「内なる人・外なる人」 コリントU 四章一六ー一八節

  パウロは「だからわたしたちは落胆しません」といいます。「だから」というのは、どんなに「四方から苦しめられても、途方に暮れても、虐げられても、打ち倒されても」、つまり、どんなに挫折し、絶望しても、そのうちひしがれた自分を立ち上がらせるものが、自分のなかからではなく、自分の外からくる、死んでしまったかにみえる自分をよみがえらせ、生き返らせる力は上からくる、「だから、わたしたちは落胆しない」ということであります。

 もし自分を立ち上がらせる力が自分の中からでてくるのであるのなら、自分の中からしかでないのであったなら、もうとっくに絶望しているわけです、しかし自分を生かす力は自分の外から来る、そうしたら、どんなに自分に絶望してもなお望みをもつことができる、だから落胆しないということであります。

 そしてパウロは「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」といいます。

 ここで言われている「外なる人」「内なる人」とはなんのことでしょうか。リビングバイブルなどは「肉体は次第に衰えますが、うちにある力は日ごとに強くなっていきます」と、訳されています。つまり、ここでは「外なる人」をわれわれの肉体、その肉体の衰えととらえています、そうすると、ここでははっきりとはいっていませんが、「内なる人」とは、われわれの肉体に対する精神、心ということなのでしょうか。

しかし、ある人はこれは人間の肉体や外面的なことというのではなく、「信仰によらないこと」という意味だといっております。これはここでの文脈からいえば、そういうことだと思います。

 「信仰によらないこと」、それが「外なる人」という意味であります。つまり、信仰にならないわれわれのさまざな思いであります。自分の意地とかプライド、誇り、自信、あるいはそれを裏付けているかのように見える自分の能力、そうしたものであります。そんなものはどんどん衰えていく、衰えていくというよりは、ばけの皮がはがれて落ちていくということであります。

パウロはフィリピの手紙のなかで、こう言っているところがあります。「自分は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人、律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ち所がない者だった。しかし自分にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損と思うようになった。そればかりか、わたしたちの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、それらいっさいのものを損と思っている。キリストの故に、わたしはすべてをうしなったが、それらのものをふんどのように思っている」といっているのであります。

 パウロは、彼のもっていたすべての人間的な誇り、それが「信仰によらないこと」ということでありますが、それらが衰えていくのをただじっと待つというだけではなく、みずからそれを捨てていったというのであります。

 そして「内なる人」は日々新たにされていくというのです。それはリビングバイブルが訳しているように、「うちにある力が日ごとに強くなる」というように、「強くなる」というのではないのです、「新しくなる」ということなのです。

 パウロは「だから私達は落胆しません」といったあと、なぜならわれわれの内なる人は元気なるからだとか、強くなるからだとはいわないのです。強くなったり、元気になったりするから、落胆しないのではないのです。新しくなる、だから落胆しないというのです。

 パウロは別の箇所で、コロサイの信徒への手紙のなかで、こういっています。「互いにうそをついてはいけない。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて」といっております。
 ここでは「新しくなる」ということを、「日々新たにされて」といっております。新しくなるということは、一度新しくなったら、もうそれで自動的に新しくなっていくというのではなく、日々新しくならなければならない、いや、自分で新しくなるのではなく、日々新しくされていかなければならないといっております。

 そして同時に「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て」というのです。つまり、新しくなるためには、古いものを捨てるという決断が必要だというのです。そうでないと古い習慣というものはいつまでも自分につきまとって、ずるずると自分をひきずっていくからであります。
 日々新しくなるためには、日々決断していかなくてはならないということであります。

 われわれの信仰生活というのは、信仰をどんどん積み重ねていってどんどん自分を太らせていくことではないのです。古いものを脱ぎ捨てて、どんどん身軽になってく生活でなければならないのです。スリムになっていく生活であります。信仰という何かをため込む生活ではなく、どんどん脱ぎ捨てていく生活であります。それはある意味では、讃美歌の五二六番にありますように、「かくまで主を愛するは今日初めての心地して」という初々しさを失わないことであります。

 ヨハネ黙示録で、エフェソにある教会に宛てた手紙で、キリストがこう言っていいるのです。「わたしはあなたの行いと労苦と忍耐を知っている。あなたがたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでてない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、疲れ果てる事がなかった。しかし、あなたに言うべき事がある。あなたは初めの愛から落ちてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めの行いに立ち返れ」というのです。

 ここではエフェソの教会は信仰的には成熟しているのです。本物の信仰者と偽物の信仰者を見分ける洞察力も身につけているし、キリストの故の迫害にも忍耐してよく耐えているというのです。しかしそれでもなお責むべきことがあるとキリストからいわれているのです。それは信仰のあの初々しさ、あの新鮮をわすれてしまったことだというのです。

ある詩人が歌っていましたように、「初々しさが大事なの、生牡蠣のような」初々しさ」と歌っているような、あのキリストにはじめてお会いし、救われた時の新鮮な喜び、そこに立ち返れといわれているのです。それが日々新しくなるということであります。
 新しくなるというのは、なにかを積み上げたり、重ねたりすることではなく、ある意味ではどんどん捨てていって、信仰に不必要なものはどんどん捨てていって、キリストだけにすがりつく、そういう信仰をもつということであります。

 先週の説教では、殉教者の問題を少しとりあげましたが、パウロはここでやはり自分の迫害について述べているところであります。どんなに迫害にあって、挫折しそうになっても、絶望しても、その度に、その迫害に耐えることができたといっているところであります。
 先週は日本のキリシタンの迫害のときに、自分の弱さのために、拷問の苦しさに負けて、あの踏み絵を踏んでしまったキリスト者をも、神は決して見捨てないのではないか、そのような神を信じていたら、踏み絵を踏まないという信仰の強さも与えられるかもしれないという話をしましたが、あのキリシタン時代にはそのようにして、多くのキリシタンはその踏み絵を踏まないで殉教の死をとげた人が沢山いたのであります。

 長崎にいきますと、駅前の丘の上に、二十六聖人の殉教者のレリーフがあって、その前に立つと感銘を受けました。その中には年若い少年もいるのです。このような殉教者によって、日本のキリスト教は続いていったのだなと覚えて感動するのです。

 ナチ時代にヒットラーに抵抗したために多くのドイツの牧師たちもまた殉教の死をとげました。その強制収容所にいれられて、戦後奇跡的にそこから解放されたマルチン・ニーメラーという牧師がおりますが、彼がある説教でこういっているのです。
 「人は自分たちのように強制収容所に捕らえられて、こうしてそれに耐えてきた人間のことをなにか英雄のように思うかも知れない。どんなに意志強固な強い人間のように思うかもしれない。しかし、自分たちはそんな人間でないことは自分たちが一番よく知っている。われわれはその収容所のなかで、一日たりとも、大牧者であるイエス・キリストに頼らないでは生きていけない人間であることを知っている」といっているのであります。
 自分たちは決して強い人間ではなかったというのです。一日、一日、ただキリストに頼って、キリストに祈って、助けを求めて、収容所で耐えてきたのだというのです。それが日々新たにされていくということだったのであります。

 そしてさらにパウロはこうう続けます。「わたしたちの一時の軽い艱難は、くらべものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」。
 迫害にあっているパウロの艱難は、決して軽いものである筈はないのです。しかしそれも、やがて与えられる永遠の栄光に比べると、軽いものに思えてくるということだと思います。
 そして、艱難のあとに、栄光が与えられるというのではなく、その艱難が、あるいはその艱難に耐えることが、永遠の栄光をもたらすのだということであります。

 艱難なんかできるだけ避けたい、避けたいと思っているわれわれにとっては、これは衝撃的な言葉であります。艱難を避けてはならないということであります。本当は艱難というのは、避けられるものではないのです。避けられることができないものだからこそ、艱難なのです。自分の力で、自分の意志で避けることがてぎるものは、艱難でもなんでもないのです。

 そうしますと、その避けることのできない艱難のなかで苦しんでいる者にとっては、このパウロの言葉は励ましになるのではないか。慰めになるのでなはいか。その艱難を受けているということ、それに耐えているということ、それがやがてくる永遠の栄光をもたらす原因になるのだといっているからであります。

それは艱難を受け、それに耐えることによって、だんだんとわれわれの面の皮が厚くなって、何事にも耐えられる強固な意志が養われるから、それはやがて成功に導くというのではないのです。「艱難汝を玉にする」というようなことではないのです。人間は苦労すればするほど、丸くなって立派になるということではないのです。ある人の説教に、「艱難汝を玉にする」という言葉があるけれど、事実は何人の人が苦しい事情のゆえに鍛えられて玉にせられただろうか。かえって、その素材までもつぶされてしまう方が多いのではないか、という言葉がありました。

 ここでは、艱難に遭えばあうほど、われわれの意志は強固になるということではないのです。艱難に遭えばあうほど、あのニーメラー牧師のようにますますキリストにすがっていく、そういう初々しい信仰を身につけられるようになって、ただ神から与えられる永遠の栄光を受けることに望みをおくようになるというのです。そしてその望みが、現在のわれわれの苦しみを耐えさせ、励ましてくれるというのです。

 そしてパウロはこう続けます。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからだ」といいます。

 ここには、「見えないもの」とか「永遠」とか、「永遠の栄光」という言葉がつづきます。こういうところは、正直のところ、わたしは大変説教しにくいのです。見えないことについて、まるで見てきたように説教するわけにはいかないからであります。永遠ということも、どうしてもぴんとこないところがあります。つまり死後の世界について説教でとりあげるということは本当に難しいのです。

 ここでの説教で竹森満佐一は、ある人の言葉だといって、こういう言葉を引用しております。「超自然的なことに依り頼まず、現在の実際的なことに執着し、自己流の常識を誇ることによって、今日のキリスト教は、ここにある広い視野を失い、天の光景を見ることができなくなったのである」。この言葉を引用して、竹森満佐一はこういうのです。
 「われわれの信仰はどうか。あまりにも実際的になってはいないか。身辺のことにかかずらって、天を仰ぎ、永遠を望む心を失ってしまっていないか」といっているのです。

竹森満佐一は、ご自身も、また奥様もガンに倒れて亡くなりましたが、先生はお見舞いにきた教会員に、よくいわれたそうです。ガンなどというものは、それほど大騒ぎするこことではないといって、教会であまり騒ぎ立てないように戒めたそうであります。

 わたしは若いときは、というよりは、今でもそうですが、楽しみというのはいつも先にあると思って、その日がくるのを待っていたものであります。早くその日がこないかと待っていたものであります。しかしある時から、そのようにして楽しみの日を待っていくような生活をしていたら、やがて日を重ね、年を重ねていったら、最後には自分の死が待っているだけではないかといことに気が付いて、なにか愕然するようになりました。

 楽しみというものが、ただこの地上の生活だけの楽しみを追うのであるならば、死を目前にしていたら、本当に空しいと今更ながら思うようになったのであります。

 目に見えないこと、永遠のこととか、天国とか、死後の世界について、あまり声高くして語る気にはなりません。まるで見てきたような嘘もつきたくないのであります。しかし目に見えない神を信じ、主イエスをよみがえらせた神を信じるわれわれが死後の世界につながる永遠の栄光について、聖書の言葉を水で薄めることなく、少なくもそのまま語ることができないならば、われわれの希望はどこにあるのかということであります。

 もしわれわれがこの世の生活だけでキリストに望みをもっているとすれば、それをパウロは、「この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば」と、「単なる望み」といっていますが、わたしたちクリスチャンはすべての人のなかで最も哀れな存在だということになるのであります。