「自分を頼りにすることなく」コリントU 一章三ー一一節

 パウロはコリントの信徒への手紙の第二では、挨拶のあと、いきなり神の慰めについて語るのであります。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができる」と書き出すのであります。

 そして八節からは、「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい」といって、自分の受けた苦難について語るのであります。その苦難は耐えられないほどのもので、生きる望みさえ失ってしまったというのです。それは死の宣告を受ける思いだったともいうのです。

 このパウロが受けた苦難がどういうものかはなぜかはここでは語られておりません。というのは、この手紙の十一章の二四節からは、その受けた苦難が具体的に記されているのに、ここには具体的には何一つ語ろうとはしていないのであります。コリントの第一の手紙では、「エフェソでは野獣と闘って」死ぬ思いを経験したと語っていて、そのことをいっているのかもしれません。野獣と闘ったというのは、囚人がみんなの見せしめと娯楽のために、競技場みたいなところで、ライオンと闘わされたということなのかもしれません。あるいはパウロはローマの市民権をもっていましたから、そんなことはさせられなかったから、それはひとつの比喩だろうともいわれていて、それと同じくらいの死の苦しみを味わったということだろうということであります。

 ともかくパウロは慰めのあと苦難について語るのであります。われわれは慰められるということは、もう苦難から解放されることだと思いたくなるのですが、そうではなくて、救われるということ、慰められるということは、苦難に遭わないということではなく、苦難に耐える力と希望を与えられることだというのであります。

 苦難は大きい苦難もあれば、小さい苦難、他人からみれば苦難という言葉を使うのが恥ずかしいようなものもあるかも知れません。しかしそれは他人からみての話しであって、苦しんでいる本人からすれば、それは他人からみてどんなに小さな苦しみでも、それは死ぬほどの苦しみであるかもしれないし、現実こんささいなことでということで、自殺してしまう人もいるわけです。

 ここでパウロがいっている苦難は、直接には福音を宣べ伝えることによって引き起こされた苦難のようであります。つまり迫害の苦難のようであります。五節に「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちに及んでいるのと同じように」とありますから、直接には、伝道に際しての様々の迫害のことであるかもしれません。

 それではわれわれが受ける苦しみ、それはもう人からみればどうしてそれが苦しみなのか、それはお前の単なるエゴイズムが引き起こした苦しみではないかといわれるかもしれませんが、そうしたわれわれが今現に日常で味わっている苦しみは、福音宣教にまつわる、いわゆる迫害とかは無縁かもしれませんが、そうした苦しみについては、われわれは神からの慰めはいただけないのだろうかと思ってしまうかもしれません。

 しかし繰り返すようですが、そうしたわれわれが受ける苦しみ、他人からみれば贅沢な苦しみ、あるいは自分のエゴの欲望がただ満たされないために起こる苦しみ、あるいは体の病気という苦しみ、それはどんな小さな苦しみだって、人によっては、場合によっては、生きる希望を失わせ、死の宣告を受けるほどのものであることは変わりないのではないかと思います。
 
 かえって、キリスト教の伝道者が受ける迫害とか殉教者が受ける迫害ならば、自分は正しいことをしているのだからという自負というか誇りというか、使命感というか、そうしたものに支えられて苦しみに耐えられものであるかもしれませんが、われわれが日常生活において味わう苦しみはそんな支えになるものは何一つなく、その苦しみのなかでいつも見つめさせられるのは自分のエゴであり、それは自分の罪なのであります。

 しかしキリストはなんのために苦しんだのでしょうか、それはそうしたわれわれの罪にまつわる苦しみのための苦しみをなんとか解放してあげようとして苦しんだのであります。われわれの罪のために苦しんでくださった筈であります。それならばわれわれが味わう苦しみもキリストの苦しみが満ちあふれて私達にも及ぶと言うことと、決して無縁ではない筈であります。

 そしてパウロはその苦しみに耐えさせるものは、「神に希望をかける」ことだといいます。人はどんなによい環境にいたとしても、他人からみればどうしてそんな良い環境にいながら、悩むのかといわれかもしれない環境にいても、自殺してしまう人はいくらでもいるのであります。つまりどんなよい環境にいても、もしその人に望みというものがなくなっていたら、希望がなくなっていれば、生きる望みを失い、死の宣告を受けるようなものであります。逆にどんな悪い環境のなかてにいても、たとえば、大地震とか台風の災害とか、あるいは迫害の中にあっても、どんな小さな望みであったならば、希望をもつことができさえすれば、生きることができるのであります。

 あの強制収容所で生き延びることができた人は、ただ一つ希望をもてる人だったとあの中で生き延びたフランクルという心理学者が書いていることであります。それはどんな体力がある人でも、生きるの望みをもてなかったら、その過酷な環境には耐えられなかったというのです。その望みは、たとえば、いつか家族と会える、会いたいというささやかな望みでもいい、そして実際には、その家族はもう殺されているかもしれない、そういう中にあっても、その望みさえもてれば、それは幻想というわれるものでもいい、希望をもつことができたら生き延びる力を与えられていたというのであります。

 それはひとことでいえば、九節でパウロがいっていることであります。「自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするように」ということであります。直接、すべての人が死者を復活させてくださる神を頼りにするということはないかもしれませんが、ただ共通していえることは、「自分を頼りにすることなく」ということであります。
 
 希望というのは、最終的には、「自分を頼りにすることなく」ということから起こることではいないかと思います。

 われわれは普通は、希望といいますと、自分の可能性を頼りにして希望をもつのであります。大学受験などはそうであります。この偏差値ならば、この大学に入れるというところから希望があたえられるのであります。しかしわれわれはそういう自分の可能性だけを頼りにして希望をもって生きようとすれば、必ず行き詰まるのではないか。本当の希望というのは、自分を頼りにしないというところから起こることであります。苦難の中で希望をもつということは、自分を頼りにしていては希望などどこからもでて来ないと思います。

 今日、十月三一日はマルチン・ルターが宗教改革を起こしたという記念日にあたります。われわれの教会はこの宗教改革を起こしたルターから始まっている教会であります。それはプロテスタント教会といわれているわけです。プロテスタントは、もともとは恐らく宗教改革者たちにつけられた周囲の人々のあだ名ではないかと思います。というのは、プロテスタントのプロテストとはもともとは抗議すると意味です。つまり宗教改革というのは、当時の既成の教会、今日で言えば、ローマカトリック教会に抗議して、そのためにローマカトリック教会から異端として扱われ、いわば仕方なく、自分たちの信じる教会を立てたところから始まったわけです。

 十月三一日がなぜ宗教改革記念日になったかといいますと、一五一七年の十月三一日に、ルターが九十五箇条の提言をヴィッテンベルグの教会堂の扉に掲げた日だからであります。ローマ教皇が聖ペテロ寺院を立てるための資金集めに、免罪符を発行した。それはこの免罪符を購入すれば、悔い改めなくもその行為だけでも地獄に堕ちることを免除されるといってそれを売り出したのであります。心ある人たちはさすがにそれを阻止しようとしたところもあったでしょうが、それはたちまちに広がっていったのであります。

 それに対してルターは、そんなことは教会の腐敗だといって、九十五箇条の提題をヴィッテンブルグ教会堂の扉に掲げに行ったのです。それが当時の論争の仕方だったのだそうです。そしてその九十五箇条の提題はたちまちドイツ語に訳されてドイツ全土に広がってルターを支持する人が出てきたわけです。
 それでこの日をもって宗教改革の口火が落とされたというので、この日を宗教改革記念日となったわけです。

 私がマルチン・ルターのことで大変好きな逸話は、彼がこの九十五箇条の提題をヴィッテンベルグの教会堂に掲げにいった時の話であります。それはこれを掲げたら、当時のカトリック教会と真っ向から対立することになるわけです。場合によっては破門されるわけです。当時教会から破門されるということは、もう大変なことで、いわば村八分されることだったわけです。彼は早朝、朝の六時だそうですが、それを掲げに行くときには、もうへとへとに疲れ切っていた。一歩歩いてはくじけ、二歩歩いてはもう止めようと思ったというのです。しかし彼はただこれはどうしても言わなくてはならないことだ、真理のために、これをしなくてはならないと思って、それを教会堂の扉に掲げた。掲げ終わった時には、へなへなと崩れ落ちてしまったというのです。そういう逸話が残っているというのです。これはわたしの牧師からよく聞かされた話であります。

 つまり、彼はこのことを堂々と自信に満ちてしたわけではない、ただ神を信じ、真理を信じてそれを行ったということなのです。牧師からこのルターの逸話をわたしは聞きながら、そういうことなら、自分にもできるかもしれない、勇気凛々で堂々としなくてはならいということならば、到底できそうもないけれど、しかしそれを掲げた時には、疲れ果てへとへとに崩れおちてしまう、そういうカッコの悪さでもいいということなら、自分でもできるかもしれないと思わせられたのであります。

 ルターがそれができたのは、まさにパウロがここでいっているような「自分を頼りにするのではなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになり」ということだったのであります。

 少し、コリントの手紙から離れますが、今日はちょうどその十月三一日にあたりますので、こういうことはめったにないわけで、少し時間をさいて、ルターがどうしてそのような改革しようとしたのか、そして宗教改革とはなんだったのか、を学びたいと思います。

 ルターは一四八三年に父ハンス・ルターの次男として生まれました。お父さんは鉱山の坑夫でしたが、後に成功してみずから坑山の所有者になりました。子供には最高の教育をうけさせたいということで、大学に入れました。

 マルチン・ルターはこの大学時代、二つの大きな経験をしたというのです。ひとつは自分の友人が学校の試験の最中に急性肋膜炎で突然死んだという経験と、彼自身が雷雨の中で落雷の経験をしたということです。そのとき彼は、彼の守護神とされていた聖アンナに「聖アンナさま、助けてください。今わたしを助けてくださましたら、自分は修道士になります」と祈ったそうです。そして彼は命を助けられました。この誓いが契機になって、彼は修道士の道を歩むことになり、修道院に入るのであります。
 これは父親の期待を裏切ることになり、後に父親が彼の息子が修道士になることを同意したのは、他の二人の息子がペストで命を落とすと言う経験をしたからだそうであります。

 ルターが修道士になるきっかけは、死の恐怖だったということであります。ルターは真面目に真剣に修道院での厳しい修養に励んだのです。しかし彼がそのように自分の修養に励めば励むほど、これは結局は自分の魂をみがくためのものであって、これは自分のためにしていること、自分を誇らすためにしているにすぎないのではないか、これは神ご自身のために生きることではなく、すべてが自分のためにしていることではないかという疑念にとらわれていったということであります。つまりここに来て、彼は自分の罪の問題に直面したのであります。

 それはいってみれば、主イエスが激しく批判したファリサイ派の人々の生き方であります。自分は「週に二度断食し、祈り、献金を捧げ、また自分はほかの人のようなどん欲な者、不正な者、姦淫をする者ではない」と、傍らにいる徴税人を軽蔑して祈るあのファリサイ派の人の姿であることに気付いていったのであります。

 ただ死の問題だけならば、死の恐怖から逃れるということだけならば、自分が修道に励み、良き業を積み重ねていくことによって、神の救いにあずかるということは容易に信じられたかもしれませんが、自分の罪の問題に気付いたときに、パウロと同じにように律法に忠実に励めば励むほど、自分の中からわいてくる自我の問題、自分の義、自分の正しさを神に主張しようとする罪の問題を解決できなかったのであります。修行をつめばつむほど、こうしたことを行っているのは、ただ自分の正しさを神に主張しているだけで、決して自分は救われないというジレンマにとらわれていったのであります。

その頃、ルターにとっては、神はただ恐ろしい神、裁きの神でしかありませんでした。あの死の経験も彼にとっては、神は恐ろしい神、裁く神、だから自分は修道院に入ってその裁きの神から逃れたいと思ったわけです。そして修業を積むことによって、ますます自分の罪に気付いたときに、このような自分がどうして救われるだろうか、神の裁きを逃れられるだろうかと思い悩んだのであります。

 そうしたなかでルターは詩編の講解を神学生たちに始めるようになって、そこで福音について新しい発見をしたといわれております。そして続いてローマ書の講解していくうちに、あのローマ書の一章一七節の言葉「神の義は、その福音の中に啓示された」という一句に出会って、決定的な回心をするのであります。

 つまり神の義、神の正しさは、福音の中に、人間の罪を徹底的に赦すという福音のなかに啓示されるのだという真理をつかむのであります。そしてそれはただ信仰に始まり、信仰によることだ、「信仰による義人は生きる」という真理に立つのだということに気付くのであります。つまり修業を積むことによって、善き行いを積み重ねることによっては自分はは到底救われないということに苦しんでいいたルターは、なんの良いわざも行うこともできない者、ただただ徹底的に罪人でしかないものをキリストの十字架の赦しによって救うという、あの無条件の神の赦し、神の愛を信じる、それだけが救いの条件なのだという発見をするのであります。

 神の義は神の愛のなかに神の罪を赦すという中に示されたのだという発見であります。そのとき、ルターにとって、神は恐ろしい裁きの神ではなく、われわれの罪を赦す愛の神として信じることができたのであります。それが旧約聖書の詩編の数々の詩編のなかに、そしてもっとも明確にあのローマ書に書かれたことを発見するのであります。

 それはまさに「自分を頼りにするのではなく、死者を復活させてくださる神を頼りにいるようになった」ということであります。この神に希望をかけて生きることができるようになったということであります。

 ルターは初めから当時のカトリック教会に対抗しようとも、改革しようとも思ったわけではありませんでした。しかし聖書を通して彼が発見した福音がいつのまにか当時のカトリック教会と真っ向から対立し、当時の教皇とだけではなく、いわばドイツの皇帝からも召還されて議会に立たされ、彼が書いたものを撤回せよと迫られましたが、ルターは撤回しませんでした、最後に彼はこういったというのです。「ここに私は立つ。私はこのほかにどこにも立てない。神よ、われを助けたまえアーメン」いったというのです。そのために彼は教会から破門され、ドイツ帝国の罪人として幽閉されたのであります。しかしルターはその幽閉中にそれまでラテン語でしか読めなかった聖書をドイツ語に翻訳し、それが当時発明されたグーテンベルグの印刷術によってドイツ全土にあっという間にひろがり、それが宗教改革となってひろがっていったのであります。
 
 ルターの宗教改革の基本は二つであります。ひとつは、われわれが救われるのはわざによってではなく、ただ神の恵みを信じる信仰によってだという信仰と、われわれが真理として信じるのは、ただ聖書ののみということであります。聖書のみということは、当時聖書を解釈するいろいろな教会の伝統とか解釈があったわけですが、しかしそうしたものは、すべて人間の手あかにまみれたものであって、ルター自身が自分の目で聖書を直に読んだときに福音を発見したという経験から、大事なことは、聖書のみを信じるということだ、そのためには自分の目で聖書を読まなければならいということで、当時の人々一般民衆はラテン語などよめなかったわけですから、ルターは聖書をみずからドイツ語に訳して、自分の目で聖書を読むようにと奨励したのであります。

 ただ信仰のみ、そしてただ聖書のみ、それがわれわれの教会、われわれの松原教会も受け継いでいる信仰の立場なのであります。それが「自分を頼りにするのではなく、死者を復活させた神を頼りにする」という信仰の原点なのであります。