「愛をもって語りなさい」  コリントT 一四章一ー一九節


 一二章で、神の霊の賜物についていろいろ語ってきて、その神の霊の賜物で最大の賜物は愛という賜物だと語るのであります。それを熱心に追い求めなさいと語り、それは神のすべての賜物を活かす最高の道なのだと語るのであります。そして、その最高の道である愛について、一三章で詳しく語ってきて、一四章の一節で、再び「愛を追い求めなさい」と語るのであります。

 しかし、そのあと、不思議なことに、パウロは愛ということに関しては、一言も触れないで、「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」と語りだすのであります。そして二節からは、「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っている」と言い出して、もっぱら預言と異言の違いについての話になっていくのであります。

 そして一四章全体は、結局「異言」についての話になるのであります。異言と言う言葉は、もともとは「舌」という意味の言葉で、舌とか言語という意味であります。そして特にここで使われる時には、他人には何をいっているか意味不明瞭な言葉ということで、日本語の訳では、異なる言葉という意味で「異言」と訳されているわけであります。英語では、「知ることのできない言葉」とか、「エクスタジィーの言葉、つまり恍惚的な言葉」とか「奇跡の言葉」とか「霊の言葉」とか訳されています。

 それは霊的な興奮の状態のままで話す言葉のようであります。ですから、それは他人には何をいっているかわからない、だからかえって、神秘的にみえるわけです。神様とだけ話しているようにみえるわけで、人には分からないという面だけ、より神秘的に聞こえるわけです。

学者によっては、あの使徒言行録の二章に記されている聖霊降臨がそれだといいます。舌のようなものが炎のように別れて現れたというのですから、そして霊に語らせるままにいろいろな言葉で語ったというのですから、それは神秘的な言葉で、これが異言だというのです。

 しかしあの時、弟子達が聖霊を受けて語った時には、人々には何をいっているかよく分かった、確かに酒によっているように、なにか神秘的な霊に動かされて話しているようではあったが、神の大きな働きについて語っていることはみんなが非常によく分かったというのですから、これは異言とは違うと思います。

 異言はそれに対して、なにか興奮状態で、恍惚的な雰囲気のなかで話され、人には何をいっているかわからないというのです。それだけ、それを語ることができる人は神様と話しているのだと周囲の人々は思ったわけです、だから異言を語れる人は特別な信仰あつい人で、霊的な人だと思われたようなのであります。

 そういうことは初代教会にはあったようなのです。ですから、人々は競って異言を語れるようになることを求めた。どういうふうに求めるかといえば、恐らく自分を自己暗示させて興奮状態にもっていって、何かを語り出そうとしたと言うことだろうと思います。それは人工的な自己暗示ですから、上から与えられる霊の言葉ではないわけです。つまりインチキであります。

 それに対してここでパウロがいっている「異言」は、自己暗示によるものではなく、上から与えられる霊の言葉のようであります。なぜなら、パウロも一九節をみますと、「わたしはあなたがたの誰よりも多くの異言を語れることを神に感謝している」といっておりますから、異言を語れる人がみな自己暗示によって語るわけではなく、本当に神から与えられて語るということもあるようであります。

 信仰というのは、人間を超えた神を信じるということですから、われわれ人間の常識を超えた現象が起こることもあり得るわけで、全てがわれわれが人間的な理性で理解できるわけのものでもないと思います。神の霊が今の時代よりも活発に働いたと思われる、あの初代教会においては、そうした異言を語る人がいたとしても不思議はないと思います。

 ただ問題は、これは他人には何をいっているかわからないということですから、どれが本当に神から与えられた言語なのか、それとも自己暗示をかけたインチキの言語なのか判別のしようがないということと、そして何よりも問題は、異言を語る者が自分は信仰的に熱い人間だと自慢しはじめた、高慢になっていったということであります。そして異言を語れない人を信仰がないといって軽蔑しはじめたということであります。
 パウロが一番嫌っていた信仰の傲慢ということが、この異言を語る人の中にみられるようになったということであります。

 それは今日でもある種の教会では、異言を語る人がいて、異言を語れるようならないと本物の信仰者ではないといわれるそうであります。

 それでパウロは、「わたしはあなたがたの誰よりも異言を語れることを神に感謝しているが、しかし、わたしは他の人のたちを教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るよりも、理性によって五つの言葉を語る方をとる」というのであります。

 パウロは最初は、五節などを見ますと「あなた方みんなが異言を語れるにこしたことはないと思うが」といって、異言を語ることを決して禁止したりはしておりませんが、この一四章の後半にきては、異言を語る事を教会のなかではするなといって、異言を語ることは信仰的ではないというのであります。

 それはなぜかといえば、異言を語るものは、自分は信仰的に優れている者だと自分のことを自慢しはじめたということと、それは他人にはわからないということで、かえってそれは他人を躓かせる言語になるからだといのうです。七節をみますと、どんな楽器でも、もしその音に変化がなければ、なんの意味もないし、騒がしいだけの楽器になるというのです。

 だから教会という集会、礼拝という中で大事なことは、他人にもよくわかる言葉で話すということだ、言葉をかえていえば、理性の言葉で語れというのです。一五節で「ではどうしたらよいか。霊で祈り、理性でも祈ることにしよう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしよう。さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会にきて間もない人は、どうしてあなたの感謝に『アーメン』と言えるか。あなたが何を言っているのかわからないからだ」というのです。

 新共同訳では、「理性」と訳しておりますが、口語訳では、これは「知性」と訳されています。日本語的な感覚では、知性のほうが良い訳だと思います。要するに「人にもよく分かる言葉で」ということであります。何もそれは知的な言語でとか、高尚な言葉でというような意味ではないのです。そうなってしまったら、またそれは大変高慢な言葉になってましうわけですから、そういうことではないのです。よく人にも分かる言葉で話なさいということであります。

 異言を語るということは、結局はひとりよがりになるということであります。竹森満佐一がここの箇所で言っておりますが、「信仰生活の一つの誘惑は、ひとりよがりということではないか。パウロが異言について極力戒めているのは、それであると思う。自分だけは良い気持ちになっているが、他の人のことは考えないのである」といっています。

 「自分だけは良い気持になっているが、他の人のことは考えない」、それはつまり愛のない言葉だということではないかと思います。ひとりよがりの言葉、それが異言だということであります。それは結局は自分だけは良い気持ちになって、他の人のことは考えない、自分だけは信仰的に高揚しているだけで、そのようなひとりよがりの信仰は、愛のない信仰だということではないかと思います。

 そしてパウロは一三章で愛について語り、そして、一四章にきて、「愛を追い求めなさい」と語り、そのあと、霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めよ、といい、そして異言を語るのを差し控えよ、というのは、それは人にもよくわかる言葉で話せということで、つまりは、愛をもって話せということではないかと思います。

 愛を現すのは行動かもしれませんが、しかし言葉というものも、大変大切ではないかと思います。行動よりも、むしろ、言葉においてこそ、愛は発揮されるのではないかと思います。それはどんな高価な贈り物よりも、優しい言葉、優しい愛に満ちた手紙のほうがどんなに人を慰めるかわからないと思います。

 それでパウロは一三章で、愛について語ったあと、すぐ続いて、人に話をするときには、愛をもって語りなさいと、いうのではないかと思います。

 パウロは、ここでは、異言よりも預言のほうが大切だ、教会では、異言を語るのではなく、預言を語れといっております。ここでいわれている預言とは何かといえば、それは今日の教会では、説教ということではないかと思います。
「預言する者は教会を造りあげる」といいます。説教に限定すると少し狭すぎるかもしれません。それは説教を中心とした、たとえば信徒の証も含まれても良いと思います。そしてその説教にせよ、証にせよ、それはひとりよがりのものではなく、理性で、知性でみんなにもよく分かる言葉でなければならないというのであります。

 わたしは神学校を卒業して、牧師になったときに、はっきりと明確に三つのことを決意しました。それはひとつは、観念的な説教はするのをやめようということ、二つは、我田引水的な説教はやめようということ、そして三つ目は、アジテーター的な説教者にはなるまいということでした。

 観念的な説教はしまいということは、わたしは神学生のときには、というよりも以前から大変理屈をこねまわすのが好きな学生だったようで、教会でも神学的な議論というものを盛んにしたものであります。そのときに、牧師から口酸っぱくいわれたことは、あなたは観念的だということでした。特に神学生になって牧師を志すようになって、牧師からそのことでいつも繰り返し批判されたものであります。それが骨身に応えておりましたから、牧師になって説教をするときに、自分の説教が観念的な説教になってはいけないということをいつも注意いたしました。それでも若い時というのは、まだ世間のことは分かっていないときですから、どうしても頭でっかちなものですから、哲学用語とか神学用語をつかいたくなるものですが、それをできるだけ避けようとしたのであります。

 観念的な説教ではなく、具体的な説教をしようとしました。つまりわれわれの現実に即した説教を試みたのです。そこでわたしが発見したことの一つは、人間はみな個性が違うということです。そうしたら、同じように、愛しなさいということを説教するときにも、ただ一律に愛しなさいということをいうのではなく、その人のできることで、そのひとの個性に合わせて、具体的に愛を実践するにはどうしたらよいかということを配慮しながら、説教を試みたのです。

 具体的に考えるということは、人間のそれぞれの個性に即して考えることだと思うようになったのであります。そしてできるだけ、神学用語を使わない説教をしようと思ったのであります。

 我田引水的な説教はしまいと思ったのは、たとえば、他の宗教は御利益的な宗教で、キリスト教はそうではない、キリスト教はもっと高尚な事を求めている宗教だなどというのが、キリスト教の内部では一般的だと思うのですが、そして神学校を卒業して、牧師になるときに一番わたしが抵抗を覚えたのが、自分がいわゆる宗教家になりたくないということでした。たとえば、新興宗教の教祖のような者にはなりたくないということでした。それとは違って、自分はもっと高尚なことを教えるのだという自負があったわけです。

 しかし聖書をよくよんでみれば、聖書に出てくる人はやはり自分の生活の重荷にあえいでいる人で、たとえば病気を治して貰いたい人がみなイエスのところに集まってきて、そしてイエスはその人たちの信仰を決して軽蔑しないで、いやして救っている、そういうところをみれば、キリスト教が御利益宗教とは一線を画しているなどとはとうていいえないではないかと思いいたったわけです。

 また他の宗教のいわゆる奇跡的な出来事はいんちきだと批判しなが、聖書にでてくる奇跡は本物だとどうしていえるかというようなことも、大きな問題でした。キリスト教だけが高尚な宗教だなどと我田引水的な立場はとるまい、そういうひとりよがりな考えは捨てようと思うようになったのであります。

 御利益信仰の問題でひとことだけいえば、キリスト教は確かにみな御利益的な信仰を求め、すべての信仰はそこから出発していることは確かである、つまりすべて、期待からわれわれの信仰は始まっている、しかし聖書の信仰は、その期待から始まる信仰を神を信頼することによって、変えられていく、人間中心、自分中心の期待が、やがて神を中心にする信頼、期待から信頼の信仰に変えられていくのだという発見であります。

 アジテーターにはなるまいと思ったのは、アジテーターというのは、扇動するという意味です、もともとわたしにはそのような要素はありませんが、優れた牧師というのはどっかそのような人を酔わすような説教をして、人をひきつけたり、導くものであります。自分の中にそういう人から扇動されて、感動してしまうという要素があることを知っておりますから、そうしてそのように感動したあとの白々しさということもよく知っておりますから、そういう説教者にはなるまいと思ったのです。説教を雄弁に語って、人を酔わすようにして、人を導きたくないと思ったのです。

 しかし、自分を抜け出して、ある一線を越えて、信仰に入るという時には、どうしてもそういう酔わすような勧告というか、説教というものが必要だということはよくわかるのです。ですから、すぐれた伝道者、いわゆる大衆を導く伝道者の存在というのは、必要だということはよくわかるのです。

 渡辺善太という優れた説教者などは、キリスト教に入るきっかけは、救世軍の路傍伝道の説教だったし、またホーリネス的な教会によったようであります。しかしそれだけではだめだということで、渡辺善太はのちに聖書のことを神学的に学ぶようになって、聖書の学者になっていったのであります。

扇動されるということは、いわば洗脳されるということで、自分を失うということでそういうのはとても嫌だと私自身は思ったのです。だから自分はそのように人を導きたくはないと思ったのです。いわばできるだけ、人を感動させない説教をしたい、淡々と、退屈で人を眠らせてもかまわない、そういう説教をしようと思ったものであります。

 それがわたしが牧師になって、説教者になって、自分が第一にこころがけたことであります。観念的な説教はしまいということは、人によくわかる具体的な説教をしようということ、我田引水的な説教はしまいということは、ひとりよがりな説教はしまいということです。そしてアジテーターとしての説教はしまいということは、ひとりひとりの個性を大事にして、決してその人を洗脳させるような説教はしまい、その人が自分なりによく考え、自分のペースで決断できるような説教をしたいということであります。

それは考えてみれば、説教においてひとりよがりにはなりたくないということであります。それは言葉をかえていえば、少しキザにきこえますが、愛の説教をしたいということであります。ひとりひとりの個性を大切にする説教、愛をもって語りたいということなのであります。

パウロは愛について語り、愛を求めなさいと語り、それは具体的には、話すことにおいて、他者に語りかたけることにおいて、愛をもって語りなさいというのであります。人に語りかけるときに、愛というものがどんなに大切かということであります。