「途方に暮れても失望せず」 コリントU四章七ー一五節

 七節をみますと、「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めている。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」とパウロはいいます。

 ここは大変有名な箇所で、わたしも説教のなかでたびたび引用する聖句であります。ここを読む時に、一つひっかかるというか、気になるところがあります。それは「ために」というところであります。
 つまり、われわれは、神の恵みという宝をわれわれ人間の脆い土の器の中にもっている、それはこの並外れた力が神のものであって、われわれから出たものでないことを明らかにするためだ、「ためだ」というのです。いわば、神様はご自分の恵みをより効果的に示すために、何かわざわざわれわれの脆い土の器の中にご自分の宝をもったのだといわんばかりのような気がするのです。

 それではわれわれが何か神さまの宝を引き立たせるための道具立てになっているのではないか。まるで神さまだけが一人勝ちするようなことではないか、そんな疑問をもたないでしょうか。これは結果として、神様の力のすばらしさがわかったというのではないのです。自分の弱さをしみじみ感じて、この弱い自分を励まし生かしてくださる神の力があらためてわかったというのではないのです。それなら納得のいくところですが、そういう書き方はしていないのです。

 「ために」というのです。リビングバイブルは、やはりここを「ために」と訳すことに疑問を感じたのか、こういう風に訳しています。
「このすばらしい宝は、こわれやすい器の中に入っている。うちにあるその栄光に満ちた力が確かに神様から与えられたものであって、わたしたちから出たものでないことは、誰の目にも明かです。」と訳されていて、見事に「ために」という意味をはずしております。

 しかし原文はそうではないのです。「ために」なのです、神は神の力をいわば際だたせるために、その力が私達人間からでたものでないことを明らかにするために、神はもろい土の器にこの宝をもったのだというのです。
 これはどういうことでしょうか。

 わたしはこのことを考えているときに、旧約聖書の士師記ににあるギデオンの記事を思い出しました。それはイスラエルがミディアン人との戦う時の記事であります。その時ギデオンは民を率いていたのです。そうすると、主なる神はこういわれたというのです。
 「お前の率いる民は多すぎるので、もっとへらせ。もしこのまま戦ってミディアン人に勝利したら、きっとイスラエルの民はわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったということになるだろう」といわれて、二万二千人の兵士を帰らせて、一万人にした。
 それでも主なる神はまだ多すぎるというのです。それで彼らを川辺につれていって、川の水を飲む飲み方で選抜するというのです。「犬のように舌で水を飲む者、膝をかがめて水を飲む者は、はずせ」というのです。そうして、「水を手で救って飲むものを別にしなさい」というのです。その者は三百人になって、その三百人で戦いに臨ませたというのです。

 犬のように舌で川の水を飲む者、膝をかがめて水を飲む者は、敵が責めてきたときに、すぐ戦闘態勢に立てないというのです。水を飲むことに没頭してしまって、自分の前に敵がいることを忘れていることになるから、戦場には失格者だというのです。それに対して、手で川の水をすくって水を飲むものは、いつも目の前に敵を意識して、敵がいつきてもいいように目を開いて、水を飲むものであります。ある意味では、彼らはいつも敵を意識して、いわば戦々恐々として水を飲んでいる者であります。つまり、彼らは自分の弱さを十二分に知っているものであります。自分が土の器であることをよくよく分かっているものであります。そういうものがこの戦場に参加する資格があるのだというのです。

 主なる神はわざわざ兵士を少なくさせているのです。それは戦争に勝利しても、「心がおごり、神様のことを忘れ、自分の手でこれを勝ち取ったのだと思い上がるからだ」といのうです。それでは、この戦争に勝ったとしても、これからの戦争には勝てないというのです。いや、これからの戦争に勝てば勝つほど、心がおごり高ぶり、神から離れていき、やがて自滅していくだけだということであります。その「ために」、神はわざわざ自分の弱さを本当に知っている三百人でこの戦いに臨ませたというのです。

 それはまさに、神が神の宝をわざわざ土の器にもった理由であるということなのではないか。神は神の力を神の恵みを際だたせるために、われわれをもろい土の器にした、そしてその土の器のなかに、この神の宝を納めたということなのです。いわば、神お一人が一人勝ちするためのです。しかしそれは、それは神おひとりが一人勝ちして、神がひとりで悦に入るためではないのです。

 それは実はそのようにして、われわれ人間が心から神の恵みを讃え、神の力を賛美するようになる、その時に、そこに、われわれの救いがあるからであります。それはわれわれ人間のためなのです。測り知る事のできない力はいつも自分から出るのではなく、自分の外から、自分の上から、神から、出るのだということがわかったときに、われわれは本当に救われるのであります。この勝利を自分の手が勝ち取ったなどと、錯覚し、思い上がってしまっていたら、われわれは滅びにいくだけであります。そういう勝利は滅びに向かっていく勝利でしかないのです。

 神はアダムとエバが神のようになろうとして、善悪の木の実を食べた罰として、最後に死を与えました。「お前は土の塵にすぎない者なのだから、最後は土の塵に帰れ」といわれて、人間に死を与えました。
 死というのは、われわれにとっては、罪に対する罰として与えられました。しかしそれは単なる罰ではなく、これこそ、神のもっとも深い恵みであり、救いなのではないでしょうか。なぜなら、われわれは自分が土に帰るとき、自分が死ぬときに、ようやく、自分が土の器に過ぎない存在であることがわかり、その時にわれわれは本気になって神を求めるからであります。死というものがなかったら、われわれはいつ本気になって神を信じるようになれるだろうか。

 パウロはこの手紙の十二章で書いておりますが、彼はあるとき大変すばらしい神秘的体験をしたというのです。その体験はすばらしかった。しかし神はすぐそのあと、「わたしが思い上がることのないようにと、神はわたしの身に一つのとげを与えた。それはわたしが思い上がらないように、わたしたを痛めつけるためにサタンから送られた使いだった」というのです。

 それは伝道者パウロにとっては、何か致命的な病気だったようです。彼は必死にこの病を取り去ってくれるようにと神に祈った。しかしその病はなおらなかった。そしてその時彼が主から与えられた答えは、「神の恵みは十分お前に注がれている。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」ということだったのであります。

 それでパウロはその主の言葉を聞いたあと、「大いに自分の弱さを誇ろう。わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりにもキリストのために、満足している。なぜなら、わたしは弱いときにこそ、強いからだ」というのです。

 それがここでパウロが言っていることであります。「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」。
 
 大事なことは、ただ神の偉大な力が賛美されるということではないのです。あるいは神の偉大な力がわれわれの働きと共に発揮されるというのでもないのです。「わたしたちから出たものでないことが明らかにされるために」、この「ために」が大事なのではないか。われわれから出たものではない、そのことが心底から分からない限り、われわれは救われないのです。立ち上がれないのです。

 そうしてパウロはいうのです。「わたしたちは四方から苦しめられても、行き詰まらず、途方にくれても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちはいつもイエスの死を体にまとっている、イエスの命がこの体に現れるために」。

 ここはあらゆる艱難にも堂々と立ち向かっているパウロの姿ではなく、ある時には行き詰まり、ある時には途方に暮れている、打ち倒されている、そういう中で、そのだらしない弱い自分を生かしてくださる神に望みをおいて、そこで立ち上がっていくパウロの姿が示されているのです。

 一○節に「わたしたちはいつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」とありますが、このところは、パウロが伝道者として迫害に会い、その苦難を受けている、イエスが殉教の死をとげたように、伝道者もまた殉教の死を遂げることを覚悟しなくてはならない、そのときに、イエスの命がこの体に現れるためだ、と説明する学者が多いのです。つまりこの「死を体にまとう」ということを、迫害の苦難、殉教の死を受けるという意味にとるわけです。

 しかし、ここで使われている「死」という字は、「死ぬこと」という意味の字が使われているとある人が説明しております。つまり、「これは伝道者パウロが、主イエスの死を身をもって証するということよりは、この身によって主イエスが日々死なれることを証することだ」といっております。つまり、これは苦難を受けるということではなく、イエスがあの十字架の上で完全に死んでしまったこと、その死んだイエスを神がよみがえらせた、そのことを自分の身で、自分の体全体で、自分の生活全体で現すことなのだということであります。

 つまり、ここでいう「死」というのは、苦難というよりは、むしろ、自分の挫折であります。前の句との関連でいえば、「途方にくれてしまうこと」「行き詰まってしまうこと」「虐げられて打ち倒されてしまうこと」、もう自分では駄目だという状況に立たされることであります。そのような意味で、自分が死ぬこと、絶望すること、望みを失うことであります。その時に、あの十字架のイエスの死をよみがえらせた神の力が自分に働くことを信じられるようになるというということであります。「イエスの命がこの体に現れるため」ということであります。
 
 ここで殉教者のことを考えてみたいのです。日本では昔キリシタン時代というわれる時代には、キリスト教信者は激しく迫害されました。そのためにお役人は彼がキリスト信者であるかないかを判別するために、キリストの描かれて絵が描かれた絵を踏ませたのであります。その絵を踏める者はキリスト者ではない、その絵を踏めない者はキリストを信じている者で、キリスト者だということで、その踏み絵を踏まない者、踏めなかった者を捕らえて、磔にしていったのであります。そのようにして多くのキリシタンは殉教の死を遂げたのです。

 その踏み絵を踏まなかった者、踏むことができなかった者はもちろんキリスト者だったでしょうが、しかしその踏み絵を踏んでしまった者、殺されることが恐ろしくで踏んでしまった者、その人はクリスチャンでないといえるだろうか。役人にとってはもちろん信者でないと判別できるでしょうが、しかしその踏み絵のキリストはそのように判別するだろうか。

 その問いを小説にしたのが遠藤周作という作家でしたが、そのために彼は一時はカトリック教会から破門されそうになったということですが、彼はその踏み絵のキリストこそ、わたしを踏んでいきなさい、それによってお前が殺されないならば、踏んでいきなさいと呼びかけている、と語りかけている。遠藤周作は長崎にいって、何人もの足で踏まれてすり切れた踏み絵を見た時にそう強く感じたというのです。

 踏み絵を踏んでしまう、自分の弱さのために、踏み絵を踏んでしまう、そして途方にくれ、打ち倒され、滅ぼされそうになっていく、そういう者にも、そういう者にこそ、神は見捨てない、決して見捨てることはしない、それがあのイエスを十字架の死からよみがえらせた神の復活の力であり、命なのではないか。

 ここでいわれている「死、死ぬこと」というのは、そういう「死」なのではないか、つまりそれは苦難というような意味ではなく、むしろ「挫折」「絶望」という意味の自分の死であります。「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」というのは、そういう意味なのではないか。

 殉教者がどんな迫害にも会い、立派に殉教したら、堂々と殉教したら、人々はそのように立派に死んでいった殉教者の勇気とか信仰は讃えることはあっても、神を讃えるだろうか。
 その殉教に耐えさせた測り知ることのできないか力が、殉教者本人の中からではなく、神から出たのだとは人々は思わないのではないか。殉教者は崇められるかもしれませんが、神を崇めることにはならないのではないか。

 復活の主イエス・キリストは、一度は自分を三度否認したペテロにもう一度会い、お前はわたしを愛するかと、三度にわたって問いかけたのです。その時ペテロは「主よ、あなたは何もかもわたしのことをご存じです。わたしがあなたを愛していることはあなたにはおわかりになっている」と答えているのです。
 「あなたは何もかもわたしのことをご存じです」というのは、かつて主イエスを三度にわたって否認したことをペテロは思いだしていることは明かであります。

 主イエスは、そのペテロを「お前はこれからは他の人がお前に帯びをしめてお前がゆきたくないところへ連れて行くぞ」といわれて、「わたしに従ってきなさい」といわれたのであります。

 主イエスは、いわば一度踏み絵を踏んでしまったペテロを伝道者としてあらためて召したのであります。そうして殉教の死の覚悟をさせたのであります。

 敢えて言えば、踏み絵の中のキリストから、わたしを踏んでもいい、それでお前の命が助かるならば、わたしを踏んでいきなさいと呼びかけるキリストの声を聞いた者は、その踏み絵を踏まないで殉教の死を遂げる力を与えられるかもしれないと思います。それでも踏んでしまうだろうな、とわたしは思ってしまいますけれど。
 殉教の死を遂げさせる力はとうてい自分の中から生まれる筈はなく、その測り知ることのできない力は、ただ神からしか来ないことを知っている。少なくも一度踏み絵を踏んでしまったペテロはそのようにして、殉教の死を遂げたのではないかと思います。

 「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」とパウロは最後に述べるのであります。