「いろいろな霊の賜物」コリントT 十二章四ー三一節

 今日は長いテキストを読みました。今日のところを学ぶためには、どうしても四節から三一節まで続けてよまないと正しく理解できないと思います。
 それでまずこの箇所で、パウロはコリント教会の人々に何を訴えたいかということを学びたいと思います。

 パウロはこのコリントの信徒への手紙で訴えたいことは、コリント教会で起こっている分裂騒ぎをなんとか解決したいということのようであります。それはまず冒頭から出ています。コリント教会のなかで、私はパウロにつく、私はアポロにつく、いやペテロにつく、いや、キリストにつく、と言う人まで現れて、分裂騒ぎを起こしている、それを大変憂えて、われわれはもっと神の前に謙遜にならなければならいという事を訴えたのです。われわれはもともと無きに等しい者だったではないか、その無きに等しい存在であるわれわれをキリストがご自分を低くして、低くして、十字架によって救ってくださったのではないか、謙遜になれと訴えたのです。

 まず神の前に、そして特にキリストの十字架の前に謙遜になれとパウロは訴えるのです。

 そしてもうひとつ、パウロが訴えるのは、人の前に謙遜になれということであります。人はみなそれぞれ違うのだ、その違いを認めなさいということであります。人間はみな個性的な存在である、そのさまざまの個性の違いというものを認めるということがわれわれを謙遜にさせることなのであります。しかし、ただ個性の違いということを認めるということだけでは、われわれ謙遜にはなれないのです。場合によっては、それはかえって分裂の原因になるかもしれないのです。大切なことは、その個性の違いは神がそうさせたのだということを認めるということであります。

 それが四節のところでまず言っているところであります。
「賜物はいろいろあるが、それをお与えになるのは同じ霊である。務めにはいろいろあるが、それをお与えになるのは、同じ主である。働きにはいろいろあるが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神である」というのです。

 ここでは繰り返し繰り返し、一つの霊、一つの同じ主、一つの同じ神、ということが強調されているのです。

 個性の違いがあることを認めよ、ということは、何も聖書だけがいっていることではないかもしれません。第一、われわれの現実をみれば、個性の違いなどということは歴然としています。ただ問題はその個性の違いを認めて、それを受け入れて、われわれが謙遜になれるかどうかということであります。個性の違いを認めることによって、かえって分裂騒ぎをおこすこともあり得るからであります。

 それがコリントの教会の中で起こっているのです。教会のなかにはさまざまな人がいるのです。その中には、当然有力な働きをする人もおれば、あまりそうでない人もいる。自分にとってあまり好きになれない個性の違う人もいるのです。だから分裂も起き、混乱も起こるのです。

 特に教会のなかで起こるのは、教会にとって役に立つ人とあまりそうでない人がいて、役に立っている人、つまり教会で重要な働きをしている人が、あまり働きをしていない人を軽蔑したりする、お前はあまり役に立っていないからだめだという風潮がコリントの教会のなかであったようなのです。

 そのことをパウロは人間のからだの肢体にたとえてこういうのです。一四節で「体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っている」、これは口語訳では、部分と訳されているところは、肢体と訳されていて、なぜ部分などと変な訳にしたのかわかりません。これでは機械の部品のように感じられて変な訳だと思います。

 一五節から「足が『わたしは手ではないから、体の一部ではない』といったところで、体の一部でなくなるだろうか。耳が『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるのだろうか。もし体全体が目だったとしたら、どこで聞くのか。もし全体が耳だとしたらどこで臭いをかぐのか」というのです。

 ここでのパウロの言い方は大変面白いと思います。というのは、「手が足に向かって、お前は手ではないから、お前は体の一部ではない」という言い方はしていないのです。そういう言い方は二一節から出てくるのです。しかしまず初めはそうはいわない。足のほうから、自分は手ではないから体の一部ではないと自己卑下しているということを問題にしているのです。

 つまり、これは教会のなかで、あまり重要な働きができないでいる人、あまり役に立つことができないでいる人、教会的用語でいえば、あまり奉仕的な仕事ができないでいる人の嘆きというか、自己卑下のことをとりあげているということなのです。

 そしてその後のパウロのは書き方は、今度は一転して、そのように言わしめている教会の有力者に対して矛先を向けているということなのです。
 二一節からみますと、「目が手に向かって、お前は要らない、とは言えず、また、頭が足に向かって、お前は要らないとは、言えない」といっているのです。

 あとの論調をみますと、教会の強い人、有力な人、自分は教会に奉仕しているんだ、役に立っているんだと思っている人に対して、そんなふうに威張るなといっているのです。
 
 教会での問題、これは今日の日本の教会でも、われわれの松原教会のなかでの問題でもありますが、一番の問題は、教会であまり奉仕的なことができないでいる人、教会の中であまり役に立っていないのではないかと思っている人の嘆き、自己卑下、あるいは、変な言い方ですが、劣等感ということをパウロはとりあげて、そしてそのように教会の中での弱い人をそのように思わせているのは誰かということなのです。

 教会のなかでの有力な人は、そんなふうに思ってはいないかもしれない、なにもことさらそういう弱い人の存在を軽蔑したり、非難していないかもしれない、しかし、暗黙のうちに、あるいは、そういう有力な人の働きのなかでそのように思わせてしまっているところがないかと反省しなさいとパウロはいっているのであります。

 弱い人というのは、どこまでも弱いのです。自分はもう何も人の役に立っていない、だから自分はもう弱い存在だということがよくわかっている、それならば、もうそれをはっきりと認めて、しっかりと認めて、そこで謙遜に生きればいいと思うのですが、そうではなくて、だから自分はもう存在価値がないとか、存在理由を見いだせないと落ち込んでいってしまう、このことが問題なのです。

 日本の教会の中での律法主義の問題、つまり、善い行いによって救われるという律法主義の問題で、われわれは自分が善い行いができているから救われるんだと思う人は殆どいないと思うのです。ユダヤ人は大変自信家が多いと思いますが、日本人は特に、日本のクリスチャンはそれほど傲慢な自信家はいないと思うのです。しかし、それに反して、自分は何も善い行いはできないから救われないのだと思っている人は実に多いのではないか。もしそう思っているとしたら、これは裏を返した律法主義だと思います。

 自分は教会のなかで奉仕的なことはなにひとつできないでいる、自分は教会の中で、あるいは、社会のなかでなにひとつ役に立っていない、だからもう自分はこの中で存在する理由がない、存在する価値がないと思っている、その人にいやそうではない、あなたは自分ではそう思っているかもしれないが、あなたは十分存在価値はあるんですよ、といったところで、つまりその人の役に立っている証拠を見いだそうとしても、それはあまり意味がないと思うのです。

 パウロはここでいっていることは、そういう考えかたそのものを否定しているのです。つまり、役に立つ者は尊い、役に立つ者だけが尊い、存在する価値があるという価値判断そのものを否定し、もうそういう考えかたをするなというのです。なぜなら、神はそのようには考えていないからだというのです。

 それが二二節からの言葉です。
「それどころか、体のなかでほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのだ。わたしたちは体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとする。見栄えのよい部分にはそうする必要はない。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられた。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っている。一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのだ」というのです。

 ここのところは、体のたとえを使って、教会の中の交わりを語っているようですが、本当はもうパウロは体のたとえを離れていると思います。なぜなら、体のどこの部分を考えてもこんなところはないからです。体はやはり大切な部分は骨でガードしたり、髪の毛で守っているわけで、体の機能ということからいえば、役に立つ肢体とそうでない肢体とは歴然と判断できると思うのです。
 体のどこを部分を捜したって、恰好がよくない部分を覆って、もっと恰好よく見せようとする部分などというのはないと思います。

 しかしパウロがあくまで、体のたとえにこだわって論を進めているのは、そのようにあまり役に立っていない部分がたとえあったとしても、その部分が同じ体に属しているという点では同じように尊い、ということをいいたいからなのです。 
 つまり、ここでは役に立つから尊いという価値基準をこえて、それから離れて、その価値判断をすててしまって、同じ一つの体に属している、どんなに役に立たないとい思われものも同じひとつの体に属しているから生きる価値があるのだといっているのです。

 教会という組織体はそういう交わりでなくてはならないとパウロはいいたいのです。これが利益を追求することを第一の目的にかがけている会社という組織てばなりたたない論理です。会社は会社にとって役に立たない社員はやはり切って捨てていかなくては成り立たない社会であります。そこでは根本的には利潤をあげるために役に立つか立たないかで、すべての価値がきめられていくのです。それはそれでいいのです。

 しかしその価値基準を、教会のなかに持ち込んでいいのかということなのです。あるいは、教会の外の世界でも、つまり、利潤追求が第一の目的ではないわれわれの社会の交わりのなかに、役に立つ者だけが尊いという価値判断の基準に持ち込んでいいのかということなのです。
 
 パウロはここで役に立つ者が尊い、いや役に立つものだけが尊いと言う価値基準をすてさせて、その人が同じ一つのからだに属している、キリストを頭とした同じ体の中に属している、それだけを価値基準として考えなさいというのです。

 教会もやはり一つの組織体ですから、役に立つ人とあまりそうでない人がいるのは歴然とした事実なのです。教会のなかにいろいろな人がいる、そこにはある意味では優先順位というのは、あるのです。それが二七節からいっているところです。
 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分である。神は教会のなかにいろいろな人をお立てになった。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う人、その次に病気をいやす賜物を持つ者」というように、優先順位というものがあるといっているのです。

 今日の教会の状況でいえば、自分からいうのは、すこしおこがましいですが、神の言葉を宣べる説教者である牧師が第一というとでしょうか、あるいは長老、役員ということになるのかもしれません。教会のなかでも、やはりそういう順位というものはあるのです。

 そういう意味では、役に立つ人とあまりそうでない人がいるのは事実なのです。そのことを無視する必要はないし、また無視してはいけないと思います。しかし、問題はそのあとです。そういう事実をしっかりと認めながら、しかし人の存在価値というものをそれで判断してはならないということなのです。そういう事実を認めたうえで、ひとりひとりが同じ教会というキリストの体に属しているから尊いということが大事だということなのです。

 教会ほど、特にプロテスタント教会ほど、奉仕、奉仕ということがさかんにいわれるところはないのではないかと思うのです。礼拝という言葉は、英語ではサービスという字です。つまり、奉仕のなかでも、一番の奉仕は、礼拝だということなのです。日曜日の礼拝に出て、すぐ家路につく、それがわれわれクリスチャンにとってのサービスに参加したということなのです。奉仕なのです。
 
 ところがプロテスタント教会ほど、いわゆる奉仕、奉仕ということがいわれて、社会奉仕とか、ボランティア活動をしないとクリスチャンでないという風潮がうまれていないか。そしていつのまにか、なんらかの意味で役に立たないものはだめだという風潮が教会のなかにまでしみこんでいないか。だから役員に選ばれている間は、教会に熱心に通っても、年をとって役員をおりたら、もうあまり熱心でなくなってしまうということがしばしばおこるのです。

 霊の賜物にはいろいろあるとパウロはいいます。その違いを認めなさいというのです。それはみなそれぞれ神が与えたものなのだというのです。

 われわれは霊の賜物というイメージからすると、一番大事なのは、普通の人間的なほわざを越えたいわゆる霊的なわざが一番聖霊の賜物、ここでいったら、奇跡を行う人、病気をいやす人、異言を語る人、そういう人が一番霊の賜物を与えられた人ではないかと考えがちですが、パウロはそうはいっていないのです。

 まず、使徒だといい、まず御言葉を語る教師だといっているのです。それははじめにでてくる、霊の働きについての言葉でも同じです。
 四節からのところですが、「ある人には霊によって、知恵の言葉、知識の言葉、信仰ということがまずとりあげられていて、その次にようやく、病気をいやす力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、そして種々の異言を語る力」と、とりあげられているのです。
 われわれが普通考えている霊の賜物とは、奇跡とか異言を語るとか、そういう人間の常識をこえた超現象がまずとりあげられるのではないかと考えてしまいますが、ここではそうではなく、ごく普通の知恵、知識がとりあげられていることも考えなくてはならないところであります。

 ここで「ある人には同じ霊によって信仰」という言葉があって、いったいここでいわれている「信仰」というものがなにをさしているのかよくわからないところがあります。これはもちろんパウロがいうところの信仰によって義とされる、信仰によって救われると言う意味の信仰ではなく、もっと普通われわれが使う信仰の言葉のようであります。あの人は信仰的だというような意味での信心深さというぐらいの意味のようであります。たとえば、一三章にでてくる「山を動かすほどの完全な信仰があっても愛がなければ無に等しい」といわれているような意味の信仰のことのようであります。

 はじめにもいいましたように、個性の違いを前にしてわれわれが謙遜になれるのは、その様々の個性は、同じ一つの霊、同じキリスト、同じ神がいろいろな賜物を霊の賜物としてそれぞれに与えてくださているという事実であります。

 ただ個性の違いがあるというだけでは、これは分裂をひきおこす要因にもなりかねないものであります。しかしそのさまざまな個性の違いの存在は、神がお与えになっているということがわれわれを謙遜にさせるのであります。
 個性の違いがあっても分裂を引き起こさせないで、かえって、その交わりをいっそう豊にさせるのであります。