「神は真実な方です」 コリントUT章一五ー二二節

 今日学ぼうとしております箇所は、事情がよくわからないところであります。一五節からみますと、「このような確信に支えられて、わたしはあなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てた。そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送り出してもらおうと考えた。このような計画を立てたのは、軽はずみだったのだろうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしとって『然り、然り』が同時に『否、否』となるのだろうか」とコリント教会に書くのであります。

 よくわからないのですが、パウロは一度は直接コリント教会を訪問すると伝えたようなのです。しかし途中でそれを変更して、マケドニア州にいってから、それからコリントに行くことにしたようなのです。それがコリント教会の人には不快感を与えたようなのです。直接こないで、旅の途中でくるなんて、自分たちを軽くみていると思ったのかもしれません。それでパウロという人は「然り」と言ったと思うとすぐ「否」をいいだす、信用できない人間だとコリント教会の人には思われたらしいです。

 人間関係というのは、本当に難しいものであります。いったんこじれてしまうとなにもかも裏目に出てしまうものであります。 
 よくわたしは引用しますけれど、臼井吉見という人が言っていたことですが、人を信頼するということは、「あの人ならこういうことはしまい、というのが人間の信用だと思う」という意味のことを言っています。つまり、最低限あの人ならこういうことはしまいと信じる、それがその人を信用することだというのです。時には自分の考えと違う言動をとることもあるかもしれない、いつも自分の思っていることと同じことをするとは限らない、しかしあの人なら、最低限こういうことはしまいということを信じる、ひとつひとつの細かいことでどうこういうのではない。それが信頼するということだという意味のことを言っているのです。
 
 ところがわれわれはそういう意味での人を信頼するということがなかなかできないので、信頼している人どうしでの間でも、少しでも自分と違った言動をすると、もうその人を信じなくなってしまうということがあるのではないかと思うのです。もうほんのちょっと行き違いがあると、その人を全面的に信じなくなってしまうということがよくあるのです。こっちが挨拶したのに、挨拶を返してくれなかったとか、贈り物をしたのにすぐお礼の返事が来なかったとか、もう本当にささいなことで自分の思いどおりにならないと、相手を信じられなくなってしまうのではないかと思います。

 それが教会の中でも起こるのです。わたしはいつも自分にいいきかせていることがあるのですが、それはこういうことです。人が善意でやっていることなら、たとえ自分と違う言動をしても相手を退けたり、疑うのはやめようということです。教会のなかの交わりでは、みな善意で行動していると思うのです。教会外の交わりでは、それこそ意地悪とか詐欺を初めから意図した言動というのがあるかもしれませんが、ですから、「おれおれ詐欺」みたいなものがあるわけですから、そうやすやすと人を信じることは怖いと思いますが、しかし教会内の交わりでは、みな善意でしていると思います。善意とまではいかなくても、少なくとも悪意で何かをするとか、意地悪い思いで何かをするなんてことはないと思うのです。好き嫌いというはの当然ありますから、またできることとできないことというのはありますから、すべてが自分の思いどおりになるわけではないと思います。自分とは違った行動をとるかもしれない。しかしそのときでも、その人が意地悪でしているのではないということさえわかっていれば、その人の行動を認める、あるいは赦すことができるのではないかと思います。

 ともかく自分中心で人を裁かないということです。好き嫌いは当然あるわけで、それは仕方のないことです。ですから、教会のなかでもあまりつきあいたくないと言う人はでるかもしれない、しかしだからといって、その人を裁いたり、しりぞけたりしないということであります。

 パウロはコリント教会のひとから、あいつは「然り」といったとたん、すぐ「否」を言い出す奴で信用できないといわれたときに、自分は「然り」が同時に「否」となるような人間なのだろうか、といい、いきなり、神をもちだすのです。
「神は真実な方です」といいだします。そして「だからあなた方に向けたわたしたちの言葉は、『然り』であると同時に『否』となるようなものではない」といい、そしてこう言います。「われわれがあなたがたに伝えた神の子イエス・キリストは『然り』と同時に『否』となったような方ではない。この方においては『然り』だけが実現したのだ。神の約束はことごとくこの方において『然り』となったのだ。それでわたしたちは神をたたえるために、この方を通して『アーメン』と唱えるのだ」というのです。

 ここは少し話が飛躍していると思います。問題になっているのは、パウロが初めにこう決めたということを、あとで、違うことに変更したことが問題になっているところなのです。「然り」がすぐ「否」に変わるようでは困るということなのです。ところがパウロはそれをきっかけにして、神の「然り」について語りだし、われわれはみな神様から「然り」といわれて、救われ者ではないか、そうであるならば、神から「然り」といわれて救われた者は、その言動は信用できるではないかというのです。

 神はイエス・キリストにおいて「然り」を言ってくださった、いや「然り」だけをいわれたのだというのです。「この方においては『然り』だけが実現したのだ」というのです。これは本当に慰めに満ちた言葉ではないでしょうか。

 わたしは本当の神のお会いするまでは、神の「否」ばかりを聞いて来たような気がいたします。キリスト教というものを律法的にしか理解していなかったときには、自分のような行いでは到底救われないと思って苦しんでおりました。そのころはただ神の否しか聞こえてこなかったのです。そうした時にルターの言葉だったと思いますが、「神を愛する者は、自分を憎む者だ」という言葉に出会って、わたしは一生懸命に自分を憎もうとしました。自分が嫌いでした。しかしわれわれは自分を、全面的に憎んで生きていくことなんかできないわけで、自分が生きながら、自分を憎まなくてはならないということは、はなはだしい自己欺瞞でしかないわけで、自分が分裂しているままで生きていなくてはならないわけで、そのころのわたしは本当に暗い人生観にとらわれていて、すべてのことを否定的にしかみられないのでした。そんな考え方、見方をしていたら、人生は暗くなるばかりであります。人に対してもまた否定的にしか見えなかったのです。

 そういう行き詰まりの中で、もうキリスト教も捨てようと思って事実、捨てた時に、神の言葉が自分に語りかけてくれたわけです。それはコリントの信徒の手紙の第二の手紙の一二章の言葉ですが、「わたしの恵みはお前に対して充分注がれている。わたしの力はお前の弱さのなかに働く」という言葉がわたしに響いてきたわけです。その言葉は、それまで自分を一生懸命否定して否定して、そして否定しきれないでいた自分のそれまでの努力というかあがきを、笑い飛ばすような言葉だったわけです。
 神はこのままの自分を全面的に受け入れるといってくださっている、弱いままでいい、醜いままでいい、そのお前をわたしは愛し、受けて入れているのだ、と言ってくださっている、わたしはその時に初めて、神の「然り」を聞いたのです。
 
 そうしたらもう世の中は一変してしまいました。まず自分で自分を受け入れられるようになったわけです。神がそのままでいいといって、このわたしを愛してくれているのならば、どうして自分を憎む必要があるのだろうかと思ったのです。一生懸命自分を憎んでいる自分がいとおしくなりました。神が愛してくれている自分を、自分でもまた受け入れよう、愛そうと思ったのです。思っただけではなく、実際受け入れることができたのです。そうしたら世の中に対する見方も変わったのです。すべてが肯定的にみれるようになったのです。それこそ、木の葉の色まで変わったのです。

 考えてみれば、われわれの人生というのは、自分に然りをいってくれる人を捜し求めて歩むというところがあるのではないか。最初はそれは母親だろうと思います。子供にとって母親は自分を全面的に肯定し、受け入れてくれる存在です。だから子供は生きることができるし、成長していくのです。
 ですから、小さいときに不幸にして、母親を亡くしてしまうとか、親から虐待を受けてしまう子供というのは本当に気の毒だと思います。

 今日は礼拝のあと、幼児祝福式をしますが、子供にとって自分を全面的に受け入れてくれる存在というものがどんなに大事かということです。三歳までは親は子供をネコかわいがりにしてかわいがりなさいと、ある小児科の先生がいっているくらいです。

 しかしわれわれはだんだん成長してくると、母親というものがそんなに頼りになるものではないということに気付いてくるわけです。母親の「然り」では、満足がいかなくなる、親のほうでもそうしょっちゅう「然り」をいってくれるわけではない、むしろだんだん、「これはしてはいけない、あれはしてはいけない」という「否定」のほうが多くなる。そこで親離れするわけです。
 母親の然りでは生きられなくなる。次に求めるのは、男でしたら、女性だろうと思います。母親代わりの女性、自分を全面的に受け入れてくれる女性を求める。しかしそんな女性はいるはずはないのです。自分がこうあって欲しいという理想像をもって女性をもとめますから、その青春時代の恋愛はかならず破綻すると思います。

 そして結局は自分を全面的に受け入れ、肯定してくれる存在を見いだすことができなくなくて、仕方なく開き直って自分で自分を受け入れていく以外にないという諦めになっていくのではないか。諦めの感情が残っている間はいいと思いますが、その開き直りがもう全面的に自分を絶対化するようになっていくと、とんでもない自己主張の激しい自信に満ちた鼻持ちならない人間になっていくのではないか。

 わたしにとっては、自分を肯定してくれるものをみつけようとして、結局は見つけられなくて、望みを失っているときに、神様に拾われた、神に「然り」をいっていただいたわけであります。

 「イエス・キリストは『然り』と同時に『否』となったようなかたではない。このかたにおいては『然り』だけが実現したのです」とパウロはいうのです。だから「わたしたちは神をたたえるために、このかたを通して『アーメン』と唱えるのだ」というのです。「アーメン」とは「本当にそうです」という意味です、「本当に然りです」という意味なのです。

 そしてこういうのです。「わたしたちとあなたがたとをキリストに堅く結びつけ、わたしたちに油を注いでくださったのは神です」といいます。ここでいう「油を注いでくださった」というのは、聖別してくださったとか、祝福してくださったと言う意味にとっていいと思います。

 神はわれわれひとりひとりを「然り」といってくださって、救ってくださった、そうであるならば、その然りを言われた、教会の交わりがささいなことで疑心暗鬼になってしまうことは悲しいことではないかというのです。

 神がわれわれを信用してくださったのだから、われわれもまたお互いに信用しようではないかというのです。