「愛と悲しみ」 コリントU 一章二三ー二章四節

 「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです」とコリント教会の人々にパウロは訴えております。問題はパウロがコリント教会を再訪するかどうかの問題なのです。一度は直接コリント教会に行くといいながら、パウロはそれを取りやめにしている、あるいは延ばしている、そのことでパウロはいろいろと非難されている、そういう状況の中にあって、自分がいまコリント教会にいかないのは、ただ自分の我が儘さからではなく、あなたがたの事を思ってのことなのだ、それは偽りのないことで、神を証人に立てて、命にかけても誓うというのです。ずいぶん大げさではないでしょうか。
 
 たかがコリント教会を訪問するかどうかの問題に、それをパウロはこんなに大きな問題として考え、また行くのをためらっているのは、自分が今コリント教会にいったら、コリント教会に混乱を招くのではないか、分裂を引き起こすのではないかと恐れているからなのです。

 ここでパウロは行かないと決めて、すっきりしていればいいのでしょうが、パウロ自身がそれがすっきりと決断していないようなのです、行かないと決めながら、いや行ったほうがいいのかもしれないと思ったりして躊躇している、ためらっているのです、それが自然とコリント教会の人々にも伝わっているようなのです。
 
 パウロと言う人は今まで学んできたところから推測すれば、わりと決断の早い人のようだと思うのです。決して優柔不断な人とは思えないのです。しかしここでは、コリント教会にいくことにためらっている、その言い訳に神を証人にまで引き出して、弁明しているのであります。

 優柔不断な人という人がいるものであります。ものごとをはっきりと決められない。一度決めてもそれが正しかったかどうかを思い悩んでいる人がいるのです。それは大抵の場合が自分が傷つきたくないから優柔不断になっている場合が多いのではないかと思います。

 しかし、われわれはもうひとつ優柔不断になる時があると思います。それは相手を思って、相手を傷つけるのでないかと恐れて優柔不断になることがあると思います。
 物事をぱっぱっと切っていける人、決断が早い人というのは、端で見ていて気持の良い性格だと思いますが、しかしその反面なにか味気ない人も多いのではないか。つまりあまり愛の深い人でない人の方が多いのではないか。いつもいつも自分の考えで行動し、行動できる人で、相手のことをあまり深く細かく思わないで行動できるから、決断が早いということもあるのではないかと思うのです。
 相手のことを思ったら、愛があったら、われわれは優柔不断にならざるを得ないときというのもあるのではないかと思います。

 今ここで見せているパウロのためらいは、コリント教会のことを思っての、いわば少しキザにいえば、愛のためらいであります。だからパウロは少し大げさに「神を証人に立てて、命にかけて誓う」などという言葉を使っているのではないかと思います。

 そのあと、パウロは面白いことをいっています。「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかりと立っているからです」というのです。
 ここでわたしが大変面白いと思ったのは、パウロが「わたしはあなた方の信仰を支配するつもりはなく」といっているところです。これはなんでもない言葉のようですが、そしてわれわれはなにげなく読み飛ばしてしまうところかも知れないと思いますが、これは信仰というものにとって大変大切なことをいっているのではないかと思います。

 パウロはいわば今日でいったら、牧師であります。そして相手は信徒であります。牧師と信徒という関係、指導者と生徒、指導する人と指導を受ける者という関係であります。そうであるなば、指導者は生徒を支配するのは当然のように思いますが、パウロはそうしたくないというのです。

 ここでいっている「信仰」というのは、信仰の基本というか、信仰の教理のことではないと思います。つまり、「信仰によって義される」とか、「イエス・キリストの十字架によって示された神の恵みを信じる信仰によって救われる」とか、そういう「信仰」のことをいっているのではないと思います。そういうことなら、パウロは断じて曖昧にしたり、譲ったり、相手のいいなりになるなんてことは絶対にしないのです、十字架を信じない者があったら、呪われよと激しい言葉を投げつけるパウロです。

 ここでいう「あなたかだの信仰を支配するつもりはない」という信仰とは、その十字架の信仰に基づいての信仰生活のことではないかと思います。つまりその十字架の信仰を具体的に自分の生活のなかでどのように生かしていくか、表現していくかという信仰生活のことをいっているのではないかと思います。

 信仰そのものについては、使徒信条に告白された信仰をいささかも曖昧にすることはできないのです。しかしその信仰に基づいて生活するときには、その人の具体的な生活のなかでその人の事情に応じて、その人のいわば個性に即してあらわしていくことが許されるし、そうしていく以外にないと思います。
 牧師といえども、信徒の信仰のあらわしかたである信仰生活まで支配することはできないことだと思います。

 「わたしはあなたがたの信仰を支配するつもりはない」というこのパウロの言葉は大切だと思います。逆にいいますと、牧師はいかに信徒の信仰を支配しようとしているかということであります。信徒の信仰を支配したがる牧師がいかに多いかということであります。

 パウロは自分があなた方の信仰を支配するつもりはないと言う理由として、「あなたがたは信仰に基づいてしっかりと立っているからです」と述べているのです。つまり十字架の恵みによって救われ、それによってのみ生きることができるという信仰はしっかりしている、その点ではひとつも心配していないということであります。

 十字架の恵みによってのみ救われるという信仰に立ちながら、生真面目な性格の人は、その恵みに応えて真摯に真面目に応答して自分の信仰生活を守ろうとする人もいれば、自分のようなだらしのない人間をも赦してくださる神を信じてだらしのないままに、いつもその赦しを信じていきて行こうとする人もいると思うのです。全ての人が生真面目に生きれるわけではないし、不真面目というわけではありませんが、だらしのない性格、よくいえばおおらかな人という人もいるわけで、そうそう生真面目に生きれれない人だっていると思うのです。ある人の言葉に、日本のクリスチャンというのは、真面目ではあるが、豊ではない人が多いのでないかというのです。

 すでに学んだところですが、信仰を真面目に守っていこうとして、偶像に供えられた肉を絶対に食べないと誓い、野菜だけを食べることによって自分の信仰生活を守ろうとしている人もいれば、いや偶像ななか存在しないのだから、すべての律法から解放されたのだから何を食べても差し支えない、自由なのだといって信仰生活を自由に生きようとしている人もいるわけです。そのどちらのひともみな十字架によって救われた人なのです。

 パウロは自分としては、肉を食べても信仰にはなんのさしつえもないと思っていても、だからといって、野菜だけを食べて自分の信仰を守ろうとする人の信仰を決して軽蔑しようとはしないのです。パウロは自分自身の信仰の型で人の信仰を支配しようとはしないのであります。それは相手が信仰に基づいてしっかり立ってるからであります。

 それでパウロはあまりコリント教会の人々の信仰を自分がいって混乱させたり、支配したくないと思って、今の時期はコリント教会にゆくことをしまいと思ったというのです。少し延ばそうと思ったというのです。それは行ったら悲しませることになるからだというのです。

 そのあと、パウロは少し奇妙なことをいいます。「もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったい誰が、わたしを喜ばせてくれるでしょう」といいます。ここは一度読んだだけでは何をいっているのかよくわからないと思います。
 こういうところは、リビングバイブルがいつもうまく訳してくれているので、今度も読んでみましたら、大変上手く訳しておりました。「もし私があなたがたを悲しませていたとしたら、どうして喜べるでしょう。私を喜ばせることができるのは、あなたがただけです。それなのに、私があなたがたを苦しませているとしたら、どうして喜ばせてもらえるでしょう。」

 つまり、要はコリント教会の人々を悲しませたくないということです。あなたがたから、喜ばれたいのだということです。もしコリント教会の人々を悲しませたとしたら、自分が悲しませた人から、たとえば、「よく分かりました、あなたの言いたいことはよく分かった、改めましょう」というような手紙をもらって、初めて慰められるのであって、その時にはじめて自分は喜ぶことができるだろうということです。

 四節をみますと、「わたしは悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書いた」といっております。ここからパウロはコリント教会には今残っている手紙のほかにもう一つ手紙を書いたのではないかといわれるのです。いやもう二つ書いたのだということも、他の箇所からが推察されているのであります。そして学者の間では、この涙をもって書いた手紙というのは、今学んでおります、コリントの信徒への手紙のUの一○章から一三章の部分なのではないかというのです。当時は書物はしっかりと綴じられていたわけではありませんから、いつのまにかばらばらになり、それが後に編集されたというところもあるようなのです。
 
 その説が正しいとすれば、この部分は、パウロが激しい調子でコリント教会を叱責しているところであります。
 もしそうだとしますと、パウロはその激しい叱責の手紙を涙をもって書いたということであります。そしてパウロはこういいます。それは「あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためである」というのです。

 涙の手紙を書いたのは、あなたがたへのあふれるばかりの愛のためだというのです。

 われわれが悲しい時は、いろいろあると思いますが、自分が傷つけられたときとか、自分のプライドが傷つけられたときに悲しい思いをするかもしれませんが、しかしわれわれが本当に悲しい時といのは、愛がこわれようとする時ではないかと思います。愛の関係が断たれる時ではないか。愛する人と別れなくてはならない時、愛する人が死んでしまうとき、一番悲しいのではないかと思います。

 ここでパウロがあなた方から悲しい思いをさせられたくないのだとしきりに言っているのは、自分の誇りが傷つけられたということも少しはあるかも知れませんが、しかしそれ以上にコリント教会の一部の人々が、いややがてそれがコリント教会のすべての人がパウロを信じなくなり、非難するようになって、パウロのコリント教会に対する愛が破れてしまう、それを思うと悲しいということであります。しかしそうであっても、間違いは正さなくてはならない、だから涙をもってあの手紙を書いたのだということであります。

愛のない人には悲しみはないし、悲しみは理解できないと思います。

 大江健三郎さんがなにかに書いておりましが、彼の息子さんは知的障害をもった息子さんですが、彼がある時から作曲をするようになってそれがCDとなって出版もされましたが、その息子さんの作曲した曲を父親である大江健三郎が聴いているうちに、そこにある「魂が泣き叫んでいるような音楽が感じられて茫然となった」と書いているのです。
 それまで父親である彼は知的障害をもった息子には人生の悲しみなどはないのではないかと思っていたというのです。知的に障害があるということで、あまり人生の深い悲しみなどは感じられていないのではないかと思っていたというのです。しかし息子が創った音楽を聴いていると、そこに悲しみを訴えていることがわかって、茫然としたというのです。

 その出版されたCDのなかには、親しくしていた作曲家の武満徹さんが死んだことを聞いて創った曲とかがあります。どんなに知的障害があったとしても、人間として生きている限りはそこに愛の関係があって、愛が存在している時には、必ず悲しみもまた理解しているということを知ったということだろうと思います。

 それは犬を飼ってみるとわかりますが、犬もまた悲しむ時があります。それは飼い主とちょっとでも別れなくてはならないときがあると犬は悲痛な悲しみを訴える、自分をひとりぼっちにしないでくれ、と訴えて悲しむのです。
 
 愛の関係が破れる、愛する人と別れなくてはならない、愛する人が死んでしまうということは、こんなに悲しい時はないのです。

 使徒言行録には、パウロが涙を流したということが記されているところが何カ所がでてまいりますが、パウロ自身が書いた手紙の中には、フィリピの信徒の手紙の三章一五節に出てまいります。そこでは「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い。彼らのゆきつくところは滅びだ」と書いているのです。
 自分の愛する人が十字架に敵対して歩み、滅んでいくことを想像すると悲しくなる、涙を流したくなる、どうかそうならないで欲しいと訴えているのであります。

 パウロが涙を流し、悲しむ時は、自分のプライドが傷つけられたなどというケチなことではなくて、自分の愛する人との関係が絶たれようとする時であります、自分の愛する者が間違った方向に歩んで滅んでいくのではないかと恐れる時であります。
 
 ヘブライ人の手紙の中では、主イエス・キリストは、この地上の肉の生活の時には「激しい叫びをあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のあるかたに祈りと願いをささげた」と書かれております。

 イエス・キリストの生涯もまた涙を何回も流した生涯だったということであります。福音書をみますと、イエスはご自分が捕らえられていこうするときに、エルサレムが近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、「もしこの日にお前も平和への道をきまえていたなら」と言ったと記されております。

 またイエスがゴルゴだの道に十字架を背負わされ引っ張って行かれた時に、大勢の群衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちに、イエスはいうのです。「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」といわれるのであります。
 そして、「めんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはお前の子らを幾たび集めようとしたことか。それだのに、お前達は応じようとしなかった。見よ、お前達の家は見捨てられてしまう」といって嘆かれたのであります。

 イエスがどんなにイスラエルの民を愛し、われわれ人間を愛しておられたか、そのために今十字架につこうとしているかということであります。

 われわれが悲しい音楽を好んで聴くのは、悲しい音楽にはそこに愛が感じられる、愛を訴えるものがあるからではないかと思います。
 
 悲しみを知らない人には、愛はないのであります。