「キリストの復活の事実」 コリントT 一五章一ー一九節

 今学んでおりますコリントの信徒への手紙のTは、コリント教会の中で起こっている様々な問題に対して、パウロが答えると言う形の手紙であります。コリントのTの一五章は、コリントの信徒への手紙の中でも一番重要な箇所であるといわれております。それはイエス・キリストの復活の事を扱っている箇所だからであります。パウロはその問題をこの一五章であつかっております。

 イエス・キリストの復活ということも、コリント教会のなかで、そんな愚かなことは信じられるかという人々がいたらしくて、その人々に答えるための内容になっております。

 キリストの復活を信じるかどうかは、キリスト教が立つか倒れるかという根本の問題に関わっていると、パウロは考えております。
 一四節をみますと、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。なぜなら、もし本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたといって、神に反して証しをしたことになるからです」といっているように、キリストの復活を信じるか信じないかということは、キリスト教の根幹に関わっているということであります。

 そしてそれはキリストの復活をただ霊魂不滅のように、肉体は滅んでも、キリストの魂は神のもとにあるという信じかたでは、キリストの復活を信じたことにはならないということも、パウロがここで強調しているところであります。

 パウロがこの一五章全体を通して熱を込めて言おうとしていることは、イエス・キリストは事実として、ということは、そのからだが、よみがえったのだということであります。それは単なる弟子達の霊的経験といったような、つまりパウロも含めて、弟子達がただキリストの霊を見るとか、幻を見るとかということではなく、キリストは事実としてよみがったのだということであります。キリストの復活ということを、われわれの心の中の精神的な出来事として考えてはいけないということであります。

 われわれが告白している使徒信条には、われわれが信じなければならない項目が列挙されておますが、その中に、我らの主イエス・キリストはキリストは「処女マリアより生まれ」という項目があります。そして「三日目によみがえり」という項目がありますが、この二つの項目はわれわれ現代人にとっては信じるのに大変困難を感じるところではないかと思います。

 これは少しというか、大いにかもしれませんが、危険な言い方になるかもしれませんが、復活を信じると言う事柄をはっきりするためにいうのですが、キリストの処女降誕は、その事実を信じるというよりは、処女降誕という事で言い表そうとしている意味を読み取るということが大事だと思うのです。 
 しかし、「三日目によみがえり」というキリストの復活の項目は、その意味を読み取るのではなく、まずその事実を信じる、イエス・キリストは三日目によみがえったのだという事実を信じるということが根本的に大事だということです。
 
 処女降誕ということは、神の子がわれわれ人間と同じ肉体をとって受肉したという信仰の告白ですが、それは罪ある人間を代表する男性が排除されて、マリアの「主の言葉ですから信じます」というマリアの信仰を通して、神の子の誕生があったということ、そういう意味で、神の子がわれわれと同じ肉体をもって誕生したことをあらわすには、処女降誕という形が必要だったのだという意味を信じるということが大切だと思うのですが、もちろんだからといって、処女降誕の事実を否定するわけではないのですが、そこでは事実よりもその意味が重要なのだと思うのです。

 それに対して、キリストの復活という信仰は、その意味ではなく、何よりも本当に事実してキリストはよみがえったのだ、もっと正確にいえば、神が十字架で死んだイエスを三日目によみがえらせたのだという事実を信じるかどうかということが問題なのだということなのです。

  復活に関しては、意味ではなく、その事実がなによりもその復活の意味なのだということなのであります。処女降誕は、その意味が処女降誕という事実として表現されたのだということに対して、キリストの復活は、その事実そのものがわれわれにその意味を与えてくれるということであります。
 だからパウロはここで熱をこめて、キリストはよみがえったのだ、事実として、からだのよみがえりを語るのであります。

 しかし、キリストがよみがえったということは、われわれ現代人にとっては到底信じがたいことであります。いや、それはわれわれ現代人にとってだけではなく、古代の人にとってもそれは信じることのできないことであったことには変わりないことであります。それは特にある意味では、知的レベルの高いアテネの人々にとってはばかばかしいこと、到底信じられないことだったのです。
 
 ですから、それを語るパウロの語りかたは大変慎重であります。
この箇所の本論は、一二節の「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたのある者が、死者の復活などはない、と言っているのはどういうわけですか」というところから始まるのですが、その前にパウロはこう切り出していくわけです。

 一節からよみますと、「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これはあなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」と、なにか重々しい前書きを述べるところから始まっているのです。

 そして次に五節をみますと「もっとも大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが聖書に書いてある通り、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」と、ここに来てようやく本題に入ってくるのであります。

 その時にパウロは、わたしはキリストの復活を信じている、といいかたはしないのです。「受けたものだ」というのです。
 福音というのは、ただわたしがこう信じます、ということではなく、まず「受けた」ものなのだというのです。一節でも「これはあなた方が受け入れ」というのです。「わたしが最も大切なものとしてあなたかだに伝えたのは、わたしも受けたものだ」というのです。
 そして一一節にきて、「とにかく、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした」と、ここにきて、「信じる」という言葉が出てきているのです。

 福音を信じる、キリストの復活を信じる、ということは、まず「受け入れる」という所から始まるのだということなのです。わたしひとりが「信じます」と、ひとりで力みるようなことではないということです。

 このことでわたしが教えられたのは、竹森満佐一が使徒信条の解説をした文章の中で、「われは信じる」というところの説明であります。こういっております。「わたしは信じるといっても、それは自分の信念を述べるということではない。信仰は自分の確信ということではない。教会が受け継いでいる信仰を、自分が受け入れるということだ。わたしは信じるということは、だれがなんといっても、わたしはこう信じるということではない。そうではなくて、教会が、あなたはこのように信じますか、と問うのに対して、わたしは信じますと答えるのが、わたしは信じるということの本当の意味だ」というのです。

 そして洗礼式のことをとりあけで、「洗礼を受けるときには、だれでも、式文によって、教会の信仰告白を受け入れるとか、神を父と信じるとか、ということを公にあらわすことだ。それは教会が、教会の信じている信仰の内容を示して、あなたはこれを信じるか、と問うのに対して、自分はそのとおり信じます、と告白することなのである」というのです。

 信じますという告白の前に、受け入れますという告白があるということなのです。われわれの教会でも、洗礼式の時には、洗礼を受ける前に、日本基督教団の信仰告白文を牧師が読む、その中には使徒信条が入っているのですが、それを読んで、あなたはこれを信じますか、と尋ねるわけです。つまりそれは、この教会が長い間にわたってきて信じてきてこと、そしてそれによって救われてきたこと、その信条を受け入れますか、と問うて、それに対して、はい、信じます、と答える、つまり受け入れます、と答えるのが、洗礼式なのです。

 洗礼式は、われわれの教会でも、ひと頃は、洗礼を受ける前に、洗礼を受ける人が自分の信仰の告白を作文にして、それを紙に書いてきて、読み上げるということをしてきたのです。このことも大切ではあると思うのです。しかしこれだとどうしても、「わたしは信じます、わたしはこう信じます」と、わたしの信仰ということがなにか大変重要視されかねないのです。
 それでわたしはこの竹森満佐一の文章を読んで、それはやめるようにしたのです。洗礼を受けたあと、たとえば、礼拝のあとのお祝いの席で自分の信仰の証をするということは意義があると思いますが、しかし洗礼式のなかでそれを前もってするということは、よくないと思うようになったのです。

 もちろん、この受け入れるということのなかには、信じるということが入っているのです。ですから、「これを信じますか」と問うわけです。現在使っている式文では、「日本基督教団信仰告白にいいあらわされた信仰を告白しますか」という問いに対して、「告白します」となっていますが、内容的には「受け入れます」というとであります。

 わたしは若い時には、伝統という言葉がとても嫌いでした。日本の伝統とか、教会の伝統を重んじるなどといわれると反発を感じたものであります。そんなことよりも、自分がこうだ、自分はこう生きるのだ、自分はこう信じるのだ、ということのほうが大事ではないかと思ったものであります。しかしこの年になって、やはり伝統の重み、その大切さということがわかるようになった気がいたします。

 キリストの復活を信じるというとき、それはただ自分が個人的にそれを信じるとか、なにがなんでも信じるというようなことではなく、あのキリストの使徒たちが体験したこと、信じたこと、そしてそれを命を賭けて宣べ伝えたことを受け入れる、そこから復活を信じるということが始まるのだということなのであります。それはあえていえば、自分にはまだまだよくわからないところがあるかもしれない、信じられないところもあるかもしれない、しかしそういう自分の思いよりは、自分の先達者の信仰を大切にして受け入れよう、ということも含まれているということなのであります。

 パウロもまず「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受け入れたことなのです」言ってから、復活を信じるかどうかの問題に入っているのであります。

 そして次に大切なことは、「聖書に書いてあるとおり」という言葉であります。三節らかみますと、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り三日目に復活したこと」と、ここには二度にわたって、「聖書に書いてある通り」という言葉が出てくるのです。

 ここでいう聖書とは、もちろん旧約聖書のことですが、それは旧約聖書のどこそこの箇所というよりは、旧約聖書全体をとおして、預言されていたように、という意味あいにとったほうがいいと思います。
 つまり、主イエスの十字架と復活は、神さまが長い年月をかけてわれわれ人間を救おうとして、考えて考えて、悔い改めを迫りながら、預言してきたこと、語ってきたことの成就として起こったことなのだということであります。

 ですから、イエスのよみがえりを信じるかどうか、クリスチャンはそんな荒唐無稽なことを信じるのですか、といわれたら、われわれは困るのです。われわれが復活と言う事実を受け入れ、信じるのは、聖書全体を読み、自分の罪を知らされ、自分の罪は自分自身の力ではどうにも解決できない、神様に救って頂く以外にないということを知ったものが、復活ということを知らされて、それを受け入れ、信じるようになったのであって、ただイエスが生き返ったと言う出来事をぽつんと信じるということではないということなのです。

 言葉をかえていえば、われわれはキリストの復活と言うことを単なる奇跡として信じるのではなく、神の恵みと共に信じるということなのです。そしてそれは死人のよみがえりという奇跡を信じるというよりは、パウロがローマの信徒への手紙のなかでいっておりますように、「死者に命を与え、存在していないものを呼びだして存在させる神を信じ」、口語訳では、「死人を生かし、無から有を呼び出させる神を信じ」となっておりますが、つまり、死人のよみがえりという事柄をぽつんと信じるのではなく、死人をよみがえらせる神を信じる、神を信頼するということなのであります。
 それが「聖書にかいてあるとおりに」ということであります。神がイエス・キリストをよみがえらせたという信仰なのであります。

 それでは最後に考えておきたいことは、復活信仰において大事なのは、処女降誕を信じるということでは、その意味を信じることが大事なのに対して、復活の場合には、キリストが事実としよみがえったということの事実を信じることが大事なのだ、その事実が何よりも復活の意味だと最初にいいましたが、ではその事実とは、どういう意味での事実なのか、つまり、本当にこの歴史のなかで起こったという事実なのかということであります。

 カール・バルトという神学者は、この復活という出来事をちょうど円が接線に接触するように、接触しないで接触するのだという出来事だったのだといっております。つまり、それは確かにわれわれの歴史の中で起こったことではあるが、しかしそれを歴史的に証明できるような仕方で起こった出来事ではないというのであります。それが聖書が述べていることだというのです。

 これはちょっとわかりにくいことかもしれませんが、このことは福音書のイエス・キリストの復活の描きたかたをみるとわかります。その描き方は、復活の主イエスはまるで、言葉はわるいですが、幽霊のような存在として描かれているのです。幽霊のような存在というと誤解をまねきますので、つまり霊的な存在ということです。それがイエスだとわかったとたんに、その姿が見えなくなったとか、弟子達が固く閉ざしていた扉のなかをすっーと入ってきたというように描いているかと思うと、復活のイエスは、弟子達に対して、「なぜお前達はおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわってみなさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしはあるのだ」といって、弟子達が焼いていた魚をみんなの前で食べたというのです。

 福音書のイエスの復活の描き方というのは、そういう描きかたをしている、そしてそれをひとつも調整したりしないで、そのまま福音書とし残しているのであります。復活のイエスの存在は、まさに歴史の中で起こったのだと一方では強調しながら、しかしそれはまた歴史的出来事を超えたからだとして復活したのだと描くのであります。

 椎名麟三という作家が、この復活のイエスが弟子達の前で、焼いた魚をむしゃくしゃ食べたというところの福音書の記事を読んで、ぱっと目が開けて信仰に入ることができた書いております。それまで自分が絶対だと信じていたことが、ここを読んで、音を立てて崩れていった、人間の絶対性が崩壊して神を信じられるようになったという意味のことを述べているのであります。
 彼は自分が洗礼を授けてくれた牧師が、後に復活の史実性を否定するような発言をするようになったときに、その教会を離れたのであります。

 彼にとって、キリストの復活という出来事は、事実としてあったのだという信仰に立って、救われたからであります。復活という出来事は、このわれわれの住んでいる歴史の中に起こったということによって、彼にとって、人間の絶対性、自分の理性という絶対性が壊されるということだったのであります。

 それが人間の罪からの解放ということであり、復活という事実の意味であります。神が死人をよみがえらせてくださった、人間が十字架で殺したイエスをよみがえらせたという事実がわれわれに与えてくれる復活の意味であります。