「主の霊の自由」 コリントU 三章一二ー一八節

 一三節をみますと、「モーセが消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません」とあります。これはどういうことかといいますと、旧約聖書の出エジプトに記されていることなのですが、モーセがシナイ山にいって、主なる神から十戒をいただいたときに、モーセは神と直接話をしたので、その顔は光で輝いていたというのです。そしてモーセははじめはそのことに気がつかないで、山を下りて民衆の前に出たときに、人々はモーセの顔の輝きを恐れて近づけなかった。それでモーセは顔覆いをかけて話をしたというのです。ここのところは、出エジプト記の記事と少し違うのですが、パウロはそこは自由に引用しております。

 そしてそのことをとらえて、パウロはモーセが顔おおいをかけたのは、自分が神からいただいた栄光の輝きがやがて失せていく、消えていく、そのことを知っていて、それが人々に見られるのを恐れて、顔覆いをかけたのだと解釈しているのです。これはパウロの解釈で、出エジプト記の記述とは違います。

 ともかく、ここでパウロがいいたいことは、律法を通して神の御心をしろうとしても、それは正しく神のみこころを知ることはできない、それはまるで顔おおいをかけて知ろうとするとするようなものだということなのです。それが一五節の「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれる時は、いつでも彼らの心には覆いがかかったままのです」ということなのです。

 律法というもので、神のみこころを知ろうとすると、神の御心を正しく知ることはできない。それはなぜかというと、律法はわれわれに恐怖感を与えるからであります。律法を守らないと、お前は神に呪われる、地獄行きだと脅かされるからであります。律法を守れないと神に呪われると言い聞かされたら、われわれは恐怖感にとらわれてしまって、守れる律法も守れなくなってしまうかもしれません。失敗は許されないとおどされていたら、かえって、失敗してしまうからであります。
 
 われわれは恐怖感に捕らわれているときには、ものを正しく見ることはできないものです。それは子供の時によくした肝試しなどを考えてみたらよくわかります。恐怖感があるときには、こんにゃくでもそれは幽霊の手に感じられたりするわけであります。

 ヨハネの手紙には、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからだ」と言う言葉があります。
 「恐れには罰が伴う」、口語訳では、「恐れには懲らしめが伴う」となっていますが、これは逆にいいますと、罰があるから、懲らしめがあるから、恐れが生じるということであります。

 聖書の言葉も、もしそのように、律法をまもらなかったならば、神に呪われるとか、地獄行きだとか、そういう言葉が現に記されているところがあるわけで、そういうところから、聖書を読んでしまうと、聖書を正しく読めなくなってしまうのであります。

 ときどきお話してきたと思いますが、わたしなども聖書に最初に出会ったのがそういう箇所でした。中学に入って、そこがキリスト教主義の学校だったために、そこで聖書にはじめてふれれたのですが、どこの学校でもそうだと思いますが、一番はじめに教えられる聖書の箇所が、マタイによる福音書の五章から始まる、いわゆる昔風にいえば、「山上の垂訓」、イエスが山の上で説教されたというところであります。そしてそこでは強烈な言葉があって、これも口語訳ですけれど、「情欲を抱いだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げいれられない方があなたにとって益である。」という言葉があって、別にいつも情欲をいだいて女の人をみていたわけではありませんが、これを読んだときに、キリスト教の倫理の厳しさとか、その崇高さに一面ではあこがれるわけですが、しかしそれ以上に神様の厳しさ、怖さにふれさせられてしまうのです。

 そしていったんそういう恐怖心、罰や懲らしめが伴う恐怖心で聖書を読んでいけば、どんなに聖書の他の箇所で神の大きな愛が書かれていても、それは自分に語りかけている箇所ではなく、善い行いをしている者に語りかけている箇所なのだとしか読めなくなってしまうのであります。それこそ、顔おおいをかけたままま、聖書を熱心に読むことになってしまうのであります。
 
 それがパウロのいう律法主義ということですが、そのように律法主義、律法を守ったら救われる、守れなかったら裁かれる、罰を受ける、そういう律法主義的なな考えで聖書を読んでいたら、いつも視線は自分の行いに、自分の思いにばかり目が向けられて、自分から離れることができないで、目を自分から離して神の方ら目を向けるということはできなくなってしまうのであります。

 したがって、そこには全く自由というものがなかったのであります。われわれは自分というものにとらわれている限りは自由というのはないのです。律法にとらわれるということは、結局は自分に捕らわれるということであります。自分のことばかりが気になってしまうのであります。

 わたしが前に牧会しておりました教会には、熱心な青年がいて、その人はいつもいつも自分のことを気にしておりました。何かの会に出席するといつも熱心にいろいろと発言するのですけれど、帰り道には、必ず自分の言ったことは正しかったかどうか、どのようにみんなが自分のことを評価してくれたかとのことばかり気にしていまして、もううんざりさせられたのであります。他人はあなたのことなんかそんなに関心はもっていないよといいたくなるくらいであります。

 ひとたび律法主義という覆いをもって聖書を読むと、聖書は正しく読めなくなります。わたしはその律法主義というおおいをとりのぞくためには、教会に熱心に通いながら、実に十年以上も年月がかかったのであります。その間に洗礼も受けてもなおそのおおいは取り除くことはできなかったのであります。

 そしてそれはそのおおいは自分からは取り除くことができないで、結局は上から、神さまのほうから取り除いていただくまでは、それを取り除くことができなかったのであります。

 このことは先週にも引用いたしましたが、旧約聖書の預言者エレミヤがすでにいっていることであります。エレミヤは、主なる神は新しい契約をお前達と結ぶと預言するのです。その新しい契約は、神のみ心を律法として石の板に文字として記すのではなく、われわれの心に直接記す、それによって「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民とな」というのです。そしてその新しい律法は、人から強制的に教えられるのではなく、命ぜられるのではなくて、小さい者から大きい者にいたるまで、そのひとなりの個性に即して、その人の自発性を重んじて、神の御心が伝えられるというのです。なぜなら、この新しい契約の大前提には、「わたしは彼らの罪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」という神のみこころがはっきりと刻み込まれるからだというのです。

 すべては「罪の赦し」という宣言から始まるのだというのです。これが覆いを取る大前提なのです。
 それをヨハネの手紙の先ほど引用しました箇所「恐れには罰が伴う」という箇所でいわれていることであります。
 そこの箇所は「神は愛である」という言葉から始まっている箇所であります。ヨハネの手紙四章一六節からの箇所です。「神は愛です。愛にとどまる人は、神のうちにとどまり、神もその人のうちにととどまってくださる。こうして愛がわたしたちのうちに全うされているので、裁きの日に確信を持つことができる。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです」というのです。

 ここでは裁きの日なんか来ないというのではないのです。裁きの日が来るというのです。裁きはあるのだというのです。しかし「裁きの日に確信をもつことができる」というのです。それはもちろん自分の業が、自分の行いに確信がもてる、自信がもてるからではないのです、ただ神の愛が、あのエレミヤの言葉、「わたしはお前の罪を赦す、もうお前の罪に心を留めない」という神の愛の言葉を信じているからであります。

 そしてそのあとに、「愛には恐れはない、完全な愛は恐れを締め出す」と続くのであります。しかもそのあとに、その愛について説明されていて、続いてこういうのです。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからだ」というのです。その前のところでは、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになった。ここに愛がある」というのです。
 愛があるときに、この神の愛を信じるときに、恐れがなくなり、恐れが締め出され、覆いが取り除かれるのだということであります。

 一五節からみますと、「このために、今日にいたるまで、モーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いがかかっている。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去れる。ここでいう主とは霊のことですが、主の霊のおられるところには自由がある」といいます。

「主の霊があるところには自由がある」というのです。ここでいわれている「霊」をすぐ聖霊に結びつける必要もないと思います。むしろ、ここの関連でいえば、文字としての律法と霊としての神の愛と考えていいと思います。われわれの心のうちに刻み込まれる霊として働く神の愛であります。それが聖霊であるととってももちろんいいわです。

 神の愛が、その神の完全な愛、どんなことがあっても゜お前の罪を赦す」という神の徹底した愛がわれわれを恐怖から解放し、われわれを自由にするのであります。
 
 前に戸塚ヨットスクールという事件があって、スパルタ教育で問題児を指導し、子供を死なせてしまったという事件がありましたが、その事件が問題になった時に、ある人がそのスパルタ教育について、 こう言っているのであります。
「スパルタ教育というのは、ケースによつて差はあるだろうが、意志強固な人間わ造るの出はなく、時には、逆に依頼心の強い人間を造ってしまうのではないか。甘ったれた人間をつくってしまうのではないか。叱られなければ何もできない人間になってしまったといえないだろうか」と、いっているのであります。
そこには、自分で考え、自分の判断で行動するという自主独立の精神、自由というのがなくなってしまっているのであります。
 
 愛がある時に、自由がある。親の愛を信じている子供は実に自由に遊び回ることができるのであります。いちいち親の顔を気にしないで遊ぶことができるのであります。それに反して、いつも親から叱られてばかりいる子供は、始終、こんなことをしたら叱られるのでなはいかと親の顔ばかり気にして行動するということになってしまって、そこにはのびのびとした自由な行動はとれなくなってしまうのであります。

神とわれわれを隔てる顔覆いとは何か。それをある人は罪だと指摘していますが、それは必ずしも正確ないいかたではないと思います。竹森満佐一もこれは人間の罪だといっているのです。「それは人間の頑なさであり、はっきりいえば、人間の罪だ。罪がある限り、神から何かが示されても、それは人間には、おおいがかかっているもののように見えないだ」といっておりますが、それは確かに人間の罪でしょうが、しかしそれ以上に、もっと正確にいえば、罪を犯したら、お前は地獄行きだという律法主義、そういう脅しとしての律法の受け止めかた、それこそが神とわれわれをへだてる顔おおいなのではないかと思います。

 なぜなら、われわれはクリスチャンになっても罪は犯すからであります。罪はなくならないのであります。しかしわれわれはそのときもキリストによる罪の赦しを信じて、神の前に出て、罪の赦しを乞いに神の前に行き、神に祈ることができるのです。神とわれわれは決してへだてるものはないのです。

 われわれと神との間をへだてる顔おおいは、ただわれわれの罪ではないのです。律法による脅しであります。「わたしはあなたの罪を赦す、罪を心にとめない」という神の赦しの宣言を聞こえなくさせてしまう律法主義、律法のうけとめかたであります。

 だからわれわれは主の向かう時、キリストを信じたときに、キリストを通して神の愛を信じるようになったときに、顔おおいが取り除かれるのです。たとえ罪を犯し続ける罪人であってもです。

 そして、一八節ではパウロはこういいます。
「わたしたちは皆、顔の覆いが除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく、これは主の霊の働きによる」というのです。
 
 救われたわれわれは罪人であることには変わりないのです。罪は犯し続けるのです。しかしそれでもわれわれは栄光から栄光へと主イエスと同じ姿に変えられていくというのです。ここにはいわゆる聖化ということが言われているのです。
 
 わたしは説教のなかで、もう何十年も説教してきたわけですが、説教のなかで聖化ということを口にだしたことは一度もないのではないかと思います。聖化とか栄化、ここでは、栄化ということがいわれているのですが、それはまありにも信仰者としての自分の現実にそぐわない気がするたらであります。申し訳ないですが、みなさんの現実をみても聖化されたとはとても思えないですし、どんな牧師をみても、どんな神学校の先生方をみても、聖化が大事だと盛んにいう先生に限って、とても聖化とはほど遠いのをみて、もういっそうのこと、キリスト教の神学から聖化というテーマは取り除いてしまったほうがいいのではないかとすら思いたくなるのですが、しかし聖書には、きょうのところにも、聖化とか栄化をさす言葉があって、それがあるかぎり、それを取り除くことはできないなあと思わざるをえないのです。
 
 ここでひとつほっとするのは、「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられる」といわれている、つまりいきなり神の姿に造りかえられる、というのではなく、キリストと同じ姿に変えられていく、といわれているところであります。

 イエス・キリストが栄光に輝いた時は、その生涯でただ一度あります。それはイエスが自分は十字架で死ぬのだと、そうしないと人々を救うことはできないと決意した時であります、イエスが山に登るとそこにモーセとエリヤが現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最期のことについて話していた、そのときにイエスの衣が真っ白に輝いて栄光に包まれたというのです。
 つまり、イエスの栄光とはあの十字架につくということ、ご自分が神の子であることを捨てて、人の子として自分を低くして、みんなからさげずまれ、その辱めを受けようとされた、その決意をしたときに、、その時に栄光に輝いたというのです。
そういう栄光であります。われわれもわれわれなりに、このキリストに従っていこうと歩んでいるならば、自分ではひとつもその自覚はありませんけれど、いつかはキリストと同じ姿に変えられていく、その望みをここでは与えられているということであります。

 あえて、聖化とか栄化という言葉は使いたくないし、むしろそういう言葉は誤解を与えますから避けたいのですが、聖化とか栄化という言葉よりは、変化とか信仰の成長という言葉でいいあらわしたほうが言いように思えます。われわれがキリストの赦しを受け、それを信じて歩み続けるならば、われわれもまた変化する、成長する、それは信じなくてはならないし、信じてもゆるされるのではないかと思うのであります。