「神の選び」 コリント第一 一章二六ー三一節

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしなさい」とパウロはコリント教会の信徒に語るのであります。救われた時のことを考えてみなさいといってもよさそうなのですが、「召されたときのこと」をというのであります。それは救われるということは、自分たちが決意して、信仰をもって、救われるのではなく、神によって呼び出され、招かれて、神に召されて、その神の招きに、神の召しに応えることによって、われわれの救いというものが始まるからであります。つまり、救われるということは、自分が何かをするということではなく、神が何かをすることなのです。

 続いてパウロは、二七節からは、「ところが、神は知恵のある者に恥をかかせるために、世の無学な者を選び」と、今度は「選び」という言葉を使います。選びというのも、ひとつのキリスト教用語で、よく救われたことを選ばれたというように使います。ただ選びといいますと、われわれはすぐ選挙で誰かを選ぶとか、そのように優秀な人を選ぶというときに使います。自分は特別に神から選ばれてクリスチャンになったのだと、なにか誇らしげにいう人があります。

 しかし聖書が、われわれが救われるのは、神の選びにあるのだという時には、決して優秀な者を選びだすというような意味で使われるのではないのであります。選びというとすぐ選ばれた者はそのように誤解してしまうので、それを戒めるように神はこのようにいうのです。

 申命記七章六節からのところです。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」というのです。
ここにはっきりと、神がイスラエルという民を選んだのは、優秀な民族だから選んだのではない、むしろ、お前達は貧弱な民だった、ただ主なる神の愛のゆえに」と語るのであります。

 そしてパウロはコリント教会の信徒に対しては、もっとひどいことをいうのです。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄の良い者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥を来たらせるために、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」というのです。

 これを聞いたコリント教会の人々は、かちんときたのではないでしょうか。本当にそうだったのだろうか。ここでは、「能力のある者や、家柄の良い者が多かったわけではない」とありますから、少しはいるということで、この言葉があるためにこれは決して比喩的な言葉ではなく、コリントの教会の実情を語っているようにも思われるのです。もし全然いないという表現ならば、これは実際のことではなく、比喩的に精神的なことを語っているということになるのかもしれませんが、「多かったわけではない」という表現が事実を語っているように思えるところです。

 しかしそれにしても、実際にコリントの教会の教会に来ている人が、身分の低い人であったとしても、権力のない人々であったとしても、「世の無に等しい者、身分の卑しい者や、見下げられている者」と、あからさまにいわれたら、いい気持ちはしないだろうと思います。

 第一に、そのような人々が選ばれたからといって、それを見て「知恵ある者、力ある者」が恥じをかくだろうか。「地位のある者」が、無力な人を神が選ばれたからといって、反省して、自分が無力な者になるだろうかということなのです。そういう知恵のある人、力ある人、この世的に有力な人々は、教会というところが、そういう人々が神に選ばれたところなのだということを見て、ますます教会を軽蔑し、ますます神を軽蔑するのではないでしょうか。

 しかし、われわれはこの聖書の箇所を読んで、われわれクリスチャンは慰められ、励まされ、いやそれ以上に謙遜にさせられて、心から神を賛美するのはなぜなのでしょうか。

 それはこういうことなのではないか。自分と他の人とを比較して、他の優秀な人々が選ばれないで、無に等しい自分のような者が選ばれたといって慰められるのではないと思うのです。われわれはそれほど謙虚ではない、われわれはそれほど素直ではないし、それほど自分のことを無力だとは思ってはいないと思うのです。

 これは他の人と自分と比較するのではなく、自分の中にあるもの、つまり、自分が神によって選ばれたのは、自分の中にあるなにかの優秀さが評価されて、選ばれたのではない、自分がどんなに何もできなくても、自分が無にひとしい者であっても、自分がどんなに卑しい者であっても、人から見下げられても何も文句もいえないような者であっても、神はこの無に等しい自分を選んでくださったと思って、慰められ、励まされ、謙遜にさせられるのではないか。つまり、自分の中にある自分を誇ろうとする傲慢な思いが打ち砕かれて、そして救われて、神を賛美するようになるのでないか。

 つまり、「神は知恵ある者に恥じをかかせるために」というのは、自分以外の誰が知恵ある人に恥じをかかせるためにということではなく、自分の中にある自分の知恵を誇ろうとする自分の思いを恥じさせるということなのではないか。

 実際のその当時のコリントの教会が確かに身分の高い人よりは、身分の低い人のほうが多かったのだろうと思います。知恵のある人、教養のある人よりは、そうしたものを持たない人々のほうが多かったかもしれません。
 
 しかし、今日のわれわれの教会はどうでしょうか。今日のわれわれ日本のプロテスタントの教会はどうでしょうか。決して自慢するわけではないですか、むしろ、教養のある人のほうが多いのではないでしょうか。松原教会には、幸か不幸かあまり身分の高い人はいそうもないのですが、ひとりぐらい身分の高い人が隠れているかも知れませんが、どうもいそうもない、また権力を持った人もいそうもないのですが、しかし知恵のある人や教養のある人が多いことは確かだと思うのです。

 それでは、われわれにとってこの聖書の箇所は無意味なのか。そうではないと思うのです。われわれはこの箇所でどんなに慰められたかわからないと思うのです。それは自分自身のなかの問題としてこれをとらえているからだと思うのです。
 
 問題は自分の中にある知恵が、その力が自分を誇らせ、傲慢にさせて、教会の中に分裂を引き起こさせているのであります。その知恵が打ち砕かれ、その傲慢さが謙遜にさせられて、自分が今ここにあるのは、無きに等しい自分がただ神の憐れみによって、神の愛によって、ただそれだけの理由で選ばれて救われたのだと悟るのであります。

 二九節には、「それは、誰ひとり、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって、神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」というのです。もうキリスト・イエスご自身が知恵となったのだから、われわれが自分の知恵を誇る必要はないし、自分が知恵者になる空しい努力も必要なくなったということであります。

 そしてキリスト・イエスが義となってくださった。われわれはどんなにしても神の前に義なる者としてはたてないのです。ただキリストがわれわれの罪を担って十字架についてくださったことによって、神の義があらわされ、われわれの代わりにキリスト・イエスが義となってくださったということであります。

 そのようにして、キリスト・イエスが聖となってくださった。そうであるならば、われわれがもう聖になる必要はない、われわれが清らかな聖人君主になる必要なんかは一つもないとということであります。
 そしてそしてキリスト・イエスが贖いとしてご自分の命を神に捧げてくださったのだから、われわれはもう自分の罪についてくよくよとする必要はない。もう自分の罪を自分でなんとかしなくてはならないと空しい努力をする必要もないということであります。

 そしてパウロは最後にこういいます。「『誇る者は主を誇れ』」と書いてあるとおりになるためです」。
 これはどこに書いてあるかといいますと、旧約聖書のエレミヤ書九章二二節からの言葉です。
 「知恵ある者はその知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富める者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者はこの事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」この言葉をパウロは簡潔に述べたようであります。

 ここでは、知恵のある者は、その知恵を捨てよとはいっていないのです。その知恵を誇ってはいけないというのです。力のある者もそうです。富をもっている人は、なにもその富をやみくもに捨てなくてはならないというのではないのです。その富を誇るなということであります。

 だから、知恵があってもいいのです、力があってもいいのです、富があってもいいのです。ただそれを誇るな、それだけを頼りにするなということであります。

 確かに、知恵のある人が知恵をもちながら、それを誇らないということは、よほど謙遜にならないとできないことです。富を持たない人が富みを誇らないということは容易いことで、そんなことは誰でもできることですが、富をもちながら、その持っている富を誇らないということは、大変難しいことであります。

 そのためには、われわれのもっている知恵、われわれが持っているもかしれない力、富よりも、もっと強力なそして深い知恵の前に立たなくてはならないと思います。われわれのもっている知恵よりも、力よりも、富よりも、もっと豊かな恵み深い神の前に立たなくてはならないと思います。

 今日は予告しておりました讃美歌を変えて、四九二番をさきほど、歌いました。そこでは、神の恵みはいと高し、神の恵みはいと深し、神の恵みはいと広い、と歌いました。それはヘルモンの山よりも高く、ガリラヤの海よりも深く、アラビヤの砂漠よりも広いというのです。