「天から与えられる住か」コリントU五章一ー一○節

 今学んでおりますこの手紙はいわばパウロの自己弁明の手紙であります。自分は神から召された伝道者なのだ、という弁明の手紙ではないかと思います。それを読みながら、われわれはパウロのような激しい迫害の中での伝道者ではなくても、ひとりのキリストを信じる信仰者として生きるときに、パウロの生き方がわれわれにとっても参考になる、参考になるというとおかしいですが、模範になるということであります。

 そして今ずっと読んでいるところでは、何が一番模範になるかといえば、パウロがどんな迫害や誤解のなかにあっても、落胆しないでいるのはどこにあるのかということではないかと思います。
 われわれはこの世に生きているときに、本当に落胆が多いのです。そうした中にあって、落胆しないためにはどうしたらいいか、いや、落胆したとしてもそこから立ち上がるにはどうしたらいいか、それを今パウロの生き方から学ぶことができるのであります。

 パウロがどんな苦しいときにも、あるいは落胆する時があっても、その落胆から立ち上がることができるのは、上から、神様からいつも希望を与えられるからだということであります。
 われわれはある意味では、希望さえ与えられればどんな苦しみにも耐えられると思います。その希望が偽りの希望であったとしても、われわれは希望がないと生きていけないのです。だから宝くじを購入する人は、宝くじを買うのかもしれません。それを買う人は、当たるなどということは、はじめからそれとほど信じているわけではないと思うのです。しかし一時でも夢でもいいから希望をもっていたいと思って購入するのではないかと思います。

 オ・ヘンリーの短編に「最後の一枚」という題だった思いますが、そういう短編があります。その短編は、重い病人が病室から見える木の葉っぱが秋になって一枚一枚枯れて落ちていくを見ていて、その木の葉が全部落ちてしまったら、その頃には自分の命も絶えるのではないかと思っていたというのです。それを知ったある一人の画家がその病人から見える窓のガラスに一枚の枯葉を描いてあげた。それは描かれた枯葉ですから、落ちないわけです。それでその病人はその画家が描いてくれた枯葉のお陰で望みを失わないでいられて、その病気を回復したというのです。しかしその枯葉を描いた画家は寒い時に必死にその絵を描いたために、風邪をこじらせて死んでしまう、そういうような小説だったと思います。

 偽りの希望ですら、われわれを生かす力になるというわけであります。

 パウロを支えていたのは、希望という信仰であります。三章の一二節では、「このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっているのだ」といっております。そしてもちろんパウロは自分がいだいている希望は偽りの希望ではないと繰り返し繰り返し、述べるのであります。だから落胆しないのだと述べるのであります。

 今日学ぼうとしております五章の一節からのところもその続きであります。それは四章一八節からの続きですが、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは過ぎさるが見えないものは永遠に続く」いって、そして五章の一節から、その見えないものとは、「神によって与えられる天からの住か」だというのです。われわれには死んでも天の住かがあるということであります。われわれはこの地上でそういう希望を与えられている、だから落胆しないのだというのです。

 われわれのこの地上での生活で、やはり一番われわれを安心させるのは、住む家があるということではないかと思います。それは特に年をとってもうはたらけなくなった時に、自分の住む場所が確保されていないということはなんといっても不安であります。ですから、われわれは少し、いやずいぶん無理してでも、自分の持ち家を購入しようと思うのではないかと思います。借家ではどうしても不安だと思うからであります。しかし持ち家をもったとして、大地震が起こったときには、たちまちそんなものはなんの保証にもならないことはわれわれがよく知っていることであります。

 そういう大地震が起こらなくても、そしてどんなに立派な持ち家があったとしても、われわれ自身が死ぬときは必ずくるわけで、永遠にそこに住めるわけではないわけです。それならば、われわれはどこに望みをもったらいいのかということであります。そういう時に、ここでは、死んでからも住かが天から与えられるのだ、だから落胆する必要はないというのです。
 死後の世界についての確信がなければ、われわれは空しいということであります。

 ここでは今われわれが住んでいる地上の住かのことを幕屋と表現しております。それはイスラエルがエジプトを出て、荒野をさまよっていたときに、幕屋の生活をしていて、その経験から出ているイメージであります。
 幕屋というのは、いわばテントのことであります。それは風が吹けばとんでしまうようなもろさをあらわしているようであります。われわれのこの地上の生活はもとをただせば、どんな豪邸でも、結局は幕屋にすぎないということであります。

 そしてこの地上ではわれわれはその頼りない幕屋の生活のなかで苦しみもだえて生活しているのだというのです。いつ風が吹いてそのテントが吹き飛ばされてしまうかわからない、そうしたらわれわれは裸にされるわけです。その不安のなかでわれわれは苦しみもだえているということであります。

 パウロは四節でこういっています。「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいている、それは地上の住かを脱ぎ捨てたいからではない。死ぬはずのものが命にのみ込まれてしまうために、天から与えられる住かを上に着たいからだ」というのです。
 ここは口語訳でよみたいところです。口語訳ではこうなっています。「この幕屋にいるわたしたちは苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって死ぬべきものがいのちに飲まれてしまうためである」というのです。

 ここでは、この地上で生きているわれわれは苦しみもだえているというのです。それは自分の汚れたからだ、あかで汚れたからだをなんとかきれいにして、それを脱ぎ捨てて、きれいなからだにして、死を迎えたい、神様のもとにいきたいと思うわけです。ここでは、死というものがただ無に返るということではなく、死ぬということは、われわれにとっては、神様の裁きを受けることになるという考えがあるわけです。だから死ぬ前に自分のからだを、魂をきれいにしておきたいという痛切な願いがあるのです。

 わたしがここを読んで大変慰められるのは、「それを脱ごうと願うのでなはく、その上に着ようと願うからだ」というところであります。

 自分の着ているものを脱ぐということは大変つらいのです。できることなら自分が長い間にわたって積み重ねてきた汚れを、どんなに脱ぎたいと思っているかわかりません。しかしそれは一朝一夕でつみあげられたものではなく、長い間に
渡って積み重ねて来たあかのような汚れてあります。それを脱ぎ捨てるということは大変な努力と精進が必要とされるのです。

 先週の説教では、われわれは日々新しくされなくてはならない、そのためには、その都度どんどん古いものを捨てていかなくてはならないということを申しました。自分の誇りとか意地とか自信とかそんなものはどんどん捨てていって、スリムにならなければだめだという話をしたと思いますが、しかしどんどん捨てていっても、どんどんスリムになっていったとしても、その根本にある自分というからだそのものを完全に脱ぎ捨てることはできないのではないか。自分の意地とか誇りとか、そういうものを生み出すもとになるもの、それを完全に脱ぎ捨てることはできないのではないか。

 前にもお話したことがあると思いますが、それは確かマルチン・ルターの言葉だったと思うのですが、その人の言葉に、「神を愛することは自分を憎むことだ」という言葉を読んで、わたしは神に愛して貰おうとして一生懸命自分を憎もうとしました。ルターはそんな意味でいったわけではないと思いますが、わたしはその言葉をそんなふうに読み取ったわけです。しかしそれはどんなに苦しい作業であったか。苦しい作業というよりは、どんなにそれは空しい努力であったかということです。第一われわれは自分を憎んで生活しようとしたら、それはとてもいじけた性格になってくと思います。暗い、人を愛せない性格になっていきます。自分自身を愛せない人、自分自身を肯定できない人は、他の人を肯定して受け入れるなんてことはとうていできるわけはないです。自分の弱さとか、汚れとかを自分で受け入れることのできる人が初めて、人の弱さもまた受け入れられるのだと思うのです。あまりにも潔癖性な人は、恐らく他人の汚さを許すことはできないのではないかと思います。
 
 自分を徹底して憎むということは、最後には自分を殺すことになるわけで、そんなことはできるはずはないわけです。ですから、神を愛することは自分を憎むことだといわれたって、そんなできもしないことをやりとげようとすることは、もともと自己矛盾に陥ることで、それは空しい苦しい戦いであったわけです。

 そういう時に、聖書の言葉、「わたしの恵みは今のお前の弱さのなかに十分働いているのだ」というキリストの言葉に出会って、この自分のあるがままがキリストによって赦され、受け入れられている、それを信じることができて、ある日突然そういう信仰を与えられて、それからはもう自分を憎まなくていいんだ思えて、救われたのであります。つまり、神がこのままの自分、この弱い、罪ある自分をそのまま赦し受けいれてくれている、肯定してくださったいるのなら、どうして自分を嫌う必要があるだろうか、神がこの自分のあるがままを愛してくださっているのなら、どうして自分もまた愛さないでいられようか、と思うようになったのであります。神が愛してくれている自分を、自分もまた受け入れ、愛していこうではないかと思うようになったのであります。

 ですから、脱ごうとする努力の空しさ、もうそれはやめようと思ったのです。それよりは、このままの自分の上に、すっぽりと自分をおおってくれる、キリストの赦しという上着を着ることに努力しよう、そういう努力ならば、それは決して空しい努力ではないと思ったのであります。

 パウロは他の箇所で、われわれがバプテスマを受けるということは、キリストを着ることであるといっているところがありますが、キリストという上着を着てしまうのですから、その中にどんな見苦しいからだがあったとしても、またその見苦しいからだを隠すためにさらに醜い着物をきていたとしても、それが全部隠されてしまう、覆われてしまうわけです、だから自分でその醜い自分のからだを脱ぎ捨てる必要はもうないというということであります。

 そしてそれを可能にしてくれたのが、五節で「わたしたちをこのようになるのにふさわしいものとしてくださったのは、神です」というのです。われわれの努力ではない、われわれの禁欲的な修行でもない、神がそのようにしてくださるというのです。そして「その保証として霊を、聖霊を与えてくださっている、だからわたしたちは心強い」とパウロはいうのです。

 われわれ信仰者のこの地上での苦しみもだえは、自分の長年ためてきたあかを脱ぎ捨てる努力のための空しい努力という苦しみではないのです、そういう脱ごうとする苦しみではないのです。
 そうではなくて、その上に着ようとする努力であります。その苦しみであります。それは信じるという努力であり、苦しみであります。どうして信じるということがもだえ苦しみなのかと思うかも知れません。

 それはキリストによる赦しを信じるには、絶えず自分を告発する自分の声、あるいは、他人の声、時には偉い先生の声がある、時には牧師が、お前はもっと清くなれというかもしれない、そういう自分の罪を告発する声、そのなかでも一番厳しい声は自分自身の声だと思いますが、その声を否定して、神の愛を、神の赦しを信じていくという闘いをしなくてはならないからであります。

 パウロはコリントの信徒の手紙の第一で、「自分は福音のためにどんなことでもする。それは自分も共に福音にあずかるためだ」といっているのです。それは律法の義を満たすための努力ではない、福音にあずかるための努力であり、つまりキリストの赦しを信じるための努力であり、節制であり、ある時にはそのために禁欲しなくてはならないかもしれないということであります。

 福音にはあずかるためには、努力が必要なのです。精進が必要なのです。それは自分の内外から聞こえてくる自分を告発する声を否定して、神の赦しを聞き続けようとする努力であります。自分のからだにキリストという上着をすっぽりと着てしまう努力であり、苦しみであります。苦しみではありますが、それは楽しい苦しみでもあるのではないか。

 われわれがこの地上を住かとしている限りは、主から離れているというのです。いつも主イエスからわれわれを引き離そうとするものがあるというのです。しかしそれでも心強いというのです。なぜなら、聖霊がわれわれを助けてくれて、信仰をあたえくれて、希望を与えくれて、絶えず主を信じていこうと励ましてくれるからだというのです。

 そしてパウロはこういいます。「だから、体を住かとしていても、体を離れているとしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」というのです。
 そしてこういいます、「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であり、悪であり、めいめい体をすみかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」というのです。

 われわれ死んだあと、すぐか、あるいは終末の時かは分かりませんが、ともかくわれわれは死んだあと、裁きの座に立たされる、そうしてこの地上でわれわれがどんな善をしたか、悪をしたかが問われて、裁かれるというのです。

 また裁きがでてくるではないか、神はキリストを通して徹底的にわれわれの罪を赦す、赦したといったおきながら、またここでわれわれのこの地上での行いによる裁きがあるというのでは、まるで詐欺にあったようなものではないかと思えるのです。

 しかしここはそういう裁きなのだろうか。ここではあのパウロが命をかけて否定した「行為義認、つまりわれわれは行いによって義とされる」ということにもどってしまうということなのだうろか。信仰義認はいっときの幻だったのか。パウロはここで彼の本音を出してしまったのだろうか。

 しかしパウロはもちろんそんなことをここで言おうとしているのでないのです。その前のところでは、「からだを住かとしていても、体を離れていても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」といっているのです。
 つまりここでいわれている善とか悪というのは、あの律法主義的な、あのファリサイ派の人々の自分の義を主張するような善でもなければ悪でもない、主キリストに喜ばれる善であり、主キリストに嫌われる悪であります。
 主イエスが一番嫌ったのはあの偽善的な善であり、自己主張としての律法の義であります。そして主イエスが一番喜ばれたのは、いと小さい者に注ぐ愛であり、砕けた悔いた心であります。
 つまりここで問われるのは、われわれがこの地上で本当にキリストを信じて生きてきたか、悔いる生活をしてきたか、神の赦しを信じて、自分を自身を赦し、そうしてまた人の過ちを赦してきたか、ということであります。それが善であれ、悪であれということであります。

 これは、閻魔大王の裁きの座ではないのです。キリストの裁きの座なのであります。

 もしわれわれが死後の生活において、われわれの死後の世界が、まるで機械仕掛けのように、それこそ自動ドアのように開くだけだとすれば、こんな空しいことはないてのではないか。そこでちゃんとわれわれの死を迎えてくださるかたがいてくれる、そうして、われわれのこの地上での生活について、もう一度聞いてくださるかたがおられるということは慰めではないでしょうか。そこではもちろんわれわれの言い開きも、弁明も聞いてくださるというのです。この地上での悔しさも、無念さも、あるいはわれわれの復讐心も聞いてもらえるということであります。そういうかたがおられて、われわれの死を迎えてくれるというのです。それは慰めではないでしょうか。
 それがキリストの裁きの座の前に立つということであります。