「神との和解」 コリントU 五章一六ー二一節

 「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません」と、パウロはいいます。「だれをも肉に従って知ろうとはしない」とはどういうことでしょうか。
 
これを言うときに、パウロは「それで」という言葉を使っておりますから、当然これは前の句と連携しております。その前のところでは、「生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることになる」と言ったあと、「それで」というわけです。これを受けて、自分は人を見るときに、肉に従って見ようとはしないということであります。つまり、人を見るときに、その人のためにキリストが死に、その人を救うためにキリストが死に復活なさったのだと考えながら、その人を見ようとするということであります。
 いわば人間的な価値判断、あるいは社会的な価値判断で人を見るのをやめようということであります。

 たとえば、コリントの第一の手紙ですでに学んだとろですが、教会のなかで信仰の強い人と弱い人との間で争いが起こった時に、パウロが言ったことは、「その兄弟のためにもキリストは死んでくださったのだ」といって、だからその弱い兄弟の信仰を躓かせないために、自分はその人の信仰を重んじる、その人の信仰を決して軽蔑しないといったのです。

 このとき、パウロはその信仰の弱い兄弟たちを、肉に従って知ろうとはしなかったのです。その兄弟のためにキリストが死んでくださったという視点から、その兄弟を見ようとしたわけです。

 つまり肉に従って人を見ようとしないということは、どんな人も罪を犯し得る人間で、事実罪を犯している人間である、しかしその罪がキリストの十字架と復活によって赦されている、その事実をふまえて、キリストによって罪赦された人間として見ようということであります。

 われわれもまた教会の交わりのなかで、そのような見方をしていたら、すべてのつまらない争いはなくなるのでなはいかと思うのです。また家族の人間関係でも、また人を赦せるようになるのではないかと思います。

 そしてパウロはさらにこういいます。「肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしない」といいます。
 パウロはかつては、肉に従ってキリストを知ろうとしていた、それでキリストを知ったと思っていた、だからけしからんと思ってキリストを信じるキリスト教徒を迫害していたのであります。その時にパウロの目に映った肉のキリストは、律法破壊者としてのキリストであったのです、革命家、あるいは野心家としての宗教者、預言者の一人に映ったにちがいないと思います。

 そしてパウロがキリストをそのように見たということは、パウロ自身が肉に従って生きていたからであります。自分のすることに絶対的に自信をもっていた。そういう律法主義的な人間として生きていた。だから人に対しても律法主義的に人を判断し、自分とは違った生き方、考え方をしている人を裁いていたということであります。

 人を肉に従って見ないためには、まず自分自身が肉に従って生きていないということが必要なのであります。つまり、自分自身がキリストの十字架によって、キリストが自分のために死んでくださった、そのことを知って、自分自身が死に、あの律法主義的な自分が死んでしまわないと、人を肉に従って見るのをやめることはできないということであります。

 イエス・キリストをどんなに尊敬の念をもって見たとしても、イエスを単なる偉大な預言者として、あるいは宗教家、愛の実践者としてしか見ないならば、あるいは虐げられている者の解放者としてみたとしても、それは肉に従ってイエスを見ているということで、本当にイエスを見たとは言えないということであります。

 昔からイエス伝を描こうとした人は何人もいるのであります。ルナンのイエス伝が一番有名かもしれません。多くの文学者がイエスの伝記を書いているのであります。しかしそのどれも、福音書に書かれているイエス・キリストを超えることはできないのです。なぜならば、ある人がいうには、「福音書を書いた人たちは、伝記者であるより先に、礼拝者であった」ということだからであります。つまり、福音書を書いた人々は、マルコをはじめ、マタイもルカもヨハネも、みなキリストによって救われた人々で、イエス・キリストを礼拝しながら、その生涯を描こうとしたのだということであります。そして事実、イエスの生涯を描こうとしたといっても、そこではイエスの十字架と復活に多くのページが割かれているのであります。それがもう肉に従ってキリストを知ろうとはしないというこであります。

 そしてパウロは、「今はもうそのように知ろうとはしない。だからキリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者だ。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と続けます。ここは口語訳のほうがいいと思います。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。

 原文を見ますと、「見よ」という言葉がちゃんとあるのに、どうして新共同訳ではそれを省いたのかわかりません。ともかくここには「見よ」という驚きがあるのです。そしてその驚きは突然来た、という驚きだとある人がいっております。

 ある人がいっておりますが、「このように救いがわかるということは、だんだんとわかってくるのではなく、思いがけない仕方で、突然われわれに分かってくるものだ。信仰を得るのに、何年もかかるかもしれない。しかし、信仰がわかるのは、いつでも突然であり、思いがけないものだ」というのです。

 人によって信仰に入るはいりかたはさまざまだと思います。だから一概にはいえませんが、しかしあるときに突然分かる、そういうわかりかたをするものだということは、言えるのではないかと思います。そうでないと本当にわかったとはいえないのではないか。つまり、信仰がわかるということは、理性の思考の延長線上にあるのではなく、われわれの考えを考えて考えて、こうなるというのではなく、あるときに、そのわれわれの考えが突然、断罪されて、断たれて、「見よ」という思いがけない形で分かるものだからであります。復活信仰がわかるということもそういうわかりかたをするのではないかと思います。

 そしてそのためには、やはりわれわれは自分の思考を、それが人間的な理性の思考であったとしても積み重ねていく必要があると思います。その人間的思考を破ってもらうためであります。
 
 救いはいつも上から、突然やってくるものであります。それが聖霊の導きというものであります。
 
 「古いものは過ぎ去った。すべては新しくなった」というのです。これは今までこれが大事だと思っていたものが、すべてその価値を失ってしまったということ、価値観が変わったということであります。ある女優がもう女優をやめようと決断したというのです。そのときにそれまで大事だおもっていた衣装とかいろんな賞のトロフィーがもうまるでがらくたのように感じたというのです。それを聞いて、ある評論家がああ、この女優は本当にやめるのだなと思ったというのです。

 新しくなるというこは、古い価値観を捨てるということ、捨てられるということであります。
 そしてここでは新しく造られたといわれている、もう造られてしまっているのだから、後戻りできないということだと、ある人が言っているのであります。

 なにが新しくなったのか。一八節でパウロはこういいます。
「これらはすべては神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させた」というのです。
 新しく造られる、新しく生まれる、つまり、簡単にいえば、われわれが救われるということは、神と和解することなのだということなのであります。われわれにとって、救われるということは神と和解することなのだ、われわれあまりそうは考えないのではないでしょうか。特にこれはわれわれ日本人の発想からあまり浮かんでこないことなのではないでしょうか。

 われわれが救いということで、まず考えることは、今自分の困難に陥っていることから救われる、それが解決されることだと考えると思います。それは御利益的な宗教だというかもしれませんが、しかしつきつめて考えていけば、もとをただせば、われわれが宗教というものに期待するものは、そこにつきると思います。
 
 あるいはもうひとつの考えは、われわれの人格がもっと強くなるとか、高尚になるとか立派になるということではないかと思います。悟りを開くということもこれに入るかもしれません。

 しかし、ここではそういうことではなく、神と和解することだというのです。これはそういわれてみると、このことが一番大事なことなのに、われわれはそれを神様に求めていないということに気がつくのではないかと思います。
 われわれの困難とか、われわれの不安は、みな本当はもとを正せば、神からわれわれが自分勝手に離れてしまっていることから、始まっているのではないか。
そうして何もかも自分ひとり解決しなくてはならないと思っているから、望みを失っているのではないか。

 主イエスが話された話に、あの有名な放蕩息子の話があります。ある父親に二人の息子がいて、その弟のほうが、父親に生きているときに、自分が受け継ぐ財産をくださいというのです。それで父親はふたりに財産をわけてあげた。ところが弟はそれを全部金に換えてしまって父親を離れ、遠いところにいって、その金でしたいほうだいのことをして遊んでしまった。たちまち金がなくなったときに、その地方にひどい飢饉が起こって、とうとう食べるのにもことかくような事態がきて、仕方なく、父親のもとに帰ろうと考えるわけです。もう自分勝手なことをしたのだから、息子と呼ばれる資格は到底いえないから、雇い人の一人として雇って貰い、食物にありつこうと故郷に帰るわけです。

 しかし父親のほうは彼が帰るのを毎日待っていた。それで父親のほうから彼を見つけて、なにも叱らないで、彼を迎え入れてあげたというのです。その父親の姿をみて、この息子は「お父さん、わたしは天に対してもまたお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と、答えた。もうこの時には、彼は雇い人の一人としてやとってもらって、食物にありつこうなどというこざかしい御利益的な考えは浮かんでいないで、ただ父親の前に一人の罪人として立つのであります。

 父親は彼のことは叱らずに、最上のご馳走を用意させた。「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」といって、喜び祝宴を始めたというのです。

 これがわれわれが救われることなのだと主イエスは話されたのであります。

 もし救いというものが、自分たちの願いがかなえられることだとか、自分たちの陥っている困難が解決されることだということならば、一つの問題が解決されたら、また次の問題が襲ってくるということで、それは本当の意味での解決にはならないだろうと思います。
 また救われるということがわれわれの人格が高尚になること、われわれの性格が立派になったり、強くなったりすることであるならば、あるいは悟るということなどであるならば、われわれは自分に絶望するばかりだと思うのです。あるいは、もし仮にそのような境地に達したとしても、その人ひとりがいい思いをするだけで、その人ひとりが讃えられるだけで、それが本当に救いになるかということであります。

 しかしここで主イエスが語られたことは、われわれの救いはそんなところにあるのではない、神と和解することだ、神との関係がもう一度回復することだというのです。そしてそれはただ神のほうから手をさしのべてわれわれを迎えてくれることだというのです。
 この場合、息子のほうが父親のもとに帰ろうと一歩歩みだした、先手を打ったのは父親のほうではない、つまり神のほうではなく、人間のほうだといわれるかもしれません。

 しかし彼は父親と別に和解しようとしたのではなく、父親のもとにいったら、食物にありつけるというきわめて御利益的な思いで帰っていくだけであります。また彼が帰っていこうという気持になれたのは、それまでに彼がいだいていた父親の愛のイメージであり、事実、父親は彼が彼の意志で自発的に帰ってくるのを忍耐強く待ち続け、夕方になると彼が帰って来る方向をじっと見ていたので、この和解の主導権をもっているのは、やはり父親のほうであり、神様のほうであります。

 なによりも、ここでは放蕩息子は、まず悔い改めて、自分の非を悟り、少しは人格的になって、それから父親に帰ろうとしたのではないということなのです。今までの自分をそのままにして、ただともかく向きを変えただけであります。父親のほうに向きを変えただけであります。そうしたら父親の方から先に手をさしのべていてくださっていたということであります。ここに救いが始まり、これが救いなのだということなのでりあます。

 われわれのほうは向きを変えさえすればいい、どんなに御利益的な願いをひっさげてでも、その御利益的な願いをともかく父なる神に祈る気持をもって、神のほうに顔を向ける、それが救いの始まりだということであります。

 救いというのが、神との和解だと言われるときに、これならわれわれもまたこの救いに預かれるのではないかと思って、安心するのではないでしょうか。救いというものが自分の人格をみがくことであるとか、何か高尚な悟りをひらくことであるとかということならば、もうなにかとても望みがないように思えてきますけれど、そんなことではない、ただ神に向きを変えることだと言うことならば、われわれもまた救われのだという望みをもてるのではないか。すべてはそこから始まるのであります。

 そして神はその和解の確かさをこういう手続きとって、さらに確かなものにしてくださったというのです。二一節です。「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪とかかわりのない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」。

われわれは無条件で、なんの償いもないままに、神のもとに帰れるなどとは到底思えないのです。あの放蕩息子もそうでした。もう息子と呼ばれる資格はないから、雇い人の一人として働いて食物にありつこうと思ったのです。やはりもう無条件で赦されるとは到底思えないのです。しかも放蕩息子はもうなんの償いもできない状態なのです。

 そういうわれわれのために、神は神のほうで罪のないひとり子に罪のつぐないをさせて、罪過の責任をわれわれに負わせるのではなく、キリストに負わせて、その償いを果たしてくださった、それもこれも、われわれに救いの確かさをわれわれに確認させるためだったのです。

 もし和解するためには、われわれのほうで何か償いをしなければならいということであったり、あるいはわれわれのほうで何か償いができるのだと思っている限りは、本当はこの和解を受けることはできないのです。

 それは神がお考えになっている和解、神が望んでいる和解は、なにか商取引をして借金をゼロにして和解することではなく、愛の和解、愛の関係を取り戻すことだからであります。

 放蕩息子の兄、それは当時の律法学者やファリサイ派の人々のことですが、彼は自分はひとつも悪いことはしていていないと思っていた。いつも父親のもとにいるではないか、自分は立派な人生を歩んでいると自負していたのです。だから父親がさんざん放蕩して帰ってきた弟にご馳走を用意しているのをみて、怒るのであります。彼は自分はあんなに真面目に父親のともにいたのに、父親は自分に何もしてくれなかった、子山羊一匹すらくれなかったと文句をいうのです。それに対して父親は「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」というのです。
 この兄は父親のもとにいながら、その関係はひとつも愛の関係ではなく、その心の底には単なる商取引の関係で父親のもとにいたのだということが暴露されてしまうのです。

 自分で償いをしなければならないと思ったら、とうてい神と和解はできないと絶望するだけですし、また自分は償いができるんだ、自分で償いをして神と和解しなければならないと思っていたら、それはもはや愛の和解、愛の交わりではなく、愛の関係ではなくなってしまっているのであります。

 われわれの救いは、和解なのだ、神との愛の和解なのだ、すべてはそこから始まるのだということなのであります。その和解の福音を今パウロに、伝道者に、そしてわれわれに与えているのであります。