「愛は滅びない」 コリントT 一三章八ー一三節

 パウロは、愛について語ってきて、八節にきて、「愛は決して滅びない」と断言するようにいいます。
 愛に比べれば、預言とか異言とか、知識は、やがてこの世の終わりと共に滅びてしまう、しかし愛は滅びない、永遠であるというのであります。

 その後、パウロは「わたしたちの知識は、一部分、預言も一部分だから。完全なものがきた時には、部分的なものは廃れる。」と語り、そして「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを捨てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろげに映ったものをのように見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせてみることになる。わたしは今は一部分しか知らなくても、そのときにははっきり知られているように、はっきり知ることになる」といいます。

 この九節から一二節までは、愛という字はひとつもでてこないのです。コリントTの一三章は、愛について語っている文章で、愛の賛歌だといわれているところであります。しかしこの八節から一二節からの文章には、冒頭に「愛は滅びない」と語ったあと、愛と言う言葉は姿を消し、そして最後の終わりの言葉に「それゆえに、信仰と希望と愛と、この三つのは、いつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは、愛である」と、ここにきてようやく、愛と言う言葉が再び登場するのであります。

 そして八節から一二節からのところは、なにを言いたいのか、これが愛との関連でいうとどういう関係があるのかよくわからないところがあります。ですから、結婚式などで、愛についての聖書の言葉を読むときにも、大抵はこの部分はとばして読むのではないかと思います。

 何度読んでも正直いって、よくわからないのです。ただ、全体でなにをパウロがいおうとしているかは、それこそ、鏡に映すようにぼんやりとはわかるのです。当時の鏡は、銅とか、そうした金属でできたもので、どんなによく磨いても、今日の鏡のようにはっきり映ることはなかったようであります。ですからここで使われている鏡という比喩は、ぼんやりとしかわからないということをあらわす比喩として使われております。

 ここはどういうことがいわれているかといえば、全体はやはり愛についてパウロが述べようとしているところですから、ひとつのことは、愛だけは廃れない、滅びない、残るということ、つまり終末のときがきても、それは滅びないで残るということです。そしてもう一つのことは、われわれのこの地上の愛はまだまだ完全なものではなく、おぼろげなところがあるということではないかと思います。

 終末のとき、つまり神が完全にわれわれを支配なさるときは、もう神についての知識とか預言は必要なくなるわけです。しかし、愛は必要なくなるわけではなく、むしろ、神が支配なさる世界は、愛だけが支配している世界なのだということであります。なぜなら、愛は神の本質、神そのものだからであります。

神は愛であるとはいえても、神は知識であるとか、神は預言であるとかとはいわないのです。知識とか預言は、みな神を指し示すための道具であり、手段であるわけですから、神ご自身が登場する終末の時には、知識も預言も必要なくなり、ただ愛だけが残る、愛だけは滅びないということであります。
 
 終末の時などというと、もうひとつぴんとこないかも知れません。神の国では、天国では、といったほうがぴんとくるかもしれません。
 天国は、愛が支配している世界だということであります。

 ある童話に、天国と地獄の違いについて語っている話があります。よくわたしなどは、教会学校の説教でこの話をするのですが、大変よくできた話であります。

天国と地獄もそう変わっていないというのです。天国も地獄もおいしそうなご馳走が目の前に沢山並べられている。しかしそのご馳走は、素手で食べることはゆるされないで、長い長い柄のついたスプーンで食べなければならない。一メートルもある長い柄がついているスプーンです。そのために、自分の目の前に沢山のご馳走がならんでいるのに、地獄にいる人々は、そのスプーンでご馳走をどうしても食べることができない。スプーンの柄が長すぎて自分の口にもっていけないからです。

 ところが天国ではみんながそのご馳走を食べてニコニコしているというのです。どうして天国にいる人々はそのご馳走を食べることができたのかといいますと、みんなが、その長い長いスプーンでご馳走をすくったあと、そのご馳走を自分の口にもっていくのではなく、他人の口にもっていって、他人にそのご馳走を食べて貰おうとするから、みんながそのようにしてお互いにご馳走を他の人のために運んであげることができるから、みんなが満腹してニコニコしているのだという童話であります。

 つまり、天国というところは、なにも美しい花が咲いているところということではない。そういう意味では、地獄だって美しい花が咲いているというのです。地獄にもおいしいご馳走が満ちているところである。しかし地獄には他人のためにという愛がない。だから目の前においしいご馳走があるだけに、それが食べられないぶんだけ、いっそう飢餓感にとらわれて、目が血走っているのだ、それが地獄の世界なのだということであります。

 天国という世界は、なにがなくても、愛だけは充ち満ちている、だからそこは天国なのだということであります。天国こそ、愛が満ちている世界で、天国においてこそ、愛が発揮されるところで、愛は廃れることはなく、滅ぶことがないのだということであります。

 それに対して地獄というところは、どんなにものが満ちていても、美しい花が咲き乱れ、おいしいご馳走が一杯あったとしても、そこには愛がない。だから地獄なのだということであります。もしそこに愛がなければすべてが空しくなってしまうということであります。いや、愛がなかったら、その美しい花、おいしいご馳走が醜い争いの種になり、それが地獄だということであります。

 そう考えてみれば、何も地獄というのは、われわれが死んでからいく世界のこと、この世の終わりに来る世界のことではなく、まさに今われわれが生きているこの世界のことではないか。今この世で、もし愛というものが全くひとかけらもないとすれば、それはまさに地獄の世界ではないかということなのであります。

 しかしその地獄の世界のなかで、どんな小さな愛であっても、もし愛があるならば、それは先日も歌いました讃美歌にありますように、「小さな籠に花を入れ、さびしい人にあげたなら、部屋に香り満ちあふれ、暗い胸もはれるでしょう。愛のわざは小さくても、神の御手が働いて、悩みの多い世の人を明るくするでしょう」という美しい明るい世界をかいま見ることができるのであります。

 しかしそういうことは、今われわれのこの地上の世界では、まだまだおぼげにしか行われないというのです。全くないというのではないのです。鏡に映すようにではあるが、おぼろげではあるが、少しはある、一部分はあるというのです。それが一二節の言葉であります。
「わたしたちは今は、鏡におぼろに映っているように見ている。わたしは今は一部分しか知らない」というのは、これは絶望の言葉ではないのです。むしろ希望を与えられているパウロの言葉なのです。

 今はまだまだ完全な愛は実践できるわけではない、しかしそれでも神によって救われ、神の愛を知らされた者として、小さな愛をわれわれは行うことができている、われわれの欠けの多い、未熟な愛であったとしても、そこに神の御手が働いて、地獄の世界に光りをともすことができるというのです。

 なぜそういえるのかといえば、その前の句があるからであります。一一節です。「幼子だったときに、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えいた。成人した今、幼子のことを捨てた」といっているところです。

 ここで言われている「幼子」というのは、いい意味の幼子、つまり、主イエスが「幼子のようにならなければ天国にはいけない」という意味の幼子ということではありません。幼児性という悪い意味です。なんでも自分中心にしか考えることのできない、わがままな子どもの意味です。もうそういう自己中心的な幼児性を自分はもう捨てたのだとパウロは語り、一二節で、「わたしたちは今は」と語りだしているからです。

 パウロは自分はキリストに出会うまでは、キリストにお会いし、神の愛を知らされるまでは、子どものように自己中心的であったというのです。それで彼は「わたしは」という一人称で、自分の過去を語っているのです。

 ある人がここをこう語っています。「パウロは愛のない者に、どんなに苦しめられたことか。そしてどうしてこういうことになるのかと考えたのだろう。愛のない言葉や行いに、いくどとなく、傷つけられながら、これを深く思わざるを得なかった。彼は愛のない人を赦しただろう。その上で、こういう人は、まだ一人前になっていない人間だと考えたのだろう。だから、幼子のように語り、幼子のように感じ、幼子のように考えると書きながら、彼は自分が受けた苦しみ、侮辱などを、ひとつひとつ具体的に思いだしていたのかもしれない。そのためにここではいきおい「幼子のように」という言葉を繰り返すことになったのだろう。しかもここではパウロはそれをほかの人を責めるような言い方ではなく、自分が幼子であった時にはこうであったと書いているのだ」と説明しているのであります。

 そして今はもう福音を知らされて、幼児性をすててしまって、大人になったとパウロはいうのであります。
 そしてその人はこういうのです。「愛は不思議な秘密の力をもっている。愛に躓いた人は不思議に成長する。それは愛に躓いて、ひとも自分も、おおよそ、人間というものは、どんなに愛に乏しいか、その愛がいかに貧しいかに気がつく。それがわかると人はなんとなく大人ぽっくなるものだ。愛を知ると、人は成熟して大人になる」と、続けて書いているのであります。

 しかし、パウロはこの地上での愛の不完全さを知りながら、絶望しているわけではないのです。不完全ながらも、われわれは神の愛によって生かされ、救われている、だからその神の愛を受けて、小さな愛であるかもしれないが、人を愛することができるような大人になっているというのです。そしてその愛が、終末の時には、完成するときがあるのだと希望をもっているのです。

 「今は、鏡にうつったものをおぼろに見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは今は一部しか知らなくても、そのときにははっきり知られるいるように、はっきり知ることになる」というのです。

当時のイスラエルでは、神と顔と顔を合わせようにして、神を見た者は、死ぬといわれていたのです。ですから、われわれは神の後ろ姿しか見ることがゆるされないというのです。モーセは神と直接話すことはできても、その顔を直接みることはできなかった、ただその後ろ姿しか見ることはできなかったと聖書は記しているのであります。

 しかしその時には、われわれも神と顔と顔を合わせてみることがゆるされるというのです。パウロはこういいます。「わたしは今は一部しか知らなくても、そのときには、はっきり知られているように、はっきり知ることになる」というのです。

 今は、この地上では、われわれは神を完全にしることはできない、ただわれわれのほうでは、神に完全に知られている、われわれのほうでは、完全に神のことを知ることはできなくても、神のほうでは、われわれのすべてを知っておられる、われわれは完全に神に知られている、そしてその時がきたら、今度はわれわれのほうでも、今神に知られているように、神を知ることができるようになるというのです。

 ですから、パウロは、この地上のわれわれの愛の貧しさ、不完全さを知りながら、それを嘆くのではなく、希望をもつことができているのです。

 そうであるならば、この世で生きているわれわれにとって大切なのは、自分の愛の貧しさをまず知ることではないか、自分の愛の不完全さを知ることではないか、そうしては、そうした自分の愛の幼児性、いつも自分のことばかり、愛においてさえ、相手のことを思うことよりは、自分のことを思ってしまう、自分の愛の幼児性に気付き、その幼児性を捨てて、大人の愛に目覚めることであります。少しでも、子どもぼい愛を捨てることであります。

 愛に躓いた人は、不思議に成長するものだということであります。愛に躓くといのうは、愛することに本当に苦労することです。自分の自己中心性と戦いながら、相手を赦し、受け入れることに苦労することです。

そしてパウロは最後にこういいます。「それゆえ、信仰と希望と、愛、この三つのものは、いつまでも残る。その中でもっとも大いなるものは、愛である」。

 パウロは、というよりは、当時の教会では、この信仰と希望と愛というのが、一つのキーワードだったようであります。信仰は希望を生み出すのであります。そして希望は、われわれの弱い、頼りない信仰が崩れ落ちそうになるときに、希望はわれわれの信仰を支えてくれるのであります。そしてこの信仰と希望があるからこそ、われわれもまた人を愛する力を与えられるのであります。ですからわれわれの信仰生活にとって、この三つは大切なキーワードであります。

 そして、ここでは、パウロは愛が一番大いなるものだといっております。しかし、パウロは他の箇所では、愛によって働く信仰が大事だと語るときもありまし、また、ある時には、この希望によって救われるのだ、だから一番大事なのどんなときにも望みをもつことだと、希望の大切を語るのであります。

 ここでは、愛について語っているところですから、もっとも大いなるものは愛だと語っているのです。
 しかし、もうひとつのことは、神は愛であるとはいえても、神は信仰であるとか、神は希望であるとかは言わないし、いう必要もないわけで、そういう意味から言うと、神は愛であるといえるということは、愛は神の本質だということで、もっとも大いなるものは愛であるということなのかもしれません。