「真の礼拝」 コリントT 一四章二○ー二五節


 「兄弟たち、物の判断については子どもになってはいけない。悪事については幼子となり、物の判断については大人になれ」と、パウロはいいます。

 これはどういう状況のなかでいわれているかといえば、教会では異言を語ることを差し控えよということのなかでいわれていることであります。異言というのは、宗教的な恍惚状態のなかで語られる言葉のようで、それは他人からみればわれけのわからない言葉なのです。そしてそれは恍惚状態で語られるわけですので、なにか神様と直接話しをしているように見えて、大変信仰的にみえるわけです。それで初代教会では、競って異言を語ることがはやったようであります。ですから、異言というのは、他人には分からない言語というわけで、わけのわからない言葉を語っていれば、それは異言だと思われるわけで、インチキの異言も流行したようであります。
 そしてなによりも、パウロが憂えたことは、異言を語るものがたとえそれが本物の異言だとしても、彼らが自分のことを誇りだしているということなのです。

 パウロは自分も異言を語ることができるけれど、人を躓かせないために、教会では、異言で一万の言葉を語るよりは、理性によって五つの言葉を語るというのです。

 そうした中で、「兄弟たち、物の判断については子どもになってはいけない」というのです。「物の判断では大人になれ」というのです。それはつまり子どものように自分だけのことを考えるというひとりよがりな振る舞いをするなということであります。

 子どもというのは、生物学的にいっても、自分が生きなくてはならないということで精一杯で、他人のことまでかまっておれないという時期なのではないかと思います。赤ちゃんなんかそうですね、赤ちゃんは他人のことをかまうなんてことはないわけで、お腹がすいたら、ただ自分の腹を満たしたいということで泣き叫ぶわけです。ともかく自分が生きなくてはならないということに必死で、他人などかまってはおれないわけです。

 しかしだんだん大人なっていくと、人間というのは、自分ひとりでは生きていけない存在だということに気づいて、社会性というものがでてくるわけです。他人のことを配慮できるようになる。

 それでは大人は本当に他人の事ばかり考えて、物の判断ができているか、子どもに比べれば、大人はみなひとりよがりから脱却できて、他人を配慮することができ、愛の精神をもてるようになっているかといえば、そうでないことはわれわれ大人が一番よく知っていることではないかと思います。ある意味では、大人は子どもよりももっとひとりよがりかもしれないと思うし、何よりも自分が生きること、自分が生き延びることを第一にしてると思うのです。大人のずるがしこさは、子どものずるがしこさよりはずっと巧妙だし、根が深いと思います。

 だから、パウロは「悪事については幼子になり」といっております。幼子も自己中心的ですけれど、それはいわば本能的なもので、あまり根が深くないといえると思います。つまり、子どもの悪は無邪気であるということであります。

 しかし大人が悪いことをするときには、自分は悪いことをしていると知っていてする、だから大人の悪には、必ずそのそこに自己正当化の用意をし、その悪が暴露されたときには、自分は悪いことをしていないとか、やむを得なかったのだとかという弁明を用意している、その分だけ大人の悪事は自己正当化を内にかかえているだけ、悪の根が深いと思います。

 そうしますと、物の判断では子どもぽっくなるな、大人になれというのは、どういうことなのでしょうか。
 大人も子ども、同じように自己中心的であると思うのです。しかし子どもは無自覚でそうなっているのに対して、大人は自分でそのことを知っている、だからその時に自分の自己中心性を捨てて、他のひとのことを考える、配慮しようという物の判断ができるということだろうと思います。

 物の判断ができるということだけでは、それがより自己中心的に動くか、他人のことも配慮できるように動くかわからないわけですが、どちらに転ぶにせよ、物の判断ができるということは、それを他人のことを配慮することにむけていく可能性をもっているぶんだけ、子どもぽい考えかたを越えているということであります。

 教会は、主イエスが「幼子のようにならなければ、天国に入ることができない」といわれた言葉が誤解されて、うっかりすると、物の考えかた、物の判断でもなにか子どもぽっくなって、不作法が横行しがちなのであります。パウロは愛について述べたところで、「愛は高ぶらない、誇らない」といったあと、「愛は礼を失せず、不作法をしない」といっていたことを思い出したいのであります。「愛は高ぶらない」というのは、愛はあまり大人ぶるなということであるかもしれません。そして「愛は不作法はしない」というのは、愛は子どもぽっくなりがちだから、子どもぼっくなるなということかもしれません。

 二一節からはこうパウロはいいます。
「律法はこう書いてある。『異国の言葉を語る人々によって、異国の人々の唇で、わたしはこの民に語るが、それでも彼らはわたしに耳を傾けないだろう』」といいます。ここでは、「律法」とありますが、新約聖書では、しばしば旧約聖書全体のことを律法という言葉であらわしますが、ここでも、実際は旧約聖書のイザヤ書の二八章の一一節からの引用であります。

 これはどういうことかといいますと、神は預言者イザヤを通して繰り返し、神を信頼しなさい、アッシリアという国が攻めてきても、動揺しないで、ただ主なる神を信頼しなさいと警告するのですが、南ユダの指導者は主なる神を信頼しようとしないで、エジプトに助けを求めようとするのです。それで神はアッシリアを用いて南ユダを攻めさせるというのです。

 人々は主なる神の言葉を聞こうしないので、ついに異国の国の軍隊が攻めてきて、異国の言葉を聞くことになる、というのです。そしてそれが異国の言葉であるが故に何をいっているかわからないだろう。そういうわけの分からない言葉を聞くことになると言う預言であります。

 そしてそのあとパウロはいいます。「このように、異言は、信じる者のためではなく、信じない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです」といいます。

 この箇所はとてもわかりにくいところであります。これはこのあとでは、異言は信じない者、つまりまだ信仰のことがよくわかっていない人にはつまずきになる、未信者に語るなといっているので、ここでは何か逆のことがいわれているような印象を与えるのではないかと思うのです。

これは先に引用しましたイザヤ書との関連でいうとわかります。つまり神が異国の言葉を語るのは、人々にわざと分からない言葉で語るということで、それは見えない者にはますます見えないようにし、聞こえない者にはますます聞こえないようにして、彼らを躓かせるのだということです。つまりよくわかる預言者の言葉を聞こうしない民に対する裁きの言葉だということなのです。

 イザヤ書のその箇所の最後は「彼らは歩むとき、つまずいて倒れ、打ち砕かれ、罠にかかって捕らえられる」となっていて、人々が異国の言葉を聞くというのは、神の裁きの言葉を聞くということなのです。
 つまり、異国の言葉を聞くということは、少しも救いの助けにはならないで、かえってつまずきになるということであります。

 ですから、「異言は信じる者のためのしるしではなく、信じない者のしるしである」というのは、「異言は信じない者を信仰に導くしるしにはならない」という意味であります。それは信んじている者にとっては多少は信仰的にも益になるかもしれないが、信仰の初心者にはなにをいっているのかわからないわけで、ひとつも信仰の助けにはならないということであります。信じない者、信仰の初心者には、ますます信仰をつまずかせ、信仰から遠ざけるだけだということであります。

 だから教会のなかで、礼拝のなかで、みんなが異言を語っているところに、教会にきて間もない人か、信者でない人が入って来たら、「あなたがたを気が変になっいると思うだろう」というのです。それは愛のない言葉だということであります。

 それに対して、「みんなが預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入ってきたら、彼はみんなから非を悟らされ、みんなから罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神に礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』とみんなの前に言い表すことになるだろう」といいます。
 
 ここだけを読んでみたら、教会の集会というのは、実に恐ろしいとこだ、おぞましいところだと想像しないでしょうか。これではなにか秘密結社みたいなところで、あるいはオカルト的な宗教団体のところに入り込んで、むりやりに洗脳されてしまうような光景を思い浮かべるのではないでしょうか。

 こうしたことが初代教会の集まりのなかで起こったことなのかもしれません。しかしこうしたことが現代の教会で起こったとしたら、もう現代のわれわれは初代教会の時の人とは違って、そんなに素朴にはなれないところがあります。人間というのがもっと意地悪で、それほど単純ではないし、そう簡単に自分の秘密などをさらけ出したくないという思いをもっていると思います。仮にその時に自分の秘密を告白しても、きっとあとではしらけた気持になると思います。

 これではまるで秘密結社の仲間うちのリンチのようなものではないか。これが教会の礼拝というものであったならば、そんな集会にはでたくないと思うのです。

 そしてこれはイエスの活躍した初代教会の時代にもやはり同じことが行われていたことを思いだします。姦淫の現場を捕らえられた女は、律法学者やファリサイ派の人々に捕まえられて、イエスのところに連れ出され、「こういう女は石で打ち殺せと律法は言っているがどうしましょう」と、イエスにいうのです。その女をみんなが取り囲み、口々にお前はみだらな女だ、お前は死ね、死ねと言われたに違いないと思うのです。

 ここは、まるでそういう光景を想像させるのではないか。それが教会の礼拝の場だとしたら、これは恐ろしい集まりの場だということにならないでしょうか。

 しかしここをよく読んでみれば、そういう光景ではないのです。「みんなが預言しているところへ、信者でない人、教会に来て間もない人がたまたま入ってきて」というのです。
 「みんなが預言しているところ」とありますが、初代教会ではそうした集まりがあったのかもしれません、教会制度というものがまでできていませんから、牧師という教職がいたわけではないので、その集会で聖書の言葉を語れる人がそれぞれ語ったのかもしれません。今日はそういうことはないですから、今日の教会の状況からいえば、ひとりの牧師が講壇から説教しているという光景を考えていいと思うのです。

 そしてそのひとりの牧師はただひとりの個人的な思いで聖書の話をするのではなく、その教会全体の信仰を背負って、その教会の全体を代表して説教をしているわけですから、それはみんなが説教しているということがいえると思います。

 それはともかく、ここでは「みんなが預言ししているところへ」というのです。つまり、みんなが聖書の話をしているときです、そのときにたまたま初心者がその場にきて、そのみんなの話をきいているうちに、「自分の非を悟らされ、罪を指摘され、心のうちに隠しもっていたことが明るみに出され」というのです。

 つまりここでみんなはその初心者のそれまでの生活を知っているわけでも、その人がどんな罪を犯し、その人の心のうちにその人がどんな秘密をもっているかは知っているわけではないのです。その人について何か話をしたり、その人に対して、お前はこういう罪を犯しているだろうと、よってたかって、指摘してるわけではないのです。

 そうではなく、その人とは全く関係のない聖書の話をしているのです。預言をしているのです。神の言葉を語っている、神のことを話している、その話を聞いて、そこにはじめて来た人はまるで自分自身について語られているように、それを聞いていたたまれなくなったということだろうと思います。それはもうまるでみんなから自分の非を悟らされ、罪を指摘され、心のうちに隠し持っているものが明るみに出されるような気持になったということだろうと思います。

 教会の礼拝というのは、そういうところだと思います。わたしも説教では、もうあらかじめ話をすることは、原稿に書いているわけです。特にわたしはずっと講解説教といって、一つの聖書の箇所を連続してテキストにして説教しておりますから、その時代のテーマとは関わりなく、あるいは、その時に起こった事件、たとえば、アメリカで同時多発事件が起こったとしても、祈りのなかでそれにふれることはあったとしても、説教ではそれにふれることはないのです。ふれることはわたしにはできないのです。あらかじめ書かれた説教の原稿をもとに説教するだけであります。

 ときとぎ、そういうときに、教会に全く新しいかたがお見えになったとき、こんな聖書の話をしても、その人にはなにを言っているのかわからないだろうな、すまないなと思いながら、説教をするのです。それは新しい人でなくても、たとえば、教会員のなかで家族に大きな問題を抱えている人がいて、その人が礼拝に見えている、そのことに気付いても、説教のテーマをかえて、その人の抱えている問題に直接ふれるような説教をしないのです、そんなことはできないし、する必要もないと思って説教しているわけです。

 ところが聞く人はどうでしょうか。自分が抱えている問題と直接関係のない話を説教者がしていても、まるで自分に語られているように、その説教を聞くということが起こるのではないでしょうか。もし、その説教者が聖書の御言葉を語っていればです。
 預言を語る、聖書の言葉を語る、説教をするということは、そういうことなのではないでしょうか。

 そしてひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがの内におられます」とみんなの前で言い表すというのです。これが教会の礼拝だというのです。

 竹森満佐一がここのところの説教でこういっているのです。
「神の言葉を聞いたら何かいいことがあるのだとしか考えないかもしれない。しかし、神の言葉を聞くということは神にお目にかかるということだ。それならば、第一に起こる反応はその神の聖さに打たれることだ。神の聖さの前に自分の醜さ考えるほかはない」といっております。

モーセでも、預言者エレミヤでも、イザヤでも、神の聖さの前に立たされたときに、みな自分の罪を知らされて、ひれ伏すのです。これが救われるということの第一歩なのです。これが礼拝ということであります。

 そしてこのような礼拝は、御言葉が語られているということで起こるのであります。
 竹森満佐一はこういうのです。「教会をどうして神の住むところにするかは教会にいるわれわれのたえることのない願いだ。立派な会堂も造りたいと思うし、美しい音楽によってそのことを少しでも助けたいと思うだろう。しかしそれらのものは、これのための助けになるだけだ。しかし、ほんとうをいえば、助けにさえならない、ただそういう気分を与えるために少し役に立つだけでしかない。それよりも大切なことは教会にいるわれわれが神の言葉を語り告げている限り、神はすでにまこにここにいますと言う確信をもつことだ、それによって、初心者を迎えることだ」といっているのであります。

 先日も東北旅行の帰りに那須にたちより、ステンド美術館に行ってきました。そこにはすばらしくきれいなステンドグラスのある礼拝堂が三つもあって、こういうところで礼拝できたら、まこに神はここにおられるという気持になるなと思ったものであります。わたしは行ったことはありませんが、ローマのブァチカンの礼拝堂などにいったら、さぞかしそういう気分になるだろうなと思います。
しかし、竹森満佐一は、「ほんとういえば、そんなことは助けにさえならい」と言いきっているのです。「われわれが神の言葉を語り告げている限り、神はすでにまことにここにいますという確信をもつべきだ」というのです。