「新しい契約」 コリントU 三章四ー一一節

 パウロはコリント教会の信徒に対して、あなたがたは「キリストがあなたがたに書き付けられた手紙」といいました。そしてその手紙は、石の板ではなく、あなたがたの心の板に書き付けられた手紙だというのです。

 そして今日学ぼうとしておりますところの六節では、「神はわたしたちに新しい契約に仕える資格、文字ではなく、霊に仕える資格を与えてくださった。文字は殺し、霊は生かします」というのであります。

 ここでパウロが「新しい契約」といっているのは、エレミヤ書の三一章三一節からの言葉を思い出していると思います。そこではエレミヤがこういっているのであります。
 「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約はかつてわたしが彼らの先祖の手をとってエジプトの地から導きだしたときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらす、彼らはこの契約を破った。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主はいわれる。すなわち、わたしの律法を彼の胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」。

 ここでいわれている「古い契約」とは、あのモーセが出エジプトを果たしたあと、シナイ山で主なる神から石の板に書き付けられた十戒の律法のことであります。その律法は文字として、石の板に書き記されたのであります。しかしその律法はイスラエルの民によって、踏みにじられた、その契約は破られたというのです。その律法では人々を救うことにはならなかったというのです。

 石の板に文字として記された律法は、人を救うことにはならないで、かえって人を殺すことになったというのです。

 その律法は、七節では、「石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務め」といい、さらに、九節では「人を罪に定める務め」といわれております。

 今キリストによってわれわれの心に書き付けられた手紙は、キリストがわれわれの連帯保証人なってくださる、われわれに対するキリストの推薦状であるとすれば、モーセが主なる神からあたえられた律法はいわばわれわれの罪を告発する告発状になってしまったということであります。

 なぜ律法はそのようなものになりはててしまったのでしょうか。それは律法が石の板に文字として記されたからであります。律法は今日でいう法律のような性格になってしまったからであります。

 律法と法律とは大変似ているようですが、本質的に違うと思います。法律というのは、もちろん人間の知恵でつくったものでしょうが、それはいったん作られて文字として定着したら、もはや誰が作ったかは問題ではなく、ただ法律書に記された文字だけが、つまり条文だけが問題になります。

 しかし律法はそれに対して、誰が律法を作ったか、その律法を命じたかたは誰かということが最大級の重要事であります。つまり律法は、その律法の文字に忠実に仕えることが最後の目的ではなく、その律法を命じ、その律法を作られた主なる神に仕えるということが最大の重要事であるということであります。
 
 法律には作者は不要ですが、律法には作者が大事なのです。

 それはどういうことかといいますと、律法はその書かれた文字を守るかどうかが最後の目的ではなく、その律法に書かれた文字を守ることによって、主なる神の御心に仕えるかどうかが問題なのだということであります。その律法にこめられた律法の作者の意志に仕えるかどうかが問題なのだということなのです。

 そのことを主イエスは言われたのです。律法には「人を殺すな、殺した者は裁きを受ける」と記されている、しかし「わたしは言っておく、兄弟に対して腹を立てるもの、兄弟に対してバカという者は、裁かれる、火の地獄に投げ込まれる」と言われるのであります。
 あるいは、律法には「姦淫するな」と書かれているが、「みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でもすでに心の中でその女を犯したのだ」といわれます。

 つまり、律法のなかの文字さえ守っていれば、もうそれで律法を守ったと思っているかも知れないが、大事なのはその文字として書かれた律法に込められている神の御心を知ることなのです。主なる神が「殺すな」という律法で言おうとしていることは、ただ具体的に殺さなければいいといわれたのではなく、「殺すな」という律法で言おうとしたことは、「人に対してバカというな」「人を傷つけるな」ということを言おうとしたのだということであります。

 そして最後には、「目には目を、歯には歯を」という律法、それはまるで復讐を奨励しているように思われる律法は、それをただ文字面だけをみれば、そう読めるのですが、本当はそうではないのです。当時は七倍の復讐が当然だと考えられていた社会のなかで、復讐は七倍ではなく、一倍にとどめよ、つまり、片目をつぶされたら、相手の片目だけを傷つけよ、という律法なのです。われわれは片目をつぶされたら、それを倍にして両目をつぶしにかかるのです、それが復讐の論理であり、復讐の心理であり、復讐の美学にすらなっているのです。

しかしそれでは復讐はエスカレートするだけだ、「目には目を」という律法はその七倍の復讐を一倍の復讐にとどめよという律法なのです。その趣旨をくんだら、これは復讐を容認する律法ではなく、復讐をなんとかしてやめさせようとする神の意志が込められた律法だということがわかるわけです。そのことを考えたら、主なる神のみこころはあきらかだろう、その律法は「悪人に手向かうな、あなたの右の頬を打つなら、左の頬を向けよ」ということになるではないかと、主イエスはいわれるのです。
法律書として「目には目を、歯には歯を」という条文があったら、それは文字だけが機能しますから、そこから右の頬を打たれたら、左の頬を向けよ、などという発想はでてはこないのです。

 主イエスは、律法の文字さえ守ればいいと思っているわれわれに対して、その文字の背後に隠されている、いや、決して隠されているわけではなく、素直に読めばはっきりと示されている主なる神の意志を読み取れといわれるのであります。その律法の文字の背後にある神の意志を隠してしまったのは、われわれなのです。

 パウロはそういう意味でかつては、自分は律法を守ったという点では落ち度がなかったといっているのです。それは文字としての律法を守ったというだけの話であります。

 われわれも同じであります。われわれも人を殺したことはないでしょうし、姦淫を犯したこともないでしょう。それで律法を守ったと自負できるかということなのです。

 ところが法律というのは、六法全書に書かれた文字だけが守られているかどうかで争われるわけです。そのために弁護士が大活躍するわけです。裁判官も検事も、律法の文字に、その条文に、のっとているかどうかで争うわけです。それはアメリカの裁判の映画とか小説をみていたら明かです。よく弁護士が、依頼を受けた被告に言い含めるのは、あなたが人を殺したかどうかは問題ではない、それが法にのっとっているかどうかが問題なのだというのです。人を殺したかどうかはしばしば弁護士は聞きもしない、聞きたくもないかのようなのです。すべては法律の文字によって、無罪をかちとるかどうかが問題なのです。

 そこでは、犯罪という罪の問題ではなく、法律をめぐる法解釈を巡る問題になってしまっているのであります。

 神が命じられた律法が、文字としての律法になってしまったら、それは人を告発するだけの法律書になってしまうのであります。それはその文字としての律法を守れない時には、人を裁き、そしてそれは人に死の宣告を与え、人を殺すだけの律法になってしまうのであります。
 しかし、神が与えた律法はもともとそういうものではないのです。たとえば、人を殺してしまったときに、われわれはその律法に「人を殺すな」と書いてあることを知って、「わたし人を殺してしまった、罪を犯しました」と、その律法を通して主なる神の前にひれ伏すことが大事なのです。

 ダビデがそうでした。ダビデが自分の罪を隠蔽するために卑劣な手段で自分の部下を殺したときに、そしてその罪が告発されたときに、ダビデは「わたしは主に罪を犯しました」と告白するのです。すると主なる神は「わたしはお前の罪を赦す」といわれたのであります。もうここでは律法の文字としてのやりとりは克服されているのであります。

 つまり律法というのは、その文字を守ればいいということではないのです。その律法の書かれた文字を通して、自分の罪を知り、主なる神のところに出ていく、そして悔い改めの罪の告白をすること、そのための律法なのです。
 それは律法を守れたときにも、自分はあなたの律法を守れました、わたしにとっては律法は自分の生活を導く指導書です、律法はわたしにとっては甘い蜜のようなものです、この律法によってわたしの生活はととのえられていますと、自分を誇るのではなく、律法を守れたことを主なる神に感謝するために、神の前に出ることなのです。それが律法の役割というものであります。

 律法は、その文字を完璧に守ることが目的ではなく、その律法を通して神に導かれることが、律法の目的というものであります。

 しかし律法がひとたび文字として書かれ、文字として定着されてしまうと、その文字としての律法は人を殺すことになり、ただ人の罪を告発し、死を言い渡す役割しか果たせなくなってしまったのであります。

 それは文字としての律法を守れない時に、われわれは勝手に自分で自分に絶望して、もうこういう罪を犯した者を神は赦してくださるはずがないと思いこんで、神のもとに悔い改めにいこうとしないで、ますます神から離れて自暴自棄になっていって、それはやがてわれわれの生活を死の陰へと導くことになるのであります。

 しかしもっと深刻なのは、パウロがそうであったように、律法の文字を守れた時です、守ったとわれわれが自負し、守ったと錯覚しているときであります。自分は人を殺していない、自分は姦淫をしていない、自分は週のうち二度断食死、十分の一の献金をきちんと捧げていると思っている時なのです。その時にはどういうことが起こっているか。それは神の義に従うのではなく、ただ自分の義を主張していることになって、神から遠ざかっていくのであります。

 それはその人から信仰を奪い、その人を死へと告発することになるだけなのであります。
 パウロはそのことをこういうのであります。「掟が登場したとき、罪が生き返ってわたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くことになった」というのです。そうして、「わたしはなんと惨めな人間なのだろう。死に定められたこの体から、だれが自分を救ってくれるだろうか」と、嘆くのであります。

 そうして、すぐそのあと、パウロは「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」とイエス・キリストを仰ぎ見るのであります。
 これが「文字は殺すが、霊は生かす」ということであります。

 エレミヤは、文字としての律法が廃棄されて、「神は律法を人の胸の中に、人の心にそれを記す」というのです。そのようにして、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」というのです。そしてその新しい律法による、新しい契約は、もはや「隣どうし、兄弟どうし、『主を知れ』」と言って教えることはない」というのです。

 つまり、律法のように上から一律に、それぞれの弱さとか環境とか、それぞれの個性を無視して、これを守れ、これを守らないと地獄行きだといって、脅かすように律法を教える、もうそういう教え方はしないというのです。

 新しい律法は、神ご自身が「小さい者も大きい者もわたしを知るからである」というのです。つまり、小さい者は、小さい者なりに、大きい者は大きい者なりに、その人の力量に応じて、その人の個性に即して神に従う道が与えられる、それは決して上から一律に押しつけられる律法ではなく、神がその人の心のなから、その人の自発性を促すようにして、導くというのであります。

 その目的は、なによりも「わたしは彼らの罪を赦し、再び彼らの罪に心を留めない」からだというのです。全ては罪の赦しという大前提があり、そこから出発するのであります。

 パウロはそういう新しい契約を宣べ伝える資格を与えられたのだ、そういう伝道者であり、使徒なのだ、だからそれはモーセが与えられたあの栄光よりも、もっと栄光に満ちたものではないかと、無邪気にうれしそうにいうのであります。

 新しい年を迎えて、われわれもまたこの新しい契約のもとで神に従い、隣人を愛していく一年を歩みたいと思うのであります。