「神の霊による啓示」コリント第一 二章六ー一八節

 六節をみますと、「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります」と、パウロは書きます。この「しかし」というのは、二章の一ー五節までのところで、「そちらに行くとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いない」と書き、「ただイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外のことは知るまい、語るまい」と心に決めていたと書いているからであります。「しかし、信仰に成熟した人たちの間では、知恵を語る」というのです。

 成熟した人たちとはどういう人たちのことなのでしょうか。リビングバイブルでは「成長したクリスチャンの間では」と訳されております。口語訳は「円熟している者の間では」となっております。またもう一つの訳では「完全な者たちの間では」となっております。

 原文に忠実に訳せば、この訳、「完全な者たちの間では」というのが一番正しいようであります。しかし、日本語で、「完全な者」と訳すと誤解をあたえかねないと思ったのか、それぞれ「信仰に成熟した人たち」とか「成長したクリスチャン」とか、「円熟した者」とか訳しているのであります。新共同訳にある「信仰に成熟した人たち」という時の「信仰に」というのは、原文にはないのです。これはただ成熟した人たちというと誤解を与えるので、あえて「信仰に」と付け加えたようであります。

 これはいかに、信仰を語るときに、「完全な」ということがひとつの禁句になっているかということがわかるのであります。
 ある人の言葉ですが、人間は神よりも完全主義者になりたがると皮肉っておりますが、われわれ人間が完全という言葉を使うのはできるだけ避けたいかということであります。

 パウロは後にフィリピの信徒への手紙のなかで、「わたしはすでにそれを得たとか、すでに完全な者となっているわけではない、何とかして捕らえようと努めている。それは自分自身がキリスト・イエスに捕らえられているからだ」と、述べるのです。ここではパウロは自分は完全な者になっているわけではない、ただなんとかして捕らえようと努めているのだというのです。ここで「それを得たとか」という「それを」というのは、キリストの十字架と復活の力を知ることであります。それを完全に捕らえるなんてことはできない、十字架と復活をわれわれ人間が完全に知り尽くすなんてことはできないといっているのです。そしてそのあと、「わたしたちの中で、完全な者はだれでもこのように考えるべきです」というのであります。

 つまり、信仰的に完全なものになったとは、自分は完全になったとか、もうすでにキリストの十字架のこと、復活のこと、キリスト教のことはすべてわかってしまった、完全にわかってしまったという者のではなく、まだ自分はすべてのことはわかっていない、ただそれをわかろうと捕らえようと、努めている、それはただキリストによって救われている、キリストによって自分が捕らえられているから、そのように努めることができるのだと考える人なのだというであります。

 パウロはまたこのコリントの信徒への手紙の中でも「自分は何かを知ってるとすれば、知らねばならぬことをまだ知らないのです。神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのてです」と書いているのであります。神を知るということは、自分が神に知られているということを知ることなのだというのです。

 信仰の完全とは、いつも神の前にへりくだるということ、神の前にひれ伏すということなのであります。それはある意味では、神の前に幼子のようになることであります。幼子になるということは、幼稚になるとか、子供ぽっくふるまうとか、そういうことではなく、自分は完全な者には成り得ないと、ただそのようになろうと努めているのだ、それもただキリストの導きによってそうなることができるだけだと幼子のように素朴に神を信じるようになることであります。

 だから、パウロは「信仰に成熟している人たちの間では知恵を語る」といったあと、すぐ続けて「それはこの世の知恵ではない、隠されていた、神秘としての神の知恵だ」というのであります。口語訳では「隠された奥義としての神の知恵」と訳されております。
 そしてこの神の知恵を知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう、というのです。

 ここにこの世の知恵、つまり、われわれ人間の知恵と、神の知恵との鮮やかな対比があるのであります。つまり、この世の知恵の結集した形が、神の子であるイエス・キリストを十字架につけることだったのです。それは当時の人々がイエスが神の子だと知っていて、イエスを十字架で殺したわけではなかったと思います。むしろ、イエスが本当に神の子であったならば、こんなみすぼらしい人の子としてこの地上にくることはない、それこそ、後光がさすような形でこの地上にこらわれる筈だ、そしてもし、イエスが本当に神の子であったならば、自分たちが彼を十字架につけたとしても、そのときに、奇跡が起こって、みじめに死なないで、息をひきとらないで、栄光に輝いて天に昇られる筈だと思っていたのであります。

 しかし、神の知恵は違っていたのであります。神の子がこのようにしてみじめにも十字架の上で、「わが神、わが神、どうしてわたしたをお見捨てになったのですか」と叫ばれて息を引き取っていった、このイエスこそ、神の子であると明らかにするのであります。それが今まで隠されていた神秘としての神の知恵であつたのであります。そのことを神はただひとり、異邦人の百卒長の口を通して「本当にこの人は神の子であった」と告白させているのであります。そうして、三日後に、この世の知恵を打ち砕くようにして、この十字架につけられたイエス・キリストをよみがえらせて、この十字架こそ、神の今まで隠されていた神の奥義であり、神の神秘であることを示されたのであります。それは預言者イザヤが預言していたように「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された」ことが起こったのだということなのです。
 それはこの世的には、この世の知恵では、十字架の愚かさでしかないのであります。

 ですから、「信仰に成熟した人たちの間では知恵を語る」いう時の「知恵」とは、結局はその前のところでいう「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外は語るまい」ということと同じことなのであります。
 この神の知恵は、あくまでこの世の知恵、人間の知恵とは違う、それは神の霊によって啓示される以外にわかりようがない知恵だというのです。

 一○節に「わたしたちには、神が霊によってそのことを明らかに示してくださいました」とパウロは語るのであります。そしてこういいます。「霊はいっさいのことを、神の深みさえも究めます。」といいます。
 
 一一節の「人のうちにある霊以外に、いったい誰が、人のことを知るでしょうか」というのは、これはわかりにくい訳です。口語訳では「人間の思いは、そのうちにある人間の霊以外に、だれが知っていようか」とありますが、これはリビングバイブルがよく訳しております。「人が何を考えているか、その人が実際にどんな人間であるか、本人以外にはわかりません」とあって、このほうがわかりやすいと思います。この言葉は、次の言葉を引き出すための言葉です。つまり、「同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません」ということです。われわれは神様に関すること、特に神の救いに関することは、神の霊によって教えていただかないとわからないということであります。

 「霊はいっさいのことを、神の深みさえも究めます」と、パウロは語りますが、しかしここはパウロは慎重に、霊はいっさいのこと、神の深みさえも教えてくださいますとは言っていないのです。リビングバイブルは、少し踏み込んで、「神の御霊は神様のもっとも奥深い秘密を探り出し、それを教えてくださいます」と、教えてくださいますといってしまっていますが、本当はパウロはそこまではいっていないのです。霊はいっさいのこと、神の深みさえも究めるとはいっても、それを教えてくれるとはいっていないのです。もし霊が神の深みを教えてくるとすれば、それはわれわれは神のいっさいのこと、神の奥深い秘密を探りだすことはできない、それを探りだすことはわれわれ人間にはゆるされていない、すべてを知る必要もないということを教えてくれるということであります。

 なぜなら、パウロはローマの信徒への手紙のなかで、「ああ、神の富と知恵と知識はなんと深いことか。だれが、神の定めを窮め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。いったい、だれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であったろうか」といっているのであります。われわれ人間には、神の定めを、神の救いの道を完全に知り尽くすなんて事はできないというのです。そういって、パウロは嘆くのではなく、絶望するのではなく、「ああ、なんと神の富と知恵は深いことか」といって、神を賛美しているのです、神の深さの前にひれ伏しているのであります。

これはどういう状況のなかでパウロが言った言葉かといいますと、ローマの信徒への手紙の一一章の最後の言葉なのですが、そこでは、選民であるイスラエル人は今キリストを信じない、キリストを拒否しているけれど、その選民であるイスラエルの民、パウロとしたら自分の同胞なのですが、その民は永遠に救われないのかと論じているところなのです。結論からいうと、パウロは神は今はわざと異邦人を救って、それを選民に見せて悔しがらせて、妬ませて、そして選民を悔い改めさせて、最後には救おうとされているのだ、選民イスラエルの民が今民族全体としてはキリストを受け入れていないのは、神のご計画なのだと論じているところなのです。その結論でこういうのです。「神はすべての人を不従順の状態に閉じこめられましたが、それはすべての人を憐れむためだったのです」というのです。

神が異邦人を先に救って、それを選民イスラエルに見せて、見せしめて、妬ませて、悔い改めさせて、そうして選民も最後には救うのだとパウロは論じているのですが、この救済論は、どうみても、パウロの理屈、ある意味では、パウロの同胞の民を愛するあまりの、なんとかして救おうとする、パウロが考えだした屁理屈のような気がしてならないのです。もちろん、それは単なる屁理屈ではなく、それはパウロ自身の救いの経験、つまりあんなにキリスト教徒を迫害していた自分がただ神の憐れみによって救われたという経験からすれば、神はすべての人を憐れもうとされている、救おうとされているというのは、論理的には当然だという思いがあったと思います。

 しかし、そのようにしてパウロは自分の救いの理屈を語ってきて、最後の締めくくりの言葉が、「ああ、何と深いことか、神の富と神の知識は、だれが神の定めを窮め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」という言葉になっているのであります。これはある意味では、自分の語ってきた救いの論理に自分で感心してるような言葉かもしれませんが、しかしそれ以上に、今まで自分が一生懸命、苦心して語ってきた論理を、理屈を否定するような言葉にもなっていると思うのです。なぜならば、神の救いの道をきわめつくすなてことは、誰にもできないということだからであります。

神の霊はわれわれに神の深さを示してくださるのです。しかし、それはわれわれ人間には到底神の深さを示しきるとことはできない、という神の深さをわからせてくれるのだということであります。
 それを知ってわれわれは、嘆くのでもなければ、絶望するのでもなく、だからこそ、神の前にひれ伏して、神を賛美し、神の救いの深さを賛嘆することができるのであります。
 
 森有正という哲学者が、大江健三郎のことを評して、「大江さんはわからないところがあるからいいですね。たいていの人はわかってしまって面白くありません」と、言っていたという文を先日読んで、面白いなと思いました。大江健三郎のエッセイは本当にわかりやすくて、面白いのですが、彼の小説は文章がわかりにくくて、大変読みにくいのです。大江健三郎の奥さんにいわすと、主人の小説は第一稿はいつもわかりやすいのに、それを推敲して推敲して、わざとわかりにくくさせているみたいですといっていて、面白かったですが、大江健三郎はわざとわかりにくくさせているのかもしれません。

 すべてがわかってしまうというのは、つまらないものかもしれませんし、またすべてがわかりましたという人は、大変浅薄な人間だということを自ら告白しているようことなのかもしれません。
 
 まして、神の救いの道をわれわれがすべてわかるはずはないし、わかる必要もないと思います。

 アブラハムが自分の甥のロトの住んでいるソドムとゴモラがあまりにも堕落していたので、神がその町を滅ぼそうと考えていることを知って、それを助けようとしたという記事が創世記にあります。彼はなんとかしてロトを助けたいと思って、神のみ使いに「あの町に五十人の正しい者がいても、あなたはあの町を悪い者たちと一緒に滅ぼしてしまうのですか」というのです。すると、神の使いは「もし五十人の正しい者がいたら、その人々のためにあの町を滅ぼすの止めよう、赦そう」といいます。それを聞いて、アブラハムは、それでは四十五人でしたらどうですか、三十人いたら、二十人いたら、と問い詰めていって、とうとう「わが主よ、お怒りにならないように、わたしはいま一度申します。あの町にもし十人の正しい者がいたら、どうですか」と、問い詰めるのです。すると、み使いは「十人のためにわたしは滅ぼさない」と約束するのです。

そして聖書はそのあと、こう記すのです。「主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた」。アブラハムとしたら、本当は最後に、「そこにただひとりの正しい人がいたらどうですか」と、問い詰めたかったと思います。そして論理的には、そのひとりのために赦すという神の救いの約束をとりつけることができたと思います。
 
しかし、主なる神はそれをアブラハムに言わせないで、主のほうから立ち去ったというのです。
 神の救いのご計画をあまり人間が勝手に知ろうとしたり、それを固定化したり、教条化したりすることは許されないということであります。

 一五節からの言葉は少しわかりにくいところがあります。「霊の人はいっさいを判断しますが、その人自身は誰にも判断されたりしません」。霊の人というのは、聖霊を与えられたわれわれクリスチャンのことです。霊を与えられた者は、もうこの世の人々から裁かれないということのようであります。つまり、この世の人々が自分のことをなんと評価しようが、そんなものに右往左往されることはないということであります。

 そしてこういいます。「誰が主の思いを知り、主を教えるというのか」。これはイザヤ書の言葉の引用ですが、われわれ人間は、たとえ霊を受けているわれわれでも、主なる神の思いのすべてを知り尽くし、主なる神に救いのことについて、なにか忠告することなどできないということであります。そして最後に、パウロはいうのです。「しかし、わたしたちは、キリストの思いを抱いている」というのです
。確かに神のすべてを知ることはできない、しかしキリストが十字架についてくださってわれわれのために何をなさったか、それだけはわれわれは知っているというのです。それだけを知っていれば、それだけを信じていれば、あとは何も知らなくてもいいというのであります。