「秩序正しい礼拝」コリントT 一四章二六ー四○節

 ある聖書の学者がこのコリントの信徒への手紙の一の一四章から二六節から四○節のところは、「コリント人への手紙全体を通じてこの箇所ほどおもしろい箇所はほかにないといっても誤りではない」と書いてあって、わたしは大変びっくりしました。わたしなどは、ここの箇所はどうも説教しにくい箇所だなと思っていたものですから、そんなふうに書かれていてびっくりいたしました。

 どうしておもしろいかというと、ここには初代教会の礼拝がどのようなものであったかがここに浮き彫りにされているというのです。そこには、現代のわれわれには不思議と思われるほどの、形式ぬきの自由さがあったらしい、この数節に書かれているところから、現代の教会に対する二つの問題が指摘されるだろうというのです。

 少しかいつまんで紹介しますと、第一のことは、初代教会には専門の牧師がいなかった。なるほど使徒、十二使徒たちは特別の権威もっていただろうが、しかしこの時代には、一つの教会に属する牧師というものは存在していなかった。賜物をもっている者はだれでも、それを行使することができた。その後教会の制度ができてきて、教会の専門の牧師職が制度化されたのは果たして正しかったのだろうか、というのです。それは間違っていたのではないかというのです。

 確かに多忙の時代になって、ひとりの人が特別に神から与えられた真理と導きと慰めを人々に伝えるということは意味のあることだろう。しかし、その反面、ある人が専門の牧師になった場合、本当は語るべきことなどないのに、それでも日曜日になればなにかしら語らなければならないという苦しい立場に時々おかれることも明かな事実である。

 しかしこの時代には、誰かが人々に伝えるべき啓示をもっいる場合には、教会のいかなる法則、規則も彼の発言を封じてはならないということだ。専門牧師職だけが神の真理を人々に伝えることができると考えるのは、大きな誤りであるというのです。

 これを書いているこの人は、よほど毎日曜日、退屈な説教を聞かされていたのかも知れませんが、牧師にとっては大変耳の痛い話であります。

 専門の牧師がいなかったから、そのときに啓示を受けた者みんなが発言する機会が与えられていたというのです。

 そして第二のことは、初代教会においては、礼拝の順序に、今日では全く見られない融通性というものがあったようだ。固定した順序がなかったことは明らかだ。万事形式抜きで啓示が与えられたと思う者はだれでもそれを語ることが許されていた。現代のわれわれの教会には、それに反して、威厳とか権威とか、順序とかいったものがあまりにも重要視されすぎていないか。われわれは礼拝の順序の奴隷になってしまっていないか。初代教会の礼拝の特に注目すべき点は、ほとんとすべての者が、自分は礼拝に何かを寄与する権利と義務とを持っている気持で教会にやってきている。当時の人々はただ説教を受動的に聞くために教会にくるのではなかった。ただ受けるためだけではなく、与えるためにも来たのだ。それはそれなりに危険があったことは明かだろう。コリントにはしゃべるのが大好きな人がいたからだ。

 それに対して現代の教会は、多くのことを牧師にまかせて信徒の役割を最小限に減らしてしまって何かを失ったのではないか。教会員の中には自分は教会のために何をしうるかということよりも、教会は自分のために何をしてくれるかということを先に考え、教会批判はすすんでするが、自分自身は何も実践しないという人たちが少なからずいるのではないかというのです。

 教職制度ができたのがよいことだったかどうかということであります。今日でも日本の教会でも教派によっては、教職制度をおかないで、いわば教師試験というのをおかないで、信徒が賜物をもっていれば、教職になれる、説教もするという教派もあるようであります。

 それはやはり一長一短だろうと思います。教会が初代教会から時間を経て、やがて教職制度を作っていったのは、それなりに必然性があったということではないかと思います。

 コリントの第一の手紙のこの一四章をみますと、確かに専門の教職者とか説教者というのは存在しないで、みんなが自分が受けた啓示を語り合ったようであります。異言を語る者がいたら、それを語ることを禁じるというようなことはしないで、それを語ったたら、誰かが解釈してあげなさいというのです。解釈する人がいなければ、教会では黙っていなさいというのです。また預言を語る場合にも、二人か三人かが語り、他の者たちはそれを検討しなさいというのであります。 

 これは今日でも、ある教会では、月に一回、礼拝が終わったあと、その日の牧師の説教を批判するというか、感想を述べ合う時というものをもっているそうであります。そのときは、牧師はいっさいそれに対して口だししてはいけないそうであります。つまり反論はゆるされないで、教会員の批判をただ黙ってきくだけなのだそうです。

 三一節をみますと、「みんなが共に学び、みんなが共に励ますように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい」というのです。

 三二節の「預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです」というとこは、何をいっているかわかりにくいところであります。ここはリビングバイブルでは、こう訳されております。「神様から言葉を与えられている人は、自分の番まで自制して待つ能力も与えられていることを忘れてはなりません」となっております。
 要するに、神の言葉を語る者は、自分勝手に語るのではなく、自制する能力、待つことのできる自制心も与えられているのだということであります。

 そしてパウロはこういうのです。「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」といいます。ここでいきなり、「平和の神」とでてきますので、唐突な感じをうけますが、ここはリビングバイブルのように「神様は無秩序や混乱を喜ばれません。調和を愛する神様ですから、どの教会にも、この調和があるのです」というほがわかりやすいと思います。

 要するに無秩序に対しての平和ということですから、調和のほうがいいように思われます。

 ともかくこの初代教会の礼拝は今日のように礼拝の順序も定められているわけでもなく、専門の牧師がただ話すだけでなく、みんなが啓示を受けたといえば、それを自由に語ることが許された礼拝だったようであります。そしてそれにもかかわらず、そこには一定の秩序が保たれたということは、おどろくべきことであります。

 もっとも、ここでわざわざ、神は無秩序の神ではなく、平和の神だといっているところをみますと、そして三十三節から教会では婦人は黙っていなさいという勧告があったりするところをみますと、初代教会の礼拝においては、うっかりするとみんなが思い思いにしゃべりだして収集がつかなくなったことがあったからこそ、こうした警告がなされたのかもしれません。

 そしてそうしたことを避けるために、やがて教会に教職制度というものが形成されていったのかもしれません。
 
 しかしそれにしてもこの箇所を見る限りは、コリントの教会の礼拝においては、教職制度とか、礼拝の順序とか、そういうものがなくても、ある一定の秩序があって礼拝が行われたというのは、本当に驚きであります。
 
 それはなぜできたのかということであります。礼拝の秩序とは何かということであります。

パウロはこの章の終わりで、「しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」と勧告しておりますが、秩序正しい礼拝とはなにかということであります。

 それはたとえば、礼拝の始まりの時間をきちんと守るということでしょうか。確かアフリカだったと思いますが、そこでの集まりというのは、ある程度の始まりの時間というのは、決まっているようですが、そこでの集まりは、みんなが集まったら始めるというものだということであります。

 わたしはそれを聞いた時に、何か目から鱗が落ちたような気がいたしました。われわれ現代人がいかに時間というもの、それも時計の時間というものに縛られているかということであります。
 もちろん、列車の運行などは、時間どうりに運行しなければ、衝突してしまうわけで、時計の時刻というのは絶対に必要でしょう。
 しかし飛行機に関しては、予約している乗客が現れない場合は、出発の時刻がきても、その乗客をアナウンスで呼び出して、待っているということがあると思います。飛行機の場合には、多少時刻におくれたからといって、それで空で衝突することはないわけで、高い運賃を払って乗客する権利のほうを優先させているのだと思うのです。

 つまり、時刻よりも、人間を優先させている、人間が時間の奴隷になるのではなく、人間が時間をコントロールしているということであります。人間が大事だということであります。

 礼拝の時間というものは、べつに何分おくれたからといって、命に別状はないわけです。それこそ、ある程度の人々が集まったら、礼拝を始めるということだっていいかもしれません。
 
 ある大きな教会の副牧師の役割は、教会堂の椅子をきちんと揃えるということで、それが副牧師の一番大事な務めだと聞いたことがあります。主任牧師からそのことを口酸っぱくいわれてうんざりしたと言う話を聞いたことがあります。そんなことが礼拝の秩序を守るということなのでしょうか。

 もちろん、礼拝の始まりの時間がルーズだったら、礼拝そのものがだらしないものになると言う危険性は大いにあり得ると思います。つまりそこでは人間の我が儘さが、人間の不作法がまかりとおってしまっているわけで、到底それが礼拝とはいえないと思います。礼拝が人間の我が儘さにふりまされたりしては困ると思うのです。それはつまりは、礼拝の中心は人間ではないということであります。

 礼拝の中心は、神であるということであります。主なる神を崇める、それが礼拝であります。先週学んだところですが、どんな礼拝であっても、それぞれのひとが思い思いに自分の受けた啓示を語ったとしても、あるいは他人にはわからない異言が語られたとしても、その集まりのなかで、「まことに、神はあなたがたの内におられます」ということが告白されるような礼拝でなければ、礼拝とは言えないということであります。

その礼拝に自分の個人的な困難な問題を抱えてきている人が入ってきても、そしてそこで語られる説教が直接、その人の問題になんにも触れないような説教であったとしても、そこで聖書の言葉が語られることによって、その人がここには神がおられる、われわれの人生には神が支配しておられるのだということが感じられ、信じられたら、それが一番の問題の解決になるということだと思うのです。少なくも、その人の問題の解決の一番根本的な入り口になるということだと思うのです。

 その教会ボスみたいな人が来て、その人が遅れて来て、それではじめてじゃあ礼拝を始めましょうというような礼拝は決して礼拝とはいえないと思います。そういう人間の我が儘さが横行させないために、礼拝の時間の始まりをきちんと決めて、それに従って行うということはやはり大変大切なことだと思います。

 また思いつきを避けるために、一定の礼拝順序というものを設けておくほうが、秩序ある礼拝を守れると思います。
少なくとも、現状では、人間の我が儘さを避けるために、神が礼拝の中心であるということを現すためには、礼拝の始まりを守るとか、礼拝の順序を定めておくというこは必要なことだと思います。

 礼拝においてわれわれが一番気をつけなくてはならないことは、人間の我が儘さが横行するような礼拝であってはならないということであります。たとえば、礼拝は寄席とは違うので、あぐらをかいて、うちわを仰ぎながら牧師の説教を聞く、そして面白くなければいびきをかいて寝てしまうような寄席のような場であってはならないということであります。地方の教会にいったら、みんな下駄で礼拝にくるのです、あるいは夏だったら、夕涼みにいくような涼しげな服装で礼拝にくるわけです、それでもそこでは、きちんと、神を崇めるような礼拝が守られれば、それでいいと思うのです。

 あるいは、礼拝は、討論集会のような場であっては困ると思います。学生運動がはやったときには、一時教会の礼拝のなかでも流行したようですが、牧師の説教をただ聞きぱっなしではなく、そのあと、討論するということがはやったそうです。
 しかし礼拝が討論集会のようなものであっては困るのです。牧師の説教をじっくり聞くという姿勢がとれなくて、いつもいつも牧師の説教のあら探しばかりをするような聞き方であっては、それはやはり礼拝とはいえないと思います。なぜなら、それは神の言葉を聞くのではなく、自分の主張を述べる集まりになるからであります。

 それでパウロは三四節からのところで、「聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、婦人達は教会では黙っていなさい」という勧告になったのではいなかと思います。これはコリント教会の特殊事情というものがあったと思います。あるいは、時代の影響というものがあったかもしれません。この時代では、今の時代でもそうかもしれませんが、やはり女性は低くみられていたのだろうと思います。しかし教会では、男も女もない、みな同じように神の前に平等だということがゆきわたっていたのだと思います。それだけに、教会では婦人達の主張が他の集まり以上に強かったということかもしれません。

それが礼拝のなかでも目に余るものがあったのではないかと思います。そういう事情があって、教会では婦人たちは黙っていなさい、語ることが許されていないという具体的な勧告になったのではないかと思います。

 ですから、これをもって婦人の教職を認めないとか、教会での婦人の地位を固定させることはできないことであります。

 しかし大事なことは、婦人解放運動という権利の主張よりも、教会においては神のみが権威をもっているという信仰のほうが大事だということであります。婦人解放運動も、それがそのそこに権利の主張という動機を含んでいる限り、はじめは男性と平等を主張するための戦いかもしれませんが、やがてそれは男性よりも優位でなければならないという権利の主張になるのではないかと思います。どんなに正しい権利の主張にせよ、われわれ人間の権利の主張には必ず自我の主張がともなうわけで、それは神よりも自分のたちの権利を大事だということになっていくのではないかと思います。

 パウロは、この章の終わりに、「すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」といって終わります。そしてそれは教会の礼拝において、そのことが言われているのであります。教会の礼拝において、秩序正しい礼拝とはなにかということであります。それは礼拝の始まりを遵守するとか、礼拝式の順序を何よりもきちんと守るとかということよりは、なによりも、その礼拝において、神がおられる、神を崇める、神が第一であるという礼拝がなされるということであります。

 われわれの礼拝も、「まことに神があなたがたのうちにおられます」ということが告白できるだけでなく、それが体で感じられるような礼拝でありたいと思うのであります。