「キリストの復活の事実 その二」 コリントT 一五章一ー一九節

 キリストの復活を信じるということは、その復活の意味を信じるということよりも、なによりもキリストの復活は事実として起こったことなのだと、その復活の事実を信じることが一番大事なことなのだ、復活に関しては、事実がその意味なのだということを先週述べました。

 しかし、キリストの復活が歴史的事実なのだ、という時、それはやはり単なる歴史的事実なのではなく、意味をもった事実なのだということを、今日学びたいところであります。

 それはどういうことかといいますと、パウロがキリストの復活の事実を述べるときに、こう述べているからであります。三節からですが、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」と書いているのですが、福音書をみますと、復活のキリストが最初にご自分の復活のからだを現したのは、十二弟子ではなく、婦人達でありました。しかしここには、婦人達のことは一言も言及されていないのであります。

 当時は、女性蔑視のなかで、女性は無視されたのでしょうか。それならなぜ福音書は、こぞってキリストはまずその復活のからだを婦人達にあらわしたことを書き記しているのでしょうか。
 それは恐らく、それが歴史的事実だったから、そう書き記したに違いないと思います。

 しかし、このコリントの信徒への手紙の一で、パウロがキリストの復活の事実を伝えようとするとき、これはパウロ個人の証言ではなく、教会が伝えようとしてきたことを、パウロも受けいれたという、キリストの復活に関する教会の伝承を受け入れて、信じたということなのですが、それはキリストの復活の事実そのものを伝えようとしているのではなく、その復活の事実と共にその意味をも伝えようとしているということであります。

 それはどういうことかといいますと、キリストの復活は、キリストが罪のために死んだこと、葬られたこと、そして復活したこと、そういう事実だったということであります。それはキリストの十字架による罪の赦しをわれわれに伝えるための復活ということだったということであります。
 復活というのは、死人がよみがえるという、何かとんでもない奇跡が起こったということとは、違う出来事だったということであります。

 それは自分の罪のことで苦しみ、傷つき、絶望している者に、罪の赦しを与える出来事であった。あの十字架の出来事を、復活という事実によって、その意味をわれわれに明らかにしてくれた出来事だったということであります。

 罪というものをこの時、一番深く思い、それで苦しみ、傷ついていたのは、だれかだったか。それはいうまでもなく、ケファ、つまりペテロだったでしょう。いわばイエスの一番弟子であったペテロだったに違いないと思います。それから十二弟子でした。七節にヤコブという名前が挙げられておりますが、これはイエスの実の弟、後のエルサレム教会の中心になった人物だと思われるヤコブのことです。

 そしてパウロであります。パウロはキリストの復活などは信じないで、教会を迫害していたのです。だからパウロは八節で、「月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さい者で、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」といっております。そのパウロに復活のキリストは現れてくれたといのうです。

 このパウロに現れた復活のキリストは、弟子達に現れた復活のキリストとは違うキリストの筈であります。キリストは復活したあと、四十日にわたってこの地上におられましたが、その後天に昇られたというのですから、パウロはまだ地上にいた復活のキリストではなく、天に昇られたキリストが復活のキリストとし、お会いしたということであります。おそらく、キリスト教徒を迫害しようとして息をはずませていたあのダマスコ途上で、その復活のキリストがパウロに現れたということだと思います。

 そして、不思議なことに、パウロは八節で「そして最後に」といっているのです。ということは、その後に現れた聖霊のキリストととは、ここで一線を画しているということであります。

 ここでパウロが伝えよとしているキリストの復活の事実は、単なる奇跡という出来事ではなく、意味をもった出来事だったということであります。

 それはつまり、罪の赦しを与える出来事であったということであります。もちろん最初に復活のキリストが現れた婦人達に罪がなかったというのではないのです。ただ復活のキリストが何よりも真っ先にご自分のよみがえりの事実を伝えたかったのは、弟子達だった、十字架を前にして逃げ出してしまった弟子達であった、そして何よりも、三度イエスを否認したペテロであったということです。
 復活のキリストは、マルコによる福音書をみますと、婦人達に「さあ、行って、弟子達にとペテロに告げなさい」と、ペテロの名前を名指しして、ペテロに復活の事実を伝えてくれというのです。婦人達は、ただ復活の事実を弟子達に告げる役割を果たしたにすぎないのです。
 
 つまり、あの処女降誕で、罪人を代表する男性が退けられて神の子の誕生があったということに関連していえば、復活は罪人を代表する男性にまずその事実を知らせる出来事であったということであります。処女降誕で退けられた男性が、復活において、赦され、もう一度その人格が回復されたということであります。

 一七節をみますと、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今なお罪の中にあることになります」といわれていて、この復活は罪の赦しと深く関わっている、いや罪の赦しを告げ知らせ、われわれがわれわれの罪をどのように克服するかの道を示した出来事であったことを述べているのであります。

 キリストの復活がなかったならば、今もなお罪の中にとどまっている、という罪とはなんなのでしょうか。キリストの復活とは、神が、十字架で死に、葬られてしまったイエスを、神がよみがえらせたということであります。つまり死んでしまうわれわれ人間を神がよみがえらせ、われわれ人間にとって最大の壁であった死を突破してくださったということであります。
 キリストの復活は、われわれ人間にとって、死が最後の終わりでないということを知らされた出来事だったということであります。

 われわれにとっての罪というのは、考えてみれば、この死ということと深く関連しているのではないか。死というものが自分の人生の前にあるために、いろんな思い煩いが起こってくる、不安が起こってくる。どうせ死ぬんだと言う諦めと絶望がわれわれの人生を支配してしまう。そのために、われわれの人生は無気力になったり、自暴自棄になったりして、正しく生きられなくなってしまうのではないか。

 三二節にあるように、「死者が復活しないならば、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』」という投げやりな生き方、刹那的な快楽主義的な生き方になってしまうということであります。
 この箇所はパウロが自分は死者の復活を信じているから、迫害にも耐えることができたし、殉教の死を覚悟して福音を宣べ伝えることもできたのだといっているところです。

 つまり、死というものがあるために、死が最後の終わりだと思っていたら、その死を避けるために、正しいことも貫けなくなる、とうてい殉教などできなくなってしまう、そしてただ自分の命を守るということだけに終始して罪を犯すことになってしまうということであります。

 明日死ぬのではないか、そして死んだらもうなにもかも終わりだということから、われわれは今日の仕事に手がつけられなくなって、今日という日も思い煩いと不安の中ですごすことになってしまう。主イエスはそういうわれわれに対して、われわれの命と死は神が支配してくださっているのだから、われわれが自分勝手に死が最後の終わりだなどと思って、思い煩う必要がない、われわれの命と死を支配しているのは父なる神ではないかと言われたのです。

 そのことは、キリストの復活という事実が起こってはじめてわれわれにとってああ、あのイエスの言われたことは、本当のことだったのだということが明らかにされたのであります。キリストの復活という事実は、神が死を突破してくださり、死を超えて神がおられるということを示してくださった出来事ですから、それを信じるときに、われわれは死の不安と、死を前にしての絶望という罪から解放されるのであります。それが罪の中にとどまらないということであります。
 
 死の前にはわれわれはもうどうしようもないという事実が、われわれの人生から希望を失わせ、われわれの人生を虚無的にし、あるいは、刹那主義、快楽主義へとかりたたせ、ただただ自分の命を守ることのみに終始するという自分中心主義の罪の中にとどまらせていたのであります。

 キリストを神が復活させてくださったことによって、そのわれわれの死という事実によってひきおこされる罪から解放されたということであります。神による希望を与えられた、死を超えた希望を与えられて、この一五章の結びにあるように、「こういうわけだから、動かされないで、主のわざに励みなさい、主に結ばれていれば、自分たちの労苦が決して無駄になることはない」という希望を与えられて、この地上でのこの世での生活を誠実に生きる力を与えられたのであります。

われわれ人間は死を前にして絶望するといいましたが、しかし、今日のわれわれの時代は、神に対する信仰を失い、その代わりに人間の理性を信じるようになって、科学万能の信仰の時代に入って、今はわれわれは死というものを人間が支配できるのではないかと錯覚するようになったのではないかと思うのです。
 そしてそれによって、死を前にして絶望するという罪よりも、もっともっと大きな罪をわれわれ現代人は犯しているのではないか。

 死は科学の力で、いくらでも引き延ばせると思うようになった。延命措置がとれるようになった。死にそうな臓器の代わりに、他人の臓器を引き抜いてきてとりつければ、死を克服できると思うようになった。

 臓器移植の問題は、確かに科学のひとつの成果ではあると思います。自分の子供が臓器移植によってしか生きられないとしたら、それをするだろうと思います。自分の教会員のなかにそれを必要とする人が出てきた場合、もちろんわたしは賛成して、命を助かってもらいたいと思うだろうと思います。ですから、この問題は良い悪いと単純にいえない複雑な、微妙な問題を抱えていると思います。

 しかしここには人間のからだをまるで機械の部品のように考えるという科学主義とか、便利主義とか、つまり利益だけを追求するという危険な思想があるのではないか。臓器移植するためには、莫大なお金がかかります。それは結局はお金によって命が左右される、貧しい人は自分の臓器を売るということが起こっているわけで、この臓器移植の問題には、命を助けるという人道的な思想の背後に、人間の罪の問題が隠されてしまっていないか。
 
 そして今大きな問題のひとつは、中絶の問題、妊娠中の胎児が検査できるようになって、その胎児に障害があることが分かった時点で、中絶してしまうということが当たり前のようになっているようですが、中絶ということは、われわれ人間が人間の生と死を人間のご都合主義で支配しようとするということであります。そこに人間の罪というものがないのだろうか。

 中絶ということも、複雑な問題、ほんとうにケースバイケースで一概に反対だと割り切ることができない問題をもっていると思います。しかしもうこれ以上子供がてきると経済的負担がかかるから中絶してしまおうという安易な考えが、日本の社会では当たり前になっている、そういう今日の日本の現状には、人間の罪という問題が深く関わっていないだろうか。

 カール・バルトという神学者は、プロテスタント教会の大きな罪の一つはこの中絶ということに関して明確な態度をとっていないということをいうのです。カトリック教会では、中絶は絶対にしてはいけない、それは大きな罪だといっているのです。カトリックでは、建前としては、母胎が危ないというときにも、胎児の命を優先しなくてはならないということのようであります。それほどに中絶をするということは、命を殺すということで、それは罪だと考えている。それに対して、プロテスタント教会は明確でないとバルトはいうのです。

 彼がいうには、母胎を守ることを優先にするか、胎児をまもることを優先にするかは、それはその人の決定権にかかわる問題だろうといって、カトリック的な考えには反対しておりますが、しかしたとえば、ドイツのナチの高官によって強姦されて妊娠させられた胎児をも中絶することは赦されないのではないかとまで厳しく言っているのであります。

 そうすべきかどうかは、わたしには到底答えを出せるものではありませんが、それはやはり当事者が選択し決断しなくてはならない問題で、一律に言える問題ではないと思いますが、しかし、そのバルトの発言を読んだときに、わたしは衝撃をうけたのであります。われわれ日本人がいかに命というものを人間の手で自由にしてしまうことに恐れを感じなくなっているかということに気づかせられて、衝撃を受けたのであります。
 
 自殺ということも、これは人間の死を自分で処理することができるという考えにもとずいて起こることであります。これもカトリックでは、罪として扱って公式的には教会で葬儀を引き受けないということのようであります。しかし自殺の場合には、中絶とは違って、もう自殺するひとはなんらかの意味で精神的な病気にかかっているわけで、それをすぐ罪だと断定することは到底できないことであると思いますし、自殺せざるを得ない人の苦しみとか悲しみは到底第三者がどうこういえることではないと思います。そういう人の葬儀こそ、教会は引き受けて、せめてその人のために神の憐れみを仰がなければならないと私は思っております。
しかし、自殺はやかり自分の死を自分で支配できるんだという人間の傲慢という罪と深くかかわっているということ、その事は、今精神が健全なときに考えて、おかなくてならないことであります。

 殺人はもういうまでないことであります。神が創り、愛しておられる命を人間の憎しみや都合によって抹殺してしまうことは赦されないことであります。

 臓器移植の問題にせよ、中絶の問題にせよ、殺人、自殺の問題にせよ、これらのことは、死というものを人間が自由にできるという考えから起こることで、こうしたことのなかに、われわれ人間の罪がひそんでいるということであります。
 
 死者を復活させたのは、神なのであって、人間の力ではないのであります。われわれ人間の命と死を支配しているのは神のであります。
 
われわれは死を恐れ、死が最後の終わりだと考えるところから、その死を逃れるために正しいこともいえなくなり、まして殉教などとうていできないということを言ってきましたが、つまり死が最後の壁だと考えてしまうことは罪の始まりだといいましたが、しかし、今全世界で深刻な問題を引き起こしております自爆テロの問題を考える時に、今度は逆に、死が最後の壁ではない、死を超えた世界がある、だから死を恐れることがないという考えかたもまた恐ろしい罪を引き起こしているということであります。

 今日今深刻な問題は、自爆テロの問題であります。テロの問題では、自爆テロくらい対処するのに困難なものはないと思います。テロというからには、なんらかの意味で自爆テロくらいの覚悟をもって行うのでしょうが、しかし自分の死を恐れる気持が少しでもその人にあるならば、まだそのテロ行為を阻止する道はあるかもしれませんが、しかしもう初めから自爆テロを覚悟でするテロくらい厄介なテロはないと思います。

 自爆テロをする人は、死んでも天国に行けるのだから死なんか怖くないと思ってするのだろうと思います。それでは、そうした自爆テロという殉教と、それを殉教と言っていいか問題でしょうが、それとイエス・キリストのあの十字架の殉教の死とどう違うのだろうか。
 
 イエスは、死を前にして死ぬということをどんなに恐れたか、悲しまれたか。イエスは決して喜んで死んでいったわけではない、死んだら天国にいけるのだという自明のもとで死んだわけではないのです。イエスは最後まで思い悩み、十字架の死を回避することを父なる神に求め、そして最後には、「みこころのままになさってください」と、その死を神に委ねて、十字架の死を遂げたのであります。
 それは死のあとの世界を自明のこととして、死を遂げたのではなく、神に自分の死を委ねて死んでいったのであります。

 神に死を委ねて死んだのであります。つまり、自分の正義を信じて、自分は正しいのだから、どんな犠牲を払ってもかまわないという思い込み、他人の命を犠牲にして自分の命を捨てても赦される、などと自分勝手に思いこんで殉教の死をとげたのではないのです。

 神に死を委ねて死んだのであります。その神は、どんな弱い兄弟のためにも愛の手をさしのべている神であります。その神を信じ、その神に自分の死を委ねて死ぬからには、とうてい自爆テロのようなひとりよがりな殉教の死はできないし、そのような死に方はしないのであります。

 ここでも大事なことは、先週にも申しましたが、ただ死んでもよみがえるという、復活という事柄を切り離して信じることではなく、死人を生かし、無から有を生じさせる神を信じるという、神を信じ、神を信頼するという復活信仰が大切なのではないかと思います。死んだら天国に行けるのだというひとりよがりな思い込みではなく、死後の世界のことは、われわれには本当のところよくはわからないけれど、ただ確かなことは、そこにはイエス・キリストをあの十字架の死からよみがえらせた神がおられて、その神がわれわれの死を受け取ってくださる、そのことを信じることであります。
 
 復活の問題を取り扱っているこのパウロの言葉の中心になる言葉は、二八節の言葉、「神がすべてにおいて、すべてになられるためだ」という言葉であります。