働きがあって、はじめて救われるのだということであります。

 問題は救われたあとのことであります。その救いを自分の実生活で本当に生かす、持続する、そのためには、どうしても十字架の出来事を言葉としてとらえておかなくてはならないのではないかということなのです。
 
 言葉というもののひとつの特徴は、間接性ということであります。情に訴える場合には、直接的にわれわれの魂に迫ってきます。音楽でも絵でもそうかもしれません。言葉というのは、それに対して、ある距離をおくことができる。ある距離をおくことができるということは、自分の心の中でじっくりと考えることができる、自分のペースに合わせて、じっくりと熟成することができる、暖めることができる、そうすることによって、自分の体験したこと、経験したことを自分のもにすることができる。言葉にするということはそういう利点があるということであります。この場合の十字架の言葉というのは、誰かに直接か、あるいは、間接か、ともかく誰かに云われた、面と向かっていわれたという話し言葉の言葉ではなく、いわば文字となった言葉、書かれた言葉であります。誰かに云われた言葉というのは、直接的ですが、書かれた言葉は間接性というのをもっております。

 言葉の間接性ということを考えている時に、ある雑誌をみておりましたら、ときどき紹介しております、河合隼雄という心理療法家がこんなことを書いておりました。彼が主催している学会で、特別講演に弁護士の中坊公平を呼んだというのです。中坊公平という弁護士は、森永ヒ素ミルク事件や、瀬戸内海の産業廃棄物投棄の問題などで活躍している弁護士ですが、彼のモットーは現場主義だというのです。ものごとを理論や概念によって考える前に「現場に行く」ことを大切にしている。倒産した会社の工場に行って、自分自身がクレーンに乗って操縦したり、森永ヒ素ミルクのときには、各家庭を訪ね、泊まり込みで家族と話し合ったりする、まさに現場主義だというのです。

 それに対して、河合隼雄は、自分がやっているカウンセラーという仕事は、確かにある意味では、本を読んで研究論文を書くとということよりは、患者と直に話しあうことをしているから現場主義といえるかもしれないが、しかし自分は相談に来られる人と一時間話し合いはしても、その人の家を訪問したり、ましてや寝食を共にすることなどはしないというのです。これでは現場主義とはいえないのではないかというのです。

 そしてここに実は人間の「心」に接することの難しさがあるというのです。フロイドやユングもはじめの頃は患者と寝食を共にするというようなことはしていたが、しかしそのうちしなくなったというのです。それは心の問題を扱う場合には、人間と人間の距離が近すぎると二人がベタベタになって混乱をますばかりになる、そうするとかえって、心の奥のことは隠すようになるというのです。心の問題を扱う時には、必要な距離をとりながら、現場から離れないようにすることだと書いているのであります。
 
 あまり相談者と直接的になりすぎるうまくいかない、むしろ、ある距離をおくという間接性が大事だというのです。

ある距離をおくことによって、冷静になることができる、カウンセラーにとっても、相談者にとっても、冷静になって、自分ひとりで考えることのできる距離と時間を与えられる、そうすることによって、次第に自分ひとりで問題を解決できるようになっていくということだろうと思います。
 
 われわれが生きるためには、なんと言っても、自分ひとりで自立する、自分自身の足で立ち、自分の足で歩くようになる、歩けるようになる、そうしなければ、生きることはできないのです。いつまでたっても、他人に依存してばかりしていては、生きることはできないと思うのです。自立するということは、他人を排除することではないのです。自立と連帯というのは、決して矛盾することではなくて、本当に自立するためには、他人の助けをどうしても必要とする、他人と連帯しなくてはならない、他人との交わりがうまくできない人は自立することはできないと思います。

 他人との距離をうまくとるということが大事なことであります。つまり、間接性というものが大事になってくると思います。

 十字架の出来事を、言葉としてとらえるおくということは大切なことなのです。マタイ受難曲を聴いているだけでは、われわれは十字架の出来事の本当の意味を自分のものにすることはできないと思います。それを言葉にしておく、そのことが大事なことであります。

 パウロはこのコリントの手紙のなかで、教会の中で霊的に熱心な人が出てきて、いわゆる異言を語る人が出てきて、その異言を語る人がいかにも信仰深い人のように見えて、教会を混乱させたときに、こういうのです、自分は「霊で祈り、理性でも祈ることにしよう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう」というのです。これは口語訳では、理性というところを知性という言葉で訳しております。理性という言葉よりも、知性という訳のほうがよほどいいと思いますが、要するに、異言を語るという熱狂的な信仰ではなく、知性とか理性とか、そして言葉を大事にする信仰をとりあげているのであります。

 さて、それでは十字架の出来事を言葉にするとどうなるのか。もちろん、それは一言ではいえないと思います。それは今日、新約聖書になって、言葉になってわれわれに残されているわけです。イエスの十字架の出来事、そこにいたるまでのイエスの歩みを書いた福音書は、四つありますが、中でもヨハネによる福音書は、イエスの十字架の出来事を、「言葉」ということでわれわれに伝えようとしております。

 ヨハネによる福音書は、「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と語っていくのであります。そしてヨハネによる福音書は、イエスの十字架の出来事から、情として訴える要素というものをできるだけ排除していきます。ゲッセマネの園でのイエスの苦しい祈りも排除されて、たった一言、「今、わたしは心騒ぐ。なんと言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』といおうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」という言葉で、できるかぎりイエスの苦しみとかという感情を排除して、言い表しているのであります。ヨハネ福音書は、十字架の出来事を情に訴えるようには描こうとしないのであります。こういう福音書もあります。

 パウロは十字架の出来事を言葉にするときに、もちろんいろいろな言葉であわそうとしていますが、今日学ぼうとしておりますコリント教会の紛争に対しては、十字架の出来事を「愚かさ」という言葉で表現しようとしております。
 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが」といい、二一節では、「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうとする」といい、十字架の言葉を「愚かさ」という言葉でここでは表現してりおます。
 
 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが」というのは、もう少し正確にいえば、「十字架の言葉をただ愚かだと言ってバカにする人は滅んでいく」ということであります。十字架の出来事を、神の子が無惨にも殺されてしまう、それはなんと愚かな神なのだろう、なんと愚かな救い主なのだろうと十字架の出来事をただ愚かなものとしてしか考えようとしない人間は、救われない、そういう人は滅んでいくばかりだということではないかと思います。

 十字架の出来事のあの愚かさの中に、われわれを救う知恵と力があるのだということがわからない限り、われわれは救われない、滅んでいくばかりだということではないかと思います。

 十字架の愚かさとは、いわば負ける愚かさであります。いつも勝つことばかり考えるということ、勝つこと、勝利することとは、自分を主張し、自分を誇示することであります。それだけが大事だと考えるのに対して、負けること、自分を主張しない、いや、自分を否定すること、自分を高くするのでなはく、自分を低くすること、その愚かさであります。

 それはイザヤ書の「苦難の僕」の中で預言されていたように、「彼は見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」と預言されていた人であります。

 実際のイエスは、そこで預言されていた人とは違っていて、権威もあったでしょうし、輝かしい風格もあったと思います。それほど軽蔑されることもなかったし、ある時には、みんなが王にしようとしたのであります。しかし、そのイエスも最後には、みんなからむち打たれ、つばきをはかれて、ゴルゴだの道を歩んで十字架につけられたわけですから、イエスの十字架は、それまでのイエスのもっていた輝かしい風格をすべて帳消しにしてしまうものだったと思います。その愚かさであります。

この愚かさのなかにわれわれを救う秘密が隠されている、そのことがわからないとわれわれは救われない、われわれは滅びにいくばかりだということであります。

 そしてこの愚かさは、ただの愚かさではないのです。この愚かさは、「知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」という力をもっている愚かさだといのです。そういう力をもった愚かさだというのです。
 「知恵のある人はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論客はどこにいるか。神は世の知恵を愚かなものにした。世は自分の知恵で神を知ることはできなかった」というのです。

 この愚かさは、ただ十字架の愚かさだけではなく、復活の愚かさでもあります。十字架の上で屈辱を甘んじて受けて死んでいく、それだけの愚かさではなかったのです。この十字架の上で死んだイエスを神はよみがえらせたという愚かさまで含んでいるのです。

 パウロがアテネで伝道したとき、話がイエスの復活のことになると、ある者はあざ笑い、ある者は「このことはいずれまた聞かせてもらうことにしよう」といったというのです。十字架の出来事が愚かであっただけでなく、その死んだイエスがよみがえったという復活は、人々にはさらに愚かで、そんなバカバカしい話はないといって受けつけようとしなかつたのであります。
 
 死人のよみがえり、復活ということは、われわれ人間の知性には全く合わないことであります。死人がよみがえるということ、復活を信じるということは、人間の知性からいえば全く愚かなことであります。しかしそれを信じるという愚かさを受け入れ、その愚かさにわれわれは徹しないと、われわれは救われないのです。その愚かさは人間の知性を打ち砕くのです。

 イエスのよみがえりをばかばかしくて、信じられないといっていたトマスのところに、復活のイエスがあらわれて、「お前の指をこのわたしの十字架の釘あとに差し入れてみよ、わたしの脇腹に入れてみよ、信じない者にならないで、信じる者になれ」といわれたのです。「わたしの十字架の傷あとに手を入れてみよ」とイエスはいわれた。ある人がこれを説明して、これはイエスがトマスに対して、「他のことはどうでもいい、自分が痛い目に会おうが、自分が屈辱を受けようと、自分が疑われようと、そんなことはどうでもいいのであって、結局はお前が信じない者にならないで、信じる者になってほしいということだ」というのであります。イエスはそれほどまでご自分を低くして、トマスに対して、自分のよみがえりを信じて欲しいといっているのだということであります。

 それに対してトマスは、「わが主よ、わが神よ」といって、復活のイエスの前にひれ伏したのであります。この時、もうトマスは自分の指をイエスの十字架の釘あとに差し入れようとはしなかったのです。そのようにして自分の指でそれを確かめようとはもはやしなかったのであります。
 そのことである人が、「このとき、トマスは自分の手も、自分の目も信じなかったのだ、そしてただ、主イエス・キリストだけを信じたのだ」といっているのであります。

 この時、復活の愚かさは、トマスの知性を打ち砕いたのであります。

 日本人的な美学からすれば、イエスは十字架の屈辱を受けたまま、黙って死んでいったほうがわれわれに感銘を与えるかもしれません。そして本人はただ黙って死んでいって、だれかほかの人があの人は立派な死に方をしたと言って、讃え出すほうがわれわれには感銘深いかもしれません。

 しかし、イエスはそうはしなかった。神はそうはしなかった。神はイエスを十字架からよみがえらせて、神ひとり知らん顔をなさらなかった。イエスのよみがえりを人々に知らせた。イエスみずから、わたしのよみがえりを信じなさいとご自分の復活のからだを示し、ある時には幽霊だと疑がっている弟子達の前で、焼いた魚をむしゃむしゃ食べるのです。それはなんとしてでも、復活を信じて貰いたかったからであります。

 十字架のままで終わっていたら、われわれの美学は満足させたかもしれません。しかしそれはわれわれをただ感傷的な感動だけで終わらせるだけだろうと思います。それではわれわれの救いにはならないのです。

 復活の愚かさがあって、人間の「知恵ある者の知恵を滅ぼし」ということが起こるのであります。この世の知恵を愚かにするのです。そしてこの十字架と復活宣べ伝える、これがキリスト教の宣教の中心ですから、それが宣教の愚かさであり、その宣教の愚かな手段によって信じる者を救おうとなさるということなのであります。

 復活を信じる、死人のよみがえりを信じるということは、人間の知性を超えたことを信じることで、荒唐無稽なことまでも信じなくてはならないのかといわれるかもしれません。しかし、大事なことは、この復活を信じるというこは、あの十字架を信じるということで、それはわれわれの自己中心的な思い、御利益ばかりを求める信仰を打ち砕く十字架の愚かさを信じるということですから、ただ人間中心的な自分の欲望を満足させるために荒唐無稽的なものを信じるということではないのです。

 われわれ人間の自己中心的な知性を超えた神の知性を信じるということです。われわれ人間の罪を打ち砕いてくれる、十字架と復活の愚かさを信じるということであります。
 
 それはまさに、神の愚かさは人の賢さよりも賢く、神の弱さは、人の強さよりも強い、と言って賛美することであります。神の愚かさは人の賢さよりも賢いというのですから、その神を信じるわれわれは神を信じない人よりも、もっともっと知性的にならなくてはならない、もっともっと賢くならなくてはならないということであります。