「サタンにつけ込まれないために」  コリントU二章五ー一一節

 先日の説教でももうしましたが、このところの箇所は大変わかりにくいところではないかと思います。別に難しい議論をしているところではないのですが、内容がはっきりしないのです。

 五節をみますと、「悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現を控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです」と書くのです。
これはこれを書かれた当事者であるコリント教会の人々にはすぐわかることだと思いますが、われわれにはよくわからないのです。「その人はわたしを悲しませたのではなく」とありますから、逆にいいますと、その人はパウロを傷つけ、悲しませて、そしてそれがコリント教会の人々に重荷を与えたようなのです。それでパウロは自分はそれほど傷つけられていないから、大丈夫だとコリント教会の人々に伝えようとしているのではないかと思われます。

 ある注解書によれば、これは、パウロを傷つけ、パウロを中傷した伝道者がいたのではないか、あるいは伝道者ではないかかもしれないが、今日でいえば役員、長老のようないた人がいたのではないか。それがコリント教会の人々を傷つけた、なにしろパウロはコリント教会のいわば創設者だからであります。それでパウロのためにコリント教会の人々はその人を処罰したのではないか。その人を教会から追い出してしまったのかもしれません。
 それでパウロはなんとかして、その人をもう一度コリント教会にもどるれるようにしたいと思って、この手紙を書いているのではないかと思われるというのです。
 それが六節の「その人には多数の者から受けたあの罰で十分です」という言葉ではないかと思われます。

 パウロがここで少し曖昧な表現を使い、その人を名指しするようなことはしないで、「悲しみの原因となった人がいれば」などと、大変遠回しの表現を使っているのは、人を裁かなければならないからではないかと思います。

 われわれは人を裁くときというのは、本当に慎重に熟慮に熟慮を重ねてしなければならないと思います。

 教会にも、戒規というのがあります。罰則規定というものが教会規則にあります。一番重い戒規は、除名処分です。つまり教会から追放することです。そして次に重いのが、陪餐停止ということです。つまり、聖餐式に預かることが許されないということです。なぜ教会にそういう戒規があるのかといえば、それは主イエスがそうしなさいと聖書に書いてあるからであります。

 マタイによる福音書の一八章の一五節以下のところにあります。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが二人また三人の証人の口によって確定されるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会のいうことも聞き入れなければ、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」とあります。

 主イエスがそのようにいわれたと記されているのです。もっともこの時にはまだ教会などはできていないわけですから、これを主イエスがいわれたということはおかしなことになりますが、後の教会がこれを編集するときに、イエスが語った言葉として書いたのでしょうが、しかしそれでもそのもとになったのは、やはりイエスが罪に対して厳しい言葉を実際に語っていて、それをもとにしてこのような書き方が出たのは間違いはないと思います。

 そしてそのあと、聖書はイエスの言葉としてこう書きます。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」というのです。ここでいわれている「つなぐ」とか「解く」というのは、「つなぐ」というのは、教会につなぐということで、教会につながれる者は、天国でもつながれる、つまり天国に入れられるということです。そして「解かれる」とは「教会から解かれる」ということで、教会から追放されてしまうということで、その人は天国からも締め出されるという意味です。
 そして他の箇所では、その権限、つまり「つなぐ」とか「解く」という権限の鍵をペテロに授ける、ペテロを土台にした教会に授けるというイエスの言葉があるのです。
 ここから教会には人を裁く権限を与えられている、だから教会には戒期というものが必要とされるようになったのであります。

 しかしイエスは、教会にはそのように人を裁く権限というものをもっているといったあと、すぐその後、「人が罪を犯した場合には、七度を七十倍までも赦しなさい」と言われるのです。
 ペテロがイエスに「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と聞くのです。それに対するイエスの答えが、「七回どころか、七の七十倍まても赦しなさい」という言葉がつづくのであります。そして、われわれ人間は神様から一万タラントの借金を赦された者だ、その者が自分が貸した百デナリの負債者を赦せないとは何事かという話をして、「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないならば、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさる」という話をなさるのであります。

 これはその前に語った、教会の戒規、裁くという教会の権限をまるで打ち消すような話ではないかと思うのです。
 
 われわれは人を裁くというときには、本当に慎重の上にも慎重でなければならないと思います。なんといっても、人を裁く時というのは、楽しいのです、快感を覚えるのです。自分はなにか一段高いところにいるような錯覚を覚えてしまうのです。
 あの姦淫の罪を犯した女を見つけたときに、人々はどんなに快感を覚えたか。彼女を取り囲み、こうした女は石で打ち殺すべきだと口々に叫んだのです。いつのまにか自分を神の位置においてしまって、人を裁いているのです。

 それに対して、自分が赦される立場に立った時はどうでしょうか。
兄エサウに対してさんざん悪いことをしたヤコブは、そのエサウのいる故郷から逃亡するのですが、しかしいろいろなことがあって、再びエサウのもとに帰らざるをえなくなったことが記されているところがあります。聖書はそのヤコブがエサウに再会する場面を書いています。
 ヤコブは一度はエサウから殺されそうになって故郷を逃げ出して、どうにもならなくなって再びエサウに会わなくてならないのですが、沢山の贈り物を用意してエサウと会うわけです。
 しかしエサウのほうはそのヤコブを一つも非難しないで受け入れるのです、ヤコブを赦すのです。その時ヤコブはエサウに対して「もしご好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受けください。兄上のお顔はわたしには神の御顔のようです」というのです。

 あのきわめて世俗的なエサウの顔が、神様の御顔のように見えたというのです。それはエサウが自分を赦してくれたからであります。人の罪を赦す時には、赦されるほうからいったら、神様の顔のように見えるということであります。それは赦しは神の本質だからであります。

 人を裁く時は、われわれは自分を神の座につかせ、結局はあの神のようになるというアダムの罪を犯している、それに対して、人を赦すときには、神の本質のわざを行っているのであって、少なくも人からは神のように見られるということであります。

 パウロがここで今大変慎重ないいまわしをしているのは、ただ自分は自分を傷つけたものを赦すというだけではなく、コリント教会の人に、彼を赦してあげた欲しいと頼んでいるからではないかと思います。
「その人には多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください」とコリント教会の人々に書くのです。

 自分が赦すと言うことなら、自分の決断ひとつで、できることかもしれません。しかし人にあの人を赦して欲しいと頼むのは大変難しいと思います。赦しは強制しても何にもならないからです。赦すからには、心から赦してあげなければひとつも赦しにはならないからであります。それは愛もまた人に強制できない、雅歌にしばしばでてきますように、「愛のおのずから起こる時までは、ことさら呼び起こすこともさますこともないように」とありますように、愛は相手には強制できない、愛は愛の心がおのずからわき起こるまで待つ以外にない、それと同じように、赦しも相手に強制はできない、だから今パウロはコリント教会の人々に大変慎重な言葉をもって懇願しているのではないかと思います。

 しかも「その人が悲しみに打ちのめされないように、赦して、力づけるべきです」ありますように、本当に相手を赦すということは、赦したあと、その人との交わりを回復し、その人との交わりを再び持続させ、その人を力づけていかなくてはならない、これでないと本当に赦したことにはならないということなのです。
 
 われわれは自分に何かを間違いをした人を赦すことはあると思います。しかし赦したあとは、もう二度とその人の顔を見たくないと思うのではないでしょうか。われわれにできることはせいぜいその程度の赦ししかできないし、その程度の赦ししかしてこなかったのではないか。

 赦して、しかも力づけて、なお交わりを続けていく、そういう赦しかたをしたことがあるだろうか。

 しかし、神様がわれわれを赦してくださったとき、神がわれわれの罪を赦してくださるということは、罪を犯したわれわれの罪を赦し、そのあとも神様はずっとわれわれとつきあってくださる、決して放棄しないということだった。神は今でもわれわれを見捨てないで、われわれとつきあい、われわれを兄弟と呼ぶことを少しも恥じていないのであります。

 九節にはこう書きます。「わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがだ万事について従順であるかどうかを試すためでした。」ここだけをみますと、まるでパウロはコリント教会の人々が万事について自分に従順であるかどうかを試そうとしているような感じをうけますが、その後の文をみれば、これは万事についてキリストに従順であるかどうかを知ろうとしたということであります。
 そのあとこう書いているからであります。「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしがなにかのことで赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです」とあるからであります。

キリストに従順であるかが問題なのです。そしてこういいます。「わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです」。「わたしたちがそうするのは」というのは、わたしたちが過ちを犯した者を赦すのは、ということです。つまり人を赦すということはサタンにつけ込まれないためにそうするのだということであります。

 逆にいいますと、人を赦せないで、いつまでも恨んだり、報復を考えたりしているということは、サタンにつけ込まれるということになるのであります。
それはただ人を赦せないで、報復を考える、恨むということはサタンにつけ込まれることになるということだけではなく、報復を考えたり、恨んだりしないまでも、人を赦さないで、裁くとき、そのことがそもそもサタンにつけ込まれることになるのだということであります。
 つまり、裁くということは、われわれは快感を覚えてしまうからであります。
人を裁いて、裁く人自身が心を痛ませて、悲痛な悲しみをもって人を裁くということは本当に少ないです。われわれは人を裁くときにはどこか密かな喜びを感じてしまう。自分は正義の遂行者だと思ってしまうのです。それがサタンの思う壺なのです。

 主イエスが話されたたとえ話にこういうのがあります。ある人が自分の家の中に住んでいる七つの悪霊を追い出したというのです。悪霊はいったんはその部屋から追い出された。しかしうろうろしているうちに、もと家はどうなっただろうかと、覗いてみると、そこはきれいに掃除がされ、整えられていた。ちりひとつなかった。それで悪霊は自分よりも悪いほかの悪霊を七匹もひきつれてやってきてその家に入り込み、住み着いてしまったというのです。そこはきれいにはなってはいたが、空き家になっていたからだという話であります。

 これは恐らく、当時の義人、ファリサイ派の人々、律法学者たちを皮肉った話ではないかと思われます。自分たちは律法を守って清廉潔白だなにひとつ悪いことはしていないと、自分を誇って、そうしては、律法違反者を重箱の隅をつつくようにしてみつけては裁いている、そこがサタンのねらいだ、サタンにつけ込まれるところだということであります。

 あるいは、この話はファリサイ派の人々についての話ではなく、クリスチャンの話であるかもしれません。自分は洗礼を受けて清らかな人間になった、もう罪の道には落ち込まない、禁酒禁煙を守り通すのだといっているクリスチャン、自分は清い、自分は正しいと誇っているクリスチャン、それこそサタンにつけ込まれるところだ、なぜなら、彼らの家は空き家になっているからだというのです。つまりはそこには肝心のイエス・キリストが住んでいないからだということであります。主イエスをわきにおいて、どんなに清い人間になったとしても、そこはサタンの住み家になってしまうということであります。

 主イエスがおられるということは、主イエスのあの十字架の罪の赦しがその家全体を支配しているということだからであります。もうそこでは自分の清さなんかは問題ではなく、人の罪を赦せるかどうかが問題だからであります。
 サタンのやり口は、自分は罪人だと打ちし折れている心の中にではなく、自分は潔白だ、自分は清いと誇っている心の中に忍び込むという手口なのであります。

 主イエスが自分がこれから十字架の道を歩むのだと弟子達に告げたときに、驚いたペテロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエスを諫め始めた時に、主イエスはそのペテロに対して「サタンよ、引き下がれ」と一喝したのであります。
 主の十字架の赦しの道を避けて通ろうとするときに、それはサタンにつけ込まれる、サンタの手口に陥るということであります。