「何事も愛をもって」 コリントT 一六章

 パウロはキリストの復活とわれわれの復活について語ったあと、「聖なる者たちの献金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい」と書き送ります。

 復活の喜び、死に対する勝利を語ったあと、この地上での具体的な問題、お金の問題について語り出すのであります。これが手紙だからということもあるかもしれません。ここが神学論文と違うところであるかもしれません。

 しかしこれを講解説教として語るときに、聞くほうからいったら、語るほうからいっても、何か拍子抜けするようなことになるのではないか。もう復活の喜びを語っているのだから、それで終わって欲しかったというのがわれわれの気持ではないかと思うのです。

 しかし、われわれは復活の喜びを聞き、死に対する勝利を聞かされたあとも、われわれはこの地上で生活しなければならないのであります。すぐどこかの山の中の修道院にでも入って、復活だけを待ち望む生活に入れるわけではないのであります。それはパウロが復活について述べたあとの結びの言葉がわれわれに示しているところであります。

 一五章の最後の言葉です。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主のわざに励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの労苦が決して無駄になることはないことをあなたがたは知っている筈です」となっているのです。
 ここでは「主のわざに励みなさい」となっていて、なにかわれわれのこの現実の生活とは違うことがいわれているような気がしないわけではないのですが、しかしこれは教会宛の手紙だからそのようにパウロは書いているのであって、パウロの本当の気持ちは、なにも「主のわざ」と狭い意味でのわざについてだけではなく、われわれの一日一日の生きていく上で引き受けていかなくてはならない労苦のことをいっていると思います。
 
 一六章で、パウロは、初代教会のいわば母教会ともいうべきエルサレム教会のための献金について語ります。エルサレム教会は他の異邦人の教会に比べて貧しかったようであります。それでパウロはしばしばエルサレム教会に献金を集めて持っていったようであります。

 一節「聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたたちも実行しなさい」というのです。新共同訳では、「募金」と訳されいますが、口語訳では「聖徒たちへの献金」となっております。
 これは三節では、「その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう」といっていて、そこでは「贈り物」といわれております。

 ある人がいうには、パウロは献金について九つの言葉を用いているというのです。全部を紹介はしませんが、その中には、「交わり」を意味する言葉、「奉仕」を意味する言葉などが使われているというのです。ここでは、カリスというギリシャ語が使われていて、これは本来は「恵み」という意味の言葉であります。日本語で「お恵み」などといいますと、何か上の者が下の者に恵む意味に使われてしまいますが、そういう感じを与えないために、新共同訳では、口語訳でも同じですが、「贈り物」と訳しているわけです。
 
 パウロはその献金について、細かく指示するのであります。二節「わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われないように、週の初めの日はいつも、各自収入に応じて、いくらかずつでも手元に取って置きなさい」と、まるで子供にいうように具体的に指示しております。ここはエルサレム教会に対する献金のことですが、それはわれわれの教会の献金についてもいえることであって、ここには献金というものの性格をよく示していると思います。

 献金は決して税金のような義務というものではなくて、まず心からの自発的なもので、各自が収入に応じて自分がこれだけ献金しようと自由な気持から捧げるべきものだということであります。ここで使われているカリスという言葉は、「自由に与えられる自由な贈り物」を意味する言葉だとある人がいっております。

 お金の問題というのは、大変難しいものであります。教会の場合でもしばしばこの献金のことで躓く人が多いのです。これはまず自由な自発的なものでなければならないということであります。しかしそれでは、それは全く義務とか責任というものが伴わないものなのか、自発的なものだから、その月で余ったものを自分の勝手気ままに捧げればいいものかといえば、そうではないようであります。パウロはこういうのです。「そちらに着いてから初めて募金が行われないように」とか、「各自収入に応じて、幾らかずつでも手元に取って置きなさい」というのです。

 それは確かに自由な自発的なものではあるが、無責任なその場その場の思いつきのようなものではなく、計画性をもったものでなければならないということであります。余り分ではなく、はじめにあらかじめ計画性をもってとっておきなさいというのです。

 献金というのは、旧約の律法では収入の十分の一をささげなければならないと規定されているように、教会でも十一献金とかいって、収入の十分の一を捧げなくてならないといっている教会もあるようで、それがなにか奨励されているところがあります。しかし旧約の律法の規定をそのまま新約聖書時代の教会に持ち込むことはおかしいと思います。

 ルカによる福音書では、イエスのたとえ話に、ファリサイ派の人と徴税人の祈りの話で、ファリサイ派の人が、胸を張って「自分は週に二度断食しており、全収入の十分の一を捧げております」と神に祈ったのに対して、父なる神はそのファリサイ派の人を退けて、徴税人の祈りを受け入れられたという話をしているのであります。
 
 ですから、献金で大事なことは、自由な自発的なものでなければならないということで、各自の責任において、ということは一つの計画性をもってしなければならないと思います。

 ある人が言っておりましたが、教会の献金は自分の生活に少し痛みを伴う程度の額がいいのだといっていて、なるほどなあ、思ったものであります。それは単なる余り物、自分たちの生活を満たした上での余り物を献金するのではなく、献金は神様に対する捧げものですから、それはやはり犠牲の捧げものという意味をもつと思いますので、そこには自分の生活を少し犠牲にするという痛みを伴うことが必要なのだと思います。

次にパウロが自分がコリントに行く旅行の計画について語ります。ここで印象的なのは、「旅のついでにあなたがたに会うようにしたくはない」といっていて、パウロの細かい心遣いが述べられております。

 次にテモテとアポロに言及しております。テモテはパウロの弟子で、まだ若者のようで大変心配しながらこういっています。一○節「テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようにお世話ください。わたしと同様、彼は主の仕事をしているのです。だれも彼をないがしろにしてはならない」というのです。
 
 アポロについては、「あなたがたのところに行くようにしきりに勧めたのだが、彼は今行く意志は全くない」と述べております。「今は」とわざわざいっているのは、恐らく今コリント教会では、「わたしはパウロにつく」とか、「わたしはアポロにつく」とか、教会の中で派閥争いが起こっているので、そんな中に行きたくないとアポロは言っていることのようであります。

 そして一三節でこういいます。「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい」。

 「目を覚ましていなさい」とは、終末がいつきてもいいように目を覚ましていなさいということであります。それは敵がいつ襲ってくるかも知れないから、目を覚まして警戒していなさいということではいのです。敵が襲ってくるというのでしたら、いつも戦々恐々として目を覚ましていなくてはならないかもしれませんが、ここでは終末に備える、言葉を換えて言えば、神様の前にいつ召されてもいいように備えるということであります。そのためには、いつでも神様を信頼して生きていなさいということです。

 ヘブル人の手紙のなかで、「神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されないように気をつけよう」という勧告の言葉があって、「神はある日を『今日』と決めて、かなりの時がたった後、すでに引用したとおり、『今日、あなたたちが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない』と語られている」といっております。
 そのように、今日一日今日一日、心をかたくなにしないで、神様に向けて心をひらいておく、明日神様を信じようなんて暢気なことをいっているのではなく、今日、心をかたくなにしない、今日悔い改めようということであります。
 それが目を覚まして生きるというこであります。
 
 だからそれサタンや強盗が襲ってくるのを戦々恐々として目を覚まして緊張して過ごすのではなく、つまり寝ないで緊張して毎日を過ごすのではなく、神様を信頼して毎日を過ごすということですから、眠らなくてならない時には、安心して眠るのであります。あの花婿を迎える乙女のように、燭台の油を用意して安心して眠るのであります。

 目を覚まして生きるということは、眠らないで過ごすということではないのです。今日一日、今日一日を神様を信じて、信頼して、心をかたくなにしないで、夜が来たらすっかり安心して眠る生活をすることであります。夜安心して眠らないということが一番いけないことであります。

 それが信仰に基づいてしっかりと立ち、雄々しく強く生きることになるのだと思います。夜しっかり寝ておかなくては、いつも睡眠不足であったならば、雄々しく、強く生きることはできないのです。

 そして「何事も愛をもって行いなさい」といいます。われわれはすべての事に愛をもって行うということは、大変難しいことだと考えがちであります。しかし、考えみれば、愛するということは、自分の決心ひとつで、できることではないでしょうか。よし、この人を愛そう、今はこの人に対して愛をもって仕えよう、自分一人が決心すれば、決心さえすれば、憎しみを捨て、恨みを捨てて、今はこの人を愛そう、許そうと心に決めさえすれば、本当はできることではないか。

 それに対して、自分が人から愛されようとすることは、大変難しいことだと思います。人から愛されようと思ったら、お化粧もしなくてはならないかもしれない、人に好かれるためには、素直にならなければならないかもしれない、そしてそのようにしたからといって、人から愛される保証はないのです。かえってそんな努力をしたらいやがれるかもしれない。ともかく人から愛されようとすることは、本当に難しいのです。自然に、簡単に人から愛される人もおりますけれど、いざ自分が人から愛されようと思うと様々な技巧とか努力が必要かもしれませんし、そうしたからと言って、愛されるとは限らないのです。

 それに比べれば、人を愛することは、自分ひとりの決心ひとつで、本当は簡単にできることなのではないか。自分の自我を捨てて、自分の欲を捨て、自分中心を捨てる決心をして、この人を愛そうと決心さえすれば、できることではないか。

 もちろん、それが一番難しいことなのです。自分を捨てるという一番簡単なことが、実は一番難しいことだということは、われわれはよく知っていることであります。しかしそれは自分ひとり決心ひとつでできることなのだということを思っていたいと思うのです。
 「何事も愛をもって行いなさい」というパウロの勧告をわれわれは人と接するたびに思い起こしたいと思います。

 一五節からはいろいろな人の名前をあげて「よろしく」とパウロは挨拶しております。一六節ニ、ステファナの名前をあげてこういっております。「どうか、あなたがたもこの人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください」といっております。
 ここには、「働き」ということと、「労苦する」ということを並べて書かれております。
 ある人が働きと労苦との違いについてこういっております。「教会では働く人は多いが、労苦する人は少ない」。
 この事は本当に考えさせられる言葉だと思います。「労苦する」とは、人々の働きの背後でいつもそこで起こるいろいろな人間関係のあつれきやきしみを調整してあげる、とりなしてあげる、許し合う方向に導いてあげる、そういう地の塩として人々に仕えるということであります。それが「何事も、愛をもって行う」ということではないかと思います。

 パウロは最後にすごい言葉でこの手紙を終えるのであります。
「わたしパウロが自分の手で挨拶を記す」というのです。それまでは恐らく口述筆記だったのです。しかしこの最後に筆記者からペンをとりあけで、パウロは自ら記すというのです。「主を愛さない者は、神から見捨てられるがよい。」ここは口語訳では「主を愛さない者は呪われよ」となっております。

 「何事も愛をもって行いなさい」と勧めているパウロが最後にこのように書くのです。ここでパウロが言っている「愛」という言葉が決して甘い言葉でも、単なる親切とかそういうものでないことがよくわかります。

 ここには「何事も愛をもって」というパウロ自身の言葉を裏切るような激しい言葉をもって、すべては、主イエスの愛を知って、そして主イエスを愛する、そこからすべては始まるのだ、そうでなければ、われわれは自我を捨てることはできない、自分の自己中心性を捨てることはできないという思いがあったのであります。

 そしてパウロは「マラナ・タ(主よ、来たりませ)」と祈るのであります、いやそのように叫ぶのであります。新約聖書がギリシャ語に訳された時に、アーメンとか、アバ父よの「アバ」がそのままヘブル語、厳密にいうとアラム語といわれますけれど、そのまま残された言葉があります。「マラナ・タ」という言葉もそのままギリシャ語に翻訳されないで残りました。それだけ重要な言葉だったということです。始終初代教会で祈られ、礼拝の中で叫ばれたということであります。

 すべては主イエスがもう一度来てくださることによって解決するのだという切実な祈りであり、願いだったのだろうと思います。ここには「何事にも愛をもって人に仕える」ことができなかったパウロ自身の思いも込められているのではないかと思うのであります。