「死は勝利にのみ込まれた」コリントT 一五章三五ー五八節

 パウロはコリントの信徒への手紙一五章で、復活の問題を扱っておりますが、先週学びました、一五章の二八節で、パウロは復活の問題については、もうすべてのことを言い尽くしたのではないかと思うのです。
 そこでは、「神がすべてにおいてすべてとなられるためです」といって、キリストを神がよみがえらせ、そしてそれに伴ってのわれわれのよみがえりについて、語り、その目的は、すべての人が、つまりクリスチャンもクリスチャンでなかった人も、そして神に敵対していサタンもすべてが父なる神に服し、神が全ての者に対してすべてなられる、これが復活の目的だと語っているからであります。

 本当はこの二八節で復活問題については、終わって欲しかったと思います。今日学ぼうとしております三五節からのところは、正直に申しまして、大変説教しにくいところだからであります。それは三五節に「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体でくるのか、と聞く者がいるかも知れません。愚かな人だ」という文章から始まります。「死者はどんなふうに復活するのか、復活した体はどんな体なのか」ということは、確かに聞きたいことかもしれません。

 それは復活なんか到底信じられないという人にとっては一番聞きたいことだろうと思います。あの火葬場にいって、最後には骨だけになった姿をみて、どうしてこの骨がよみがえるのかと思いだしたら、確かに死者のよみがえりなんか信じられない、もしよみがえるとしたら、いったいこの火葬された骨からどういう体でよみがえるのかと聞きたくなるだろうと思います。

 だから、復活ということを信じているアメリカ人でも西欧人でも、火葬というのはいやがられるそうであります。土葬のほうがまだよみがえりを想像しやすいからのようであります。しかしそれは単なるイメージの問題で、土葬にしたって、やがては腐ってぼろぼろになっていくだけなのですが、しかしそのぼろぼろになっている姿は実際には見ていないだけ、まだよみがえりということを想像しやすいのかもしれません。
 しかしのあ火葬場にいって、火葬されたあと骨壺に入れられたあと、そのよみがえりを信じなさいといわれても、それを信じるということはなかなか大変なことであります。

 われわれにとってそれを信じることができるのは、ただ神を信じる、その一点につきるだけです、神を信じる、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じる、その一点だけを信じて、われわれは自分のよみがえりを信じるのであります。ですから、本当をいえば、われわれがどのようによみがえるのか、どんなからだによみがえるのか、ということは、もうどうでもいいことなのです。そうしたことは、もういっさい神様に委ねているからであります、神様に委ねられるからであります
 
 しかし神を信じない人、神を全面的に信じられない人は、やはり復活のことを考えるときに、どのようによみがえるのかという問いかけたくなるのだろうと思います。

 それに対してパウロは、「愚かな人だ」とまず一喝するのであります。そんなことを考えること自体が愚かなことだと一喝してから、その問いに答えようとするのであります。しかしその答えがどれだけ説得的でしょうか。パウロの答えは本当は大変抽象的、あるいは、もっと悪くいえば、観念的なものなのではないかと思うのです。

 ここのところを解説していいるある外国の新約聖書学者がこういっているのです。「この箇所を解釈し、理解しようとする前に、よく頭に入れておかなくてはならないことが一つある。それは、パウロはここで、だれもほんうには何も知っていない事柄について、語っているということである。彼は実証できる事実についてではなく、信仰上の事柄について語っている。彼は、表現しがたいものを表現し、描写しがたいものを描写しようとして、彼の持つ唯一の道具である人間的観念と人間的な言葉を用いて、最大限の努力を試みているのである。これだけのことを心得ておけば、素朴な逐語的解釈を避けられるだろうし、またパウロのいわんとする基本的な原理にわたしたちの思索を集中することができるだろう」といっているのであります。
 ここでは、誰もパウロ自身も本当は何も知っていないことについてこれから語ろうとしているのだというのです。だからそれは観念的、抽象的な表現にならざるを得ないのだというのです。

 それをふまえながら、ここの箇所を学んでいきたいと思います。

 なぜパウロはよくわからないことについて述べようとするのかということです。それは二つの背景があったと思います。ひとつは、復活などはあり得ない、死人のよみがえりなどはあり得ないと主張する人々が、コリント教会の中にいたので、その人に対して答えなくてはならないということであります。その人々に対してパウロは、もし死人のよみがえりというのがないとしたら、キリストのよみがえりもないことになる、しかしキリストは死者の中から復活したという事実が歴然としてある、自分も現にその復活のキリストにお会いしていると答えるのであります。

 それに対して、それではどんなふうに復活するのかとすぐ反論が起こったのだろうと思います。それに対しての答えが三十五節からの答えであります。

 もうひとつは、これはキリスト教の内部からではなく、当時のギリシャ哲学のなかに、霊魂不滅という思想があって、その霊魂不滅と復活は根本的に違うのだということを述べようとするのであります。

 その霊魂不滅という考えは、復活ということは認めても、それは魂だけの復活、それは復活というよりは、肉体は死と共に滅ぶ、しかしそれまで肉体のなかに閉じこめられていた魂が肉体から解放されて、はればれと生き延びることになる、だから肉体は死んでも魂は永遠に続くのだという考えであります。

 その霊魂不滅という考えと、復活というのは、同じではないかと誤解されるのをパウロは恐れて、キリストのよみがえりとそれに続くわれわれのよみがえりは霊魂不滅という意味のよみがえりではなく、つまり魂だけは死なないで永遠に続くということではなく、われわれは肉体の死と共に、魂も滅びるのだ、そして復活とは、その魂と共に体もよみがるのだ、われわれの信じている復活は、からだのよみがえりを信じるという信仰なのだと述べようとしているのであります。

 それで三十五節からからだのよみがえりということについて語ろうとするのであります。
 パウロは三つのたとえで、からだのよみがえりということについて語ります。一つは種のたとえ、二つは動物のたとえ、三つは地上のからだと天のからだというたとえを用います。

 植物の種のたとえでパウロが語ろうとしていることは、種は土の中に蒔かれて一度死ぬということ、一度腐って朽ちるということ、そしてその朽ちたものから新しい芽が出て命が生まれるということ、それを受けて、復活ということもわれわれは体だけでなく、われわれの魂も死ぬのだ、完全に葬られるのだ、三十六節に「あなたの蒔くものは、死ななければ命を得ないではないか」とありますように、復活というのは、一度われわれがトータルに、つまり全体として、死ぬのだ、そして神によってよみがえさせられるということなのだ、それを信じるのが復活信仰なのだということなのであります。

 復活信仰の一番大事なことは、その一度完全に死ぬ、われわれの肉体だけでなく、魂も死ぬ、死ぬということは、言葉をかえていえば、裁かれるということです、あの罪の報酬としての死を身に引き受けるということです、そしてそのあと、神によってその罪が赦され、その具体的な証としてからだのよみがえるが起こるということなのです、それはあくまで、神によってよみがえさせられるというこなのです。

 霊魂不滅という思想には、この一度死ぬという考えがないのです。つまり罪という考えがない、悪いのは肉体だけなのだ、われわれはむしろ生きている時には可哀想なことにこの肉体という牢獄の虜になっていたのだ、それが肉体の死と共に魂が解放されるのだという思想で、そこには罪という思想はないのです。
 いわば魂は本来もっている魂の力で自力して復活するのだという思想でしかないのです。

 それに対してキリスト教の復活信仰は、人間は一度完全に死ななければならない、神の裁きを受けて死ななければ、よみがえりはないという信仰です。しかもそのよみがえりは、自分の力で、自分の生命力でよみがえるのではない、われわれ人間にはそんな力はない、ただ無力になって墓に葬られているわれわれ、あの火葬場で骨だけになり、骨壺に入れられているわれわれを、神がよみがえらせてくださるという信仰なのです。

 そのことをいうために、パウロはここで種のたとえをもってきているのです。
 
 動物の肉のたとえで何を語ろうとしているのかといえば、三八節ですが、「神は御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになった。どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違う。それと同じように、復活のからだもまたそれぞれ個別性のからだをもって復活するということであります。

 そしてこの動物のそれぞれ違うからだという考えは、四十節で「また、天上の体と地上の体がある」という事と結びついていきますから、復活というものがただ魂の復活だけで、肉体の復活などは考えられないという人に対して、いや地上の体があるならば、天上のからだ、つまり霊のからだということも考えられるではないかという議論に引き継がれていきます。

 この動物の肉のことでパウロが言おうとしているひとつのことは、それぞれの動物の種類のからだの違いということであります。三九節の「それぞれ違います」というところです。つまりそれぞれ違う体をもっているということは、地上の体と天の体の違いということもありますが、三六節に「神は御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになり、どの肉も同じ肉というわけではなく」とありますように、復活の体もみな同じ体に復活するのではなく、個別性がある、つまり、この地上でだれのなにがしという人が死んで、復活したときには、そのだれのなにがしという人のからだとしてよみがえるのだということも言おうとしいているようであります。この地上のからだと復活のからだとは自己同一性がある、連続しているのだということであります。

 教会のお墓のなかには、お骨になった骨を一カ所にまとめてしまうという墓地があります。骨壺から骨だけを、ひとつの場所に、そこにはすでに埋葬された骨が山積みされている、そこにだーと流し込む、つまり一緒にしてしまう、そういうお墓が教会墓地のなかにあります。わたしはそれを見たときに、なにかいやな感じを受けたのです。これはもう全くイメージだけの問題ですが、論理的な話ではないのですが、どうもわたしにはなにか嫌な感じを受けるのです、人間の個別性というものはどうなるのかと思ってしまうのです。復活のからだは、この地上のからだにそれぞれの個別性があったように、復活のからだにもそれぞれの個別性があり、地上のからだとの自己同一性というものが続いていなくては、復活の喜びというのはないのでなはいかと思うのです。

つまり、天国での再会というものがあるとしたら、それについては、残念ながら聖書はひとことも言及されていませんが、しかし、われわれの強い願望として天国での再会というものをもたざるを得ないのですが、それがあるとしたら、この個別性というものがなければ、復活の喜びというものがなくなってしまうのではないかと思います。

 そして、パウロは地上の体というのがあるように、天上の体ということもある筈だというのです。そして天上の体は地上の体の輝きとは全く違って、それは栄光に満ちた輝きのからだだというのです。

 四二節「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれる時に弱いものでも、力強いものに復活するするというのです。

 このようにして、パウロは三つのたとえで復活のからだというものがあるのだと語るのであります。それは霊のからだといいます。四四節です。「自分の命の体が蒔かれて、霊の体が復活する。自然の命の体があるのだから、霊の体もあるわけだ」というのです。

 霊のからだというのも、なにかおかしな表現だと思います。おかしなというか、大変無理な表現だと思います。からだというからには、肉体性をもっているわけですから、それを霊のからだというのは、いったい具体的にはどのような体なのか。
 福音書に描写されております、復活のイエスのからだは本当に霊のからだであります。それがイエスだとわかったとたんに、復活のイエスのからだはみえなくなってしまうとか、弟子達が扉を閉ざしているときに、そのなかにすーと入ってくるとか、そうしたところをみれば、それは霊のからだといっても、ちょうど幽霊のようなからだのように感じられるのです。そうかと思うと、いや、自分は単なる霊ではないといって、「わたしの手や足を見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたがみえるとおり、わたしにはそれがある」といって、手と足をおみせになって、それを証明するために、弟子達が焼いていた魚を一切れ食べたというのです。

 それをパウロは苦心して、霊のからだといっているのです。亡霊とか幽霊とかは違うのだと強調しなくてはならないということもあったり、また霊魂不滅という考えを否定しなくてはならないということもあって、からだということを強調しておりますが、正直、われわれのイメージとしたら、復活のからだ、霊のからだというのは、やはり一種の霊的なからだ、あえていえば、幽霊のようなイメージで現す以外にないし、それで良いと思うのです。霊魂不滅という考えさえもたなければ。

 そしてパウロは五十節からは、「肉と血は神の国を継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け付くことはできない。わたしはあなたがたたに神秘を告げる。わたしたちは皆、眠りにつくわけではない。つまり死んでから眠り放しではないということです。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられる。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちに、死者は復活するというのです。
 これも聖書の考えには違う考えがあります。つまりわれわれは死ぬと長い眠りにつくのではなく、ただちに神のもとにいくのだという考えが所々見られるということです。たとえば、イエスと共に十字架につけられた強盗に対して、「はっきり言っておく、あなたは今日わたしと共に、パラダイスにいる」といわれるのです。死んだあとのこと、われわれには本当によくわからないので、どちらでもいいと思うのです。神にあっては、千年は一日のごとし、といわれておりますから、死んだあと、長い眠りについて、終末のラッパと共によみがえるとしても、死者にとっては、その期間がたとえ千年であろうと、それは一日、いや一瞬のうちにとしか感じられないということですから、どちらでもいいと思うのです。

 ひとつここでパウロのよみがえりの表現で注意しておきたいことは、「着る」という表現です。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、聖書に預言されていたように、『死は勝利にのみこまれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死のとげはどこにあるのか』というように、われわれは朽ちるわれわれの肉体を脱ぐのではなく、朽ちない天のからだを着るのだということであります。

 われわれは自分の汚れた肉体をどんなに脱ぎ捨てたいと思ったかわからないと思います。それができないで、どんなに苦しんだからわからないと思います。しかしもうそうした空しい努力はする必要はない、われわれの汚れた肉体の上に、天からの霊の体を着てしまえばいい、いや、神が着せてくださるというのです。われわれの汚れたからだはそのうちに朽ち果ててしまうのだというのです。

 パウロはコリントの第二の手紙では、同じことをこういうのです。「私達は天から与えられる住みかを上に着たいと切に願っている。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負って、うめいている。それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではない、天から与えられる住みかを上に着たいからだ」と述べているのです。

 もう脱がおうとする空しい努力はする必要はないのです。ただ上から、神があたえてくださる天からの霊のからだを上に着たいと切に祈り求めればいいということであります。

 そうすることによって、死は勝利にのみ込まれてしまった、というのです。そして死のとげは罪である、罪の力は律法である。私達の主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」というのです。
 
 ここで大事なことは、われわれが自分の力で勝つのではないということです。われわれはただ神から勝利を賜るだけだということです。そのようにして死のとげであるあのわれわれの罪は敗北していくのだということであります。自分が勝った、自分が勝利したと言い出したら、また罪はわれわれの中に猛威をふるい、またあの律法主義という罪がはばをきかせてくるのであります。

 パウロはながながと復活について述べてきて、ある意味では大変高揚した気分で復活の勝利と喜びについて語ってきて、最後の言葉を述べます。
ここは口語訳のほうが力強いので、口語訳でのべますが、「だから、愛する兄弟たち、堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたかだの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」と述べます。この口語訳のように、冒頭に、「だから」とでてこなくはならないところであります。

 「だから」、新共同訳では「そういわけですから」ということになりますが、この「だから」は、われわれはよみがえるのだから、それはもう確かに事実なのだから、ということであります。だからもうわれわれは死後の世界のこと、どんなふうに死んでよみがえるのか、どんなからだによみがえるのか、死んだあと、すでになくなったものと再会できるのだろうとか、そうしたことは、もうすべて神に任せようではないか、神がすべてになってくださる世界にわれわれは行くのだから、そのたがらです、だから、われわれがこの地上に生きている間は、淡々と主にあって生きようではないかと静かに、本当に静かに、われわれに語りかけるのであります。

 この世の救いについて考えるときには、ただこの世の救いについてだけ考えてもそれは実はこの世の救いにはならないのであります。この世の救いについて語る時には、いわばあの世の救い、死んだあとの救いについて語ってもらわないと、この世の救いにはならないのであります。