「信仰と希望に支えられる愛」コリントT一三章四ー七節

 パウロは愛について語る時に、まず「愛は忍耐強い」と語ります。そのあと、愛は情け深い、妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ」と続けます。

 先週でもふれましたが、ここで語られる愛は、一時的な瞬間的な愛についてではなく、ある一定の交わりのなかでの愛、ずっと持続していかなくてはならない愛について語っております。具体的にいえば、ここでは教会の交わりのなかでの愛について語っているところであります。教会の交わりだけとなると、あまりにも狭すぎますから、もっと広げて、ここで語られる愛は、夫婦の愛について、親子の愛について、あるいはある一定の組織の中での交わりのなかでの愛についての言葉であります。ですから、これは恋愛における愛にはあまりあてはまらないかもしれません。なぜなら、恋愛の場合には、それは無理してずっと持続させる必要はないかもしれません。それは持続できなければ、破綻するたげで、破綻させてしまえば、それはそれでいい、という愛だからであります。

 しかしここでいわれている愛は、そういう愛ではなく、ずっと持続させていかなくてはならない愛であります。それは教会のなかでの交わりについても、夫婦の関係でも親子の関係でもそうであります。だからこの愛については、何よりも忍耐することが大事なのだということであります。

 愛は自慢せず、高ぶらないといいます。愛と自慢、高ぶりとかはあまり関係がないと思われるかもしれませんが、しかし、特にキリスト教の愛は、ここで改めて「愛は自慢せず、高ぶらない」といわなくてならないということが大事だと思います。

 というのは、先週にも少しふれましたが、キリスト教の愛というといつも「友のために自分の命を捨てる、これ以上に大きな愛はない」という言葉を誤解して、自己犠牲する愛だけが本当の愛だと思ってしまって、愛というと、いつも自分がただ愛する立場だけに立とうしがちなのです。自分もまた愛を受けなくては一日たりとも生きていけない存在であることを忘れて、いつもいつも自分はただ愛する立場だけに立とうとしがちなのです。そういう愛がいかに鼻持ちならない愛かということに気が付かないのです。

 鈴木正久という大変すぐれた牧師がいましたが、彼があるときにわたしが四国にいるときに、牧師仲間の会の時に講演にきて、牧師はなによりも謙遜でなければならないということを話されました。彼が病気になって、入院したときに、なにかの手術を受けたのではないかと思いますが、そのときに若い看護婦に下の世話まで受けなくてならなくて、いかに自分は今まで傲慢であったかということを思い知らされたというのです。自分もまた若い看護婦から下の世話を受けなくては一日たりとも生きていけない者であるかを知って、謙遜とうことを具体的に知ったといって、牧師はなによりも謙遜でなければならないという話をしておりました。

 われわれはいつでも愛する側だけに立とうとしがちです、そういう愛がいかに誇り高く、傲慢な愛かということであります。そうしたなかで、人からの愛を本当に素直に受けるということがどんなに難しく、謙遜を必要とするかと言うことであります。われわれは愛することにばかり苦労したり、それが難しいと思っているかも知れませんが、本当はもっと愛されること、人の愛を素直に受けるということに苦労しなくてはならないと思うのです。

 ヨハネの手紙でも、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪の償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」とあります。

 まず神からわれわれは愛されることによって、愛というものを教えられたというのです。それはわれわれが子ども時のことを考えてもそうだと思います。子は親から愛を一杯受けて、愛されてはじめて、愛とはなにかを教えられ、そうして人を愛することができるようになるのであります。

 愛されたことのない人は、人を愛することができなくなってしまうのです。どんなに大人になって、愛についての書物を読んで勉強したって、心理学の本を読んだって、人を愛することはできないと思うのです。もちろんそれは本人の責任ではないのです。だから不幸にも、親の愛を一杯受けない環境でしか育つことができなかった人は、成人してから、人を愛するときにいつもぎこちない愛しか示せないことが多いのではないかと思います。時には愛しすぎてしまって、相手を傷つけてしまったり、そうしては相手に逃げられてしまうということもあるかと思います。

 もちろんそうしたぎこちない愛が愛ではないというのではないのです。そうしたぎこちない愛のなかにむしろ真剣な切実な愛の姿をよみとることもでかると思うのです。

 しかしともかく、愛というものは、愛されてはじめて愛について学び、また人を愛することができるようになるということは確かな事実だと思います。それを聖書は、わたしたちが神を愛したのではなく、まず先に神が私達を愛してくださって、というのです。そしてここに愛があるというのです。その愛をもって互いに愛し合おうではないかというのです。

 それなのに、われわれは自分がそのように神から、人から愛されたことをまるで忘れて、ただ人を愛する側だけに立とうするとき、その愛は高慢な鼻持ちならない愛になってしまうのであります。

「愛は礼を失せず」といいます。これは口語訳聖書では「愛は不作法をしない」という訳になっていて、このほうがよほどいいと思います。そしてこのことでわたしが一番教えられたのは竹森満佐一の言葉です。こういうのです。
 「愛を考える時に、不作法に思いいたる人は少ない。愛と不作法とはあまり関係ない思うからだ。それは愛する者たちの間では礼儀などは無視してもいいと思うからだ。親しきなかにも礼儀ありとという言葉があるが、これは愛は不作法であってはならないということを教えている。それほどに愛は不作法になりやすいということだ。不作法な愛はもはや正しい愛とはいえない。礼儀をわきまえない親しさというものは、もう親しさではなく、なれあいの生活で、愛とはほど遠いものになっている。それは愛ではなく、甘えだけだ。われわれは甘えということがしみついたように身に付いてしまっている。われわれの人間関係は、いつも甘えに支配されている。甘えをむき出しにすることで、それが愛の生活であるかのように思ってしまう。そこにわれわれの教会生活の弱さがある。教会生活を破壊してしまうものがここにある」というのです。

 そしてこういう痛烈なことをいうのです。「人を愛するということは、非常に難しいことであるのに、それを思わないで、仲良くなればもう愛することができたように思うことが実に多い。その愛は、不作法になってしまう。親しくなれば、言葉づかいもぞんざいになるだろう。しかし、それが不作法なるようであったら、それは本当の親しさではなく、愛しているといって、実は自分の利益を求める甘えになってしまうだけだ。そういう愛が実に多いのは残念なこどた。愛は相手を自分の思い通りにすることではなく、相手に仕えることであり、その人のわがままを許すことではなく、その人を正しく尊敬することであり、相手の立場を重んじ、自分の立場に責任をもつことだ」と述べているのであります。

 竹森満佐一は、教会のなかの甘えということを非常に厳しく指摘したひとであります。それはやがて神と人間との関係を愛の関係から、甘えの関係に転落してしまうことを恐れて、竹森満佐一は教会生活の中にみられる不作法、甘えというものを警戒したのではないかと思います。竹森満佐一はある時から、教会の中でよく使われている「兄弟姉妹」という言い方を止めたそうであります。つまり人の後に、なになに兄とか、なになに姉という敬称をやめて、みな「さん」づけにしたそうであります。それは教会の中から甘えの関係を一掃しようという意図があったようであります。

 愛と甘えとは違う、人を愛するということは、非常に難しいことなのに、愛する苦労をしないで、親しくなれば、仲良くなれば、もうそれだけで愛の関係ができたと思うのは、おかしいと言う指摘は、わたしには大変教えられたところであります。

 しかし、甘えを許さない愛というのは、本当に愛といえるだろうかという気もわたしにはあるのです。まったくの不作法を許さない愛というのは、愛といえるだろうか。たとえば、家族の間がそういう不作法が許させない場であったならば、家族の安らぎというものがあり得るだろうか。いつも上下を着たような交わりが本当に愛の関係といえるのかという気もするのです。

 愛の一番の特徴は赦すということです。相手を赦し、受け入れるということです。そして相手を赦すということは、相手の個性をそのまま受け入れるということです。個性などいうと聞こえはいいですけれど、わたしは個性などというものは、その九十パーセントはその人のわがままさだと思うのです。しかしそのわがままさは、一朝一夕でできたものではなく、その人が長い間生きた上で形成されていったものです。ですから、そのわがままさは、その人にとってはぬきさしならないわがままさなのであって、そのわがままさを排除してしまったら、その人自身の個性はなくなるし、生きていけないくらいのものだと思うのです。ですから、その人の個性を受け入れるというのは、そういうその人のわがままさを受けいるということでもあると思うのです。そうしなければ、愛というのは成立しないと思うのです。

 教会のなかの交わりも、ある面では、そうした不作法がゆるされるような交わりでなければ、それは甘えだと言われても仕方ないかもしれないが、そうした甘えが赦される交わりでなければ、本当に赦された交わりにはならないと思っております。

 確かに、教会の交わりは、甘えを生みだし、不作法をなりやすいところがあり、そしてそれが単に人と人との関係だけでなく、やがては神とわれわれとの関係をもただ甘えの関係にしてしまいかねないということは、わたしがいつも竹森満佐一から深く教えられているところであります。

 しかし、われわれと神との関係でも、それが愛の関係であるならば、あるときには、預言者エレミヤがときどき神に甘えたように、そしてそうしては神から厳しく叱られたりしたように、われわれは神に本当に甘えたくなるようなことがあると思うのです。いつも、上下を着たような神との関係だけが正しい信仰ともいえないのではないか。

 鈴木正久が自分がガンだと知らされて、夜眠れないときに、いつもはそんな言葉で祈ったことがないのに、いつもは「天の父よ」と祈っていたのに、そのときは「天のお父さん、天のお父さん」といって、祈ったら、そうしたらいつのまにか眠れたといっているように、われわれは神さまに対しても、甘えずにはおれないときがあると思うのです。そうしたことが赦される関係がやはり愛の関係ではないかと思います。
 
 従って、愛は不作法はしないということは、確かな事実ですが、また同時に不作法を許さない愛は、愛とはいえないともいえるのではないかと思います。

 そして、パウロはそのあと「愛は自分の利益を求めない、いらだたず」と続けます。われわれがいらだつのは、いつでも自分の利益を求めようとして得られないからいらだつのではないかと思います。

 そのあと「愛は恨みを抱かない」と続けます。このことでも竹森満一がこの句を説明してこんなことをいっているのです。
「この字は人の悪いことを数えないという意味の字だ。恨みといのうは、いつまでも憎いと思い続けることだ。憎いと思うのは、その人の悪いことを思い出しては、数を数えるよにう、繰り返し考えることだ。実際、恨みほどつまらないことはない。恨むときには、同じことを何度も考えるものだ。考えてみても仕方ないのに、ただ赦すことができないばかりに同じことを思うのだ。赦すことができなというのは、愛していないということでしょう。」

 この説明は、恨みというわれわれの感情を見事に説明していると思います。極力人間関係の甘えを厳しく断ち、ある意味では、人間関係をできるだけ排除しようとしているかに見える竹森満佐一が、これほど人間関係の機微に触れる文章を書けることにわたしはいつも驚くのです。

 本当にわれわれは、自分が少しでも、ちょっとでも、悪口を言われたり、自分のプライドが傷つけられた時には、その夜は眠れないで、一晩中数を数えるように同じことを繰り返し思いだし、ただただ時間の経過を待って、自分の恨みを抑えるのを待つ以外にどうしようもないという経験を、われわれはしているのではないかと思います。
 人を赦すことができないということがどんなにつらいことかということであります。

 そのあと、パウロは「愛は不義を喜ばず、真実を喜ぶ」といいます。ここでは、不義を喜ばず、といったあと、「義を喜ぶ」とはいっていないで、真理を喜ぶといっていることが大事だとある人がいっております。ただ「義を喜ぶ」というのではないのです。義を喜ぶという言い方でしたら、ただ正しいことを喜ぶ、正義だけを喜ぶということになってしまう、それでパウロはここでは、義を喜ぶと言わないで、真理を喜ぶといっているのだというのです。

 つまり、これはただ正義を喜ぶというのではない、真理を喜ぶ、それはいうまでもなく、神によって示された福音の真理であります。つまり、それは罪の赦しという真理であります。その真理を喜ぶのです。
 愛において一番大事なのは、ただ不義を喜ばず、不義を憎むというだけではなく、相手の不義を赦すということだということであります。

 だからこそ、そのあとに、パウロは再び「愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」と、「忍び、耐える」と忍耐する愛について言及するのであります。

 不義をただ憎むだけならば、なにも忍耐は必要はないかもしれません。ただ相手の悪を指摘し、裁き、場合によっては、その者を排除してしまえばいいからであります。不義を赦さなくてはならない、だから忍耐が必要になると思います。

 ある人がこの赦すということは、「子どもの失敗を時には父親にさえも知られないようにしてやる母親のようなものだ。これは悪いことをされた者にとっては、まるでただひとつ残された権利、つまり相手のあやまちを指摘し、裁くと言う権利を捨てるようなものだ、それが忍耐するということだ」といっております。

 パウロは「愛はすべてを忍び」といったあと、「すべてを信じ、すべてを望み」といいます。
 ここでいわれている「すべて」とはなんのことでしょうか。これは「すべてを忍び」と同じ字が使われておりますから、このすべては「相手のすべて」です。自分に悪口や不義をした人のすべてのことであります。こんなに難しいことないと思います。

 そうであるならば、その相手を信じるためには、どうしてもその背後にある神の導きを信じることがなければできないことであります。神がその人を悔い改めに導き、救い、そして相手が自分の不義に気付かせてくれる、自分の過ちに気付かせてくれる、そのことを信じる、そのことに望みをもつ、そうでなければ、われわれはすべてを信じ、すべてを望むなんてことはできないと思うのです。

 われわれがこの忍耐する愛をもつためには、この神への信頼とこの神から与えられる望みをもたないならば、この信仰と希望に支えられなければ、到底この忍耐する愛をもつことはできないのであります。