「わたしたちの推薦状」コリントU 四章一ー三節

 パウロはコリント教会の人々にこう訴えます。
 「わたしたちはまたもや自分の推薦をし始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状がわたしたちに必要ななのでしょうか。」

ここはコリント教会のある一部の人々から、パウロに対する反感があって、パウロなんて人は伝道者ではない、牧師ではないという人があったと思われます。それでパウロは自分はあなたがたにその弁明をするために、だれかの推薦状、つまりパウロは立派な使徒だという推薦状が必要なのかと嘆いているのであります。

 推薦状というものは、他の人が書くのが普通であります、それが常識であります。しかし、本当は推薦状は、自分で書く、自分で自分のことを相手に自分はこういう者だと書くのが本当だと思います。自分のことは自分が一番よく知っているからであります。
 しかし、それを読んだ相手はなかなか信用しない、自分で自分を推薦するなんて信用できないというわけです。そこには嘘があるし、自分にとって都合が悪いところは隠すだろうし、誇張があるだろうし、というわけで、自分で書いた推薦状は信用されないのであります。

 そんわけでわれわれは自分で自分の推薦状を書くのをやめて、誰かに自分のことをよく言ってくれる人を探して、推薦状を書いて貰うわけです。

 しかし考えてみれば、他人に自分の推薦状を書いてもらうというのは、悲しいことであります。自分がいうことをそのまま信じてもらえないということは悲しいことであります。他の誰かの権威をもってしか自分のことを推薦できないということは悲しいことであります。

 ここでパウロは「またもや自分を推薦し始めているのか」といっています。「またもや」というのですから、パウロは前に自分で自分を推薦したことがあるからであります。ガラテヤの信徒への手紙の初めのところは、パウロの自己推薦状だといってもいいくらいであります。

 その出だしは「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」という言葉で始まっていて、まさにこれは自己推薦の手紙であります。

 大体パウロは他人から推薦状など一度も書いて貰ったことがないと思います。というよりは、パウロを推薦できるような人はひとりもいなかったと思います。それはパウロは以前はキリスト者を迫害していたからであります。そのようなパウロがキリストを宣べ伝える使徒となったのだということは、パウロ自身が自分で推薦する以外になかったと思います。言葉をかえれば、神によって推薦していただく以外にないということであります。
 
 パウロはかつてキリスト者を迫害するときには、使徒言行録をみますと、「サウロは、これはパウロのヘブル語の名前ですが、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛りあげ、エルサレムに連行するためであった」と記されております。

 大祭司からクリスチャンを殺してもいいという手紙をもらおうとしたというのです。この手紙は、口語訳では、「添書」、つまり添え書と訳されていて、これはまさにパウロに対する推薦状であります。パウロは自分だけの意志と権威で、つまり自分の責任で、クリスチャンを迫害し、殺すことはできなかったのであります。大祭司の推薦というか、許可を必要としたのであります。

 しかし、パウロは今は全て自分の責任で行動しているのであります。そうであるならば、もう自己推薦、自分で自分を推薦する以外にないのであります。他人からの推薦状を必要としないてのです。もし必要とするならば、神による推薦状、神にって推薦して頂く以外にないということであります。

 その自己推薦が信用されない、生意気だと誤解されるわけです。パウロは悔しかったと思います。情けないと思ったと思います。それでパウロは少し開き直って、「それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいは、あなたがからの推薦状が必要なのか」と、皮肉っているのであります。

 そして開き直ったついでに、パウロは「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。」と書くのであります。

 これはパウロがイエス・キリストの福音を宣べ伝え、それをあなたがたが受け入れ、救われ、そして信仰の道を歩んでいる、それがわたしが本当の伝道者だ、わたしが使徒であるということのなによりもの推薦状になっているではないかということであります。
 これは見方によれば、なにかずいぶん、傲慢にも思われることであるかもしれません。「あなたがたはわたしのお陰で救われたのではないか」といっているようにもとられるからであります。

 しかしパウロはそのあと、「あなたがたはキリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています」というのであります。つまり、これは「わたしが書いた手紙ではなく、またわたしのことについて書かれた手紙でもない、キリストご自身が私達を通して書かれた手紙、キリストご自身がお書きになった手紙だ」といっているのです。
 いわばパウロをはじめてとする伝道者はキリストの口述筆記者であるということであります。口述筆記者が前面にでたらおかしいのです。口述筆記者が最後に署名するなんてことはないのです。最後はキリストが署名するわけです。

 伝道の一番難しいところは、そこにあると思うのです。伝道者は自分を出してはいけない、ただキリストを証しなくてはならないということであります。しかしそうかといって、伝道者は無色透明な人間でもなければ、コンピューターのような機械でもなければ、みなそれぞれ個性をもった、いわばそれぞれ癖をもった人間なのです。

 イエス・キリストの道ぞなえをしたバプテスマのヨハネという人がおりますが、彼は人々から「あなたは誰ですか」と問われたときに、こう答えているのであります。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』という神の声を伝える声にすぎない、自分はメシアではない」というのです。

自分はキリストのために道ぞなえをする「声」に過ぎないというのです。そのかたの前に立ったならば、自分はそのかたの靴のひもを解く値打ちもない、なぜなら自分はただの声に過ぎないからだというのです。

 キリストを証する者は「声」に徹しなくてはならないのです。しかし、現実にはなかなかそうはなれない。「声」になれたら、「声」だけになれたら、どんなにいいだろうかと思うのです。しかし伝道者はパウロがそうであったように、個性があり、その生身の人間全体を通して、神の真実を、キリストを証していく以外にないのです。

 レオナルド・ダビンチの刻んだ彫刻に「ヨハネの手」という作品があるのだそうです。バプテスマのヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」といってイエスを指さした「手」を描いた彫刻だそうです。しかしそこには、ヨハネの顔も、体も彫刻されている。しかし、その作品には「ヨハネの手」と名前がつけられている。それはそのヨハネがキリストを指さしている「手」だけが大切だ、それが証ということだということだと思います。

伝道者は、牧師は、「声」だけにも、「手」だけにもなることはできない。その背後に伝道者の生き様がある。しかしその全体が、体全体、目も口も頭も、その伝道者の性格の癖も、悪さも良さも、その全体が、キリストを証する「声」となり、「手」となるということであります。

 伝道者は確かに、キリストが書かれる手紙の口述筆記者であります。しかしそれはいわゆる口述筆記者のように無個性に、ただ機械のように筆記するわけにはいかなくて、伝道者という生身の人間を通して証されていくのであります。
 
 説教も同じであります。そこで証されなくてはならないのは、神の言葉であって、説教者の思想でもなければ、神学でもないのです。そのために、できるかぎり説教者の個性というものを消そうとして、あるいは隠そうとして教会によっては、説教者は、しばしば黒いガウンを着て講壇に立つのです。しかしその黒いガウンそのものが一つの権威を帯びてしまう、それは信徒との違いを強調する衣服になってしまう、そしてやがてその黒いガウンにも等級がつけられて、白いガウンになったり、はなやかなきらびやかな色のついたストールを身につけるということになっていくのであります。

 それならば、もうガウンなどは初めから着ないで、あるがままの姿をさらけだすほうがいいのではないかと思うのです。大事なことは、そういうあるがままの生身の姿が、土の器であること、その土の器に、神の宝をお入れして、その宝を証していくということであります。

 「あなたがたはキリストがわたしたちを用いてお書きなった手紙だ」というのてす。「あなたがたはキリストの手紙だ」ということです。それはつまり、あなたがはキリストがお書きなった推薦状だということではないでしょうか。誰に対する推薦状かといえば、世間に対する推薦状であります。

 われわれクリスチャンはキリストが世間に対して推薦状を書いていただいている者だということであります。つまり、この人は信用していい人ですよ、この人は大丈夫だと保証してくれている、キリストが保証してくれているというのです。このキリストの推薦状は、いわばキリストの保証書でもあるのではないか。

 わたしが神学校を卒業して牧師として赴任する時に、学長から卒業生みんないわれたことのひとつは、牧師は借金の連帯保証人になってはいけない、ということでした。牧師にはそんな能力はもっていないのだから、連帯保証人にたげはなるなといわれたものであります。その学長の言葉を言質にして、前の教会で教会員から連帯保証人になってくれと頼まれたときに、お断りしたことがあります。連帯保証人なるということは、本当に大変ことであります。

 キリストはいわばその大変責任の重い連帯保証人になってくださったということであります。そのような推薦状をわれわれの心に書き込んでくださったということであります。

 ヨブが友人から、お前がこのような悲惨な目にあっているのは、罪を犯したからだと攻められたときに、自分は決して罪をおかしていないと彼はどんなに弁明しても友人に聞いてもらえなかったときに、ヨブはこういうのです。
「天にはわたしのために証人があり、高い天にはわたしを弁護してくださるかたがある。人々はなおわたしを嘲り、わたしの目は夜通し彼らの敵意を見ている。あなた自ら保証人になってください。ほかの誰がわたしの味方をしてくれましょう」というのであります。 

 今キリストがその保証人になってくださって、われわれのために推薦状を書いてくださっているというのです。

 そしてその推薦状は、「墨ではなく、生ける神の霊によって、石の板にではなく、人の心の板に、書き付けられた手紙だ」というのであります。
それは墨で石の板にみんなにすぐわかるように書かれた手紙ではないのです。われわれの心の中に書き付けられた手紙だというのですから、表からは、すぐわかるような手紙ではないのです。

 つまりわれわれが自分の生き方で、われわれ自身の生活の仕方においてあらわしていく以外に公にされることのない手紙なのです。それはもちろん、クリスチャンになったといって、なにかクリスチャンらしい品位を身につけるなんてことではなく、いつも自分の弱さとかもろさの中に、自分という土の器のなかにおかれている神の宝を証していく生活をするということであります。
 どんなときにも、倒れても、失敗しても、途方にくれても、行き詰まっても、その都度、その都度、そこから立ち上がっていくというように、自分の力でいきているのではなく、外から上から支えられて生きているのだということを証していく、伝道者がそうであるように、われわれ一人一人も、自分の生身の生活を通して、神から推薦状をいただいてる者として生きていくということであります。
 
われわれひとりひとりに、キリストは推薦状をわれわれの心のうちに記してくださっているのであります。キリストがわれわれの連帯保証人になってくださっているのであります。