「神に仕える者として」 コリントU 六章一ー一○節

 パウロは「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます」といいます。これは前のところで、自分は神から和解の福音を宣べ伝えることを託されている伝道者なのだ、自分はキリストの使者の務めを果たそうとしているのだということを受けての言葉であります。

 それにしても、自分は「神の協力者として」というは、なにが大胆な言葉に感じられないでしょうか。口語訳では「神と共に働く者として」なっております。いずれにせよ、これは神と対等に働く者という意味ではないのです。四節では、「あらゆる場合に神に仕える者として」とありますから、ここは口語訳では「神の僕として」となっておりますので、神と決して同等の地位にあるとはパウロはもちろん思っていないのです。あくまで、神に仕える、神の僕として仕える、それが神と共に働くことができる、神の協力者になれるということであります。伝道者はどんな時にも、謙遜でなければならないということであります。

 そして、神からいただいている恵みを無駄にしてはならない、勧めます。そのあと旧約聖書のイザヤ書を引用して、「恵みの時に、わたしはあなの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」といい、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」というのであります。
 
 ここでパウロは「神からいただいている恵みを無駄にしてはならない」というとき、これも口語訳では、「神の恵みをいたずらに受けてはならない」となっておりますが、これはただ神の恵みを無駄にするな、いたずらに受けるなということではなくて、神の恵みの「時」を無駄にするな、逃すなということであります。

 ここでは「時」ということが強調されているのであります。ちなみに、もとの言葉をみますと、旧約聖書の引用で「恵みの時に」という字には、「恵み」という字はないのです。もうひとつの聖書の別の訳では「わたしはふさわしい時に、あなたに聞いた。そして救いの日にわたしはあなたを助けた」となっていて、恵みという字はないのです。「ふさわしい時に」というほうが原文に忠実な訳であります。英語でいいますと、acceptable という字です、つまり「受け入れられた時」というような意味であります。

 ヘブライ人への手紙のなかで、「今日、あなたたちが神の声を聞いたなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」という勧告の言葉がありますが、その神の声を聞こえてくる今日という時を逃すなということであります。

 神がわれわれを救われる時は、いつでも救ってくださるということでもありますが、いつでもわれわれの心の扉を叩いておられるということで、そういう意味では、いつでも神様のほうでは救ってくださる用意をしておられるということではありますけれど、しかしまた同時に、神がわれわれを救おうとする時というのがあるということであります。今日、今あなたに呼びかけている時がある、その時を無駄にするな、その時をいたずらに過ごすな、その時を逃すな、何故なら、その時こそ、恵みの時なのだからということであります。

 だれの言葉だったか、あるいはそういうことわざだったかもしれませんが、以前に聞いた言葉で、「チャンスというのは、前髪をつかまないと逃してしまう」という言葉があったような気がします。チャンスは後ろ髪を捕まえることはできないのだということのようであります。この時というチャンスを失ったから、あとからどんなにそれを捕らえようとしてあとから追っかけても捕まえられない、後ろ髪をつかんでも、すぐするりと逃げられてしまう、ということの意味だったと思います。

 パウロは「今や、恵みの時、つまり、今が一番ふさわしい時」、ある訳では、「今こそ絶好の時」と訳されておりますが、「今こそ、救いの日だ」というのです。そして口語訳には、ここに「見よ」という言葉があります。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である」と訳されていて、「見よ」という言葉が原文にはあるのです。なぜ新共同訳ではそれを省いてしまっているのかわかりません。つまりここにはパウロの喜びの声が響いてる、驚きの叫びが感じられると、ある人がいっているのです。
 これはパウロの絶叫の言葉だというのです。「自分に加えられた神の恵みを思ったら、大声をあげて、感謝し、感銘を伝えるほかないと思ったのだろう、パウロの感銘の深さを思わないわけにはいかない」といっているのであります。

 彼がクリスチャンを迫害しているときに、キリストの声を聞いたことを考えてみれば、パウロはしみじみとあの時が本当に自分にとって、もっともふさわしい日、恵みの時、救いの日だったんだ、と叫びたくなったのだろうと思います。しかもここでは旧約聖書の引用ではありますが、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた」というのです。パウロはこの時、キリスト教徒を迫害し、それはつまりはキリストを迫害していたときであります。この時彼はキリストに救われたいなどとは少しも願っていなかった時であります。それなのにキリストのほうでは、神様のほうではお前の願いを聞き入れたというのです。
 パウロはキリスト者を迫害しながら、その心の奥深くで、神に叫び続け、神に願いつつげていた、その救いを求める願いの声を、神は聞き取ってくださって、自分に語りかけてくれた、それが、まさにあの時であったということであります。

 われわれの人生はの時というのは、いつも同じように平均してだらだらと続いているのではないと思うのです。やはり、「この時」という時というのがあるのではないかと思います。今悔い改めなければならない時というのがある、それを逃したら、一生悔い改められないという時があるということであります。それが恵みを受けるのに一番ふさわしい時であります。絶好の時というのをわれわれは逃してはならないと思います。

 そしてパウロはいいます。「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神の仕える者としてその実を示している」といいます。ここもどうも口語訳のほうがいいと思います。口語訳ではこうなっています。「この務めがそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている」となっています。このほうが原文にも忠実であります。

 新共同訳の「あらゆる場合に神に仕える者とて、その実を示してる」という、「その実をあらわしている」というところは、原文では、口語訳のように「自分を人々にあらわしている」という字が使われています。そしてこの言葉は、五章の一二節にある「あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではない」という字と同じ字が使われていて、自己推薦するということ、つまり自己を示すということであります。

 あそこでは、パウロはしきりに自分は自己推薦するのでなはいといいながら、ここではあらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている、いわば自己推薦しているというのです。それでこれは矛盾だと思ったのか、新共同訳ではそれを「その実を示している」と訳したではないかと思います。
 そしてここでは、自己推薦というよりは、あらゆる場合に自分をさらしものにしているというような意味だと思います。

 伝道者というのは、決してコンピュウターのように無色透明というわけにはいかないのです。伝道者というその人の個性はやはりさらしものにされながら、神の言葉がその人のすべてを通して宣べ伝えられていくものであります。

 そして大事なことは、「この奉仕の務めが非難されないように」ということなのです。口語訳でいえば、「この務めがそしりを招かないように」ということであります。つまり、福音が傷つけられないように、ということであります。この自分が傷つかないように、この自分が非難されないようにというのではないのです。そういう意味では自分を推薦するのではないのです。自分を差し出しながら、自分をさらしものにしながら、しかもそれはあくまで神の僕として、神に仕える者として、自分を人々にあらわそうとするということであります。

 それはつまり、この奉仕の務めが非難されないようにということであって、伝道者が非難されないようにということではないのです。逆にいうと、伝道というのは、伝道者が崇められたりしないようにということであります。
 ある教会には、礼拝堂にその教会の創設者の大きな肖像画の額が掲げられていて、それはもちろん本人がそうしろといったわけではないと思いますが、その伝道者を崇拝する教会員がそうしたのだと思いますが、教会はそういうことではあってはならないということであります。

 三節に「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示している」といいます。さきほどにもいいましたが、これはどうしても口語訳のほうが原文に忠実ですし、訳もいいと思いますので、口語訳で読みますと、「この務めがそしりを招かないために、わたしたちはどんなことにも人に躓きを与えないようにし、かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている」といいます。ちなみに、リビングバイブルでは、「わたしたちの行動がだれをもつまずかせたり、主との出会いを妨げたりすることがないように、生活態度には気をつけています」と、なっております。

 「どんな事にも人に罪の機会を与えず」というところは、そんな大げさなことではなく、人を躓かせないようにするということであります。
 そういわれてしまったら、われわれキリスト者は福音を汚さないために、いつも周りの人々の視線を気にして、神経質に品行方正な生活態度をしなくてはならないということなのでしょうか。しかし、パウロは実際問題としてどうだったか。
 
 八節からみますと、「悪評をあびるときにも、好評を博するときにもそうしている」といっておりますし、「人を欺いているようでいて、誠実であり」といっているのですから、パウロは決して八方美人的にみんなから愛される人間として生きたわけではないことは明らかだと思うのです。場合によっては、悪評を受けたり、人を欺いたりしているように見えたこともあったということは、パウロは人を躓かせているということだと思うのです。

 われわれは人を躓かせてはならないということばっかり気にして何かをしようと思ったら、大変神経質な小さな縮こまった生き方しかできないのではないか、第一それは大変偽善的な生き方になるのではないか、それはかえって、クリスチャンは品行方正にはみえるけれど、あれは鼻持ちならないと、人を躓かせることになるのではないか。

 パウロはそんな生き方はしていないのです。そんな伝道の仕方はしていないのです。彼は六節からいっているように、「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、左右にもっている義の武器をもって」生きているというのです。
 真理の言葉、真実というのは、いつも人に好かれるとは限らないと思います。それは人に嫌がれる場合があるし、いや、そのほうがはるかに多いと思います。真実というのは、本当に諸刃の剣で、人を傷つけるものであります。人を躓かせるものであります。イエスは真実を語ったからこそ、十字架においやられたのだと思うのです。

 パウロも真実を語ったからこそ、迫害され、むち打たれ、監禁され、暴徒に見舞われたのであります。

 ただそういう中にあって、パウロはあらゆる場合に、神に仕えものとして、神僕として、謙遜であることを忘れなかった、だから彼はいつも忍耐した。ひたすら忍耐した。福音を宣べ伝えるという自分の務めが最終的に非難されないように、忍耐して伝道者としての務めを全うしようとしたということだと思います。

 八節から述べられていることは、こうした生き方ができたら、どんなにいいだろうと思います。悪評を受けても、好評を受けても、といいます。ただ悪評を受けてそれに耐え忍ぶのではなく、時には、好評を受けても、人に褒められても、決してそれをてらわずに、素直にそれを受けられるということは、なんと自由かと思います。

 人を欺いているようでいて、誠実であり、といいます。もちろんパウロは意図的に人を欺くつもりはないと思います。意図的にではないにせよ、結果的にそうなったかもしれない、しかし自分は少なくも誠実であったというのです。

 わたしの好きな言葉に、ある禅僧の言葉ですが、「嘘も方便という言葉があるが、その方便としての嘘も、そこに真実がなければならない」という言葉がありますが、われわれ場合によっては、嘘をつかなくてはならないこともあると思います。人を欺かなくてはならないときもあるかもしれません。その時も誠実に嘘をつくということであります。

 人に知られていないようでいて、よく人に知られ、といいます。ここでパウロは「人に知られ」といっていますが、これはやはり、神に知られている、という思いだと思います。どんなに人に誤解され、人から無視されようが、神には知られている、それをこのようにいっているところだと思います。そして「神に知られていれば、」やがて、人にも知られるようになるということだと思います。そうでなかったら、やはりさびしいことです。

 知恵の正しいことは、やがて明らかにされると主イエスもいわれているように、真実は必ず人に知られる時があると信じていいと思います。
 
 「死にかかっているようでいて、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、」といいます。
 つまりは、もう人の目を気にしない、見た目では生きないということであります。いつもいつも人を躓かせないようにようにと、人の視線ばかり気にしないということであります。もうそういう神経質な生き方はしないということであります。

 人を躓かせたら、なんとかその誤解を解こうとすればいいのです。その誠実さは示さなくてはならないと思います。そこで開き直ってはならないと思います。しかしどんな誤解をとこうとしても、それがとけない場合もあると思います。そのときはそれでいいんだと腹をくくって生きることです。

 そして「物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有している」といいます。ここも口語訳のほうが言いように思います。「何ももたないようでいながら、すべてのものを持っている」といいます。
 どんどんいらないものは捨てていって、身軽になっていったら、部屋はとても広くなる、そして豊になる、ここではものを所有することによって豊になる道ではなく、ものを捨てることによって豊になる道があることを教えていると思います。

 それは単にものだけでなく、われわれの心につきまとういろいろな執着心のこともどんどん捨てていったら、どんなに豊かな自由が広がるかということであります。

 それもこれも、パウロは神に仕える者として、生きている、神の僕として生きているからであります。そうすることによって何よりも、自分から解放されているからであります。自分から解放されたときに、われわれはこの自由が与えられるのであります。ここには何物にもとらわれない実に自由な生き方があるのではないでしょうか。