「憐れみを受けた者として」 コリントU四章一ー六節

 四章の一節からみますと、「こういうわけで、わたしたちは憐れみを受けた者としてこの務めを委ねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心に委ねます」といいます。ここではパウロは「わたしたち」と、複数形で言ってはいますけれど、実際は自分のこと「わたし」といってもいいところです、むしろ「わたしは」というべきところだと思います。

 あらためてこのコリントの信徒の手紙の第二の手紙を読んで気がついたことは、この手紙全体が終始、パウロの自己弁明の手紙だということであります。それは自分が伝道者なのだ、本当の伝道者なのだ、神から直接召命を受けた伝道者なのだとコリント教会の人々にしきりに訴えている、そういう内容だということなのであります。

 今日の箇所もそうですし、五章の一一節からも「主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々に説得を務めます。わたしたちはは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません」といっています。

 あるいは六章のはじめでは「わたしたちは、また神の協力者としてあなたがたに勧めます」と、自分のことを「神の協力者」だと弁明したり、七章の二節でも「わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれに対しても不義を行わず、だれをも破滅させず、誰からもだまし取ったりしませんでした」と、弁明しています。

 一○章の一節からは、「さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出ると思われているこのわたし、パウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたにお願いします」といいます。これも自己弁明といえるかもしれません。

 あげていったらきりがないので、その都度その箇所で学ぶところになりますが、こうしてコリントの手紙の第二の手紙をみますと、これはパウロのコリント教会に対する自己弁明の書だ、あるいは、自己推薦の手紙だということなのです。パウロはしきりに自分を推薦するのではないといいながら、結局は自己弁明というのは、裏を返すと、自己推薦になると思います。
 
 もうパウロは必死になって、自分は伝道者なのだ、神から召命受けた本当の伝道者なのだから、自分のいうことを信じて欲しいと訴えているということがわかります。これがこのコリントの信徒への手紙が、神学書ではなく、ひとつの手紙であるという面をあらわしているということであります。

 自己弁明くらい嫌なものはないかもしれません。本当はもう自己弁明しないでいられたら、こんなにいいことはないし、こんなにかっこいいこともないと思います。自己弁明というのは、かっこわるいことであります。見苦しいことであるかもしれません。それは場合によっては、自己推薦にもなるからであります。しかし伝道というのは、自分のかっこよさを売り物にするわけではなく、どんなにかっこわるくても、自分のことを弁明しなくてはならない時はあるわけで、それをしなくてはならないと思います。
 
 というのは、福音というものは、いつもいいますように、コンピュータによって伝えられていくものではなく、生身の人間を通して伝えられていくものだからであります。神はひとりの人間の口とその生き方を通して福音を伝えさせようとお考えになったからであります。

 伝道者という生身の人間が誤解されていれば、彼は必死になってその誤解を解かなければならない、そういうことをしながら、福音そのものもまた証されていくものであります。そういう伝道者と信徒との絡み合いというか、複雑な微妙な人間関係の中で悲しんだり喜んだり、怒ったり、がっかりしながら、そうした中でお互いに赦しあったり、あるいは、赦すことの困難を身に沁みて味合うということを通して、改めて神からの赦しを乞う、そのようにして、福音というのは、証されていくものであります。

 そして今日学ぼうしております四章の一節では、パウロは自分のことを「わたしは憐れみを受けた者としてこの務めを委ねられているので、落胆しない」というのです。
 パウロは自分が伝道者であるということを弁明するときに、「自分は憐れみを受けた者なのだ、神の憐れみを受けた者なのだ」と、弁明する、この弁明の言葉ほどパウロの伝道者としてのありかたをよくあらわす言葉はないのではないかと思います。

 これはただ自分は神の恵みを受けた者だというのではないのです、その神の恵みというところを、「憐れみ、神の憐れみを受けた者」というのです。ここでパウロは「自分は憐れみを受けた者なのだ」というのです。自分は神の憐れみを受けた者として、今伝道者として立っているのだというのです。

 それは考えみれば、パウロはかつてはキリスト教徒を迫害して、キリストに激しく反抗していた人だったのです。そのパウロがあのダマスコの途中で突然、キリストに出会って、「なぜお前はわたしを迫害するのか」とキリストの呼びかけの声を聞かされて、百八十度転回して、キリスト教の伝道者になったわけですから、これはもう単に「神の恵みを受けた」という言葉ではいいあらわしようがないことだったのでなはいかと思います。あんなに激しく愚かにもキリストを迫害していたのに、その自分がキリストから声をかけられ、その一切の罪が赦されて救われた、そしてその福音を宣べ伝える者となったということを考えたら、「神の憐れみを受けて」としかいいようがなかったと思います。この言葉の背後には、自分は本当に罪人だった、罪人の頭だという思いが込められていると思います。 
 それはわれわれも同じではないでしょうか。われわれもまた単に「神の恵みを受けた者」というよりは、自分のことをよくよく考えてみたら、「憐れみを受けた者として」と言わざるをえないのではないか。

わたしは竹森満佐一の説教に全面的にひかれますが、同時に鈴木正久の説教も好きですが、その鈴木正久の説教の中にあったと思いますが、なにかのことで自分の醜さを知らされて、その帰り道、満員電車にのった。そのとき人から足を踏まれた。ふだんの自分だったならば、怒っただろう。しかしそのときは、自分はこうして足を踏まれても、文句も言えない、どうしようもない人間なのだと思いながら、じっとそれに耐えていたというのです。わたしはそのイメージがとても好きなのです。自分が罪人だと知ったときに、自分もそうするだろうな、という思いがして、よくその話を思い出すのです。

 そしてもし、自分が罪人だということを受け入れ、そしてその自分が神の憐れみを受けて、今ここにあるということを信じることができるならば、そのことを決して無理していうのではなく、また自己卑下したりひねくれていうのではなく、心底いえるならば、素直にいえるならば、われわれはすぐパウロが続けていうように、「落胆しません」という言葉が続くのではないでしょうか。

 自分は神の前に立ったならば、いや、人の前に立っても、自分は神に対し、人に対して、とやかくいえるような人間ではない、しかし今そのわたしが神の憐れみを受けて、ここに生かされている、そのことが素直に心底からうけとめられたら、人からどんなことが言われようが、誤解されようが、迫害を受けようが、落胆しないのではないか。自分は人からそのようにいわれてもなんの弁解もできないし、そのような仕打ちをうけても仕方ない者だということがわかる、しかし、それにも拘わらず、神によって赦された、憐れみを受けた、その憐れみを受けた者として今立たされている、そうしたら、もうなにがあっても落胆しないのではないか。

 われわれは自分の罪を知り、そしてこの罪人である自分が神の憐れみを受けて赦されている、そのように謙遜になれたら、もう落胆しなくなるのではないか。
「自分ひとりが謙遜になれたら、なにもかもうまくいくのではないか」と、わたしはたびたびいってきましたが、「なにもかもうまくいく」というのは、自分が謙遜になれたら、落胆しなくなるからであります。

 落胆するのは、自分は何か価値ある存在だと思ったり、自分一人でなにかできると考えるから、落胆するのであります。
 しかし神の憐れみを受けて、今の自分があるということを知っている者は、いつもパウロが七節からいっているように、自分を生かすものが自分の中にあるのではなく、自分というもろい土の器のなかに神様の宝をいれているうよなもので、この測り知ることのできない力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことを知っているのであります。だからもう自分に落胆しない、いや、自分に落胆しても、その落胆している自分を生かしてくださる上からの力があることを知っているから、その落胆から立ち上がることができるのであります。

そのあと、パウロは「かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心に委ねます」といいます。ここはリビングバイブルが面白く訳しておりますので、紹介します。「信じさせるために、あれこれたくらむような真似はしません。だましたりは、したくないのです。書かれてもいないことを、聖書の教えであるかのように思わせるこも、決してしません。そのような恥ずかしい方法は絶対に用いません」と訳しています。

 人に何かを信じさせるということは、本当に難しいものです。ですから、ついマジシャンがやるように人をだましたりして、信じさせたくなるものです。人を洗脳したり、脅したり、したくなるものです。「信じさせるために、あれこれたくらむようなことはしません」ということは、言葉をかえていえば、福音を宣べ伝えるためには、レトリックや心理学は使わないといってもいいと思います。ただ聖書の言葉のもつそれ自体の力を信じて宣教するということであります。

 ここで一つだけ気になるところをとりあげておきたいのですが、それは「神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより」というところなのですが、パウロの手紙を読んでいて気がつくことは、これは夜の聖書研究会に出ていれば、明かなことなのですが、パウロは聖書の言葉である旧約聖書の言葉を引用するときに、しばしばそのまま引用しないで、少しパウロなりに解釈をしながら、引用する時があるということなのです。

 つまり、それはある意味では「神の言葉を曲げている」というところがあるのです。それはどういうふうに曲げているかといえば、パウロは旧約聖書を読むときに、十字架の光り、福音という光のもとで聖書の言葉を読み直しているということなのです。そしてそのようにして、「真理を明らかにしている」ということなのです。

 このことは聖書の言葉を読むときに大切なことであります。聖書をそのままよんでいけば、たとえば、申命記の最期のほうを読めば、律法を守らない者は呪われよ、とか、まるで律法主義的な言葉はいくらでもでてくるのです。それは旧約聖書だけでなく、新約聖書だってそのように読めるところはあるわけです。先週も触れました「山の上の説教」の中にあるイエスの厳しい言葉、「情欲をもって女を見るものは、すでに姦淫したのである、その者は地獄行きだ」といわれているところなども、何か律法主義的なことがいわれていると思われる箇所かもしれません。

 しかしそういうところもわれわれは十字架の光り、罪の赦しという大前提から聖書を読み直す必要があるということであります。少し難しいことをいいますと、そのために、聖書学だけではなく、教義学、この頃は組織神学といいますが、そういうものが大切なのであります。

 神学校では、聖書学だけではなく、いったん聖書から離れて、その聖書全体からみたときに、聖書は何をわれわれに教えようとしているか、そして教会は長い間かかって、何が真理かということを伝えようとしてきたか、その時代、その時代に即して探っていく学問であります。

われわれは聖書全体を読むときに、その一句一句を逐語霊感説的に、逐語霊感説というのは、聖書は一つ一つが神の霊によって記されたものであるから、一点一画もそのまま信じなくてはならならないと言う説ですけれど、そんなふうに読む必要はないのです。
 福音の真理から聖書を神言葉として読んでいくことが大切なのであります。

 パウロはそのようにして、「神の御前で自分自身をすべての良心に委ねます」といいます。ここは口語訳では、「神の御前にすべての人の良心に自分を推薦するのである」となっております。新共同訳では、「自分を推薦する」というところ、「委ねます」と訳しかえているわけです。これはパウロがしきりに、自分は自己推薦するのではないといっているから、ここで「自分を推薦するのである」というのではおかしいと思って、「委ねる」と訳したのではないかと思われます。

 もちろん、これは、自己宣伝するという意味での自分を推薦するという意味ではないと思います。それは五節ではっきりと「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝える」といっているのです。ですから、ここは新共同訳のように「委ねる」といってもいいと思いますが、それよりは、「自分を推薦する」という意味を取って、「神の御前で自分自身をすべての人の良心にさらけ出します」という意味ではないかと思います。伝道者ていうのは、ある意味では自分の生活、生き様をさらけ出さざるを得ないということ、そうしないと福音は証されないということであります。

 もちろんそれは牧師が自分の生活をすべて語らなくてはならいということではないのです。福音を語る者がその福音をどのように生きているか、その悪戦苦闘ぶりの苦しみも、そして、喜びがにじみ出るような説教しなくてはならないのではないかということなのです。
パウロはこの手紙のなかでそれをのべながら、福音を語っているということなのです。

 三節をみますと、「わたしたちの福音に覆いがかかっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が信じようとはしないこの人々の目をくらませて、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音をの姿が見えないようにしたのだ」といいます。

 一節のところで、パウロは「落胆しません」といいましたが、そしてその「落胆しません」というのは、自分に落胆しない、ということだとのべましたが、それは伝道に落胆しないということでもあるかも知れません。ある人が言っておりますが、伝道には落胆はつきものだといっております。伝道者パウロは本当にしばしば落胆したと思います。
 
 パウロという人は自信家にみえるところもありますが、しかし実はしばしば自分の伝道者としての能力というものに落胆したのではないかと思います。こんなに熱心に福音を宣べ伝えようとしているのに、どうして福音が受け入れてもらえないのかと落胆したことだろうと思います。その時パウロは、これは「この世の神が」これは、サタンのことです、サタンのことを神だといっているところは、ここだけだということですが、この世の神はサタンなのです、サタンが邪魔をしているのだとパウロはいっているのです。

 これも、伝道が広がらない一つの解釈かもしれません。あまり、伝道者の能力のなさ、教会の力のなさばかり責めても実りが多いことにはならないかもしれません。やはりサタンがそうさせているのだと考えることも一つの道かもしれません。
 そしてパウロは、サタンの力をここで持ち出した時に、ただちにそのサタンの力よりももっと強力な神の力に目を上げるのであります。
 六節「『』から光りが輝き出よ』と命じられた神は、私達の心のうちに輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」といって、その落胆から立ち上がるのであります。

 われわれもこの新しい年、この一年、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えられて、いつもいつも上を見ながら歩んでいきたいと思います。