「主の晩餐にあずかる」コリントT 十一章一七ー三四節

今日の聖書のテキストは、聖書の中でももっとも荘厳な箇所であるかもしれません。それは二三節から始まる箇所が、聖餐式のときに読む箇所だからであります。二三節ー二六節

 カトリック教会の礼拝では、この聖餐式が中心であります。説教は短くて、日曜日の礼拝には、この聖餐式が毎回行われ、これが中心であります。カトリックの信仰では、聖餐式のときに行われるパンとぶどう酒は、司祭が祈るときに、ただちにそのパンはキリストの肉に変化し、そのぶどう酒はキリストの血に変化するのだというのです。

 今日カトリックの司祭達が本当に文字どおりそんなことを信じているかどうかわかりませんが、昔は信じていたかもしれませんが、今日それをそのまま信じるということは大変無理があると思うのです。以前わたしの神学校の同級生がカトリックに代わりまして、司祭にはなりませんでしたが、この松原にある松原カトリック教会の研究所に勤務していたことがありまして、彼がいるあいだに何回か行き来したことがありますが、彼にカトリックの司祭たちは本当にそんなことを信じているのかと聞きましたら、そうではないだろうといっておりました。

 しかしともかく、カトリックのほうでは、建前としては、パンとぶどう酒は司祭の祈りと共に、実際にキリストの肉と血に変化すると信じているのです。これを化体説とよんでおります。
 
 ですから、ぶどう酒はこぼすと大変ことになるのだというわけで、ミサでは信徒にはパン、といってもなにかウエハウスのようなものらしいのですが、パンだけを与え、ぶとう酒は司祭たちだけがそれにあずかるようであります。

 日曜日以外の週日でも、その会堂に聖餐式で祈られたパンとぶどう酒が会堂におかれているときには、御聖体があるということで、赤いランプがともされて、ふだんとは違う気持で会堂に入らなければならないと警告しているようであります。

 そういう影響を受けてか、われわれプロテスタント教会のほうでも、聖餐式は大変厳粛に行われるわけです。厳粛に行われなければならないということから、むしろ、毎週行うよりは、特別な時に、つまり、クリスマスとかイースターとかそういう特別な時だけに聖餐式を行うという教会もあれば、月に一回それを行うという教会もあるわけです。それは聖餐式を重んじるが故にそうするのであります。

 しかし、われわれプロテスタント教会では、カトリックのように、パンとぶどう酒は、牧師の祈りと共にただちにキリストの肉となり血に変化するという考えはしていません。これはやはりキリストの肉と血のしるしであります。象徴であります。このしるしをどう理解するかで神学上いろいろしちめんどくさい議論があります。

 簡単にいえば、カトリックの化体説に反対して、それの極端なかたちで、これは単なる象徴にすぎないのだから、本当はなにもパンとぶどう酒でなくても、それにかわりうるもの、たとえば、日本だったならば、お米とみそ汁でもいいのだという議論になるわけであります。

 しかしそれでは極端すぎるというわけで、パンとぶどう酒は、それは確かにそれ自体は象徴にすぎないけれど、われわれはそれを信仰をもって受け止めるときに、そのパンはキリストの肉に、そのぶどう酒はキリストの血に変わるのであるから、それはやはり厳粛にそれを扱わなくてならないというわけです。われわれの教会でもその理解のうえで、この聖餐式をしているのであります。

 聖餐式をなぜわれわれは行うのか。それは単純であります。それは主イエスがそうしなさいと、十字架につく前の夜の最後の晩餐の席で、弟子達にいわれたからであります。「主イエスは引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげ、それを裂き、『これはあなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』といわれた」とあるからであります。

 聖餐式はなぜ必要か。いろいろな議論はあります。たとえば、説教だけでは、それはやはりそれは牧師の人間的な主観的な思いがどうしても入ってしまう可能性があるし、また人間の言葉だけではどうしても主イエスの十字架と復活を語ることには限界がある、それで主の十字架を目に見えるしるしとして、それをわれわれがパンとぶどう酒を飲むことによって、キリストの十字架にあずかるということが大切なのだという考えであります。 

 つまり、われわれの信仰が観念的なものに陥らないために、聖餐式は必要なのだということであります。
 しかし信仰は観念的であってはならないということは、われわれがただ聖餐式にあずかって、パンとぶどう酒を食し飲めば、そのことがわかるのかといえば、そんなことはないと思います、われわれの信仰が観念的であってはいけない、つまり頭だけのものにしてはいけないということは、それはやはり言葉で言う以外にないわけで、そういう言葉を発することによって、その言葉とともにパンとぶどう酒にあずかってはじめてそのことがわかるものであります。

 ですから、聖餐式において大事なのは、その式だけではなく、常に説教と共に聖餐式が行われなければならないということであります。聖餐式という儀式が一人歩きしたら、それはカトリックの聖餐式の化体説のような一種の魔術化、もっとはっきりいえば、迷信化されてしまうのではないかと思います。

 ともかく、われわれが聖餐式を大事なものとしてそれを行うのは、主イエス・キリストがご自分が十字架につく前の最後の晩餐の席で、わたしの十字架をいつまでも覚えておいて欲しいと切実に望まれ、それを行えと命ぜられたからであるということが何よりも一番大切なことであります。
 
 その聖餐式は、初代の教会においては、教会員が集まって一緒に食事をするというなかで行われたようであります。しかもその食事は、みんなの持ち寄りのものだったようであります。その時にコリント教会では混乱が起こっているというのです。
 二一節からのところをみますと、「なぜなら、食事のき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だ。あなたがたは飲んだり食べたりする家がないのか。それとも神の教会を見くびり、貧しい人々に恥じをかかせよというのか」と、パウロは怒っているのです。

 聖餐式をする前の食事というか、その中間の食事なのかもしれませんが、ともかく、聖餐式をして主イエスの十字架の愛を記念として覚えようというときに、自分勝手なふるまいをして、自分たちのエゴをむき出しにして、教会の仲間意識を分裂されているのはなにごとかというのです。

 そしてそのあと、パウロは、二三節以下のところで、聖餐式はそもそもなぜするのかということを伝えるのであります。それは「パンを食べ、この杯を飲むごとに、主がこられるときまで、主の死を告げ知らせるものだ」、そういう厳粛なものだというのです。

 そして二七節からパウロの厳しい勧告が始まります。
「従って、ふさわしくないままで、主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになる。だれでも、自分をよく確かめた上で、そのパンを食べ、その杯を飲むべきである。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのだ」というのです。

 そしてそのあと、もっと厳しいことをいうのです。「そのため、あなたがたの間に、弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです」とまでいうのです。

 われわれの聖餐式の式文は、この箇所を用いてするのですが、さすがにこの箇所は聖餐式のときには、引用しませんで、その前のところでとどめております。

 現にいる病人、死んだ人を名指してして、この人が病気になったのは、この人が死んだのは、聖餐式にふさわしくないままであずかったからである、ということになったら、大変だからであります。
 これはパウロがコリント教会に対する怒りの現れで、ここはパウロの勇み足でしょう。それほどパウロは怒り心頭に達していたということでなのでしょう。

 この言葉、「ふさわしくないままで、主のパンを食べ、主の杯を飲む者は主のからだと血を犯すことになる」という言葉は、しばしば聖餐式は洗礼を受けた人だけがあずかるようにすべきだということの根拠になる言葉として用いられのであります。

 しかしここの文脈からすれば、これは洗礼を受けていない人に対する警告ではなくて、もう洗礼を受けている教会員、しかもいわばベテランの信仰者に対する警告の言葉であります。主イエスの救いがよくわっておりながら、主の十字架の贖いによって救われたのだということがよくわっいる者が、そのことをわきまえないで、貧しい人を目の前にして、自分たちだけが持参したご馳走を食べたり、酒に酔いしれている、これはもうまったく主の十字架を軽蔑している姿勢だということであります。

 ですから、この箇所をもとにして、洗礼をうけていない人が聖餐式を受けることを遠慮してもらう、という根拠にしてはならないと思います。ここは洗礼をまだ受けていない人に対しての言葉ではなく、洗礼を受けている人に対しての言葉だからであります。
 
 それでは聖餐式はすべての人に招かれている、洗礼を受けていないひとも、その礼拝に出席している子どもにも、幼児にも差し出すべきだというこになるのだろうか。この頃はそういう教会もふえているのであります。教会は差別してはならないということからそういうことを主張する牧師がふえているのであります。
 
 しかしわれわれの属しております日本基督教団の教規では、聖餐式は洗礼を受けた人だけが預かるようにと規定されているのであります。

 なぜ洗礼を受けていない人にはこれにあずかることを遠慮してもらうのか。わたしはこう考えております。
 それは聖餐式というのは、われわれプロテスタント教会では、カトリックの教会のように、司祭の祈りと共に、牧師の祈りと共に、パンとぶどう酒がキリストの肉に、キリストの血に変化するなどとは思っていないのです。それはあくまでひとつの象徴であります。それはやはり人間が作ったパンであり、人間の手によるぶどう酒であり、ぶどう液なのです。それがどんなに祈りを込めて作られたパンであれ、ぶどう酒であったとしても、それ自体はやはりパンであり、ぶどう酒なのです。

 それは信仰をもって受け入れないかぎり、キリストの体になり、キリストの血にはならないのです。どうしても信仰を持って、ということが必要とされるのです。それくらいこの儀式はいわば危うい儀式であります。それはどんなに重々しくこの儀式を執り行ったとしても、これはやはり象徴的な儀式なのです。

 ある教会では、配餐の時にそれを配る役員が白い手袋をはめて、大変重々しく、それを行っているのに、参加したことがありますが、わたしなどはそれをみていて、なにか滑稽な気さえいたしました。

 そんなふうに、この聖餐式を演出していいのか、それはかえってなにか白々しさを感じさせしまうのです。
 わたしは戦争中は小学生でしたが、学校には、天皇の写真があって、それはご真影といわれていて、特別なところに保管されていて、式のときには、校長が白い手袋をはめて恭しくそれを運んでくるという様子をみておりますから、そしてそれが戦争が負けてからは、一気に廃止されてしまったという経験をしておりますから、わたしは儀式というものに対して、いつも不信感というか、滑稽感というものをいだいてきておりますので、聖餐式を必要以上に重々しくしますと、なにか聖餐式を一種の魔術、迷信的なものにしてしまうのではないかと恐れるのです。

 聖餐式に必要なのは、信仰なのです。それは人間的な演出ではないのです。自分たちは主の十字架の贖いによって救われたのだ、主の十字架の死をいつまでも覚えていこう、そしてこれを主がこられときまで、告げ知らせていこうという思いをもってするのです。
 この信仰がないと、パンとぶどう酒は、単なる物質にすぎないものになってしまうのであります。あるいは、逆にそれは迷信化してしまい、これに預かったら、何かの御利益があるというものになりかねないのです。
 聖餐式はそのものではないし、そんな儀式にしてはいけないのです。

 それでは、信仰がありさえすればいいではないか、なにも洗礼を受ける受けないは関係なく、そこで主の十字架によって救われることを自分は信じるという気持になりさえすればいいではないか、だからまだ洗礼を受けていなくても、それに預かってもいいではないかという議論が成り立つかもしれません。そこで差別する必要もないではないかといわれるかもしれません。

 理屈としてはそういうことも成り立つと思います。しかしそれならば、その人が本当に主の十字架の救いを理解し、それを信じようとしているならば、自分が洗礼を受けるまで、これにあずかるのは待とうと言う気持になることのほうが、洗礼を受けるまで、待たせるほうが、謙虚な信仰を育てると思います。

 聖餐式という儀式は、魔術ではないのです。ですから、信仰がなくても、これに預かれば、ただちに御利益が発生するというようなものではないのです。だからこそ、これには信仰が必要なのです。しかも謙虚な、慎み深い信仰が必要なのです。洗礼を受けるまで、これにあずかるのを待って欲しいと思うのです。これは信仰の教育的な意味でそうなのであって、洗礼を受けていない人が誤ってこの聖餐式に預かったら、聖餐式そのものが汚されるとか、罰がくだるとか、そんなものではないのです。もしそのように理解するとすれば、それは聖餐式をなにか魔術的なもののようにしてしまうということであります。

 「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになる」ということはどういうことなのか。

 われわれの日本基督教団のこの聖餐式の式文では、このあとこういう勧告が続きます。「かえりみて、おのおのの罪を深く悔い改めなければなりません。このようにして信仰と真実とをもって聖餐にあずかりましょう」と続くのであります。ある人がいっているのですが、この勧告は非常に誤解を招きやすい言葉だから、いつかは改訂すべきだといっております。なぜかというと、この勧告は、この言葉をきけば、その一週間、あるいは一月のあいだ自分はなにか悪いことしてこなかったか、間違いをしてこなかったか」ということを反省して、そういう自己吟味をしなければならないという気持にさせられるのではないかというのです。この言葉はあまりにも道徳主義的、個人主義的に受け止められてしまうというのです。
 
 しかしこの「ふさわしくないままで」というのは、この文脈からみてもわかりますように、なにか道徳的な過ちを犯したとかということではなく、洗礼を受けた者が自分の信仰にあぐらをかいてしまって、聖餐式にあずかる前に酒に酔ってしまっていたり、貧しい人の前で自分だけはたらふく食べてしまっている状態をさしている言葉であります。つまり、もう信仰がすれからしになってしまっている、そういう状態をさしている言葉であります。もうキリストの十字架によるあがないよって自分は救われたのだ、これからもそのキリストの十字架の贖いによってのみ、自分は救われなくてはならないものだという自覚がひとつも感じられない状態のことであります。

 すれからっしの信仰、あの初めの初々しい信仰から脱落してしまっている信仰者のことであります。まだ洗礼を受けていないひとが聖餐式の度に感じるかもしれない居心地の悪さなどひとつも感じないでいる人のことであります。聖餐式を配るひとが、まだ洗礼を受けていない人の前を通るときに、すまないけれど、洗礼をうけるときまでは、これにあずかるのを待っていて欲しいという気持をいだきながら、これを配るという厳粛な思い、それは決して洗礼を受けている者の特権意識などというものではなく、むしろ目に見えるうえで、差別してしまうすまなさを感じながら、聖餐式を行う、これはそれほど信仰というものを必要としているのですよ、と語りながら、聖餐式を行うことなので、この気持をもつということは大事なことだと思うのです。

 宗教改革者のカルバンは、聖餐式のある前には、教会員を訪ねて、その信仰を試問し、聖餐式に出席していいかどうを決めたということであります。このことを紹介して、竹森満佐一は、信仰の吟味とは何かといってこういうのです。

 「自分を吟味して、自分のような信仰の弱い者は、聖餐に預かる資格はないと思うことではない。むしろ、自分はキリストの十字架によって救われるほかはない者である、自分のような駄目な人間はない、しかしキリストの恵みによって、今ここにこうしてあることができると言うことを知ることだ、それが自分を吟味することである」と言っているのであります。